コミック発売感謝SS『バツ3の看取り夫人と呼ばれていますので捨て置いてくださいませ』~ハンス編~

夢見るライオン

バツ3SS ハンス編

 クロネリアが産まれた日、すでに父であるローセンブラート男爵は母のことをかえりみなくなっていたという。


 年若く内気な少女であった母は、年の離れた父の強引な求婚を断るすべも知らないままに、なかだまされるように第三夫人として嫁ぐことになってしまったと聞く。


 父はそれほど強引にめとっておきながら、傲慢で意地悪な第一夫人と第二夫人にいびられる母を守ることもしなかったそうだ。


 むしろ途中からは第一夫人と一緒になって、気弱な母をいびり楽しんでいたとも聞く。


 やがていびられ続ける日々の中で、母は心を病んでしまった。


 そして言動のおかしくなった母のことを、父はあっさり見捨てて離れの一室に閉じ込めてしまったのだ。


 母が子を身ごもったと知った後も、すでに後継ぎの男子が産まれていた父は興味を示さず、誰に歓迎されることもなく、クロネリアはひっそり誕生したそうだ。


 誕生の最初から見捨てられたような人生だったが、辛うじて男爵家の娘としてそれなりに育てられたのは、クロネリアが母に似て美貌の持ち主だからだった。


 琥珀色の巻き毛と鳶色とびいろの瞳のクロネリアは、華やかさはないものの、幼少から思慮深さを感じさせる不思議な魅力を持つ少女だった。


 それは年を重ねるごとに秀でていき、ローセンブラート男爵はこの美貌はいずれ金になるだろうという目論見もくろみがあったに違いない。


 そんな算段ゆえに、第一夫人の娘ガーベラや、第二夫人の嫡男に比べるとずいぶん粗末な扱いだったとはいえ、なんとか生きていけるだけの衣食は与えてくれていた。


 ただし、それは必要最低限のほどこしに過ぎないことは誰の目にも明らかだった。


 だから、第一夫人とガーベラがクロネリアをいじめても、助けることは決してなかった。


 それどころか、第一夫人の顔色をうかがって、一方的にクロネリアが怒られることがほとんどだった。



「あなた、また厨房に泥棒猫が入り込んでいたようですわ!」


 第一夫人はローセンブラート男爵の書斎にやってきて、小さなクロネリアを引きずり、そのまま部屋の真ん中に突き飛ばした。


「きゃっ!」


 クロネリアは両手にパンを持ったまま地面に転がった。


 その様子を第一夫人の陰に隠れて、一つ年下の妹ガーベラがにやにやと見ている。

 厨房でクロネリアを見つけて、第一夫人に言いつけにいったのはガーベラだった。


 そもそもガーベラが「厨房に柔らかいパンがあるから、あなたのお母様に持っていってあげたら喜ぶのではなくて?」とクロネリアに教えてくれたのだ。


 いつも固いパンしか与えられず、最近食欲が落ちている母のために、クロネリアは「教えてくれてありがとう!」と喜んで厨房に入ったのだった。それなのに……。


「クロネリアったら、私がだめだと言っているのに、バレなければ大丈夫だからってパンを盗みに入ったの。私は恐ろしくなってお母様に知らせに行ったのですわ」


 ガーベラは父の前で悲しげに訴えた。


「ああ、ガーベラ。真面目なあなたは、さぞ恐ろしかったことでしょう。よく教えてくれましたね。あなたがクロネリアに影響されて間違いを起こさなかったことを誇りに思いますよ」


 第一夫人は父の前でガーベラを褒め称えた。


「ち、違います! 私はガーベラに言われたから……」


「黙らぬか! ばかものっ‼」


 驚いて弁解しようとするクロネリアを、信じられないことに父はむち打った。


「母親に似てなんと浅ましい娘に育ったのだ! 本来なら母娘ともども追い出してもいいようなお前たちを、慈悲深い私が置いてやっているというのに。その恩も忘れて盗みを働き、おまけに正直者のガーベラに罪をなすりつけようとするのか! 呆れて物も言えぬわ!」


「ち、ちが……。きゃっ……」


 さらに弁明しようとするクロネリアに父の鞭が振り下ろされる。


 ピシッ、ピシッ、と鞭打つ音が何度も屋敷に響き渡り、使用人達はまたいつものことだと、関わり合いにならないように息をひそめる。


 そんなクロネリアを第一夫人とガーベラが満足げに眺めてほくそ笑むのが、ローセンブラート家の日常だった。


 けれど鞭打たれていても、傷みに泣き叫んでいても、どこかガーベラ母娘にはない気品のようなものがあるクロネリアに金儲けの匂いを感じるのか、父は決して顔だけは傷つけないようにしていた。


 そして、それがまた腹立たしいガーベラ母娘だった。



 そうして十二歳になったある日のことだった。


「ふふ。見て、クロネリア。新しいドレスをお父様に買っていただいたのよ」


 ガーベラがわざわざクロネリアのいる離れの部屋まで、ドレスを見せびらかしにきた。


 毒々しいほどに真っ赤なドレスは、ガーベラの華やかさを際立たせている。


「よく似合っているわ、ガーベラ。素敵ね」


 クロネリアは、このころにはもううらやましいとも思わなくなっていた。


 羨んだところで自分の心が暗く沈むだけだ。

 それならば素直に褒めて、相手の喜びをわずかでも分かち合いたい。

 どれほど粗末な服を着ていようと、苦しい境遇であろうと、心だけはいつも晴れやかに澄んでいたい。


 それがクロネリアのささやかな矜持きょうじだった。


 だがガーベラはそんなクロネリアが気にくわないのか、むっとした表情になる。

 そして尋ねた。


「ねえ、どうしてドレスを買って下さったか分かる?」


「さあ、分からないわ。どこかにお出掛けするの?」


 クロネリアはこの屋敷から一歩も出してもらったことはないが、ガーベラは第一夫人と一緒に近隣のお茶会などによく出掛けていた。


「ふふ。違うわ。今度の日曜にハンス様がうちにいらっしゃるのよ」


「ハンス様が?」


 クロネリアは少し驚いた。


 ハンスはガーベラが以前から一方的に一目ぼれしていたブルーネ伯爵家の嫡男だった。


 ガーベラのお茶友達の間でも人気が高く、誰がハンスの心を射止めるかと、近隣の少女達の間ではその話題ばかりらしい。


 金髪碧眼のそれは美しい人だと噂だけれど、家から一歩も出たことのないクロネリアはもちろん見たこともない。


 遠い輝かしい別世界の話だ。


「ハンス様もそろそろ婚約者を決めるお年頃になって、お父様がまずはうちの娘に会ってみてはと呼んで下さったの。うちなら家柄も釣り合っていて、気兼ねないお付き合いができるでしょうって」


 確かにローセンブラート男爵家とブルーネ伯爵家は、家格としては釣り合っている。


 けれどクロネリアは、このローセンブラート家が多額の借金を抱えていることを知っていた。


 ケチで金策に駆けずり回る父を見ていれば分かるし、真っ先にそのしわ寄せがくるクロネリア母娘だからこそ敏感に感じ取っていた。


「ハンス様のおうちは事業でも成功なさっていて、お父様はずいぶん乗り気なのよ。なんとしても私の縁談を決めたいとおっしゃって下さっているの」


 噂ではハンスの家は伯爵家の中でもずいぶん裕福らしい。

 父はそこに目をつけたのだろう。


 それでガーベラにドレスを新調させて、縁をつなげようと思ったようだ。


「そう。うまくいくといいわね」


 クロネリアは淡々と答えた。

 それは正直な気持ちでもあった。

 ガーベラがハンスとうまくいって、少しでも意地悪でなくなってくれたら、それだけでも助かる。


「ふふ、妹の私が先に嫁いでしまったらごめんなさいね。しかもみんなの憧れのハンス様と」


 ガーベラはわざとらしく申し訳なさそうな顔を作って告げた。


「私のことは気にしないで。お母様を置いて嫁ぐつもりなんてないから」


 クロネリアの献身的な介護で少し回復したものの、まだ心を病んだままの母を置いて嫁ぐつもりなんてなかった。


「あら、そうだったわね。お気の毒に。あなたのお母様も一緒にもらって下さる殿方がいればいいけれど……そんな方がいるわけがないわよね。ああ、かわいそうなクロネリア」


 わざわざ言わなくていい捨て台詞を吐いて、ガーベラはうきうきと去っていった。



 こうしてハンスの来訪まで、ガーベラ母娘が当日の準備に忙しくしているのを、クロネリアは他人事のように見ていた。


 わざわざシェフを雇って作らせた上等な焼き菓子も、家中の調度品をかき集めて整えたサロンの部屋も、クロネリアには関係がない。


 せめて焼き菓子のおこぼれだけでも母に食べさせてあげたかったが、クロネリア母娘の元に届けられるのは、いつもガーベラ達が食べ残した残飯のような料理だけだった。


 けれど当日になって、信じられないことが起こった。


 急に父が離れの部屋にやってきて、クロネリア母娘もお茶会に出席するように告げたのだ。


「ブルーネ伯爵が家族全員の出席をお望みなのだ。くれぐれも粗相のないように、隅の目立たぬテーブルで大人しくしていろ。決して伯爵に話しかけるな。分かったな!」


 まるで人前に出すのも恥ずかしいと言わんばかりに言い捨てて行ってしまった。


 怯える母は行きたくないと泣いたが、父の命令に従わない方が恐ろしいと、渋々出席することになった。


 当日、母もクロネリアも着古したドレスで、髪を結うこともなく、サロンの隅のテーブルに隠れるように座らされた。


 第一夫人は「まさか本当に来るとはね。なんて図々しい親子だこと。絶対にブルーネ伯爵の視界に入らないでちょうだい!」と父と同じような罵声を浴びせ母を怯えさせた。


 母はびくびくしてうつむいたままだったが、クロネリアは普段入れてもらえないサロンの席について、滅多に食べられない上等な焼き菓子を食べられるだけで嬉しかった。


 そして食欲のない母が、少しでも美味しいと思って食べられたなら、それで充分だ。



 やがてブルーネ伯爵一家がやってきて、父や第一夫人と挨拶を交わしていた。


「あの方がハンス様……」


 クロネリアは噂のハンスを初めて見て、なんて美しい人だろうかと思った。


「まるで絵本の王子様のような方だわ」


 金髪碧眼のハンスは、背が高く洗練された身のこなしの少年だった。


 家から出ず、同年代の貴族男性は第二夫人の産んだ兄ぐらいしか目にしたことのなかったクロネリアは、世の中にはこんな素敵な人がいるのだと感動した。


「あ、あまりあちらを見てはだめよ、クロネリア。旦那様に後で怒られますよ」


 母は落ち着かない様子で、ずっとびくびくしてクロネリアをたしなめた。


 けれど、クロネリアは初めて見る美少年につい目が引き寄せられてしまう。

 まだ十二歳の好奇心旺盛な少女にとっては、あまりにまぶしい存在だった。


「こちらが我が娘、ガーベラです。ご挨拶なさい、ガーベラ」


 ガーベラはハンスに紹介されて、ドレスをつまんで上気した顔で挨拶をしている。


「素敵なドレスですね。よく似合っています」


 ハンスはスマートに微笑んで、ガーベラの挨拶を受けた。


 ガーベラは普段クロネリアに見せたことのないようなしおらしい顔で頬を染めている。


(ガーベラはハンス様と婚約するのかしら……)


 羨ましいと思わなくなっていたクロネリアも、ほんの少し胸がちくりと痛んだ。


 分かっているつもりだったけれど、同じローセンブラート家に産まれた娘なのに、どうしてこんなに境遇が違うのだろうと、やるせない気持ちにはなる。


「ごめんなさいね、クロネリア」


 そんなクロネリアに、突然母が小声で謝った。


「私が旦那様にうとまれているばかりに、あなたに普通の幸せを与えてあげられなくて」


 また鬱々うつうつと泣き出してしまいそうな母に気付いて、クロネリアは慌てて言いつくろう。


「そんなことないわ。私はお母様と暮らせてとても幸せよ。今日だって、ほら、こんな素敵なサロンで美味しい焼き菓子をいただけるのだもの。私はそれで充分よ」


 自分に言い聞かせるようにして、クロネリアは母をなぐさめた。


(そうよ。私には過ぎた夢だもの。人を羨むのはやめよう)


 そう心の中で呟いてふと顔を上げると、ハンスがこちらを見ていることに気付いた。


「え……」


 第二夫人と長男に挨拶しているブルーネ伯爵夫妻の後ろで、ハンスはじっとこちらを見つめている。


「え……。私?」


 どう考えてもクロネリアを見ていた。


 まるで驚いたように目を見開いてクロネリアを見つめ続けている。


(な、なにか変なところがあるのかしら? ドレス? あまりにドレスが古臭いから? いえ、髪が乱れているの? 結ってもいない髪型が変なのかしら)


 クロネリアは自分の姿が恥ずかしくなってうつむいた。


 父やガーベラ達にどれほどさげすまれてもどうでもいいが、この王子様のような人にまでみすぼらしく思われていたらと思うと悲しかった。


 目が合わないようにと俯くクロネリアだったが、ブルーネ伯爵夫妻は第二夫人への挨拶を終えて、クロネリア母娘のテーブルに近付いてきた。


(来ないで。どうかこっちに来ないで)


 そんなクロネリアの願いが通じたのか、父が告げた。


「あちらは第三夫人とその娘のクロネリアでございます。どうも社交性のない母娘でして、まともな挨拶もできませんのでご紹介だけでよろしいでしょう。ささ、ご夫妻のお席はこちらの中庭がよく見えるところに用意しております。どうぞこちらへ」


 父はクロネリア達のテーブルに挨拶に来ようとする伯爵夫妻を押しとどめて席に連れて行った。


 けれどクロネリアがほっとして顔を上げると、まだハンスだけがそこに突っ立っていた。


「!」


 どきりとするクロネリアを、まだハンスはじっと見つめている。


 そして、何か言いたいことがあるのだろうかと首を傾げるクロネリアに向かってつぶやいた。


「クロネリア……。素敵な名前ですね」


 照れたように微笑むハンスに、クロネリアは体中の血が湧きたつように真っ赤になっていた。


 それがクロネリアの初めての恋だった。


 十二歳の少女が初めて知った、淡い淡い恋。


 けれど最初から届かぬと分かりきっている恋。


 なぜなら、父もブルーネ伯爵夫妻も、ハンスとガーベラのためにもよおしたお茶会なのだ。


 向かいあって座るハンスとガーベラがお互いをよく知ることのできるようにお膳立てされたテーブル席。


 途中、二人で中庭の散歩をするようにうながして盛り上げる人々。


 お互いにガーベラとハンスの人柄を褒め合う大人達。


 そんな二人を眺めて届かぬ想いを知るだけだった。


(声などかけないでくださったら良かったのに)


 ハンスが冷たく無視してくれれば、クロネリアはこんな切ない想いをせずにすんだ。


 美味しいお茶菓子を、ただ味わって満足できたのに。


 少しだけ、分け隔てなく話しかける優しいハンスを恨んだ。


(でも……生涯知ることもなかったかもしれない恋のようなものを感じて、それだけでも幸せだと思おう。素敵なハンス様に出会えて良かった)


 諦めることには慣れている。

 ささやかな幸せを見つけることもクロネリアの特技だ。


「お母様、このケーキを食べてごらんなさいませ。いつもの固いパンと違って、しっとりと口の中でとろけるようだわ。どうか少しだけでも召し上がってみて」


 まだオドオドと父の顔色をうかがっている母の世話をしながら、ハンスの方を見ないようにしていた。


(一瞬の淡い恋で終わらせよう。そしてガーベラの婚約が決まったら、ちゃんと祝福しよう)


 だから気付かなかった。


 ガーベラと話しながらも、時々ハンスがクロネリアを見つめていたことに。


 それに気付いたガーベラが、いらいらとハンスをクロネリアから遠ざけていたことに。


 ブルーネ伯爵一家が帰った後、ガーベラがひどく不機嫌になり、つかつかとクロネリアのところにやってきて、「お茶会はもう終わりよ! さっさと離れに帰りなさいよ! 目障りだわ」と怒鳴られた意味も分からなかった。


 母は「申し訳ありません、お嬢様」とまるで召使いのように、たかだか十一歳のガーベラに謝っている。それが、ただただみじめだった。


「行きましょう、お母様」


 しかしクロネリアはもう慣れていた。

 いつものガーベラの気まぐれと癇癪かんしゃくだろうと、足早にサロンを出ていったのだった。


 けれど、その二日後、クロネリアはガーベラの癇癪の訳を知ることになった。


 ハンスから手紙が届いたのだ。

 それはガーベラ宛てではなく、一言もしゃべっていないクロネリアに宛てたものだった。


『一目見た時から、あなたに心奪われてしまいました』


 そんな一文から始まる初めての恋文に、クロネリアは信じられない思いだった。


「うそ……。私に?」


 ガーベラに申し訳ないと思う気持ちもあったが、初めてもらった恋文に心が躍らないわけがない。

 クロネリアだって年頃の少女なのだ。


「だ、だめよ。お断りなさい、クロネリア。こんなことを知ったら、奥様とガーベラお嬢様がどれほどお怒りになるか……。きっとひどい目に合わされて、私達は屋敷から追い出されるわ。お願いよ、クロネリア」


 母は、浮き立つクロネリアと反対に、ガタガタと震えて懇願した。


「分かっているわ。こんなこと……お父様がお許しになるはずがないもの」


 クロネリアも分かっていた。

 ハンスの気持ちは嬉しいけれど、あの父と第一夫人がこんなことを許すわけがない。


「でも……こんな私を見つけて想って下さっただけでも嬉しいわ。お断りするけれど、お礼のお手紙だけでも返してはだめかしら」


「だ、だめよ。お断りしますの一文だけを書くのよ。いいわね、クロネリア」


 母はどこまでも父と第一夫人に怯えて、彼らの意に沿うことしか行動できない人だった。


 そして怯える母を心配するクロネリアもまた、言いなりになるしかできなかった。


「分かったわ。お母様の言う通りにするから安心して」


(私の初恋はこれで終わるのね……)


 けれど、思いもかけないことは続いていた。


「クロネリア、よくやった。ハンスがお前を見初めたそうじゃないか。あちらはずいぶん乗り気で、婚約する方向で話し合いたいと言ってきているぞ! いやあ、良かった!」


 まさかの父がクロネリアの味方になったのだ。


「で、ですがハンス様はガーベラが……」


「まあ、最初はそのつもりだったが、私としてはどちらでもいい。ブルーネ家と縁ができればいいのだ。ハンスがすっかりお前に惚れてしまったようだから、仕方がない。ガーベラにはまた別の金持ちを探してこよう」


 父はどこまでも現金な人だった。


「あなた! 何を言うの! ガーベラはハンスが好きなのですよ。それなのに、横からしゃしゃり出てきた泥棒猫と婚約させるだなんて!」


 もちろん第一夫人は怒り心頭だ。


「可哀そうに。ガーベラはずっと部屋で泣き続けて、今朝から食事も摂れないのですよ」


「いやまあ、ガーベラは可哀そうだがハンスが気に入ってしまったのだ。仕方ないだろう」


「このいやらしい泥棒猫! どんな手でハンスに言い寄ったの? きっと私達の目が届かないところで、たぶらかしたのですわ。なんて汚らしい娘なの!」


 いつものようにクロネリアを鞭打とうとする第一夫人を、初めて父が止めてくれた。


「まあまあ、落ち着け。ガーベラにはもっといい相手を探してやるから」


 その後、第一夫人とガーベラの嫌がらせが、さらに熾烈しれつを極めたことは言うまでもないが、肝心の父が認めたことでクロネリアはハンスと婚約することになった。


 それからの数か月、クロネリアはハンスと手紙のやりとりをしながら、本当に幸せなひと時を過ごした。


 しかもブルーネ家の顔色を窺って、クロネリアと母の待遇はずいぶん良くなり、ケチな父が二人に新しいドレスまで新調してくれて、食事の内容も以前より良くなった。


「ハンス様のところに嫁いでも、私がお母様を守るわ。もう何も恐れなくていいのよ」


 母もようやく少し笑顔が出るようになって、この先は今までの苦労を忘れるぐらいの幸せが待っているのだと思っていた。


 まさか……。


 この数カ月後に、父より年上のバリトン伯爵と看取り結婚をさせられる運命になるなんて、まだこの時は思いもしていなかった。


『中庭にアネモネの白い花が咲き乱れています。ハンス様にも見せてあげたいわ』


『僕の家には真っ赤なアネモネが咲いています。結婚したら庭にたくさんのアネモネを植えよう。楽しみだね。愛しいクロネリア』


 そんな文のやりとりが最期の幸福なひと時だとは、二人ともまったく気付いていなかったのだった。


  

                     END



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