二〇 司春、ねずみに乗って姫のもとへ向かう事

 とても悲しい夢を見ていたような気がした。

 白秋がぼんやりと目覚めてみると、ただ、その感覚だけが深く残っていて、本当はどんな夢だったのか、見たはずの風景はまったく記憶にない。


 だから、どうしてこんなにも悲しいのか分からなくて、それがもっと悲しい。

 何かとても嫌だったことを忘れてしまって、忘れたことも忘れて、その欠けて残った穴だけを見ているような気分だった。


 白秋は身体を起こそうとして、背中がひどく痛むことを思い出した。

 すでに血は止まっていた。


 奇天はどこかに行ってしまったようだ。

 逃げるなら今しかないが、身体が重くて動かない。

 そもそも、ここから逃げることに意味があるのか、考えが及ばない。

 戻る。しかし、どこに?

 救ってほしい。それは、誰に?

 血が足りない所為か、思考は脳の浅いところを泳ぐばかりだった。

 心が折れるというのは、こういうことを言うのだろうか。


 思えば裸のまま気を失っていた。

 白秋は、虎に変わって捨てたままだった自分の衣を手繰り寄せ、くるまることにした。

 馴染んだ匂いが鼻をくすぐる。

 きっと、疲れているのだ。これは全部、悪い夢だ。


***


 時刻は少し遡り。


「俺ァ、この家の門客よ」


 司春はもう一度繰り返すと、大きな拳を天に突き上げた。


「と、格好つけて出てきたはいいものの、さっぱり道が分からん」


 無弦の屋敷を飛び出た司春は、刀を担いで、行く宛もなく、のしのしと彷徨っていた。

 月がないので時刻は分からないが、丁度真夜中といったくらいだろう。都はすっかり寝静まり、町人たちはこんな騒ぎなど露知らず、いびきをかいているはずだ。

 つまり、司春が道を聞ける相手はいないということだ。


「白秋たちはどこにいるってんだ?」


 奇天は西のほうに出ていったが、どこかで向きを変えたかも分からない。

 やつも無弦のように屋敷を持っているのだろうか。

 だとしたらそれはどこにあるのだろう。

 司春は首を傾げた。


「……端から探すか?」

「そんなこったろうと思いましたよ!」


 後ろから頭をはたかれ、驚いて振り返る。その正体を認めると司春は顔を明るくした。


「おお、弧星児」


 そこにいたのは、藁色の髪をした侍女、いつも通りの弧星児だった。

 司春を捜して追いかけてきたのか、少し息を切らしている。


「馬鹿ですねえ、本当に馬鹿。瑚滉の都が何条何坊あると思ってるんですか」

「じゃあ、お前にはあいつらの居場所が分かるのかよ」


 物語のように、山の洞穴に行けば姫君が囚われていて、たちまち悪鬼羅刹が出てくるという訳でもあるまい。

 口を尖らせる司春に、弧星児は手に持った紐を示して見せた。


「彼に任せたらいいじゃないですか」


 紐の先に目を落とすと、地べたで見慣れた白い塊が尾を振っていた。


「雪虫?」


 司春が聞き返すと、小犬は名前を呼ばれたことに喜び、跳ね回って司春の足元に飛びついた。今に小便でも漏らしそうな勢いである。


 雪虫を踏みつけないようにしゃがみ込み、その濡れた鼻先を掴んで構ってやる。そんな司春に弧星児はまた別の白い何かを渡した。


「補助にこちらを使います。白秋さまの寝所にありました。これ、あの日も着けていたのでしょう?」


 司春は星明かりを頼りに、渡されたものを確かめる。

 それは、自分が彼女に渡した、あのかんざしだった。

 確かに桜桃宴の日、白秋はこれを身に着けていて、奇天もそれに触れたはずだった。


「かんざしに残った匂いを辿らせるのか!」

「雪虫、やれますね?」


 弧星児の呼びかけに、雪虫は和毛にこげの詰まった胸をきりりと張って、三回も吠えてみせた。気合いは充分、といったところだろう。


 かんざしを嗅いだ雪虫はしばらく鼻を鳴らしたあと、弧星児へ向かって何かを訴えるように鳴いた。

 すると弧星児はにっこりと笑い、司春の後ろの外階段を指す。

 階段を使って上に行けということかと思い、司春は続きの言葉を待った。

 弧星児は言った。


「奇天は楼閣の屋根を飛び伝っていきましたから、我々もそれに従いましょう」

「え?」


 数分の後。

 司春は満天の星空の下、長屋から突き出した瓦屋根に這いつくばっていた。


 都の通りを吹き抜ける初夏の夜風は柔らかいが、しかし確かに、司春を突き落とさんとばかりに強弱をつけている。

 司春は都の楼閣へ蝉のようにしがみついて、泣きそうになりながら進む。


 それだというのに、司春の後を追う弧星児は雪虫を抱え、ひょいひょいとやってくる。山育ちの稚児だって、こうも身軽には行かないだろう。


「弧星児? 弧星児、これはちょっと無理じゃないか」

「行けます行けます、頑張って。あ、そこを右上ですね」

「届くかボケ!」


 罵倒しながらも、司春は壁や窓へ必死に取り付いて、上へ上へと登っていく。

 古びた木枠や、垂れる謎の縄に手をかける度、あちこちが軋んで嫌な音がする。

 屋根に飛び乗った瞬間に横の大看板が傾いたときは司春の人生で一番肝が冷えた。


 しばらく行くと、雪虫が困ったように細い鳴き声を上げた。

 弧星児が司春を呼び止め、辺りを見渡す。


「む、ここからは匂いが途切れているようですね」

「どういうことだ?」


 屋根はまだ先が続いているが、奇天はそちらに進まなかったということだろうか。

 しかし、痕跡を残さないままに、ほかに移動ができる場所は見当たらない。

 手をかざして目を凝らしていた弧星児は、少し考え込んでから答えた。


「もしかしたら、奇天は風に乗れば、短距離くらいは飛べるのやもしれません。だとすると……」

「飛ばなきゃ届かねえ場所って言ったら、あの一等高いやつだ」


 司春の指差した先には、一際高い、黒々とした摩天楼があった。

 その最上階までならば、二人がいるところからは直線で百丈三〇〇メートルほどだろう。

 弧星児は納得が行ったかのように頷く。


「陽望楼……。なるほど、今は彼の居所でしたか」

「一度、傍まで寄ってみよう」


 司春たちは再び瑚滉の宙を駆けた。

 かなり遠回りをすることになったが、司春たちは陽望楼に繋がる、一番高い回廊まで確かにやってきた。


 しかし、出入り口や大きな窓はもっと低い階層にしかないらしく、この高さから入れそうなところがない。

 これより上で開いているのは最上階のみである。

 そして、雪虫が耳をそばだてて見上げているのは、その最上階のほうである。


「全部壁だな。隠し扉がある訳でもなさそうだ」


 こつこつと叩いてみても、空洞がありそうな感じはしない。

 司春は弧星児のほうへ振り返り、腕を組んだ。


「どうする。流石にこれは登り切らんぞ。一度降りて、下から乗り込むか?」

「いえ、むざむざ敵地の中を通ることもありません。上にいるというなら上から参りましょう」


 弧星児はしばらく唸って何かを考えていたが、腹を括ったように顔を上げた。


「致し方ありません。秘技を使います」

「秘技?」


 怪訝そうな司春に応えることもなく、弧星児は彼にかんざしを押しつけ、空いた両手で指笛を鳴らす。

 すると、どこからともなく一匹のねずみがやってきた。


「ねずみ?」


 弧星児はねずみを手に乗せ、二言三言囁くと、ねずみを放した。

 ねずみは壁の隙間に消えていったかと思うと、今度は何匹もの仲間を連れて、一枚の大きなむしろを持ってきた。


「筵?」

「決して手放さないでくださいまし」

「こ、弧星児?」


 筵の端を掴まされ、司春は嫌な予感に顔を強張らせる。

 途端、司春はねずみの大群に足元を掬われ、筵の上に転がった。


 筵の下は妙に生暖かく、柔らかい。見て確かめずとも、下がねずみで埋め尽くされているのが分かった。うっかり想像してしまい、鳥肌が立つ。

 弧星児は親指を立てて彼の旅の無事を祈った。


「では、私はこれにて! 皆さまにはご内密に頼みます~」

「うおおおおおおおおおおっ!?」


 ねずみたちは筵に噛みつき、司春を乗せて一斉に、摩天楼の壁を登り始めた。

 とてつもない速度だった。ぶち当たる空気の壁に、司春は瞼も鼻も唇もひしゃげた。


 司春は改めて思った。瑚滉はいかれた街である。多分、住人もおかしい。

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