二一 男女、可惜夜に睦み合う事

 最も陽の遠い刻だ。

 浮雲は遥か向こうの地平線の辺りを沈み流れ、菫色の輪郭をぼやけさせていた。


 星々は一層に強く瞬き、仄明るい夜空には絹に似た淡い濃霧が架かる。

 目が眩むほどの燦めきが、今は微かに、しかし確かに向こうにあって、それらは勇者をじっと見下ろしていた。


 その柔らかな光を一身に受け、司春は陽望楼の頂上に辿り着く。

 外廊の欄干に腰を下ろし、部屋の中に眠る姫君の名前を呼んだ。


「白秋」


 白秋は凛としたその声に目を覚まし、半身を起こす。

 見上げれば、待ち望んだ光に瞳孔が縮んだ。青眼が潤む。

 鮮やかな星空を背負って、懐かしい人がそこにいる。


 着物を深く羽織るように身体に掛けながら、彼の名前を呼び返した。


「────司春?」


 彼は頷いて肯じた。

 白秋は泣き腫らした瞼を擦る。それから、背を丸めて呟いた。


「なんで……そこに、あなたがいるのよ」


 血の跡が残る床に目を落とし、白秋は自分がまだ奇天の領域にいることを確かめた。


「いたら悪いのかよ」


 不満げに首を掻く司春を見て、白秋は額に手を当てる。


「だって……つまり私の幻覚ってことじゃない。ここ何階だと思ってるの」


 血を失い過ぎたか、心が壊れてしまったか、とうとう自分は頭がおかしくなってしまったらしい。それも、ただ虚像が見えるだけではなく、妄想が話しかけてくるなどというのは、完全に手遅れの証だ。


 溜息を吐く白秋に、司春は堪らず欄干を下りて詰め寄った。


「人を勝手に幻覚にするんじゃねえ! オラッ! 起きろ!」

「ひう」


 司春に頬をつねられ、また違う涙を滲ませて、白秋は問うた。


「じゃあ、どうやって来たのよ。ただの人間のくせに」


 司春はそれに勢いよく言い返そうとして、ふと、何から言ったものかと思い、口ごもり、白秋の頬から手を離した。


「そりゃ、まあ、色々……あったんだよ」

「色々……?」


 ねずみの駕籠屋かごやの話はまだうまく話せる気がしなかった。

 歯切れの悪い様子に白秋は不思議そうな顔をしたが、とりあえずは司春が本物であると理解したようだった。


 白秋は服の乱れを整えながら、拗ねたように顔を背けて上目遣いに司春を睨めつける。


「……なんで来たの」

「なんでって……ああ、もう! 本ッ当に、めんどくせえやつだよお前は!」


 司春は業を煮やした。白秋は、この期に及んでまた彼を試しているのだ。


 聞かずとも幾らだって想像がつくものを、この女は、一から十まで言って聞かせてやらねば気が済まないらしい!


 それならば承知した。言わねば分からぬなら、真正面から言ってやる。忘れてしまうなら、覚えるまで何度だって言ってやる。


 白秋の両肩を掴んで引き寄せ、互いの目を射抜くように見合わせて、司春は言った。


「惚れた女が泣いてるときに! 駆けつけねえ男がいるもんか!」


 白秋はぽかんと口を開け、彼をじっと見た。


「惚れ……」


 そうして何度か反芻して、数拍置いて、吹き出した。


「フフ、はは、あはは! それでこんなところまで猪みたいに突っ込んで、とんだ色惚け男もいたものね」


 白秋は艶っぽく、ころころと笑った。それまでの涙が嘘のようだ。楽しそうに、司春の肩に手を回し、ぎゅうと抱きついた。

 司春はそれに同じく抱擁で応え、呆れたように言った。


「魔性の女がいる所為だ」

「それだけあなたを誑かす女の顔が見てみたい」

「今度、鏡をくれてやる」


 軽口を叩き合いながら、身体を縫い合わせたように触れ合う。

 重ねるように頭ごと抱きしめて、司春は白秋の短くなった髪に触れた。


「髪、あいつに切られたのか」

「まさか。自分で切ったのよ」


 悲しげな司春の表情に気がつくと、白秋は肩口に縋りついて言った。


「……ごめんなさい。貰ったかんざし、使えなくなっちゃった」

「気にすんな。こうすりゃいいんだから」


 司春は彼女の身体を引き離すと、懐から弧星児より受け取った射干の白いかんざしを取り出した。


 そして、白秋の耳元にかんざしをかざすと、片手でそっと支えてやった。大きな手のひらが白秋の耳を首筋まで覆い、じんわりと暖かくなった。


「よく似合ってる。笑ってくれたら、もっといい」


 司春の屈託のない笑みに思わずつられて白秋も微笑んだ。


 しばらくの間、二人はずっとそうしていた。ここが敵地であることも忘れ、誰にも知られることなく、そうしていた。

 それから、司春は白秋を愛おしげに見つめたあと、力強く告げた。


「愛してるぜ。返事は要らねえ」


 白秋が何かを言う前に、司春はくるりと背を向けた。

 そうして無弦の屋敷から持ち出した長い縄を欄干に縛り付け、外に垂らす。


「下の廊下まで届くはずだ。屋根を渡って帰れ。俺は奇天を捜す」


 司春はそれっきり、こちらに顔を向けなかった。

 白秋は眉根を寄せて、弱々しく司春の袖を引いた。


「待ってよ。私を一人にするつもり?」


 司春は答えなかった。何を言っても、今は嘘にしかならないような気がした。

 白秋は彼の袖から手を離し、代わりにその太い手首を握った。


「今さら離さないでよ。どこまででも、ついていってやるんだから」


 男の曇りのない白い肌にそっと爪を立てる。

 司春は、深く息を吸うと、鼻を鳴らして振り返った。


「フン、すっかり尻尾を丸めたもんだと思ってたが」

「見くびらないで。ちょっとくたびれていただけよ」


 そう言いながら、白秋は気まずそうに目を逸らす。

 少し考えてから、自分の心が随分と穏やかに、しかし熱く晴れ渡っていることに気がついた。白秋は呟いた。


「でも、確かに、もう虎の心に酔えそうにはないな」


 あれほど絡み合ってほどけなかった激情は、今はもう純粋な闘志に変わっていた。

 これでは、獣の姿を得て彼と共に戦うことはできないだろう。


 白秋はねだるように司春の頬に手を添えた。

 司春はすべてを悟り、赤面した。


「だから、代わりに────あなたが酔わせてくれる?」


 白秋の問いかけに、司春はぎこちなく頷いた。

 そうして、二人は唇を重ねた。互いの深くまでを貪って、溺れるくらいについばんだ。


 ようやく口を離したあと、白秋は真っ赤な唇で司春の耳元に囁いた。


「こんなところまで這入はいってきたのはあなたが初めて」


 ぞっとするほど美しい女だった。

 司春はくらくらした。

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