第10.5話

 油断したわけじゃない。

 だけど、トイレのドアノブに手を伸ばした瞬間。


 ぶりゅうぅっ! ぶりぶぶぅっ! ぶりゅっ、ぶりぶりゅぶちゃぶちゅぅ~っ!


 わたしのお尻は、出してはいけない音とモノを吐き出していた。


「いっ、いやぁっ! 見ないでえぇーっ!」


 ぬっちょりと重くなっていくパンツの内側。その感触を振り払うように、個室トイレに飛びこんで内側から鍵をかける。


 個室に閉じこもるわたしを襲う、下着に閉じ込められた不快感。それはお尻だけでなく身体中に絡みついてくるようで、


「……うっ、うぅっ」


 思わず涙がこぼれるほどだったけれど、今は泣いている場合じゃない。そのくらいはわかった。


 外でうんちをもらすなんて、小学2年生の夏祭り以来だ。

 あのときでもママにあきれられたし、パパはフォローしてくれたけど『かわいそうな子を見る顔』だったのはよくおぼえてる。

 パパにあんな顔で見られたのは初めてで、結構ショックだったから。


 あの日は家でもアイスを食べたのに、祭り会場でもかき氷とジュースをお腹に入れたのが敗因だったと後になって理解できた。

 それにイカ焼きと綿あめとりんご飴とベビーカステラを食べたのも、もしかしたら食べ過ぎだったのかもしれない。

 でも小2だよ? お祭りでハイテンションなるのは、誰だって同じでしょ!?


 お尻を支配する感触に、あの夜がよみがえってくる。

 おねだりしてまで買ってもらった浴衣を着て、パパとママと三人での夏祭りに浮かれていた幼いわたしが、一瞬にして地獄に落とされたあの瞬間に戻されるみたいに。


 あのときはなぜか、イケる気がしてたの。お腹ぎゅるぎゅるしてたけど大丈夫だって。でもダメだった。

 だけどその経験から、わたしはすでに学んでいた。

 だから今回は、とっても恥ずかしかったけれど勇気を出して、


「トイレ、いき……たい」


 来栖くんに伝えたの。


 彼ならわかってくれる。わたしのお腹が、もう限界なんだということを。そう信じたから。

 塾を出る前にトイレに行っておけばよかったけれど、外に出て歩いてる途中で、急激にぎゅるぎゅるって来たの。

 そうこともあるでしょ? 人間だもの、そういうことだってあるわ。


 そして彼は、信じた通りにわかってくれた。

 彼が近くのコンビニに視線を向けたときは、


(そこじゃない! できればそこはやめてーッ)


 音がね? おっきい音が出ちゃいそうなの。っていうか絶対出しちゃう自信があるから! そこはやめてほしいの、お願いします!

 でもこれ以上は耐えられない! 出口が耐えてくれないッ。コンビニでするしかないかもッ。


 そんな感情が渦を巻いたけど、もしかしてそれすら彼は理解してくれたのか、


「あのビルの裏、公園なんだ。そこまで歩ける?」


 そういってくれた。

 通学バッグを持ってくれて、そしてここまで腕を貸してくれたの。


 歩いている途中におならが出てたの、絶対気がついてたよね。でも、聞こえないふりしてくれた。嬉しかった。

 あんな状況だったのに、わたし、嬉しいって感じちゃってた。

 来栖くんの優しさが嬉しかった。優しくしてもらえて、嬉しかったの。


 だけどそんな嬉しさを奪い盗るように、パンツがせき止めてくれない汚滴おてきが溢れてしたたり、太ももや脚を濡らして靴にまでたままっていく。


 ぶびゅっ、ぶっ、ぶちゅっ


 っていうか、まだ出てくるんですけどぉ!?

 溢れたものの重さで、パンツがずり落ちそうになってる。


(ど、どうしよう!?)


 どうしようもないから、わたしは靴を脱ぐと大量のアレで重くなったパンツも脱ぎ、重くなったそれを右手でつまんでトイレに近づけて上下に振ると、重さの原因をそこへと落とした。


 べっちょっ……びちゃ、びちょっ……びっちょんっ!


(来栖くんに音が聞こえちゃう!)


 今さらといえば今さらなんだけど、わたしが一番気になったのはそれだった。すでに、出しちゃいけない音を聞かれているくせに。


 汚いのが水に落ちる音が鳴らないように、パンツを便器の水面近くまで持っていく。

 濡らす汚滴だけでなく、やけに温かいぬちょっとしたものまで手についたけど、音を立てるよりはマシに思えた。


(あんな音、彼に聞かれたくない!)


 というか、あれ?  やばい……これ、終わってる?

 音がどうとか、それ以前に終わってる?


 う、うん。っていうか、終わった……。

 わたし、終わったあぁー!


 せっかくお嬢様な雰囲気で高校デビューしたのに、全部台無しになっちゃう!


『あなた、見た目だけは女の子らしくて可愛いんだから、そこをかさないとね。むしろそこだけなんですから。

 同じ中学であの高校を受験するのは、あなたとヒナちゃんだけなんでしょ? 化けるチャンスよ! 最後のチャンスなの。わかりなさい? 受験の段階からちゃんと化けるのよ、わかった?』


 ママの言葉を信じて頑張ったのに、全部ダメになっちゃうの!?


 頭の中がぐるぐるする。どうしていいかわからない。

 身体からだも心も凍ってしまったようなのに、パンツを脱いだ下半身は、やけに温かくて気持ちが悪いまま。

 それはそうだ。べっちょり汚れたままなんだから……。


(はぁ、はぁ……気持ち、わるい……吐きそう)


 肉体的にではなく、精神的に追い詰められて気分が悪くなってきた。それにトイレの中のにおいが、きつくなってきたように思える。

 だけど、


「僕んち近くだから、タオルとか持ってくるね。すぐに戻るから、ここにいてね」


 ドアの向こうからの来栖くんの声に、わたしの気持ちがスッと軽くなった。


 安心した。入試の日、消しゴムを忘れたときみたいに、なんとかなるかも。


(きっと来栖くんが、なんとかしてくれる!)


 そう、思えたの。


 わたしの返事を待たずに、彼が走ってトイレを出て行く音がした。

 しばらく待って、


(もう……いない、よね?)


 外の気配はない。なんの音もしない。

 右手につまんだ汚れたパンツをふって、汚物を便器の中へ。ある程度落としてから、パンツを何度もトイレットペーパーで拭って、汚れた紙も便器の中に入れて水で流した。


 パンツは汚い色に染まったままだけど、これ以上はきれいにできない。

 難題をひとつ片付けて、少し落ち着いてきたかも。冷静になって辺りを見ると、個室トイレの床は、外と比べるときれいだった。

 むしろ汚れは、わたしのものだけ。


(ごめんなさい。あとでお掃除します)


 パンツを靴のそばに置いて、スカートとソックスも脱ぐ。下半身丸裸だけど、そうしないと身体が拭けない。

 わたしはトイレットペーパーで汚れを拭い、トイレに流していく。


 そういえば、通学バッグになにかあったかも。ハンドタオルとか。

 だけどあれは彼に預けてある。どうしたんだろう? もしかしてトイレの外にあるのかな。


 ドアに頭を近づけて外の音を確認。うん、なんの音もしない。誰かの気配もない。

 わたしは小さくドアを開け、目視もくしで外を確認する。


(大丈夫。誰もいない……)


 自分の通学バッグがあるかを確認すると、2つのそれがすぐそばに置かれていた。どうやら来栖くんのも置かれているっぽい。


 自分のは、目印をつけてあるからすぐにわかった。うさぎのキャラのラバーマスコット。

 隙間から手を伸ばしてバッグを確保かくほ。トイレの中に引き込むと、ドア閉めて鍵をかける。


 バッグの中にはスマホもあって、


(ママに連絡しなくちゃ)


 そう思った。


 叱られるだろう。きっと、とっても怒られるだろう。ママは普段は優しいけど、怒ると怖いからな。やだなー……。


 だけど、そんなこといってられない。塾の日は、ママが駅までわたしを迎えに来る。今日も来るだろう。

 だけどこんな、靴まで汚れた状態では電車に乗れない。ママに連絡するしかない。


(助けて来栖くん。こわいよ、はやく戻ってきて……!)


 心細い。彼にいてほしい。

 このときのわたしは『彼が戻ってこない』なんて、欠片かけらも考えなかった。

 その可能性だってあったのに、信じて頼りきっていた。


 と、そのとき。

 コンコン。ドアがノックされ、わたしの心臓が両肩と同時に跳ねる。


「白野花さん、いる?」


 く、くるしゅくんだあぁ~っ!


 心と身体からだに、温もりと安心が満ちていく。


「ごめんね、遅くなって。タオルとか着替え持ってきたから、置いておくね。僕、外で誰もトイレに行かないように見張ってるから」

 

 言葉が出ない。あまりの安心で、腰が砕けそうになる。

 もう大丈夫だ。彼がいてくれるなら、なんの心配もいらない。


 小さくドアを開けて、彼が持ってきてくれたバッグをさっと個室に引きずり込む。

 バッグの中には身体を拭うタオルや、ウエットティシュに着替え、消臭スプレーまで入っていた。汗の匂いを防ぐ制汗スプレーだったけど。


(このスプレー女の子用だ、誰のだろ。着替えも下着まである。これも女の子のだ。デザイン的にお母さんのじゃないよね。もしかして、彼女の……)


 わたし、なに気にしてるの? そんなの、今考えることじゃないでしょ。

 だけどこれが、来栖くんの『彼女さん』のものだったら嫌だな……。


(はぁ……なに考えてるんだろう。彼がわたしのために持ってきてくれたの、わたしのために用意してくれたの。それで十分でしょ)


 制服の上も脱いで、さすがにブラはそのままにしたけど、丁寧に身体を拭ってきれいにすると、持ってきてもらったものに着替える。


 触り心地でわかった、パンツは新品。洗濯での型崩れもないし。

 スカートとTシャツは、ちょうどいいサイズ。この服の持ち主は、わたしと似た身長と体型なのだろう。


(えっと……どうしよう。来栖くん、外にいるよね?)


 汚れたものは、ここに置かせてもらおう。テッシュってトイレに流しちゃダメだったよね、汚れたタオルで包んでおこう。

 このタオル、もう捨てるしかないよね。あとでちゃんと弁償しないと。それにお礼もして……はぁ、テンション下がるな。

 わたし、もしかして『どじっ子』なのかな? 自分ではちゃんとしてるって思ってるけど、ときどき失敗しちゃうんだよね。


 とりあえず身支度をすませて、外に出るために自分のにおいを嗅いだけど、嗅覚がマヒしてるのかよくわからなかった。


(きっとにおうはずだ。こんなの、来栖くんの近くにいけない)


 だけど、いつまでもここにこもっているわけにはいかない。


(あ、靴……)


 来栖くんが持ってきてくれた荷物に、靴とソックスはなかった。

 知らないんだろう、靴までびっちょりになるなんて。

 ううん……知らない方がいいんだ、こんなの。誰だって、こんな悲しみは知らなくていい。

 わたしだって知りたくなかったもん!


 深呼吸して落ち着きたいけど、できる場所じゃない。

 わたしは素足すあしのまま個室トイレを出ると、まず最初に手を洗った。それはもう、ゴッシゴシと洗いました。


 手洗い場に備えつけられていた石鹸がなくなるほど、これでもかというほどに洗ってトイレを出る。

 公園の入り口付近に来栖くんの姿を見つけて、嬉しくて駆け寄り……たかったけど、臭いが気になってムリ。

 だけど彼はわたしに気がつくと、


(な、なんで近づいてくるの!?)


「そこでストップ!」


 わたしの声に、彼の動きが止まる。

 あっぶな! それ以上近づかれると、絶対臭うって!


 いうべきことはたくさんある。特にお礼とか。

 だけどわたしの口が最初に発したのは、


「この服、誰の?」


 その疑問だった。


(彼女のじゃない、よね?)


 お願い、教えて、知りたいの。

 わたしは彼が答えをくれるまで、踏んだ小石の痛みにさえ気がつかなかった。



【おわり】


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これくらいなら、「カクヨム」は許してくれるでしょうか。

別にエッチなシーンはないですし、殺人やイジメのシーンのほうがマズいですよね? だから大丈夫だと思いたいです。


【小糸 こはく】2024.09.10

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その涙が、鈍感な僕のせいなら 小糸 こはく @koito_kohaku

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