一九 冬の夢
晩冬の夕暮れのことだった。
ここしばらくの間ずっと、早くに陽が沈むのがつまらなくて、白秋は今日もいつまでも庭で石を積んで遊んでいた。夕陽の赤色が世界を染め上げていた。
しばらくすると、門のところに随分と背の高い人影があって、白秋はきょとんとしてそれを見上げた。
軍人なのだろうか。やってきた男は腰に立派な刀を下げ、冬の風も効かないような贅沢な上衣を着ていた。
男は目を細め、白秋に向かって優しい声で尋ねた。
「ここは霍礼先生のお宅ですか」
「そうですけれど、あなたは誰ですか」
この家に人が来るのは久しぶりだった。
白秋は姉に教わった通りに答え、男の返事を待った。
男は何を思ったのか少し眉を下げ、それからゆっくりと言った。
「昔にお世話になった者です。奇天が来たと、先生に伝えてもらえますか」
「分かりました」
父の知り合いならば、多分、悪い人ではないのだろう。
そうして立ち上がり、石を放り出して玄関に向かうと、そこで花氷が立ち尽くしていた。
「お姉ちゃん」
正直、見知らぬ男相手に困っていたので、助けてもらおうと白秋は姉の服を掴んだ。
普段なら、それで姉が代わりに前へ出てくれるというのに、今日は何故か動いてくれなかった。白秋は不思議に思って姉を見た。
「奇天……」
今でも、そのときの姉の顔は、なんだか怖かったように思う。
外はもう、すっかり暗くなっていた。
***
「本当はもっと早くに帰ってきたかったのですが、十年もかかってしまいました」
霍礼夫妻は客人を喜んで迎え、夕食の席に招いた。
白秋のまったく知らないその男は、自分以外の家族にとっては馴染み深いものだったようで、彼女はずっと、退屈な居心地の悪さを感じていた。白秋は姉にぴたりとくっついて、黙り込んで菓子を頬張っていた。
男は初めこそ、ちらちらと白秋を見ていたが、そのうち彼女の存在を忘れたように、霍礼と語らい始めた。白秋が思うに、それは今の世の中のことや難しい本のことで、母や姉、ましてや自分には向けられていないのだった。
「己は
「ははは、それでも腐らずにやってきたからこその、今の地位だろう」
酒に弱い霍礼は、赤らんだ顔で奇天の背を叩く。奇天が持ってきた、官位を示す刀を指して、嬉しそうに言った。
「こうして約束を忘れず、顔を見せに来てくれたじゃないか。君は本当に優れた人物だよ」
「……どんな高官に言われるよりも、先生にそうおっしゃっていただくのが一番の励みになります」
奇天はそう言って、上品に杯に口をつけた。
白秋はとうとう堪らなくなって、隣の部屋に逃げ出した。
しばらくして、眠くなったので自分の部屋に行こうとすると、廊下で父に呼び止められた。
満月が煌々と差していた。庭には風花が舞って、雪が近いのを知らせていた。
父は半纏を着こみ、欠伸をしながら言った。
「まだ二人は話し込んでいるようだ。火鉢の炭もそろそろ尽きているだろうから、持って行ってあげなさい」
「うん」
それは、父の気遣いなのだろうと思った。
きっとこの場で子どもなのは自分だけで、大人は大人に聞かれたくない話をすることがあって、子どもだけがそこにいていい。だから、白秋だけが、二人のいる部屋に入っていいのだ。
火を熾した炭の鉢を持って、白秋はとぼとぼ歩いて行った。
霍礼の言った通り、座敷はまだ明るく、ぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。
なんだか遮るのもばつが悪いように感じて、白秋は襖の前で座って話が落ち着くのを待つことにした。
「────そうか、無弦は都に行ったか」
「きっと頑張っているわ」
低く呟いた奇天へ、花氷が酒を注いだ。
大きな火鉢にはまだ火が少しだけ残っていて、二人を温めていた。
「帰ってきたら、結婚するんだな」
「ええ。……ごめんなさい」
花氷の奇妙な謝罪に応えることはなく、奇天は刀の鞘の横に杯を置いて顔を上げた。
「花氷、やっぱりここを離れないか」
「……」
「先生に聞いた。無弦を待つ気でいるんだろう」
「まだ二年よ」
花氷の声は、白秋が聞いたことがない色をしていた。
奇天も、彼女がすぐに頷くとは考えていなかったようで、重ねて説いた。
「だが、もう流行り病は瑚滉だけの話では済まない。里だってもう、誰もいないじゃないか」
死病の流行は瑚滉の水を越え、各地に波及していた。
むしろ、都よりもその周囲のほうが今は甚だしいのかもしれない。病の伝わることを恐れて誰も確かめにはいかないから、本当に安全な場所を知る人はいなかった。
奇天はこの家に来るまでの間に、すっかり寂れた故郷の景色を見てきた。
手入れされていない林檎の木の下は、腐った実が埋め尽くしていた。
枯れた水田には雑草がはびこっていた。
変わらず咲くのは誰も雪かきをしない山道の蝋梅ばかり。
この家だけが、取り残されたように記憶のままだった。
「白秋もまだ小さい。病に罹ったら一溜まりもないぞ」
「だから、父さまたちだけ山を離れたらいいのよ」
「そんな訳に行くか、それでお前が死んだら元も子もないだろう」
譲らない花氷に、奇天も苛立ちを隠せなくなっていた。それなので、かえって花氷の心も刺々しくなっていくのだが、お互いに省みる余裕もない。
「なあ、西に、オレのところに来てくれよ。決して裕福じゃあないが、一家くらいは養える。病もまだ来ていない。そこで無弦を待ったらいいじゃないか」
宥めすかすような奇天に、花氷は顔を背けてきつく返した。
「あの人は、ここに帰ってくるって言ったのよ」
「そんなの、手紙を書けば済む話だ。みんなの命と引き換えと思えば、無弦だって承知する。オレが一言書き添えたっていい。あいつも安心するはずだ」
それでも花氷は頷かない。
奇天はとうとう、彼女は我儘なのではなく、様子がおかしいのだと分かった。
「お前、何をそんなに恐れているんだ」
奇天が悲痛な面持ちで尋ねる。
花氷は、観念したかのように呟いた。
「約束を破るのが怖いの」
「約束……?」
「あなたは立派になって、約束通り帰ってきた。無弦も今、確かに誰かを助けているの」
奇天は胸がずきんと痛んだ。
この十年、誰に称えられても、満たされることがなかった。
本懐を遂げればと思っていたが、先生に褒められても、もう、埋まらない。
むしろ、こうして霍礼や花氷に言われると、かえって痛みが増していく。
自分の思う自分は、他人の思う自分ほど偉くはないのだ。
「私だけ、なんにもない。何もしてない、役立たず」
花氷の言葉が、奇天がずっと奥に抱えていた思いを掘り出し、形を作る。
心臓が痛い。身体が千切れて、粉々になりそうだ。
それだけは言うな、と言う前に、花氷が叫んだ。
「好きな人と交わした約束ひとつさえ守れなかったら、私の人生には何の意味があるの?」
すうっと、頭が冷えていく感じがした。
奇天も、かつて同じことを考えていた。
思ったより、世界にとって自分は矮小で、意味がない。
しかし、何度鼻っ面を折られて、志を曲げそうになっても、それだけは肯定してはいけないと思って、二人の友を想って生きてきたのだ。それだというのに。
怒りとも、悲しみともつかない感情が、奇天の何もかもを満たして、平凡な説教や慰め言を吹き飛ばした。
「そんなもの、これから作ればいいだろう……!」
努力も、迷いも、苦しみも、自分の重ねてきたすべてを踏みにじられたような気分だった。
しかし、それ以上に、自分の友を侮辱されることに、奇天は我慢ができなかった。
「何が役立たずだ、役立たずなもんか、無弦が愛した女をお前が馬鹿にするな! 如何にお前といえども、その発言はオレが許さんぞ!」
それを聞くと、花氷は、顔を真っ赤にして立ち上がった。
長い、美しい黒髪がふわりと広がる。
「やめてよ! そうやって、不釣り合いに扱われるのが、ほかの何より苦しいんだって、あなたが一番よく知ってるくせに!!」
「花氷! オレから無弦を奪っておいて、よくもそんなことを────」
そう言って、奇天は部屋を出ていこうとする花氷の袖を掴んでしまった。
奇天の言葉に、花氷が咄嗟に振り向く。
その二つの力は、彼女を力強く引き倒すのには十分だった。倒れる先には、冷めきった火鉢があった。
それが何の砕ける音か、誰にも分からなかった。
女の身体は火鉢を撫でるように崩れ、うつ伏せに転がった。
奇天は、まずいことをしたと思い、慌てて立ち上がった。
「花氷? すまない、大丈夫か」
奇天はそう言って、彼女の横に膝をつき、肩に手をかけた。
かつてのように、なんてことはないのだと起き上がるのを待っていた。
しかし、動かなかった。
「花氷……ちょっとぶつけただけだろう」
そっと身体を転がすと、ぼんやりした青い目が天井を見ている。
半開きの赤い唇は、何の返事もしてくれない。
彼女の白い額から血が溢れ出るにつれ、奇天の血の巡りも速くなっていった。
視界が霞む。脇の下がべたべたと湿っている。口の中が渇いて、碌な声が出ない。
そこに、障子が開いた。
「二人とも、さっきから何の騒ぎだい。眠れないじゃないか……」
そう言いかけて、霍礼と妻が、縁側に立ち尽くしていた。
奇天は真っ青になって、救いを求めるように彼らを見上げた。
「先生────……」
「奇天?」
気が付くと、二人が死んでいた。
彼らの顔を見たとき、それがどんな表情をしていたのか、覚えていない。
自分の名前の次に、何という言葉をかけられたのか、覚えていない。
もしかしたら、答えを知りたくなくて、その前に斬って殺したのかもしれなかった。
それとも、見て、聴いた上で、耐えられなかったのかもしれない。
どちらにせよ、奇天のくだらない羞恥心が、彼らを殺した。
奇天が呆然としていると、反対側の襖の向こうから、泣き声が聞こえた。
「白秋……」
どこから見ていたのかは、もうどうでもよかった。
ただ、このとてつもない
「やだ!」
白秋は奇天の手を強く拒絶し、走り出した。
部屋の奥へ去っていく影は、随分と小さくて、まるで四つ足の獣のようだった。
奇天の手には、ささやかな爪の引っ掻き傷がついていた。
「待ってくれ……!」
もう、手も刃も届かない。
それでも、苦し紛れに右手で空を掻いた。
「きゃっ」
遠くで悲鳴がして、新しい血の臭いがした。
部屋の中だというのに、風が微かに吹いていた。
「は、はは……!」
奇天は頬を引き攣らせて笑った。
段々と強く吹き荒び出した風が、白秋の落とした熾火を焚きつけ、周りへ燃え移らせていく。
外からの風ではない。中心は奇天だ。
膝をつき、奇天は自分の両手を見た。
「最初から、これがあったらなあ……」
こうして、誰もいなくなった。
雪のちらつく冷え切った冬の日、満月の晩のことだった。
***
冬の乾いた空気を、遠い太陽がほんの少し温める。
焼け跡を歩きながら、侍従の老人が腕を組んだ。
「盗賊か何かに襲われたのでしょう。火を付けられてるので、何がなくなったか分かりませんが……」
家のあるはずだった場所の前、塀の崩れたところに腰かけ、無弦は顔を覆ってうずくまっていた。
無弦が山の家に帰ったのは、都で最後の患者が亡くなり、ようやく、瑚滉での病の流行が収まったと誰もが感じた冬のことだった。焼け跡はまだ、火が燻っていた。
「本当に、三人分だったんだな」
確かめるように重ねて聞かれた問いに、侍従はしわがれた声で答えた。
それを明らかにすることで、主人が苦しむのか、楽になるのかは分からなかった。
「ええ。大人が三人です」
「小さな、十歳くらいの女の子がいるんだ。その子は……」
無弦は縋るように尋ねる。
すべて悟った侍従は極めて簡潔に、何の感情も見せないように努めた。
「逃げ出せたのかもしれませんが……麓の里も人がいなくなって久しいようでしたし、ここ数日の寒さでは厳しいかと」
本来ならば今の無弦の立場で許されるはずのない、無様な嗚咽を、家人の誰も咎めなかった。見ないふりをするのが、せめてもの忠心だった。
そこへ、若い男がひょっこりと顔を出した。白い何かを大事そうに抱えている。
「旦那さま、すみません」
その若者を、無弦の侍従たちはたちまちのうちに囲んで、頭や身体をばしばしと叩いた。
「おい夏却、どこをほっつき歩いてんだ馬鹿野郎、状況が分かってんのか!」
「ぎゃあ! いや、血が、血の跡があったから追いかけてたんです! そしたら……」
夏却が差し出した塊を一斉に覗き込む。
「……白い、虎?」
そこには、背中に傷を負った幼い虎が泣きながら丸まっていた。
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