水の破片
往雪
水の破片
──
きっと、私は。その瞬間の感覚を一生忘れないままに、これからも生きていく。
◆
四時間目の授業が終わって、昼休み。教室で皆が昼ご飯を食べている。
私も同じく購買で買ってきた菓子パンと、紙パックのいちごみるくを手にして、友達三人と一緒にご飯を食べようとしていた。
「
「あー……うん」
友達の一人に名前を呼ばれて、私はなんとなく言葉を
それから、教室の左最後列の席に座る、一人の男子生徒を指さした。
「……こないだから気になってたんだけど、昼ご飯食べてないなぁって」
「ああ、宇津井のこと? いっつも何か描いてるよね」
──宇津井。そういう名前なのか。長い前髪で目元を隠した男子生徒。ずっと何かを描いていることは知っているけど、それ以外のことは何も知らない。
名前は今初めて知った。声も、クラスメイトなのに一度も聞いたことがない。
「……私、ちょっと声かけてみるね」
「え、ちょっと。雪野……⁉」
友達の制止の声を背に、私は宇津井の席へと歩いて行く。
宇津井が座るすぐ隣に私が立つと、宇津井はゆっくりと顔を上げた。
「──宇津井くん。お昼ご飯、食べなくてお腹空かないの?」
そう私が声をかけると、宇津井はさり気なく腕で手元の画用紙を隠しながら、一言も発さずにこくりと頷いた。
「……ね、何描いてるの?」
「これは……」
「見せてもらってもいい?」
宇津井がちょっと嫌がってるのを無視して、私はその絵を覗き込む。
──その瞬間。私は
しばらく絵を眺めている私を疑問に思ったのか、宇津井が「あの……」と声をかけてくる。
「──……えっと。それ、今日の空の絵? うん……なんというか、すごく綺麗」
なんというか、って。小学生みたいな感想しか出てこなかった。
それでも宇津井は嬉しいと思ったのか、微かに口元を緩めた。
「ありがとう、雪野さん」
「……私の名前、知ってたんだ?」
「クラスで名前を呼ばれてるのを何度か聞いて……ごめん」
「謝らなくたって。それより、ご飯食べないの? よかったら一緒に──」
「ごめん」
お互いに。数秒ずれて、はっと息を飲んだ。
私は明らかな拒絶に対して。宇津井は、失言をしてしまったことに気付いたように。
数秒後、先に我に返った私は軽く頬を掻きながら聞く。
「……その。迷惑だった?」
「あ、いや……ううん。でも、いいんだ」
それだけ言って、宇津井は私から視線を逸らしてペンを握った。
心のすみっこにある小さなプライドを傷つけられた私は、
「そっか」
とだけ返して、自分の席に戻った。
席に着いて、友達からは「……だから言ったのに」と
◇
──あれから毎日、宇津井を目で追っていた私は、いくつかのことを知った。
宇津井は絵のコンテストで何度も賞を取ったことがあるくらい、絵が上手いこと。絵の構図でも考えているのか、授業中でもぼーっと虚空を見つめていることがあること。
机の上にはいつも画用紙が置いてあること。授業中もそれをしまわないこと。
お昼は食べずに絵を描いていること。綺麗な白い手で、いつもペンを握っていること。
白紙のキャンバスというよりは、透き通った水のような雰囲気。他の色に簡単に染まりそうなのに、『絵』という太い芯に宇津井は支えられている。
要するに、宇津井は絵バカなのだ。それ以外のことは全て
それで息苦しくないんだろうか。なんて勝手なことを思う。
それと同時に、ずっと宇津井を見つめていると、苛立ちに似た感情を私は覚える。
最初に声をかけたときに拒絶されたこともある。でも、それ以上に。私みたいに周りに合わせていなくて、それで生きていけると思っていそうなところが気に障る。
そんなわけがないのに。
だから。……一度くらい、絵が描けなくなってしまえばいい。
世の中、絵だけじゃどうにもならないことを知ればいい。
なんて、考えていたその日。宇津井は学校を休んでいた。
その週の間、宇津井はずっと休みだった。
月曜日。始業時間ギリギリになってやっと宇津井は教室に入ってきた。
そして、私と目が合うと、ふっと視線を逸らした。
──なんで? と思いながらその後ろ姿を眺めると、宇津井が右手に何かを抱えていることに気付いた。大きな白い、布。……違う、抱えているんじゃない。あれは。
ガタッ、と思わず立ち上がった私に、周囲の視線が向く。
宇津井も同じくこっちを向いて、視線が合う。けれどまた逸らされる。
宇津井は椅子に座る。でも、いつもみたいに画用紙を机に取り出しはしない。
ずっと俯いたまま、ペンを握ることもしない。
そうじゃない。……できないんだ。
宇津井の中で壊れないはずだったものが欠けた。その音が、私にも聞こえてきた気がした。
──宇津井の右手は、大きなギプスに覆われていた。
◇
「
「えぇ、なんで? 別に普通な方だと思うけどなぁ」
「……だって、何もない僕と一緒にいてくれるからさ」
屋上へと続く階段。そう言って、私の隣に座る
その左手には購買で一緒に買った菓子パンが握られている。
「何もないなんて、そんなことないよ」
「……ありがとう。でも。絵がない僕に何も残ってないことは、僕が一番知ってるから」
宇津井は交通事故に遭って、右手首と指の骨を粉砕骨折したらしい。手術を行ったけれど、後遺症が残るかもしれないらしく、元の繊細な絵はきっともう描けないと宇津井は言った。
そんなに残念そうじゃない様子だった。
けれど、そう見えたのはきっと私の願望だ。
──私が、宇津井が絵が描けなくなれば、なんて考えたからだ。
なんて、馬鹿げた考えだとは分かっている。
だけど、私の胸に渦巻く黒い感情は消えてくれなかった。
だから私は、その
そんなことを自主的にしていると、いつからか宇津井も心を開いてくれるようになった。
「だいぶ前の事だけど、雪野さん。昼休みにも僕に話しかけてくれたよね」
「……うん。そうだったね」
「雪野さんは心が綺麗だから、困ってる人を見捨てられないんだろうね」
「えぇ、別にそんなことないよー……」
私は少し笑って、それから軽く俯き続けた。
「……ほんとに、違うんだ」
……本当に違うのだ。私の本質は、そんなに綺麗なものじゃない。
宇津井は私の頭を
それから、私の言葉を
「……もしそうだとしても。僕は雪野さんに助けてもらったから。いつかお礼をするね」
恨まれこそすれお礼なんて貰っていいわけがない。
でも宇津井はきっと、お礼をするつもりだ。
「……。それじゃ。前に描いてた空の絵。あれが欲しい」
「そんなのでいいの?」
「それがいいの。……ダメかな?」
「分かった。それじゃ、また明日。持ってくるね」
一生、前と同じ絵が描けなくなった宇津井は。
これまで、一度も見せたことがない笑みを私に向けて作った。
私の好きだったものは、きっと『絵を描いている』、透き通っていた頃の宇津井だった。
それから、その気持ちに気づいた。
──私もきっと、描かれたかった。
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