一六 白秋、奇天に一騎打ちを挑む事

 快晴の星空に雷鳴が響く。虎の後脚は床板と静寂しじまを踏み砕いた。

 瞬きの後、三本二対の爪槍が、獲物の首を黒く掻き抱こうとする。


 しかし、不及およばず

 奇天は刀を抜こうという身の捻りだけで躱す。

 爪は宙に斬撃の煌めきを残すばかりだった。


 風が吹いている。

 涼しげな鍔の音が神経を貫いた。


 獣の跡を追うように、不可視の刃が夜を裂く。

 吹き荒ぶ木片の向こうに天色の眼光が冷たい熱情を帯びて揺らめいた。

 白秋は放電のごとく奔り抜ける。見えざる剣戟を掠めて、耳を引き絞る。


 幾度となく叩きつけられる虎爪を霧のように透かし、奇天は虎の腹を脚で薙ぎ払った。

 悲痛な鳴き声が上がり、虎は壁際に落ちて丸まった。

 

 奇天は火鶴べにづるのように上げた脚をゆらりと下ろし、刀を納める。

 完敗だった。女の姿に戻った白秋は、うつ伏せたまま激しく咳き込み、ようやく頭を上げられるかどうかという有様である。

 奇天は髪を掻いて言った。


「オレは昔から、物持ちが悪くてな。気に入ったものをすぐ駄目にしてしまうのが悩みだった」


 奇天の語り口に、白秋は怪訝な顔で呼吸を繰り返した。


「だが、聞くところによると、東の海の漁師は新しい舟を作るとき、完成したものにわざと小さな穴を開けるそうじゃないか。完璧な舟は沈みやすく、不完全なものこそ長く手元に残るという考えらしい」


 奇天は白秋のすぐ傍に腰を下ろし、憐憫の微笑を湛えて見下ろした。


「なかなかに面白い話だ。オレも倣ってみるとしよう」


 そう言うと、白秋の髪を掴み、跨るように乗りかかりながら強く床に押し付ける。

 乱暴に曳かれる痛みに顔を歪めつつも、白秋は困惑の色を交えた瞳で奇天を睨めつけていた。

 裸の身体が嫌にじっとりと汗ばむ。


「……っ、何を……」

「奇麗な肌だ。やはり十一年も経つと傷は残らんものだな」


 彼が昔に斬り裂いた女の背中は、かつてこそ痛々しい刀傷を残していたが、丁寧な治療と成長によってほとんど分からなくなっていた。


 奇天は惜しむように白秋の柔肌に触れた。

 かさついた指先に背をなぞられれば、白秋も奇天の恐ろしい意図に気づき、息を飲む。


「! 待て」


 制止も届かず、奇天は彼女の肉に爪を立てた。

 再び変容した異形の片腕は彼の身勝手な断罪の焼印だ。


「う、あっ!?」

「今度こそお前の身体が忘れないように、きっちりと跡を刻もう」


 歪な指が皮膚を深く醜くゆっくりと切り裂く。

 びくりと白い足が跳ね、女の手が空を掻いては落ちる。

 思い出が赤く塗り潰されていく。


 吐き気がするほど目が回るのは、肉の苦痛からか、それとも魂を傷つけられている所為だろうか。白秋は未だその気丈さを保ってはいたが、確かに段々と怯えが隠し切れなくなっていく。


「あ……ぐっ、やめ……っ、あ、あ」

「まず一本だ」


 頬に飛んだ血を舐めとりながら、奇天は満足そうに呟いた。

 二本目が刻まれる間、白秋の腕は必死に奇天を叩いたり、押し退けようとしたりしていた。しかし、上を取られているために体勢も悪く、作業に少しの遅延ももたらさない。

 時間と共に抵抗は薄くなり、白秋は酸欠のように口をはくはくとさせるばかりになった。


「好い顔じゃないか。最初からそうやって、しおらしくしていればよいものを」


 奇天の手の甲が宥めるように白秋の頬を撫でた。

 三本目を刻み終える頃には、白秋の意識は混濁し、奇天の声や行動に何の反応もしなくなった。


 彼女の背には、獣の爪に殴られたような三本の傷が平行に深く残されていた。

 汗を浮かべ、青ざめた額が力なく傾く様を見て、奇天が溜息を吐く。


「……気を失ったか。まあいい。ほかにもやらなきゃならんことはある」


 そう独り言ちると、奇天は白秋を残して部屋を出ていった。

 星の瞬きばかりがそれを見ていた。


***


 同刻。

 血染めの当て布を桶に山ほど乗せて、弧星児は障子を開けて廊下に出る。

 視界の端に人影を認めると、肩を竦め、呆れたように首を傾げた。


「いつまでそこにいるつもりで」


 赤い髪が夜風に揺れている。

 壁にもたれかかり、腕を組んだまま司春は顔も上げずに口を開いた。


「……二人の具合はどうだ」


 弧星児は微かに室内を振り返り、すぐに視線を戻す。


「今すぐにどうこうという訳ではありません。しかし、失血がひどいので……体力次第、としか」

「そうか」


 安堵するでも悲しむでもなく、司春はただ頷いて身を起こす。

 去ろうとする彼に向かって、弧星児は嗜めるように問いをかけた。


「どこに行くのですか」

「俺ァ、この家の門客よ。やることは決まってら」


 分かり切った答えに、弧星児は今にも泣き出しそうに顔を歪める。

 その瞬間、弱々しく障子が開いた。


「司春」


 掠れた声は夏却だ。

 彼の傷ついた肉体から体液の染み出る気配が、音に聞こえるほどに感じられる。


「夏却! まだ血が……」


 弧星児は悲鳴にも似た声を上げた。

 夏却の傷は深く、立っているのもやっとのようだ。

 荒い息遣いが伝わってくる。


「お前、行くのか」

「ああ」


 司春は振り返らない。

 彼の姿を決して見ないことが、ただ一つの尊重だ。

 夏却は尋ねた。


「あれを見て、まだ勝ち目があると思うか」


 それは、一見すれば諦観のようにも思われた。

 圧倒的な力の前に、叩きのめされてしまったかのような言葉だ。

 しかし、司春は夏却の心が折れてはいないことを知っている。

 目を見るまでもなく、ただその声の色が、物語っている。


 彼はすべてを賭け、奇天を見定めた。

 それは勝利につなげるための布石だ。

 そして今、司春をも見定めようとしている。

 想いを託すに相応しい相手かどうか。

 応えるべきは、その問いに対してだ。


「喧嘩ってのは、勝てるからやるんじゃねえだろう」


 司春は固く拳を握りしめる。その瞳は晴天の草原と同じ色をしていた。


「うちの大将と姫さんに舐めた真似しやがって、黙ってられないんだよ。死んでも殺さなきゃ気が済まねえ」


 司春の低く地を這うような言葉は、声なき咆哮にも似て、ひたすらに勇ましく、輝いている。誰が聞いたとしても、蛮勇と笑い捨てるにはいささか眩しかった。


 夏却は障子の枠に身体を預け、息を切らして言った。


「風だ」


 至近距離で奇天と打ち合い、全身に傷をつけられ、夏却はようやく彼の攻撃の絡繰りを理解した。


 夏却が思うに、彼はもはや人ではない。

 魂は腐り、器さえ歪んだ、成れの果てだ。


 人間は誰もが心に猛獣を潜ませる。

 どんな善人も、内に棲む獣を理性や道徳の荒縄によって縛り付けているに過ぎない。

 ひとたびその獣に呑まれてしまえば、獣は人の皮という草叢を破り、たちまちに表へ飛び出してくるのだ。


 しかし、奇天が浅ましいのはそこではない。


 どんな命もたったひとりで生きることはできない。

 たとえ獣に呑まれども、人の心も確かに残っている。学び、思い、省みて、そうして人と交わって暮らしていく。


 それができないのは、ただ降って湧いた力に酔いしれ、溺れていくからだ。

 奇天が異形の力を扱うのは、獣の心すら通り過ぎ、ただ害を為す怪物になったためである。


 彼はもう、現世の熱に触れれば、火傷する。

 故に、見えぬ刃を振るうのだ。


「あいつ、風を使う。それでみんな太刀打ちできなかった」

「フン、そうか。目には見えねえ、剣でも防げねえと来た。どうしたもんかな」


 司春は事も無げにそう応えて、自分の顎に手を添えた。

 口では困ったように言っても、まったく恐れも不安もない。

 夏却はその広い背中を見つめ、心底嬉しそうに笑った。


「何、お前はおれが見込んだ男だぞ。最終的にはどうとでもなる」

「ハハ、あんたが名伯楽だといいが」


 軽口を叩き、司春は歩き出す。

 弧星児に支えられながら、夏却は声を張り上げた。


「勝てよ!」

「おう」


 司春の姿も見えなくなり、夏却はとうとう崩れ込んだ。

 深い呼吸で痛みを誤魔化しながら、未だこんこんと眠る主君の傍に座り込む。


 夜はまだ明けない。

 無弦は、遠い遠い日の夢を見ていた。

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