一七 夏の夢

 少年は考え事をしていた。


「ねえ」


 薄暗がりの中、少年は小さな手に袖を引かれている。

 しかし、ぼんやりとして返事をしない。気弱そうな眼差しは、黒い天井に空いた隙間から青空ばかりを見つめていた。


「ねえ、ねえったら」


 少年よりもやや幼い、七歳ほどの少女が、向かいに座る少年を何度も小突く。

 手のひらにはたくさんの木の実が乗せられていて、少女はそれを少年に食べさせたいようだった。

 それでも物思いに耽るのをやめない少年に痺れを切らし、少女は彼の胸倉を掴んで引き寄せた。


「ねえ、無弦!」

「わああ」


 少女の力は存外に強く、少年は大きく前につんのめる。

 体勢を崩した少年は、咄嗟に踏み込もうとして、足場がないことに気づいた。

 それでようやく、無弦は自分が庭の山桃の木の上にいることを思い出したのだった。


「あっ」

「きゃっ」


 山桃の実が散らばった。

 無弦は少女を押し倒すように、幹から転がり落ちる。

 そうして二人はこんもりと茂って暗い葉の中から、明るい外の世界に飛び出した。


 無弦が砂利の地面に尻をつき、顔をしかめていると、上に乗った少女が心配そうに覗き込んできた。長い艶やかな黒髪が、御簾のように無弦を囲う。

 瑠璃の宝玉に似た瞳が、湖面の色にきらきらと揺らめいていた。


「やだ、大丈夫?」

「うん……、ご、ごめんね」


 少女は自分が彼を下敷きにしてしまったらしいと分かり、不安げに様子を窺っていた。

 無弦は相変わらずぼうっとしたまま、熱に浮かされたように返事をした。


 少女の肌は雪のように白く、どこか儚い翳りがあって、このまま日差しに呑まれて溶けてしまいそうだった。

 とはいえ、それがいつも通りの彼女であるはずなのに、無弦はどうしてか目が離せなかった。胸が熱くなって、心臓の音ばかりが聞こえてくる。


 夏の温度が砂利に触れる手のひらを焼いて、無弦は我に返った。

 少女に見惚れていたことに気づかれないよう、すぐにそっぽを向いた。

 すると、見慣れた黒髪の少年が駆け寄ってくるのが視界に映る。


「無弦、花氷! 二人とも、何やってるんだよ!」


 二人のもとへやってきたのは、背の高い少年だった。齢の程は十二くらいで、無弦や花氷よりも大人びた顔立ちをしていて、それ以上に背がひょろりと高かった。


 黒髪の少年は二人を立ち上がらせると、ぺたぺたと触って検める。

 少年の骨ばった手が、無弦の栗色のふわふわした頭から砂埃を払った。


「怪我は? 頭打ってないか?」

「ぼくは平気……」

「わたしも! ちょっとおでこぶつけただけ」


 花氷が自信ありげに自分の胸を叩く。

 すると黒髪の少年は目を丸くして、彼女のほうへ勢いよく振り向いた。

 その反動で、彼に肩を掴まれている無弦が強く揺さぶられる。


「えっ、駄目だ、すぐ先生に診てもらおう」

「大丈夫なのにー! 奇天はいつも大袈裟!」


 それから二人は、先生に言うの言わないのとぎゃいぎゃい騒ぎ出した。

 花氷と奇天が言い合う度に、挟まれた無弦が静かにもみくちゃにされる。

 山の烏たちが屋根に留まって興味深げに光景を覗いていた。


 そこへ通りがかった男が、頭を掻きながら近づいてきた。


「どうしたどうした、何の騒ぎだい」

「なんでもない!」


 花氷が食い気味に言うと、奇天はすぐに言い返す。


「なんでもなくない! 先生! こいつら、揃って木から落ちたんです!」

「なんで言うのよ!」

「そうなのかい、どれ、ちょっと見せなさい」


 先生、と呼ばれた男は、嫌がる花氷を捕まえると両手で頬を挟み、四方八方から眺めまわした。小さな額を指で触り、腫れを確かめる。


「うん、少しあざにはなってるけれど問題なさそうだ。まあ、まだ身体も軽いからね」


 目に見えて安堵する奇天に、花氷は肘鉄を食らわせる。


「ほら、大したことなかったじゃない!」


 小鳥のようにさえずって騒ぐ花氷を見て、奇天は鼻で笑って腕を組む。

 馬鹿にされていると理解し、花氷はまた肘を繰り出した。


 男はそれから無弦も捕まえ、何度も引っくり返して表も裏も調べる。

 特に怪我はないようで、男は無弦の頭をぽんぽんと撫でた。


「でも、子どもたちだけで木登りはするなと言ったはずだよ。花氷と無弦は今日のおやつ抜き!」

「えっ」


 無弦が気の抜けた声を漏らし、花氷は頬を膨らませて奇天に食ってかかった。


「奇天の馬鹿! 言わなきゃバレなかったのに!」

「こら、花氷、奇天のせいじゃないだろう? 本当はお前たちが、悪いことをしたと正直に言うべきだったんだから」


 男に軽い手刀で窘められ、花氷は頭を押さえて口を尖らせた。


「……父さまに怒られたくないんだもん」


 そう呟いた花氷の目は潤んでいた。

 それを聞くと男は少女の前にしゃがみ込み、彼女の手を握りながら答えた。


「だったら尚更だ。失敗をしても、ちゃんと反省したことを教えてくれれば、父さまは怒ったりしないよ」


 そう言うと男は娘を抱きしめる。大きな手のひらが、あやすように背中を叩く。

 花氷は泣きそうになりながら父の肩口に顔を埋めて、分かったと頷いた。

 それから、男は少年たちのほうを向いた。


「それは無弦や奇天も同じだ。もし何かあったら、取り返しのつかないことになる前に周りの人へ言いなさい」

「はい、先生!」

「はい、先生。……ごめんなさい」


 奇天が胸を張ってはつらつに応えるのを横目に、無弦も小さく俯いて謝った。

 この年上の利発な兄貴分が、太陽のように眩しくて仕方がなかった。


***


 無弦は先祖代々が名高い武人の家に生まれた。

 父は重用された将軍で、その功といえば帝の娘を妻にもらうほどだった。

 出来の良い兄が二人。年の離れた末の子だった無弦は、大層可愛がられて育った。

 子どもたちにかけられた期待も大きく、三人の優れた兄弟によって家はより栄えるように思われていた。


 しかし、いざ無弦が年頃になってみると、彼は何をさせても人並みで、内気な性格のために闘争心にも欠けていた。

 夕飯に魚を出せば、それが生きていた頃を考えて泣くような子では、無理に武の道へ進ませるのは酷なことと思い、将来を案じた両親は彼の祖父である当代の帝に相談をした。


 老いた帝は孫のことを聞き、こう答えた。


「ある山の中に霍礼かくらい先生という文人がおられる。まだ若いが徳の高い人で、学識も深い。彼に預け、学を修めさせるのがよいだろう」


 こうして無弦は八つの年に瑚滉を離れ、霍礼とその妻子と共に暮らし始めた。


 霍礼には娘が一人いて、花氷といった。齢は無弦の三つ下だった。

 彼らは旧くにあった小国の王室の直系で、倉には当時の宝や珍しい古書が多く残っていた。無弦は夢中になって何度も花氷と倉を探検した。


 それから、山麓の里に奇天という少年がいた。

 彼は瑚滉の貴族の子だったが、生家が貧しく、地方の軍人の家へ養子に出されていた。しばしば霍礼に教えを乞いに来ることがあったので、三人は一緒によく遊ぶようになった。


 一方で、里の子どもたちからすると、瑚滉から来た貴族の子というのは面白くない存在だった。所作に都の雰囲気が残っていて鼻につくし、大人たちが妙に気を遣うのが気に食わない。

 頭の回る奇天にはなかなか敵わなかったが、鈍くさくて陰気な無弦は憂さ晴らしに格好の相手だった。


「やい、やい、無弦! 弱虫、泣き虫、要らない虫!」

「帝さまの孫なのに、何にもできない役立たず!」


 怖いもの知らずの子どもたちは、そう言って無弦に林檎を投げつけるのだった。

 夏の夜の嵐によって、林檎は幾らでも道端に転がっていた。


 今日も、無弦は小さく縮こまって、大人が通りかかるか、彼らが飽きるまで待とうとしていた。自分が虫だというなら、その通りに丸まっていてやろうと思った。

 すると、それを見かけた奇天が慌てて、遮るように止めに入った。


「おい、やめろ! ……痛っ」

「もらわれっ子の奇天もいるぞ! また良い子ぶって助けに来たのか?」

「お前も要らないから、よその家に追い出されたんだもんな! 虫は虫同士くっついてろ!」


 如何に奇天といえども、何の用意もなしに、遠巻きに物をぶつけられればどうにもできない。


 もう少しすれば収穫できたはずの林檎は固くて大きく、何度も二人の頭や背中に当たっては、鈍い音を立てた。

 当たった跡がずきずきと痛み始める頃、騒ぎを聞きつけた花氷がすっ飛んできて、棒きれを振りかざしていじめっ子たちを追いかけまわした。


「こらー! 二人をいじめるな!」

「わー! 山猿だ! 逃げろ! またたんこぶ作られるぞ!」


 いじめっ子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ、道には三人だけが残った。


「あ、ありがとう、花氷」

「すまん、助かった」


 口々に礼を言う二人に、花氷は腰に手を当て、ませた態度で文句を返した。


「意気地なしなんだから! 自分でやっつけなさいよ」

「無茶言うな、何人いたと思ってるんだ」


 服の汚れを払いながら奇天は溜息を吐いた。何も考えず彼女の言うようにできれば、どれだけ楽なことか。

 無弦の腕を掴んで引っ張り上げながら、奇天は彼の頭をさすった。


「怖かったろ、大丈夫か」

「うん……いつもごめんね」

「お前は謝るな、悪いのはあっちだ」


 今日は一段とひどかったから、背中にあざができたかもしれないなと奇天は思った。

 花氷が、無弦の崩れた帯を直しながら叱りつける。


「無弦も馬鹿! やり返してくるって分かったら、あいつらもきっと黙るのに」

「でも、ぼくは……誰かに痛い思いをさせるのはあんまり、好きじゃないよ」


 無弦は小さく言った。ずっと前に、兄たちと剣の稽古をつけられていたときのことを思い出していた。

 花氷はきょとんとして、彼を見上げる。


「自分が痛いのに?」

「うん。自分が痛いから、したくない」

「何それ」


 無弦は指を弄りながら、はにかんでいた。

 まるで理解できないという風に首を傾げる花氷の背を叩き、奇天は笑う。


「フフフ! 花氷は少し無弦を見習ったほうがいいな」

「何よ!」


 花氷が奇天の膝を蹴り、それから三人はじゃれあいながら山道を登っていった。

 夏の日はまだ高く、雲一つない晴天の日のことだった。

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