二二 司春、金の烏と剣を交える事
司春は白秋を庇って立ち、その影をじっと見据えた。
「都会は薄汚いねずみが多くて嫌になるな」
奇天は荒っぽく自身の髪を掻いた。
立派な金色の太刀を佩き、苛立ちを紛らわすように、その柄の
「茅の下に隠れて静かに暮らせばよいものを、不相応な餌を求めて人の家に上がり込む」
奇天は金細工の鍔に手をかけ、値踏みでもするかのように司春を頭から爪先まで眺めて見た。
「不快だ。殺されても文句は言えないよな? どう思う、小僧」
司春も鞘から刀を抜き、肩に担いで顎を張る。
舌を出し、煽るように手を振った。
「確かにその通りだ。だから巣穴までぶっ潰しに来てやったんだろうがよ」
***
司春は剣を構え、小さく囁いた。
「白秋、まだ手を出すな」
まずは、この間の仕切り直しをしなければ収まりがつかない。
司春の制止に白秋は口を結んで頷いた。
龍虎相搏、二人の男が向かい合う。
奇天は柄に手を添えたまま、深々と腰を屈める。
笛のような細い呼吸が奇天の喉を鳴らす。
気迫。
彼の筋張った腕がびきりと震え、剣の煌めきが砲弾のように司春へ迫る。
縮地によって全体重が乗せられた一閃は、重力となって圧し掛かる。
「ぐ、おおっ」
司春は咄嗟に防いだが、あまりに重い一撃に後ずさった。
奇天の太刀筋は力強く大太鼓を叩くようなもので、カンカンと連続して打ち合うことはあまりなく、ただ一つ一つが鈍器じみた威力を持っていた。
救いだったのは、速度のあまりに奇天は思うように止まり切れず、毎回僅かに隙を作ることだ。その間に司春は体勢を立て直すことができる。
とはいっても、まともに受ければ剣どころか胴ごと両断だ。
奇天の踏み込みは空間を跳んだかのように目には映らず、手がかりになるのは直前に彼の喉を鳴らす呼吸音だけだった。
司春は、音楽に乗って手を叩くのと同じように、息を合わせて構えなければならなかった。
司春は剣筋の予感を聞き逃さぬよう、雑念を削いで打ち払い続けた。
「もう少し耐えられそうだな」
奇天はくすくすと笑い、戯れにほんの五連撃を叩きこむ。
司春は腹から唸って一太刀に凌ぎ切り、返す刀で奇天の服の袖を裂いた。
奇天は顎に手を当て、興味深そうに首を傾げる。
「見違えたな。桜桃宴で遇ったときとは別人のようだ」
「男子、三日会わざれば刮目して見よ、ってな。俺は毎日漢字の勉強してんだよ」
そんな風にうそぶきながらも、司春は内心で冷や汗をかいていた。
ほんの少し打ち合った程度だが、すでに刃毀れが尋常ではない。あともう一度同じことをすれば、この剣は使い物にならなくなるだろう。
一方で、向こうの刃はその一条の光に少しの歪みもない。
あれだけの力で叩きつけておいて、反動がないのだ。
人と怪物の筋力の差以前に、武人としての技量が完全に押し負けている。
第一、奇天はまだ風の力を使っていない。からかって遊んでいるつもりだろう。
自分の青さ若さを言い訳にしたくはないが、こればかりは戦いに費やした年季の違いだと認めざるを得ない。
司春の焦りを見抜いたのか、奇天は動揺を誘うように嘲った。
「もう少し賢ければ、逃げるということも覚えられただろうがな。白秋、お前は黙っていていいのか? この男は死ぬぞ」
白秋は息を飲む。
しかし、頭をもたげて、一歩前に進み出る。
「もうその手は食わないぞ、奇天。お前は人の勇気を怖れるあまり、欺いて嘲笑い、貶めようとしているだけだ」
白秋は司春の隣に立ち、青い瞳を輝かせる。
「私たちは逃げない。一人では自分を疑っても、二人でいれば、お前なんか怖くない。お前にくれてやるものは何もない。これ以上、誰の、何も奪わせない」
司春は再び奮い立った。この信頼に応えずして、ほかに何をするというものか。
奇天は柄を掴んだまま、愉快そうに笑った。
「フフ、……純粋な疑問が湧くな。一体、この街のやつらがお前たちに何をもたらしたんだ? どうしてそこまで躍起になれる」
司春など、どうせ、たかだか少しの時間を無弦に拾われて過ごしただけではないか。彼と自分の間に大した因縁はない。忠義や義理立ての範囲もとうに過ぎている。
白秋も、虎の力があれば再び奇天の手を振り切って、遠いところでささやかに暮らすことは容易だ。事実、一度はそうしていたではないか。同じことをせず、苦しい思いをしてまで白秋が立ち向かう理由が、奇天には本気で分からなかった。
「気高くありたいのか? 死んでまで何者かになりたいのか? 人間は脆いぞ。どうして妥協し、一匹の虫けらのように生きて死ぬことを受け入れない。そのほうがずっと楽なのに」
白秋が口を開く前に、司春の方が先に答えた。
「それは」
司春の右手が、強く刀の柄を握る。
「それは、俺が俺を許すためだ」
奇天は、つうと目を細めた。司春は自分に言い聞かせるように続ける。
「俺は特別なことなんか何もない、何者にもなれない人間で、生きているのも恥ずかしくなるような失敗を幾度もした。誰だって同じはずだ。いつか必ず、一生の意味を見失うときが来る」
夜、ふと宇宙の広さを思って眠れなくなるように、自分の存在に不安を抱く。
自分が劣っているから一寸先さえ見えないのだと思い込んで、死にたくなることもある。
それは自然なことだ。日が昇っては沈み、月や星が流れていくように、人の心は移ろうものだ。
変わらずあるのは、あの北に瞬く旅人の星だけだ。
「そのときに、そんな馬鹿な自分を笑い飛ばし、許してやるために、俺たちはあそこに輝く星を目指して歩き続けている。たとえ、後ろに歩いたって、道を間違えたって、あの光を追って残した足跡すべてが俺たちのいる意味だ」
いつだって、誰だって、今日の自分が一であり、十である。
何かと比べることはない。そうしなければという焦燥は、臆病が招く一時の悪夢である。朝になれば夜の霧は消えるのだ。
だから、歩く。そうすれば、日も月も星も廻ってくる。そうして世界は続いていく。
「今晩は、お前がその道に立ち塞がっていただけのことだ」
戦う理由はそれだけだ。司春は、白秋の手を離すつもりはない。
白秋も、共鳴するように吼えた。
「お前がみんなの邪魔をするなら、私たちがお前の邪魔をする。誰かのためなんて大層な理由じゃない。私が、そうしたいと思っているからだ」
虎の姿に変わったが、かつてと違って心は凪いでいる。ただ、勇気だけが満ちて、真っ直ぐに奇天を見据えた。
「あの日に何もできなかった自分を恥じる心が、私を虎にした。だから今度こそ、私は
奇天はすぐには応えなかった。
何かを思い、瞼を閉じたが、すぐにまた金色の瞳が揺らめく。
「────口先だけなら、どうとでも言える。本当にそうか、試してみればいい」
そう言うと、奇天は刀の柄から手を離し、首を回して骨を鳴らした。
「しかし、ここは、羽をくつろげるには少し窮屈だな」
「!」
致命的な攻撃の予感に、白秋が割り込むように司春の前へ飛び出る。
その瞬間、二人の視界は瓦礫と暗闇に包まれた。
奇天を中心に爆発にも似た暴風が巻き上がり、室内もろとも白秋たちを粉砕しようとする。
ほんの数瞬の内に旋風はほどかれ、砂煙も霞んで消えていく。
しかし、その頃には、陽望楼の屋根は吹き飛び、四方の壁も崩れて落下していた。
初夏の澄んだ夜空が天を覆う。白秋と司春の姿はどこにもない。
「悲しいことだなあ。ちりが積もり、山になったとて、その時間にはきっと重みがない」
奇天の言葉には、低い獣の唸声と、鈴のような鳥のさえずりが不自然に混じる。
大きく拡げられた黒い羽翼は、しきりに擦れあって重く乾いた音を立てた。
「────こんな取るに足らない小鳥の羽ばたき、起こした風のひとそよぎで、みんな吹き飛ばされてしまうのだから」
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