二四 白秋、司春と帰路につく事

 然国の都、瑚滉は世にもまれなる湖上の市である。

 東方世界に名高き霊峰三山、それより流れ落つる露は麓に重なり大湖を成した。

 千歳の昔、湖に石を積み、石に城を建て、これを以て御座みくらとした。

 湖中に根を張り、水鏡に蓄光す。故に瑚滉である。


 午前の日差しに照らされながら、奇天は仰向けになって湖に浮かんでいた。

 身体はもう、どこも痛くなかった。


 細波に揺られ、どうにか視線を横にずらすと、そこには白い、大きなわにがいた。都の人々が竜と呼ぶ、瑚滉の主だった。鰐はその縦に長い瞳で奇天を静かに見ていた。


「そう心配せずとも、すぐにいなくなる」


 白鰐は彼を食らうでもなく、何か言いたげに周囲をゆったりと回る。

 奇天はぼんやりと空を見た。

 随分長い、夢を見ていたような気がする。


 水面が波打ち、帆がはためく音がする。

 自分の死体を捜して、玉兎上将の率いる水軍が船を出したのだろう。

 流れる雲を眺めながら、奇天は鰐に語りかけた。


「竜よ、水の底には、堕ちた化生が棲む国があるそうだな」


 先生が昔、そうおっしゃっていた、と奇天は穏やかに笑った。

 当然、鰐は答えず、水面に眼と鼻を突き出していた。

 奇天は段々眠くなって、瞼を落としながら、呟くように言った。


「このまま霞に消えて、ひとりで楽になるのは忍びない。人の冥府には下れぬ身なれば、水底に沈んで永遠の神罰を受けたいと思うのだが」


 鰐はぎょろりと眼を動かした。

 ばしゃん、と水音がした。それっきりだった。

 船に乗っていた人々が言うことには、白い大鰐が金の太刀を咥えて河のほうに去っていったそうである。


***


「そうか、やっぱり見つからなかったんだな」


 数日後の朝、布団の上で粥を食いながら、無弦は物静かに言った。

 その横では、すっかり快復した夏却が座って茶を淹れている。


「玉兎上将の報告では、瑚滉の竜が咥えて沈んだのではないかとのことですが……にわかには信じられませんな」

「まあ、そういうこともあるだろう」


 都を脅かした大罪人である奇天は、白秋たちの奮闘によって撃墜され、湖に落ちたと考えられていた。

 そのため瑚滉の水軍がここ数日をかけて捜索にあたっていたのだが、初日にそんな報告があった以外、何の目撃もなく、手がかりは得られなかった。まるで融けてしまったかのように、羽の一枚も見つからなかったのである。


 宮中は彼を獣か魚に食われたものと考え、一応の手配をかける以外は捜査を取りやめた。それよりも、壊れた街の復旧に人員を割きたいというのが本音だろう。


 無弦は茶を飲み、一息をつく。

 じろじろと夏却を眺め、不満げに言った。


「お前、俺より重傷じゃなかったのか」

「……まあ、若いんすよ」

「嘘つけや」


 夏却はひとしきり笑うと、無弦の寝癖を直してやりながら尋ねた。


「旦那様のほうは、ここしばらくあまり起き上がれていないようですが、やはり傷が障りますか」


 無弦はすぐには答えなかったが、僅かに首を振って否定した。


「……いや、傷の治りは順調だ。気にするな。久しぶりに朝寝ができるから、満喫しているだけさ」

「……そうですか」


 心配そうな夏却に、無弦は口角を上げて見せた。

 腕を動かして傷が痛んだらしく、泣きそうな顔でうずくまる。


「また、ちょいと寝るよ。誰も入れないでおいてくれ」

「承知しました。昼に一度、起こしに上がります」


 夏却が部屋を出ていくのを目で追って、無弦はごろりと布団に転がった。

 傷もないのに頭が痛い。

 どうにも眠れそうにはない。昼まで、きっと長いだろう。


「ああ、ひとりに、なっちまったなあ」


 そう呟いて、無弦は障子から目を逸らした。

 何故だか涙が止まらない。

 きっと、朝の光が目に染みる所為だ。


***


 司春は白秋と雪虫と共に、青年隊長の家へ借りた刀を返しに行った。


 それは大変な道のりだった。

 桜桃宴のときの文官に連絡を取り、彼の伝手で武官の詰め所に話を聞きに行き、休暇を取っていると言うのでひっくり返り、帳簿に載っていた住所を教えてもらった。


 彼の家は瑚滉の郊外にあった。祖父母と暮らしているらしい。

 居間に通され、待っていると、やってきた青年は開口一番にこう言った。


「華表はそのまま、司春殿がお持ちください」

「え、いいのか」


 虚を突かれ、司春は白秋と顔を見合わせる。

 青年は頬を掻き、恥ずかしそうに答えた。


「ええ。もとより、私には分不相応な代物です。というか、普通に持て余しておりまして……」


 彼の教えてくれたところによると、彼の亡き父が若い頃、さる小国の勇王を祀る墓陵の、ひどく荒れているのを見かねて掃除をしたところ、王の幽霊が出てきて礼にくれたという話であった。要するに妖刀の類である。

 白秋が青ざめて指を差す。


「それで号が華表って、これ墓に刺さっ……」

「祟られたことはないので本当にお礼だったのかもしれませんが、ちょっと不気味で、しかし返そうにも墓陵の場所を知らず、正直、困っていたところでした」


 売ったらそれこそ祟られそうであるし、父の形見には違いないのでお守り代わりに持ち歩いていたが、自分には大きすぎる。誰か相応しい人があれば譲ろうと思っていたという。


「これも何かの思し召しでしょうから、どうぞ、そのまま使ってやってください」

「なんか押し付けようとしてないか? ねえ?」


 司春が悲しげな鳴き声を上げて、青年の横に座る老夫婦に助けを求める。

 老いた農夫は手をはたくように振って自分の髭を撫でた。


「いえいえ、孫がよいと申しておりますので。それに、先にあなたが馬と剣・・・を売りに来たのです。交換と思えば丁度よいではありませんか」

「逃れられない!」


 司春は観念して再び華表を受け取った。すると、満足げに鯉口が鳴った。

 ふと外を見ると、牧場で鹿毛の馬が雪虫と駆け比べをして遊んでいる。

 それはかつて、司春が都に入る前、路銀のために手放した牝馬だった。


「……まさか、あのときの農家だったとはなあ」

「世間って狭いよね」


 白秋は出されたお菓子を頬張って、面白そうに目を細めた。

 司春は、よく肥え毛艶もよい馬の姿を見つめ、老夫婦に深々と頭を下げた。


「別れたときのやつれようが嘘みたいだ。大切にしてくれてありがとう」

「よく食べ、よく働く良馬です。いつでも来てくれて構いませんから、ときどき顔を見せてやってくださいな」


 司春はきっとそうすると老夫婦に誓い、青年の見送りで帰路についた。

 雪虫に引きずられるように都に向かう道を歩きながら、白秋は司春を見上げた。


「これから、忙しくなりそうだね」

「無弦もしばらく休むだろうしなあ」


 近頃は、復旧の指示を仰ぎに役人がひっきりなしにやってくる。

 無弦はまだ表に出られないので、白秋と夏却が手分けをして相手をしている状態だ。その分、家の仕事は弧星児や司春に圧しかかる。


「それに、陛下にもお呼ばれしてるんでしょ。弧星児に礼儀を叩きこんでもらわなきゃ」

「ぐうう……息苦しそう……」

「いつか友だちも紹介したいな。会いたがってるのよ」

「それ皇女じゃねえか! 会える訳ないだろ!」

「お忍びで街に来るかもしれないじゃない?」


 しばらく会いに行っていないから、鹿月公主も心配していることだろう。

 手紙のやり取りはしているので、次は何について書こうか楽しみにしていた。

 それから、少し黙って歩いたあと、白秋は司春の肩をつついた。


「ねえ」

「なんだよ」


 白秋は辺りを見回し、誰もいないことを確認して、そっと囁く。


「あのときは、勢いで口付けしちゃったけど、あれは特別だからね」


 司春はきょとんとして、それから目を剥いた。


「ええ!?」

「またしてほしかったら、今度はちゃんと手順を踏んで口説いてくれる?」

「はあ!?」


 やり場のない思いを込めて、司春の手が上がったり下がったりと忙しない。

 白秋はくすりと笑って後ろ向きに歩く。雪虫は司春の足元を跳ねていた。


「手を繋ぐとこから始めましょ」

「ぐうーーーーーっ!」


 司春の唸り声が、夏の空に響き渡る。

 二人はそうして、自分たちの家に帰るのだった。

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湖上のザムザ~とある都に伝わる変身譚と恋物語~ 遠梶満雪 @uron_tea

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