一八 秋の夢

 それから数年が経った。

 無弦は十三になり、季節は廻り、僅かに過ぎて秋になった。

 川辺にはすすきがそよぎ、稲田では重く頭を垂れる穂に雀が乗る。


 風の通る縁側で、無弦が目を輝かせて花氷の腕の中を覗き込む。

 隣に座った奇天に促され、無弦はその中身に恐る恐る指で触れる。すると、彼はたちまち破顔した。


「わあ、餅……つきたてのお餅だ……」


 少女の腕の中には、生まれてひと月ほどの赤子がいた。

 ぼんやりと三人を見上げる青い瞳は、花氷と同じ色だった。


「腕疲れてきちゃった! 無弦も抱っこしてよ!」

「ええ!? いや、ぼくは……」


 おののき、尻もちをついてずり下がる無弦の背を、霍礼が叩く。


「遠慮すんな、無弦もお兄ちゃんだろ」

「えっ、あ、ぼく、そうなの?」

「当たり前じゃない! 白秋はわたしたち三人の妹なの!」


 おっかなびっくり赤子を受け取り、無弦は奇天と花氷を交互に見た。


「お兄ちゃん……、へへ、嬉しいな、ぼく、兄弟って兄上たちしかいなかったから」

「オレもなのか?」

「そうよ! 何があっても、わたしたちが守るんだから」


 奇天の問いに花氷が力強く頷く。

 その後ろから霍礼が身を乗り出して付け加えた。


「まあ、大概のことはお前たちが出るまでもなく父さまが何とかしちゃうけどな!」


 すると、花氷は指を折って数えながら、自慢げに胸を張った。


「父さまも母さまもいなかったら、わたし! わたしもいなかったら奇天! 無弦は最後でいいよ」

「最後?」


 首を傾げる無弦の肩に寄りかかり、奇天がからかう。


「普段の無弦は守られるほうだもんな!」

「うっ! で、でも、奇天がいれば、きっとなんだってできるよ……」


 はにかみながら小さな声で答えた無弦をじっと見つめ、奇天は僅かに表情を強張らせた。


「……いや、そういう訳にもいかないな」

「どうして?」


 無弦から目を逸らすようにして、奇天は、驚いて尋ねる花氷のほうを向いた。


「オレ、武官の試験に受かったんだ。来月には西の鎮市に行くよ」

「里を出るの」

「ああ。もとからそのつもりだったしな」


 無弦も花氷も、そんなことは初めて聞いた。

 奇天は髪を掻き上げ、気まずそうに言った。


「悪い、秘密にするつもりはなかったんだ。ただ、こんなに早く受かるとは思ってなくて」


 花氷は涙を堪え、鼻をすする。

 娘の肩を抱き、霍礼が頷いた。


「奇天はずっと一生懸命にやってたからね。評価されるのも当然のことだ」


 その言葉に奇天は頬を染め、それから、すぐに俯いて膝を握った。


「いえ、ここまで正しく来れたのは、すべて先生のおかげです」

「君はいつでも要領がよくて、私がしてやれたことはそう多くない。間違いなく、君自身の努力の結果だよ」


 奇天は口を開けたり閉じたりして恥ずかしがるばかりだった。

 そんな彼の袖を引き、花氷がそうっと見上げる。


「もう、これからずっといないの」

「そりゃ、まあ、しばらくはな」


 丸めていた背筋を伸ばし、奇天はしゃんとして答えた。


「でもいつか必ず、錦を飾りにここへ帰ってくる」

「本当? 偉くなって、わたしや無弦のこと、忘れない?」

「みんなを忘れたりなんかしない。約束だ」


 花氷は父を跳ねのけ、奇天に飛び込んでしがみついた。彼の胸はいつの間にか、大人の厚みに変わっていた。

 その光景を見ていた無弦の顔を、抱えられた白秋が無造作に叩いている。

 無弦はぽつりと言った。


「……奇天は、すごいや」


 その頭を撫で、奇天は穏やかに笑った。


「何も、オレばかりじゃない。お前だって絶対にやれるさ。オレが傍にいなくたってな」

「うん、────分かったよ」


 無弦は頷いた。

 そうして、一人がいなくなった。


***


 また、秋が来た。

 庭の山桃の木に下げた的が、かあん、と甲高い音を立てて跳ねる。


 無弦の放った矢は、的の中央につけた小さな印を寸分たがわず射抜いていた。

 縁側に腰かけた幼い少女が指を差して叫ぶ。


「七点!」

「うーん、理由は?」


 振り返った無弦が、そう訊くと、白秋は足をぶらぶらさせて答えた。


「あたしが、あした、七歳になるからです」

「そうだった。じゃあ仕方ないな。七点が満点?」


 最近六尺を越した背を曲げて、無弦が尋ねる。

 すると、白秋は首を振って否定した。


「ううん、満点は十」

「かなしい」


 幼子の理不尽の前には、どんな大男も形無しである。

 そこへ、盆を片手に花氷が襖を開けてやってきた。

 面立ちからすっかり子どもらしさは抜け、行き交う人すべて振り向かせるたおやかな美人になっていた。あの乱暴さも鳴りを潜め、一輪の花のような立ち姿である。


「二人とも、そろそろおやつにしましょう」

「やた! 待ったから時間がすすんでる」

「真理だなあ」


 白秋は着物の裾をはだけてまで急いで部屋に上がる。その後を追い、無弦も鍛錬を休憩することにした。


 饅頭を頬張りながら、白秋は機嫌よさそうに左右に揺れている。


「無弦、口元、食べこぼしてる」

「どこ、ここ?」

「その右……もう少し下……ああ、もういい! 私が取るわよ」


 花氷は懐紙を掴んだ腕を伸ばし、彼の口回りを力任せに拭いた。無弦の顔がぎゅうと寄る。


「まったく、図体ばっかり大きくなって、自分の手足のことは分からないままなんだから」

「すみません……」


 無弦はほんのりと赤くなった口元を押さえる。花氷はまんざらでもなさそうに肩を竦めた。

 二人のやり取りを聞いてもいない白秋は、外で揺れる的を見ながら、指に残った餡を舐めていた。


「むげん、なんか弓うまいね。こっそり練習した?」

「さっきのが練習だよ」

「なんで練習してるの? おやつもらえるから?」

「俺は犬か」


 白秋の口や手を拭きながら、花氷がくすくす笑って答えた。


「それはもう、白秋に危ないことがあったら、無弦がどーん! って矢を射って助けるためよ」

「白秋だけじゃなくて、白秋の父さまや母さま、花氷お姉ちゃんも守ります」

「剣のほうがかっこいいけど、弓ならどこからでも届くな。むげん、かしこいな」


 白秋は大人ぶって腕を組み、大袈裟に感心した。

 その揺れるつむじを横目に、無弦は鼻を擦って呟いた。


「まあ、それもあるけど……剣と違って、弓は一人で続けられるのがいいな」


 白秋はきょとんとして彼を見上げた。


「友だちいないから?」

「違います。試合の勝ち負けがあると、ついつい自分と相手を比べてしまって嫌な気持ちになるんだよ。弓なら、的に当てることだけを考えられるだろう」


 無弦の言葉は少しだけ難しく思われ、白秋はじっと動きを止めて考えた。それから、恐ろしい秘密に気がつきでもしたかのように目を見開いた。


「たしかに、あたしも父さまに盤上遊びで勝てないからいつもくやしい」

「私も父さまには勝ったことないのでくやしいです」

「あの人、手加減ってのを知らないよな」


 三人がそんなことを話してけらけらと笑っていると、また襖が開き、霍礼が顔を覗かせた。


「おや、私の噂話かな」

「先生!」


 白秋が立ち上がって、父親の足に飛びつく。

 佇まいを直し、膝をつく無弦を制し、霍礼は三つ折りの紙を差し出した。


「無弦に手紙が届いている。都の母君からだ」

「珍しい、何だろう」


 無弦が瑚滉の家族を恋しがるといけないからと、昔から母親はめったに連絡を寄越さなかった。

 それなので今でも季節の挨拶以外には家から便りが来ることはほとんどない。

 時季を外して届くのは兄たちの婚姻や子どもの生まれた報せくらいだったから、此度もそんなことなのだろうと思って読み進める。


「……!」


 無弦の様子に、親子も顔を険しくした。

 青ざめた無弦が震える声で読み上げる。


「兄たちが死んだ。急いで帰ってくるように、と……」


 山の向こうのそのまた向こう、細く煙がたなびいていた。


***


 手紙を受け取った無弦はたちまち早馬に乗って瑚滉に向かい、戻ってきたのは一年後のことだった。

 白秋は何も知らず、穏やかに午後の昼寝をしていた。

 座敷の中、心配そうな霍礼夫妻と花氷を前に、無弦は深々と頭を下げて述べた。


「瑚滉で死病が流行しているようです。貴族や官吏が大勢倒れて政が滞っていますので、私もすぐに戻らねばなりません」


 思えば、兄たちが炭鉱の小鳥だったのだろう。

 瑚滉の港に妙な病人を大勢乗せた異国船が来ているというので、調査隊が送られた。兄たちもその一員だった。


 異国の商船は船員たちの治療を求めていたが、宮廷の医者にも分からない感染病だったので、水と食料だけ渡して追い出したそうだ。

 数日の後、その船に乗っていた病人と同じ症状が、調査隊や、船の追い出しに当たった官人に出始めた。


 調査隊は七割が死んだという。


 無弦の父も、子を二人も失った憔悴のうちに同じ病に罹って死に、その頃には石英宮の席の半分が、病や服喪で欠けていた。


 議官に至っては全員が倒れ、家格を満たすだけの人間を方々から掻き集めて、現場から送られる上申のままに片端から許可を出すという有様である。

 本来であれば、空いた参議の席は下の役職から繰り上がる。しかし、その引継ぎをしている時間もないのである。


 一年の間、災禍は善悪貴賤を問わず猛威を振るっていた。

 ただでさえ建物の密集した瑚滉は、病が広がりやすく、条坊まちの丸ごと人がいなくなったところもあった。

 葬儀が間に合わず、あの美しい瑚滉の水辺に死体が投げ捨てられていた。


「病の神は連れて行く人を選ばない。私が次に帰ってくるまで、決して、瑚滉の街には立ち入らないでください」


 心からの嘆願に、霍礼は深く頷いた。

 それから無弦は暇乞いのように、更に重く首を下げ、淡々と言った。


「天子の血を引きながら、これまでとんと人々の役に立たぬ不肖の身でありましたが、これが天から定められた一世一代の役目のようです」


 ただひたすらに、都が止まらぬように仕事をした。頑丈な身体に感謝した。

 兄たちの代わりとなって、次の世代の中継ぎとして、この平凡な命を消費することが、自分が生まれ持った役割だったのだろう。

 そう思って一年を過ごしたが、無弦には心残りがあった。無弦は請うように述べた。


「もし、災厄が去ったのちにもこの身があれば、生家のことはすべて兄の子たちに任せ、再びここへ帰ってこようと思います。そうしたら────」


 僅かに躊躇った。願いというのは、言ったら叶わぬか、秘めたら叶わぬか。


「そうしたら」


 しかし、言わずに戻れば、死んでも死にきれないと思った。

 無弦は面を上げて叫ぶように言った。


「そうしたら、花氷。私と結ばれてくれますか」


 花氷は目を丸くしてから、弾むような声で答えた。


「ええ、ええ。もちろん、必ず」


 夫妻も頷いている。

 無弦は顔を赤くして言った。


「しかし、何年も待たせてしまうかもしれません」

「それでも待ちます。梅の花がそうであるように、じっと寒さを堪え忍びましょう」


 無弦は目を赤くして言った。


「きっと手紙も書けません」

「それでも待っています。あなたが私の心を疑わないように、私もあなたの心を疑いません」


 花氷は無弦の手を取り、柔らかく微笑んだ。


「ね、約束」


 無弦は泣いて、這いつくばった。

 そうして二人がいなくなった。

 空はどこまでも高く、風は寒さに傾く秋の日のことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る