二三 瑚滉、夜明けを待つ事

 ほんの一瞬、意識が飛んでいたようだった。

 土煙の中、やけに足場の悪い地面の上に這いつくばり、司春は声を張り上げる。


「白秋! どこだ! 無事か!」


 途端、司春の胸の下敷きになった虎が牙を剥く。


「耳元で大声出すな! どうってことない!」


 二人は奇天の風に吹き飛ばされ、陽望楼の瓦礫と共に、瑚滉の地上まで落ちてきたようであった。


 辺りは無残な有様で、落下の余波を受けた建物も崩れ、足の踏み場もなくなっているほどである。唯一の救いは、一帯が奇天の所有の楼閣であるため、この崩落に町人は巻き込まれていないだろうことだけだった。


 奇天はどこか。二人がそう思って辺りを窺っていると、後方で何かの物音がした。

 咄嗟に司春が振り返る。白秋も身を低く屈めた。


「もしや、そこにどなたかおいでですか!」


 青年の声が煙の向こうから届いている。

 白秋たちは顔を見合わせた。


「すみません、助けてください、人が潰されそうなんです!」


 その懸命な声色に白秋が耳をそばだてる。血の臭いもした。


「行こう、司春!」


 司春は頷き、瓦礫の上を慎重に歩いて向かった。


「おい、大丈夫か、あんたら」


 そこにいたのは、瓦礫の隙間に足を挟まれた、一人の若い武官だった。

 白秋が獣の足で先に辿り着くと、彼は驚いて刀を掴んだ。


「と、虎!?」

「落ち着け、こいつはあんたに何もしねえよ」


 司春は青年を落ち着かせようと背を叩いた。

 彼は司春の姿を認めると、安堵の表情を滲ませる。彼は自分の怪我も顧みず、瓦礫に閉じ込められた部下の救出を願った。


 少し板を退かすと、一人の男が今にも柱に潰されそうになりながら、しかし諦めまいと瓦礫を背負って耐えているところだった。白秋たちは急いで二人を引き上げた。


「本当に助かった、急に上の楼が爆発して……」

「天命も果たさず朽ちるところでした。ありがとうございます」


 互いに手当てをしながら、武官たちは口々に礼を言う。

 改めてその衣装を見た白秋は、彼らが、夜回りをするような格の武官ではないことに気がついた。


「石英宮の官吏がどうしてここにいる」

「おれたちは帝より金烏上将捕縛の指示を受けている。……同じような武官が何人も陽望楼を囲んでいた」


 奇天の狼藉は、命も惜しまぬ乾坤一擲の伝令によって、石英宮、ひいては帝にすべて知らされたという。

 その後、生き残りの証言から事を重く見た帝の判断で、少なくない数の武官が奇天を捕らえるために向かわされた。

 彼らが陽望楼を囲み、突入の準備をしていたところ、楼の崩壊に遭った。それからすぐに、見たこともないような怪物がやってきて、運よく無事だった人々も薙ぎ払ってしまったという。


 司春は周囲を見渡すが、そこに人の気配はほとんどない。


「全員、風に飛んだか埋もれたか……!」


 そこへ、上空で異様に大きな羽の音がして、司春は全員を伏せさせる。

 奇天も白秋たちを見失って捜しているようだ。動くなら今しかないように思われた。

 ひとり立ち上がった司春は青年たちを見下ろし、頼みがあると言った。


「あんたらは仲間を助けろ。そうしたら、手分けして街のみんなも外に逃がしてくれ」

「しかし……」


 当然のことではあるが、状況が呑み込めていない青年は躊躇っているようだった。


 本来の命令である奇天の捕縛を放り出す訳にはいかないが、この危機にあって民の命を重んじないのは、都の守護という職掌に背くのではないか。

 迷う青年に向かって、司春は強く答えた。


「あの怪物は、俺たちが倒す」


 青年は唾を飲んで空を見る。まだ、遠くで羽の音がする。

 司春は頭を掻いて言った。


「俺ァ余所者だがよ、どうか信じちゃくれねえか」


 そこでようやく部下の男は、夜の暗がりでも色づいて見える司春の赤い髪に気がついた。

 指を差して食い入るように叫ぶ。


「あ!? お前、少し前に路上で暴れた馬鹿野郎じゃねえか!」


 どうも、ふた月前の乱闘に巻き込まれた官吏の一人らしい。

 その口を塞ぎながら、青年は司春の顔を三度見直した。


「ちょっと、大声は……えっ、あ、本当だ!?」

「うわ、嫌な有名人」


 白秋は呆れて鼻を鳴らす。

 部下の男は思わず笑い声を漏らしながら、決心のついた顔で青年のほうを見た。


「隊長、ここは一旦こいつらに任せましょうや。こいつの馬鹿力は折り紙付きです。どうも、おれたちにゃおれたちの戦場があるらしい」


 汗を滲ませて考え込んでいた青年は、腹を括ったように顔を上げた。


「……恩人を疑うのはいけませんね。あなたたちを信じてお任せしましょう。代わりに、我々を信じて、躊躇わず戦ってください」


***


 司春は白秋の背に跨り、再び、上へ上へと登っていく。

 松の木にでも駆け上がるように、白秋の爪は瑚滉の楼閣に食い込んだ。


 二人が屋根まで辿り着けば、たちまち、大きな影が向かいに降り立つ。

 奇天だ。


「元気そうで何よりだな。あれで死なれていたら流石にこちらが傷つくところだった」

「そういうお前は随分と雰囲気が変わっちまって、まあ」


 星明かりに照らされる奇天の姿は、異形としか言いようがなかった。

 両腕は十六尺五メートルもある金色交じりの黒い羽翼に変わり、先に残る人の手が太刀を握る。

 下半身は虎に成り果て、しかし、前足は蹴爪のついた鳥のあしゆびである。

 九枚の長く黒い羽根が、長鳴鳥の尾のようにふさふさと枝垂れていた。


 夜明け前の鐘が鳴る。


 奇天は鷲が獲物を掴むように飛びかかり、白秋は跳ねて退いた。

 着地に踏みつけた勢いで、白秋は身を翻し、後ろ脚で蹴り上げる。

 奇天は右の翼で打って遮った。

 白秋から飛び降りた司春は転がるように後ろに回り込み、刀を振り上げる。

 瓦の上で人と怪物と虎が入り混じり、爪と刃が舞って踊るほどに目が回る。


「虎と化け物が戦ってるぞ!」

「ありゃあ噂の人食い虎か!?」

「この間の赤毛野郎もいやがるじゃねえか!」


 街は目を覚まし始めた。

 町人たちが、様子を窺いに窓から身を乗り出す。

 青年隊長は壁の欠片を抱えながら、声を張り上げる。


「皆さん! 白い虎は味方です! 協力をお願いします!」

「瓦礫どかせ! まず怪我人を運ぶぞ!」


 町人の手助けで傷ついた武官たちが次々と助け出され、続いて避難の誘導が始まる。

 瑚滉の水路に無数の舟が浮かべられ、瞼を擦る子どもたちが乗せられていく。

 何度も流れ弾の暴風や家の破片が降ってくるが、武官たちが庇っては舟を送り出す。


 司春が剣に圧されて転がる。

 踏んだ瓦を下に落とさないよう気を取られ、白秋の足が止まる。

 その隙を見逃さず、奇天は前足で司春を踏みつけ、左腕が白秋の首を掴んだ。


「捕まえたァ!」

「ぐっ……!」


 ぎりぎりと、万力のように締め上げられ、白秋たちの視界がぼやけていく。

 しかし、悪行は果たされない。


「旦那さま」


 流れ星よりも速く、夜闇を切り裂く音さえ置き去りに、閃光が奔る。

 命中。

 白秋を掴んでいた奇天の左の手首に、鷹羽の矢が刺さっていた。


「ぐ、あっ……っ」


 正確に筋を断たれ、力が抜ける。白秋はするりと抜け出した。

 怪物は痛みによろめき、司春も放してしまう。

 奇天は咄嗟に矢の来たほうを見るが、そこには初夏の空気が揺らめくばかりである。


「お見事」


 屋根の上、弧星児は目を凝らすように手をかざしながら、にこりと笑いかける。

 矢の撃ち手は十町一キロメートルの向こうにいた。

 無弦は弓を下ろし、顔をしかめながら応えた。ようやく縫い終えた傷が今にもまた裂けそうだった。


「はあ……流石の眼だな、弧星児」

「フフ、私の申した通りに射抜く、旦那様の腕がなければ無益にございます」


 無弦は宰相邸の屋根瓦に倒れ込む。それを支えながら、弧星児はじっと先を見据えた。


「────無弦」


 手首を押さえながら、奇天は呆然と呟いた。

 体勢を立て直し、白秋と司春が立ち上がる。

 奇天は一度距離を取ろうと羽を拡げた。

 思わず固唾を呑んで見守っていた町人たちの一人が、我に返ったように声を上げた。


「……松明だ! 火で怪物の動きを押さえろ!」


 近くにいた宿の主人も頷いて周囲に叫ぶ。


「おお、ありったけ持って来い! どうせこれから夏なんだ、薪をけちっても仕方あるめえ!」

「身軽な奴は縄を張りに行け! 虎の足場になる!」


 人々は駆けずり回り、まだ何か自分たちにもできることはあるのだと信じていた。


 虎に乗って司春は奇天の後を追う。

 司春は町人たちを横目に怒鳴った。


「逃げろって言われたろアホ!」


 人々は身を乗り出し、ぎゃははと大声で笑いながら司春に手を振った。


新入り・・・のお前が命張ってよォ! この瑚滉の人間が、そりゃあ指くわえて見てらんねえわな!」

「ここでおれたちが逃げ出しちゃあ、末代までの笑いもんだろうが!」

「前は殴り合ったが、今度は仲間に入れてくれや! 死んだらあの世の都を案内してやる!」


 司春は呆れたように叫んだ。


「いかれぽんちしかいねえってのか、この街は!」


 白秋はくすくすと喉を鳴らして相槌を打つ。


「今やあなたも同類でしょ?」

「────ああ、違いねえ!」


 司春は嬉しそうに言った。

 一層に力を込め、虎が瑚滉を駆ける。


「石でも皿でもなんでも投げろ! 怪物を休ませるな!」

「あのでけえ図体だ、ずっと飛ばしゃあ、きっと限界は来る!」


 奇天に足場を作らないよう、町人たちが妨げ続ける。

 苛立った奇天が風で吹き飛ばそうとするが、ぎこちない動きでおぼつかない。


「動きが鈍ってきたぞ!」


 町人たちが歓声を上げる。

 奇天は噛み砕かんばかりに歯を食い縛った。

 先ほどから、背中がずきずきと痛んで力が出ない。

 無弦のところの小姓かかくにつけられた傷だ。


 奇天はふと思い出した。自分が小刀を抜いて、白秋がそれを拾って自分に向けたとき、切先は欠けてはいなかったか。

 そうだ。あれが、まだ、残っているのだ。

 奇天が暴れる度、背に埋まったあの小刀の欠片が肉を裂いて深く潜っていくのだ。

 あれは林檎だ。背中が痛む度、いつかの記憶が脳裏をちらつく。


 不愉快だった。奇天は青筋を立てて大振りに羽ばたいた。


「それがどうした、知ったことか!」


 続けざま、力任せに振られた太刀を、司春はまともに受けてしまう。


「……!」


 激しい打ち合いに、刀はすでに限界を越えて久しかった。

 ただ鋼の塊として、形を保ち、持ちこたえていたに過ぎない。

 氷が割れるように、司春の刀は粉々に砕けて散らばった。


「あと少し、なのに……!」


 白秋が悲鳴のように呟いた。

 司春の肌がどっと汗を噴く。


 町人たちも異変に気がつき、どよめき出す。


「まずい、刀が折れたぞ!」

「これを……!」


 青年隊長が差し出したのは、自分の腰に佩いていた太刀だった。

 白い拵えに包まれ、古びてはいるが、深淵のような気品を漂わせている。

 これだけの業物であれば、確かに役目に耐えうるだろう。


「しかし、どうやって届ける!?」


 武官たちがいるのは地上に近い部分だ。今から上に向かっても間に合わない。

 すると、上の階の廊下から、誰かが声をかけた。


「役人さん、こっちに寄越せ! 投げて上に渡す!」

「頼む!」


 青年は刀を撃ち出すように上へ放り投げた。

 考えている時間も惜しい。怪物の攻撃を防ぐ手段を失い、すでに虎たちは防戦一方、押し負け始めている。

 刀を受け取った町人がさらに上へ声をかけ、鞘がどんどん遠くなっていく。


「上等な刀じゃないか。よかったのか?」


 青年隊長に同僚が声をかけた。以前に父の形見だと聞いていた。

 大切なものだろうに、返ってこないかもしれないことを尋ねると青年は首を振って答えた。


「護国の剣と聞いています。人を守るため真の勇者に振るわれるほうが、あれも本望でしょう」


 青年の目の光を見て、同僚は野暮なことを聞いたと謝った。


「名は?」

「銘はありません。ただ、父の付けた号は……」


 刀は最上階に辿り着く。ごろつきたちが鞘を掴み、その丸太のような腕で空に打ち上げた。交差するように虎も跳ぶ。


「野郎、受け取れーーーーーーー!!」


 刀は一度、解き放たれたように宙に留まった。

 鈴の音が鳴る。

 大きな手が、確かに掴む。


「しかと、受け取った!」


 たちまち司春は刃を抜く。冥府の気配が滲み出る。

 奇天は羽をばたつかせる。

 夏却の残した欠片は、奇天の肺と心臓を貫いていた。

 青年は口を開く。


「号は、華表かひょう


 それは、死者の眠りを見守る墓守の枝。


 血反吐を溢れさせながら、なおも奇天は趾を拡げる。

 大烏のように、羽は夜空を覆って隠さんとする。


「行くぞ司春、気合い入れろ!」

「誰に物言ってやがる!」


 白秋は天を突き破るほどに高く飛び上がる。

 司春が大きく振りかぶる。疲労に震える彼の手を支えるように、人の姿に戻った白秋が上から握りしめる。


 華表は夜明けの星に応えて耀いた。


「決着だ、奇天────────ッ!」


 空は微かに青白く、遠い地平線は橙色に変わっていた。

 夜明けだ。

 その瞬間、光の奔流が、一羽の烏を撃ち落とした。

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