The Dawn of Myth
棗真広
Rubicante
詩音は必死に走っていた。それも、上半身は裸、下半身は下着のみという街中を走るにはおよそ似つかわしくない格好で。ただ、恰好を気にするだけの余裕が詩音にはなかった。早く家に帰らなければという思いと、家に帰ると家の場所を知られるという考えとで混乱し、場所もわからず一心不乱に走っていた。
「おーい、待てよぉ」
後ろから軽薄な声と、下卑た笑い声が聞こえてくる。詩音はあのチンピラたちから逃げていた。正しく言うならば、逃がされていた。コンビニはすぐそこだからと油断したのがよくなかった。最近、治安が悪化しているのは知っていたはずなのに。最初はナンパの体で近寄ってきて、すぐに本性を現した。服をはぎ取られ、そして犯されたくなければ逃げろと強要される。捕まるたびに服を取られ、肌に傷をつけて甚振ってはまた逃がされる。次第に足は止まり、逃げることをあきらめてしまう。足の止まった詩音をチンピラたちは組みふせ、最後の下着を奪い取った。
「おい、俺が先だって」
「馬鹿、お前は最後だよ」
チンピラたちが言い争っている間、詩音はすべてをあきらめ空を眺めていた。もう助からない。絶望し、早く殺してくれと死を願ったその時、一筋の流星が空をかけた。
「あ?なんだ?」
1人のチンピラが間の抜けた声を漏らす。その流星は詩音の頭上で動きを止めると、すぐ近くに降ってきた。流星に見えたそれは全身に炎を纏った1人の男であった。男が槍を地面に突き刺し三点着地をすると、アスファルトはひび割れ、槍の刺さったところは溶けてしまう。これにはチンピラも驚いたようで、詩音から離れ男と距離を取って観察している。立ち上がった男の眼光は鋭く、目だけで射殺さんとする迫力があった。男はその煌々たる輝きを放つ槍をチンピラへと向け、顔は動かさずに詩音にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「悪人だな?」
「はい……」
詩音がそうつぶやくや否や、地面にひびが入るほどの踏み込みで一息のうちにチンピラへと詰め寄り、胸を槍で貫く。それを見たもう1人のチンピラが懐からナイフを取り出すよりも早く、その喉を掴み壁に押し当てると2度3度と顔面を殴りつけ、喉から手を放すころには完全に動かなくなっていた。最後に一人は完全に戦意を喪失しており、尻餅をついて後ずさりながら命乞いをしている。
「た、たすけて……お、おかね、おかねなら……」
男は表情をピクリとも変えずに、最後の一人の胸に槍を突き刺す。詩音に質問してからわずか15秒の殺戮劇であった。男はチンピラから槍を引き抜くと、詩音のもとへ歩いてくる。そして、着ていたジャケットを詩音へと投げる。
「あ、ありがとう……ございます……」
先ほどの惨劇を思い出し、しりすぼみになってしまう。男は気にも留めず帰っていこうとする。
「待って!な、名前を……」
その男はこの時初めて詩音と目を合わせた。男はすぐに顔を戻すと小さくつぶやいた。
「善人に名乗れる名前はない」
それだけ言うと夜空に槍を投げつけ、消えてしまった。
詩音はあの男の目から感じた、どこか寂しそうな、それでいて申し訳なさそうな雰囲気が忘れられなかった。
息を吸う。思いっきり、少し肺が痛くなるぐらいに。そして吐く。わずか少しの空気も肺に残さないよう。呼吸に意識を向け、余計な情念を削ぎ落とし、欲を心から締め出して、心の中を空にする。
そびえたつ大樹の根のごとく下半身を固める。少しの揺らぎもないように、わずかな歪みもないように。背筋を伸ばし、再度呼吸を整える。的を見据えると、弓を目いっぱいに引き絞る。聞こえていた鴉の声も、風の音も、道路を走る車の音ですら消え去り、無音の中にて弓を引く。視界はぐぐぐっと狭まり、眼前の的ただ一つ。それ以外はもうすべて黒く塗りつぶされていく。ギチッチッと弦が張り詰め、引き千切れんばかりに伸びきった頃、ふっと離れが出る。
風を斬り裂き、空を貫き、的に一直線に飛んで行ったその矢はズバンッという勇ましい音を上げて的を射抜いた。鉄石相克して火の出る如くと言わんばかりの矢の勢い。肉ではなく骨を射る、まさにそんな射であった。
射場にはキュッという弦音の美しい余韻が響き渡り、悠牙は琳琅璆鏘として鳴るじゃないかと悦に浸る。この三千世界のどこに、俺よりうまく弓を引けるものがいるだろうか。天よ、見よ。この美しき射を。地よ、震えよ。この心地よき弦音に。あぁ、恐ろしきはわが天賦の才能。斯様な射を他の誰ができるというのか。十分に自賛し、さすがにもうよかろうというところで射場を後にした悠牙は、友人がこちらを見るのに気づいて声をかけた。
「どうだ?今のはなかなか良かっただろう」
そういうと友人の零はあきれた様子で肩をすくめて見せた。
「良いも悪いも、変だったよ」
確かに悠牙はしばらく射場に残ってはいた。それこそ、大会だと注意されるくらい残っちゃいたが、今は大会中じゃあ無いしましてや自主練習の間なのだから、多少ふざけたってかまわんだろう。この友人のほかにだれが、注意などという無粋なことをすると言うのか。それに自分でも褒めちゃうくらい本当にいい射だったのだから。
「変?射はよかっただろ?」
そこだけは、はっきりさせねばなるまい。これを譲るわけにはいかんのだ。
「そうだな。良かったよ」
面倒くさく思ったのか適当に同意をする零。まぁ、それでも良いと思ったことに変わりはないのから、俺の勝ちだろう。
「最初からそう言えばいいんだ。まったく、素直じゃないな」
「素直な僕の感想を言うなら、今のは変だよ」
いまだに変とか言いやがる。射そのものはどこも変じゃあなかっただろうに。大体、文句を言う零はあの射ができるのか?仮にあの射をして、誇らずに、余韻に浸らずにいられるのか?いや、いられるだろうな。あの零とか言う男は変に澄ましていやがるから。むしろ、いい射をしてのけた後は、普通ですよみたいな顔して射場を退くのが格好いいと思っている。そんな男だったな。
「さて、そろそろ片づけをしようか」
「的の片づけは俺がやろう」
「僕も手伝うよ」
「いや、俺1人で十分」
俺1人で片付けられる量だった。正直、1人で終わらせてしまうほうが気が楽で好きだった。
「でも、的の片づけ大変でしょ?2人でやった方が楽じゃない?」
「いいや、結構」
先に片づけ始めた悠牙を見て、諦め半分呆れ半分で放っておくことにした零は後輩の奏音に片付ける場所の指示を出す。
あっちに行ってこっちに行ってと片づけを進めていたが、すでに13時目前となっており、このままのペースじゃ着替える時間なんかなさそうだった。急いで的を拭き、さぁ土を均そうと安土に戻ったところで、おやどうもおかしい。すでに土が均されていてあとは水をかけるだけといった具合だった。誰ぞこんなことをしたかなと周りを見れば、今にも水をかけんとホースをこちらに向けている奏音がいた。
「君が土を均したの?」
そう聞くと奏音は安土に水をかけながら答えを返す。
「はい。なんか戸次先輩が『僕が手伝うと怒るから代わりに手伝ってきて』って」
「あぁ、零が」
まったく、何というやつだ。あれでもこの俺の友人か?まったくもって俺のことがわかってないじゃないか。零に手伝ってもらって怒るなんて、そんなことするわけないとは言い切れないけども。
「水をかけるのは俺がやるからいい。先に着替えな」
「いや、でも、戸次先輩が『自分でやるとか言うだろうけど気にせずやっちゃって』って」
「ほう、零が」
まったく、すべてお見通しとでも言いたいのだろうか。この程度俺1人で十分なのだから俺にやらせておけばいいものを。
そもそも、集団行動というやつが苦手なんだ。なぜ俺が周りに合わせて動かねばならんのだ。周りが俺に合わせればそれで済むはずだろうに。今回だって俺が的を片付けるのだから他の所を2人がやればよかった。いや、他の所も終わってこっちを手伝っているのだろうが、こっちは俺に任せればいいというのに。
あいつは何でも2人3人で手分けしてやらせようとしやがる。確かに効率はいいのだろうが、人間には合う合わないというものがある。俺は零以外の部員とは仲が良くないのだ。というかちょっと仲が悪いまである。だから、あいつの指示通りに協力してやろうとするとどうもぎこちなくなる。俺と零のタッグなら、零が俺の動きに合わせられるからすごくやりやすいのだが、ほかの部員だとそうはうまくいかない。1人でやりたいのだ、俺は。
「終わったんで戻りましょう?先輩」
気づけば、水はもうかけ終わっていてホースも片付けられている。
「うん、戻るとしよう」
そういうと、更衣室に足を向けた。
「そういえば妹さんにプレゼント渡せました?」
そうだった。妹の誕生日のプレゼントを奏音に選んでもらっていたのだ。なんか、二つ折りのちっこい財布みたいなやつ。2千円くらいで価格帯もちょうどよく、女の子のプレゼント選びを相談するのに最適な相手だった。
「めちゃくちゃ喜んでたよ」
「それはよかったです。今年で10歳でしたっけ?」
「今年で11になるね」
プレゼントをあげたらそれはもう喜んでいた。本当に俺が選んだのか怪しまれたぐらいだ。いやまぁ、最後に決定したのは俺なので、俺が選んだと言えなくもないが、選択肢を出してくれた奏音に悪かろうと正直に告白した。なんか言われるかもと身構えていたが、貰い物に文句を言うような子ではなかった。それどころか奏音に会って直接お礼を言いたいとせがまれたくらいだ。
「いつか、直接会ってお礼が言いたいってさ」
「えー、めっちゃいい子じゃないですか」
「そうなんだよ、めっちゃいい子なんだよ。よくわかってるじゃない」
そう、千尋はめちゃくちゃいい子なのだ。めちゃくちゃいい子だし、かわいいし、最強の妹すぎてもう、お兄ちゃん心配だわ。それに、千尋がいい子だということを見抜くとは奏音もなかなかやるな。プレゼントを選んでくれた時から薄々感づいてはいたが、審美眼というやつが優れているのだろう。
「じゃあ、いつか部活休みの日に会いに行こうかな」
「まじ?ありがとう」
「それにしても、妹さんのこと大好きなんですね」
「そりゃあ、妹だからね」
この子は何を言っているのか。妹のことが嫌いな兄などいないというのに。
「じゃあ、もし妹さんに彼氏とかできたらどうします?」
「もし彼氏ができたら、か……」
なるほど、なかなかいい仮定だ。いや、あんないい子なんだからきっと仮定に収まらず、いずれは現実になってしまうのだろう。千尋にもいずれ彼氏が、彼氏が、彼氏、つらいなぁ。なぜ、どこの馬の骨ともわからんやつに千尋を任せられるのか。
「いや、やっぱ無理だな。彼氏なぞ許さん」
「あぁ、やっぱりだめですか」
「うむ、駄目だ。少なくとも千尋に十分は判断力が備わるまでは」
果たして千尋が十分に成長して判断力が備わった時、俺は妹の彼氏を許せるのか?というか、俺が許す許さないとかなのか?妹の交際関係に兄が口を出して、首を突っ込んで良い物なのか?わからぬ、実にわからぬ。これは難問だな。
「この人だったら許せるみたいな人はいるんですか?例えば戸次先輩とか」
ふむ、零か。確かにあいつは頭は切れるし、生活力もある、多少のことでは揺るがない精神力もあるし、運動神経もいいから喧嘩もそれなりに強いだろう。ただ、
「妹の彼氏が親友ってちょっと嫌じゃないか?」
「あぁ、確かに」
もし千尋が彼氏を紹介するとか言って零を連れてきたら、そんなの大喧嘩になるに決まってる。というか、それまで零から何も言われてないほうがキモ過ぎる。まぁ、あいつは友人の妹に手を出すような奴じゃないが。年上がタイプだしな。
更衣室に入ると零がゆったり着替えているところだった。
「随分と遅かったじゃないか」
「世間話に花が咲いてな。満開だった」
頭の回転は速いし、知識量も多い。定期テストでは基本満点を取っている。暇なときに送ってくる画像を見る感じだと、自炊は好きみたいだし、部活の様子を見ていると、掃除が得意みたいだ。時間はきっちり守る方だが、人の遅刻には優しい。大会での様子を見てると、強いプレッシャーがかかる場面でも動じずに自分の射ができるタイプだし、逆に油断をすることもない。そんで体力測定の結果を見る感じ、めちゃくちゃ運動神経がいい。
このスペックでいて、驕らず謙虚で心優しい。少し盛りすぎじゃないか?勝っているところが1つもない俺が偉そうにしているのは、まるでバカみたいじゃないか。実際バカなのだが、まぁ、弓道だけは俺のほうがはるかにうまいからな。勝っているところが1つもないってことも無いか。
「急に固まってどうした?」
「あぁ、いや、何も。急いで着替えようか」
適当に道着と袴を脱ぎ、カバンに突っ込む。カバンから取り出しておいた制服をさっと身に着けるともう外に出る準備ができた。一方の零はいまだにちまちまと袴を畳んでいた。
「毎日畳んでるのえらいな。俺には面倒でできねえや」
「悠牙と違って僕には才能が無いからね。こんなところまで気を配るしかないんだよ」
なるほど。そういう理屈か。道場の掃除を丁寧にぴっちりやるのもきっと同じ理由なんだろう。本当に人間ができている。茶色の短髪に泣きぼくろ、身長も170cm前半と低くはなく、それでいて筋肉質な体形ではありながら、あまりごつごつとした印象はない。なぜこいつに恋人がいないのか。あまりにも完璧超人すぎるからだろうか。人は完璧なものを見ると自然と忌避感を覚えるというがそれと同じか。いや、多分、年上がタイプだからだろうな。同年代の女子に興味ないって言ってたし。
零はきれいに畳んだ袴をそっとカバンにしまうと立ち上がった。2人並んで1階に降りると、零を待っている間に着替え終わっていたようで奏音が暇そうに待っていた。
帰ろうとしたその時、何とも言えない感覚が首筋を通り過ぎた。悪寒とも言い難い、さりとてよい感覚でもない。この感覚の正体を探るため、きょろきょろとあたりを見回してみるが、何のヒントも得られない。
「悠牙、どうした?」
背筋を通ったその感覚を無視するわけにもいかず、零への返事もしないままにあたりを探る。その感覚があったのは一瞬、一度きり。ただ、その一瞬に悠牙の心をつかみ、無視させぬだけの力があった。悠牙は五感を集中させ、いまだ見えぬ何かに備える。その時、木々がざわめき一斉に鳥が羽ばたいた。それを見た悠牙は気を引き締め、身構えた。さっきのように何か感覚があったわけではない。悠牙の大事なものが脅かされる。それを予感がした。
まるで悠牙への答え合わせかのように、3人を強い揺れが襲った。言葉にならない声を漏らす。言葉を紡ぐ余裕などなかった。3人して地面に倒れ込む。これか、これなのか。悠牙は確信した。自分の感じた何かはこの揺れであると。
強い揺れの中、どうにかこうにか体をおこし、周囲を見回す。零は地面に倒れて動けずにいて、奏音も同じく。1人混乱する中、揺れが一層強さを増し、少し起こしていただけの体が吹き飛ばされる。それは完全に倒れ込んでいた奏音も同じだったようで、吹き飛ばされた体をどうにか受け止める。奏音の体は力なく、その体重を俺に預けている。死、最悪の想像をしたが違った。呼吸はある。
しかし、安心するだけの余裕はなかった。強い揺れにさらされ続けたせいか、だんだんと呼吸が浅くなっていく。肺が膨らんでくれない。心臓の鼓動も早く、激しく痛む。急激に強い眠気のようなものが襲ってきた。うまく物が見えない。うまく物を考えられない。体が熱い。四肢ががくがくと震える。言うことを聞かない腕をどうにか伸ばし、奏音を抱え込む。そして意識を手放した。
目を覚ますと、弓道場にいた。なぜここに?とりあえず状況を把握しようと周りを見ると、すぐ近くに奏音がいた。そこで思い出した。何があったかを。スマホを取り出して時間を確認すると5分ほどしか経っていない。具体的な時間は憶えていないが、大体5分くらいだろう。
「零、奏音、大丈夫か?」
いまだ倒れたままの2人をゆすって起こす。先に目を覚ましたのは零のほうだった。
「おはよう、悠牙」
「もう昼過ぎだよ」
「え?というかなんでここに?」
俺と同じで寝ぼけていたため頬を軽くつねる。
「痛っ」
「起きたか?」
「うん、たしか、地震……奏音は?」
まだ目を覚まさない奏音のほうに視線を向ける。眠りが深いほうなのか、なかなか目を覚まさない。呼吸はしているから大丈夫だとは思うが、ここまで目を覚まさないとさすがに心配になってくる。
「まだ起きないのか……さっきの地震は何だったんだ?」
「わからん。そもそもあれが地震だったのかどうかすらな」
そういうとスマホの画面を零に見せる。
「何の速報もなければ警報もない」
「あれだけ大きければ何かしらの警報はあるはずだよな」
「うん。それに周りを見たらわかるが、あれだけの揺れにしては被害が小さすぎる。あの揺れで地面に物が散乱してないってのはどうもおかしい」
弓道場の中は気を失う前に見た光景と何1つ変わってはいなかった。床に物が散らばるわけでも、ガラスが割れるわけでもない。人が気絶しちまうような揺れにしては被害が小さすぎる。弓道場が特別なのかとも思ったが、弓道場の外を見てもいつもと同じ風景が広がっている。じゃあ、俺ら3人がおかしいのかとも思ったがSNSを見る限り、あちこちで同じような被害が出ている。
「ん……せんぱい……?」
振り返ると奏音が目を覚ましていた。だがそれよりも見るべきものがあった。目を覚まし体をおこした奏音、その後ろで仁王立ちをする巨大な黒鎧。普段と変わらぬままの弓道場の中で明らかにそれだけが異質だった。呆ける頭をどうにか動かし、声を張り上げる。
「奏音ッ!後ろッ!」
「え?」
振り返ったまま固まってしまった奏音を引っ張り起こし、背中で隠す。
「せ、先輩。あれ、あれ、なんですか?」
「わかんない。わかんないけど、味方ってことはないでしょ」
黒鎧をガンと睨み付け、つぶさに観察をする。身長は2mくらいだろうか、肩幅もかなり大きい。右手には槍。俗に馬上槍と呼ばれる奴だろう。騎士が持っているイメージがある。左手には盾。多分ラウンドシールドというやつだ。これも騎士が持っているイメージがある。騎乗していないのに騎士と呼んでいいのかわからないが、おそらく黒騎士というやつだろう。全体的に黒で統一されていて、見るものに威圧感を与える。
ただ、1つ気になるのはこの鎧の動きがあまりにも少ないことだ。兜はこちらを見据えていて、鎧共々まるで動く気配はない。さてはこいつ人が入っていないのではないか。そんなバカげた考えが浮かぶくらいには非人間的である。
「悠牙、あれはなんだ?」
「俺が知っていると思うか?」
零は道路沿いまで周囲の様子を探りに行っていたが、どうやら様子が変だと気づき戻ってきたらしい。
「零、どうする?」
「そうだな、まずは距離を取ろうか」
黒騎士からは目を離さず、じりじりと後ろに下がり距離を取る。2m、3m、まるで動く気配がない。
「うごかないな。あれ、もしかして中身は空洞か?」
「俺もそれは考えたが、鎧ってそれだけで自立しないだろ」
「たしかに。わかることは何かある?」
「あっちはフル装備でこっちは丸腰」
「逃げ一択だな」
自分よりもでかい鎧が武器まで持っているのだからこちらからアプローチをすると言う選択肢はなかった。
「逃げ一択……見逃してくれるといいんだが」
後ろに下がって10mほど距離が開いたころ、踵に何かが当たった。振り返ると、何があったのか奏音が地面にうずくまってしまっていた。どうした?そう声をかけようとしたその時、零がただならぬ大声を上げる。
「悠牙ァッ!!」
反射的に黒騎士を見ると、黒騎士はこれまでの沈黙がまるで嘘であったかのように、殺意を滲ませこちらに向かってきていた。間違いなく殺しに来ている。その相手は俺だろう。やはり逃げ一択。だが、奏音はうずくまったまま。この子を抱えて逃げるのはあまりにも無謀だ。奏音がいくら軽かろうと俺にはそんな筋肉はない。たたかうもダメ、にげるもダメ。奴はおそらくあの槍で俺を殺しに来る。避けるか?事態が好転するまで避け続けるか?奏音がいるから後ろに下がって避けるのはできない。左右に避けると奏音を狙う可能性があるからダメ。そうか、やはりそれしか残っていないのか。俺は足を前に踏み出した。
「悠牙?」
俺は奏音を傷ついて欲しくなかった。それ以上に、零に傷ついて欲しくなかった。それはそれとして俺も怪我なんかしたくなかった。だから選択肢がなかった。あの黒騎士は俺を殺そうとしている。その前はまるで動く気配がなかった。あれは俺を殺すために動いたのだ。黒騎士はもう目の前。あぁ、怖い。足がすくむ。心臓も震えている。だが、これでいい。俺、零、奏音。3つ選べないなら1つ捨てるしかない。
「それは違うぞ!悠牙!」
零が駆け寄る。だが、その手が届くことは無かった。黒騎士は手に持った槍で一切の躊躇なく悠牙の胸を貫いた。ずんとした衝撃の後に、胸が熱く感じる。黒騎士が槍を引き抜くと、支えを失った俺の体は力なく前のめりに倒れた。四肢が熱を失うのを感じる。自然と瞼が落ち、零の言葉も理解できない。零は賢いからきっとこの鎧から逃げ切れるだろう。そうでなくては困る。俺が命を懸けたのだから。体が地面に沈んでいくように感じる。死というのは案外心地いいのだな。千尋、どうか健やかに。俺は完全に意識を手放した。
深く深く沈んでいる。実際に沈んでいるのか、そう感じているだけなのかはわからない。それどころか、今目を開けているのか閉じているのか、生きているのか死んでいるのか、それすらもわからない。ただ、どことなく気持ちいい。体の中がポカポカとする。頭の先から爪の先まで熱が伝わっていく。
記憶が確かなら俺は死んだはずだが、この感覚は死という言葉のイメージとはかけ離れているように感じる。俺は今どこに居て、どこに向かっているのか。わからない、わからないが何故か満足感だけは感じられた。
背中に何かが当たる感覚があった。どうやら沈んでいるという感覚は正しかったらしい。目を覚まし体を起こす。自らの意思で死んだとはいえ、いまだ体があるとやはりうれしく感じるものだ。さて、ここはどこなのだろうか。病院にしては高級感に溢れすぎている。かといってお墓という感じもしない。まるで高級なホテルのエントランスという感じだった。きょろきょろと周りを見ていると人がいるのに気が付いた。
「やぁ、立花悠牙君」
目が合うと声をかけてきた。名前を知っているということは知り合いなのだろうが見覚えはない。というか、おそらくこの目の前の人は人間ではない。なんせ額から角が生えているし、蝙蝠みたいな羽も生えている。そして悪魔のごとき美貌を兼ね備えている。
「どうも、はじめまして……?」
返事をすると、男は目を見開き動かなくなった。自分から声をかけておいて、返事をされたら驚くというのはなかなか失礼なのではなかろうか。イケメンだからかそこまで不快ではなかったが。
「話せるんだね?」
「御聞きの通り」
男は少し考えたのち、机の中から鍵束を取り出した。
「話せるのなら都合がいい。いきなりで申し訳ないが、君には地獄の王に会ってもらう」
それだけ言うと、男は先にすたすたと歩き始めてしまった。面食らったがここに置いて行かれるのもまずいので急いでついていく。
「地獄の王に会うって……何?ここ地獄なの?」
「御覧の通り」
「いや、見てもわからなかったから聞いたんだけど」
「意外と居心地いいだろう?」
「想像よりは。客だからってやつか?」
「まぁ、そんなところかな」
並んで歩いていくと大量の扉が並ぶ部屋についた。だだっ広く、中心を取り囲むように扉だけが置いてある。ただそれだけの部屋。
「ここから、その地獄の王がいるところに行くの?というか君は誰?」
男は鍵束の中から鍵を探しながら答える。
「あぁ、名乗ってなかったな。私はマレブランケ。この地獄の案内人をしている」
「マレブランケ?1人に見えるけど」
「案内に10人は多いだろ?それに、名前を借りただけで本物ではないよ」
確かに創作物と名前が同じというだけで同一視するのはおかしなことだ。悪魔に諭されるとは。マレブランケは部屋の中で一番大きなドアを開けると振り返りもせず進んでいく。案内人を自称する割には案内される側のことをまるで考えてなさそうだ。
ドアの先、長く広い通路を進んでいくと、これまた大きな部屋に出た。さっきの扉の部屋の数倍はある、広間といっても差し支えのない大きさだ。
「来たか、マレブランケ。それに、悠牙」
部屋の奥で椅子に座っている大男がその体にふさわしい大声でこちらを呼ぶ。あまりの声の大きさに体がビクッとなるが、マレブランケは慣れているのか何の反応も示さない。
「ずいぶん長いこと待った」
大男は何か昔を思い出すそぶりを見せながら席を立った。するとその身長がみるみる縮み悠牙と同じくらいになったではないか。
「あぁ、身長が」
思わず言葉にしてしまう。
「うん?あぁ、威厳は大事だからな」
それだけを言うと、どこかへとすたすたと歩きだしてしまった。見た光景だぞと思いつつ、地獄の王とやらの後ろをついていく。どうやら地獄の連中は言葉足らずなやつが多いらしい。
「さて、悠牙よ。お前は地上に帰ることを望むか?」
「うん?それは、生き返る、ということ?」
「生き返る……いや、生まれ変わるといったほうがより正しいだろう。人ではなくなるのだから」
「人ではなくなる?」
「うむ。追々わかる」
人ではなくなるとはどういう意味だろうか。わからないが、ヒト属への執着などたいしてない。
「それでも俺は地上へ帰りたい」
「かつてないほどの苦痛を味わい、十中八九この地獄からすら消えるとしても?」
話が変わったな。やはり何のリスクもなしに生まれ変わるというのは都合が良すぎるらしい。自らの選択で死を選んだとはいえ、何の後悔もないというのはうそになる。正直、後悔だらけだ。千尋のことが心配だし、酒の味も女の味も知らない。そんな状態で死んじまったのだから後悔だらけだ。それに、零は天国行きだろうから二度と会えないというのもさみしい。というかなぜ俺が地獄行きなのだ。善人とは言えないが、悪人らしいエピソードもないというのに。
「さて、どうする悠牙。もし、帰らないのなら、ここでマレブランケと働くという選択肢もあるがね」
なるほど。正しく地獄送りというわけではなさそうだな。だが、マレブランケと働くというのはたいして魅力的に感じない。なんでこんな言葉足らずヤローと働かねばならんのだ。
「さぁ、今、ここで、選択をしたまえ」
気づけば古びてボロボロな門の前に来ていた。
色々うだうだと考えてはいたが、心は決まっていた。零と千尋にもう一度会いたい。ただそれだけでリスクを背負うには十分だった。
「俺は地上へ帰る」
「良し。そうと決まれば、1つ説明しておかなければならないことがある。それは、お前に地上へ帰る力を与える物がどういった物か、ということだ」
地獄の王は、今までのどこか優しさを感じるような雰囲気から一転、王と呼ぶにふさわしいだけの覇気を放った。
「天国の王が創り私自ら権能を刻んだ槍、パラガトリオの槍。それがお前に大いなる力を与える」
「パラガトリオの槍……」
「そうだ。1つ昔話をしよう」
そういうと地獄の王は昔話とやらを語りだした。
かつて、自らの複製体であり創造物であった天翼族との戦いで敗れた天国の王は、親殺しを創り出した罪で地獄へと堕ちた。天国の王は自分の国へと帰るため、地獄に大穴を開け煉獄へと移動したが、肉体無き状態で無茶を行った反動で煉獄山の頂上にて倒れてしまう。
天国の王にとって幸運だったのは、善心を取り戻した天翼族が、煉獄山の頂上に地上楽園と呼ばれる楽園を築き上げており、そこが煉獄にあって最も天国に近いところであったことだ。天翼族の献身的な介抱の甲斐あって力を取り戻した天国の王は、煉獄山頂上に天国へとつながる大穴を開けた。しかし、その余波で地上楽園は壊滅してしまった。
天国へ帰りつくと、天国にしかない特別な鉱物で槍を創り、その槍でもって地上の天翼族を皆殺しにした。そうして集めた天翼族の魂を槍へと込めるため、天国の王は自らの持つ同化の権能を槍へと刻みこんだ。天翼族の魂によって強化された槍を持って煉獄にやってきた天国の王は、地獄の王に2つの権能を槍へ刻み込むように頼み込んだ。
地獄の王は、天国、地上、地獄の3世界を渡る権能と地獄の炎を操る権能を槍へと刻んだ。1つ目の権能は煉獄に空いた大穴を閉じるために。2つ目の権能は槍を外敵から守るために。天国の王はこの槍を、煉獄に開けてしまった大穴を閉じるための鍵にしようとしていたのだ。地獄の王が権能を刻むことを了承したのも、この穴が理由であった。煉獄の大穴のせいで、地獄には聖気が、天国には邪気が漏れ出ていた。煉獄の大穴はこの槍によって閉じられたのでした。めでたしめでたし。
「斯くして創り出された槍がパラガトリオの槍である。この槍に触れることで槍との同化でき、権能を得て地上へと帰られる」
「もし、同化が完了する前に手を放してしまったら……?」
「魂が崩壊し、消えてしまう」
「つまり気合で握り続けろということだな」
「まぁ、そういうことだ」
ただそれだけでいいのかと安心した。もっと、槍を屈服させろとか言われるかとも思っていたが、槍を握るだけならまだ何とかできそうだ。
「さぁ、覚悟が決まればこの扉をくぐるといい。この先が旧地上楽園だ」
深呼吸をして、自らの意を決する。ひとまず扉からまっすぐ前に歩いていくと、その先にあったのは煌々と輝く一振りの槍であった。
その槍に目を奪われながら近づいて、いつしか動くことはできなくなっていた。目を離すことすらできない。見惚れるとも、命の危機とも違う。圧倒的なまでの格の差。俺とこの槍では、存在の格が違いすぎた。経験したことはないがおそらく大自然に圧倒されるというのはこれなのだろう。気が付けば、俺の体は自然と後ずさりをしていた。
どっと疲労を感じて座り込む。ここの王はあれに触れろというのか。無理難題にも程がある。あんなもの、こちらが一方的に焼き尽くされて終わりではないか。
あれは俺が触れていいような、そんな軽い存在ではない。かつての自信満々であった自分を失い弱気になる。あの槍を見ていて確かに美しさも感じるがそれ以上に恐ろしさと畏れ多さを感じる。まるで近づこうという気にならない。俺なんかにはどうすることもできない。立ち上がり、来た道をトボトボと帰り始めた。
ゆっくりと肩を落として帰っていく。周りの景色を見る余裕なんてない。地面しか見ちゃいない。帰る足の進みは遅く、そしていつしか止まった。振り返ってみる。槍はまだそこにあった。変わらず動かずそこにいた。目を閉じても槍の存在は感じる。確かにそこにある、そう感じる。
ふと馬鹿馬鹿しいアイデアが浮かんだ。あまりの馬鹿らしさに自然と笑ってしまう。そんなことやるわけがない。やらない。やりたくもない。頭はそう叫んでいる。こんな馬鹿なことをやるのは能天気で考えなしの阿呆だけだ。だけどいくら考えてみたって、いくら理由をつけてみたって、このまま帰ってウジウジ過ごすようなクズになるよりはずっとマシだった。先のことを考えられるだけのクズになるくらいなら、無鉄砲で考えなしの誇りある阿呆になる。馬鹿なアイデアを思いついた時にはもう心は決まっていた。
目を閉じたまま、鼻から思いっきり空気を吸う。胸を反って、ちょっと苦しくなるくらい。そして口から勢いよく吐いた。肺が空っぽになるまで。覚悟を決めると目を開け槍に向かって走った。全速力で、腕を必死に振って、地面を全力で蹴って。みるみる槍に近づいていく。体を動かせる限界はもうすぐそこだった。覚悟を決めるために腹の奥底から気合いの声をあげて、跳んだ。
自分の意思じゃ体を動かせなかった。だから跳んだ。動けなくたって近づける。肉体がない分軽いのか、自分の想像より飛んだ。心臓は早鐘を打っているし、歯はガチガチと震える。怖くて仕方ない。やらなきゃ良かったと後悔もしている。でもこれはきっといい後悔だ。後で笑える後悔だ。自然と口角は持ち上がっていた。体で風を切って、ぐんぐん槍に近づいて、それでも槍は未だ遠くて。届かない。そう思った時、地面に足がついた。
ただでさえ不慣れな走り幅跳びをして、それでいて地面は硬くてでこぼこで。うまく着地できる訳なんてなかった。でもそれが幸運だった。勢い余って転がりぐちゃぐちゃになって、訳もわからなくなりながら、あっちこっちを打って、土まみれになりながら。そんな中、確実に槍が近づいているのは感じた。頼むどうか届いてくれ、触ってくれ。そう願いながら腕を伸ばした。勢いが死んで止まると同時に、祈りの手は槍を触った。
マレブランケはあの青年に心を捕らわれていた。彼の存在は地獄の王によって予言されていた。だから、その姿を見たとき特別驚きはしないだろうと思っていたのだが、まるっきり思い違いであった。彼の青年と目が合った時、マレブランケの心は郷愁にかられた。
もうどれほど前のことかわからないが、マレブランケが地獄の王に初めて会い、その力の一端を分け与えられた時のこと。精神を得て初めて見た地獄の王の姿は神々しく、それでいて不気味で、威風堂々としていた。その時のマレブランケは目の前の男が誰なのかも、そこがどこなのかもまるでわからなかったが自然と首を垂れていた。
なぜその時のことを思い出すのかはわからない。だが、考えられるのは、その青年の魂の在り方によるものだろう。その青年の魂は精神によって堅牢に保持されており、そのおかげでこの地獄にあっても思考でき、人の形を保って会話できていた。
このようなことができるのは、マレブランケをはじめとする悪魔か、世界の王、つまり地獄の王と天国の王だけである。もっと厳密にいうならば、悪魔たちは地獄の王によって力を分け与えられているため、自らの力だけで精神を保持できているのは世界の王たる2名のみである。
マレブランケは残念に思うのだ。あの青年はここで消えてしまう。あのパラガトリオの槍というものは、地獄の統治者の1人であるマレブランケでさえ触れることすら叶わぬもの。それだけの格を持つ代物である。近づけるだけでも十二分にすごいが、もし触れることができたのならただの人間にしては破格の偉業だ。だが、その先は地獄の王であっても怪しい。地獄の炎に精神を焼かれながら、槍との魂の同化など、地獄の王ですら消滅の危険がある。
マレブランケは悲しく思う。あの青年に2度と会えぬことを。マレブランケは残念に思う。あの青年を失うことを。
熱い 痛い 苦しい
その3つが悠牙の心を埋め尽くし、そこに思考する余地などありはしなかった。地獄の炎が悠牙の精神を焼き、魂を焦がし、そして槍がそれらを修復する。悠牙に時間の感覚などすでになくなっていた。刹那のうちに与えられた苦痛のようにも、千秋を経て与えられた責苦のようにも感じていた。悠牙が槍から手を離さなかったのは、精神の淵に僅かに残された、絶対に離さないという覚悟によるものであった。しかし、その覚悟という名の希望も、悪夢の如き劫火に焼き尽くされんとしていた。
「痛みを受け入れよ。心から追い出そうとしてはならぬ。精神で拒絶してはならぬ。心を空にし、その炎を受け入れるのだ」
誰が話しているのか、どんな声なのか。まるでわからなかったが、内容だけはスッと入ってきた。悠牙は呼吸に意識を向ける。心の中から思考を追い出し、情念を捨てて、心を空にする。
「そうだ。それでいい。その炎はもはやお前の一部なのだから」
空となった心に炎が入り込む。その炎は魂を内側から焼いたが、それと同時に五体の隅々まで新たなる力を行き渡らせる。苦痛は次第に収まり、終にはその苦痛を微塵も感じなくなっていた。閉じていた瞳を開けると、その手には槍が握られていた。悠牙は立ち上がり、一息のうちにパラガトリオの槍を地面から引き抜いた。
引き抜くや否や槍から怒涛の如く炎があふれ出し、辺り一面を炎海へと変貌させた。槍はその輝きを一層強め、高温を放ち空間をゆがませる。悠牙は穂先を地面に向けると勢いよく突き刺した。すると、地表を埋め尽くしていた炎が槍へと集まり、槍の中、延いては悠牙の体の中に吸い込まれていった。この時、パラガトリオの槍が持つ力のすべてを自分のものにしたと確信した。満足感、万能感に浸りながら、声の正体が気になっていた。顔を上げるとそこには地獄の王が佇んでいた。
「なんで……」
うまく言葉が出てこず、それしか言えなかった。しかし地獄の王は意図を汲んだようで言葉を返した。
「気まぐれだ。その槍に近づくことすらできぬと思っていたが、触れられた挙句、存外に耐えるものでな」
「気まぐれ……いや、ありがとうございます」
気まぐれという言葉に引っ掛かりを覚えるが、それ以上に、人を人とも思っていなさそうな地獄の王が手を差し伸べてくれたという事実にただ感謝を述べる。
「まぁ、待て。そう急ぐな」
地上へと帰ろうとした悠牙を地獄の王は引き留めた。
「1つ忠告をしておこう。その力は誰かを助けたり守ったりするためのものではない。人を殺し破壊するための力だ。下らん英雄願望は捨てることだな」
悠牙は心の芯まで冷えるような、そんな心地がした。小さなころから抱えていた英雄への憧れは、この槍を手にした時の万能感で一層強くなっていた。その矢先に地獄の王に言い当てられた。しかし同時に反抗心も湧き上がっていた。力に善悪はなく、その使いようによるものだと、数多の英雄から学んできたからだ。ただ、王の王たる所以を見せつけられたからか、言い返そうという感情は沸いてこなかった。思わず黙ってしまう。
「まぁ、お前がその力をどのように使おうと勝手だが、忠告はしたからな」
悠牙は地獄の王を前にただ首を垂れることしかできなかった。
「さぁ、行け。ここにもう用事はなかろう」
1人残された地獄の王は悠牙が槍を刺した跡を指でなぞると、わずかに口角を持ち上げた。
零は深い絶望を感じていた。目の前で親友が殺された。いや、自らの意思で生贄となることを選んだ。どこか現実味がなく、感情がうまく呑み込めない。まるで質の悪い悪夢を見ているような気分に陥る。いっそのこと悪夢であってくれと願うが、目を覚ましそうな気配はまるでない。友を殺した黒騎士は動かなくなっていた。奴はただ悠牙を殺すためだけに動いていたようだ。奏音は、いまだ地面にうずくまったまま。意識は黒騎士に向けたままで奏音のもとへ駆け寄る。
「奏音?大丈夫そう?」
返事はない、それどころかピクリとも動かない。聞こえてすらいないような、そんな気がする。奏音の肩に触れようとした時、悠牙の声が聞こえた気がした。幽霊だとかお化けだとかは信じていなかったが、これを気のせいとは思えなかった。きっと、今の奏音に触れると良くないのだろう。
しかし、そう感じたということは何かしら理由があるはずだ。黒騎士が動き始めた時のことを思い出す。あの時は確か、奏音がうずくまったところに悠牙の踵が当たって、それと同時に黒騎士が動き始めた。この事とさっきの感覚とを総合して考えると、奏音に触れると黒騎士が動き出す、ということになる。
だが、それはおかしい。悠牙は奏音に何度か触れていたはずだが、黒騎士は動かなかった。奏音がうずくまっていることも黒騎士が動くことの条件の1つか?それに、具体的なタイミングまでは分からないが、奏音が気絶している間に黒騎士は存在せず、奏音が目覚めているときには黒騎士がいた。もしやこの黒騎士は奏音に付随して現れたものか?
黙って思考していると、悠牙の遺体が突如として燃え上がった。幻覚かと思ったが、違う。確かに燃えている。悠牙とはかなり距離があったが、その熱が伝わってくる。さらに、悠牙の遺体が上体を起こし、果ては立ち上がった。また別の悪夢を見ているようだった。悠牙の体を取り囲んでいた炎は次第に収まり、そこに立っていたのは紛れもなく悠牙であった。変わったところといえば胸に空いているはずの穴がふさがっていることぐらいか。
「久しぶり、零」
久しぶり?悠牙が死んでから5分と経っていない。死んだはずの人間が生き返ることも、唐突に黒騎士が現れることも現実に起こるなど思っていなかった。零は、これが現実の出来事かわからず疑心暗鬼に陥る。
「本当に、悠牙、か?」
それを聞いた悠牙と思しき人物はキョトンとして、すぐにニヤリとして返した。
「本物だよ、熟女マニア」
「あぁ、本物か」
本物だった。別に熟女マニアではないのだが、こんな悪質な弄り方をしてくるのは悠牙くらいしかいない。
「黒騎士は、止まってるな」
「悠牙を殺してから、殺せてはないのか?まぁ、動いてないよ」
「奏音は?」
「同じく。というかそんなに時間経ってないよ」
「あ、そうなの」
悠牙は奏音へと近づいていく。
「奏音に触るな!」
「!?」
零は自分が建てた仮説を軽く説明した。悠牙は黙って聞いていたが、どこか思い当たる節があったのか、仮説に同意してくれた。
「だとして、どうするよ?ここで奏音が目覚めるの待つか?いつ目を覚ますのかもわからないのに。それに、2体目が出てこないとも限らないし」
「そうだよなぁ。奏音を起こす必要はあるんだよな」
2人してうんうん唸り、いいアイデアはないか考える。
「そういえば、どうやって生き返ったんだ?」
「生き返ったと言うより、生まれ変わったと言うほうが正しいらしいんだけど」
悠牙はそう前置きすると、これまで経験したことを語り出した。地獄へ落ちたこと、地獄の王に会ってチャンスをもらったこと、槍を引き抜いて力を得たこと。零はまるで信じられなかったが、これは本当のことなのだろう。悠牙が嘘をつく理由がないからだ。
「地獄の居心地はどうだった?」
「想像よりずっといい」
「そうか。なら次は僕もつれていけ。置いてけぼりはごめんだ」
今の話から察するに、今の悠牙は人並外れた力を持っているということになる。もしや、今の悠牙であれば黒騎士に対抗出来得るのでは?黒騎士の鎧の素材が何かわからないが、天国で創られたとかいう槍より硬いということは流石にないだろう。悠牙が黒騎士の相手をしている間に、奏音を僕が起こす。これならば、うまくいくのではないか?零は思いついた作戦を悠牙に話した。
「なるほど、確かにアリだな」
「頼めるか?」
「あぁ、黒騎士は任せろ。奏音を頼むぜ」
悠牙は黒騎士の前に立ち、無から槍を取り出した。零はしばらくその槍から目を離せなかった。天国で創られたというだけあってさすがの美しさだ。一日中眺めていても決して飽きることはないだろう。だが、今はそんな余裕などない。奏音のそばに寄り、悠牙に目配せをする。
悠牙が軽くうなずくと、奏音の肩に手をかけ軽くゆすった。仮説通りに、黒騎士は動き出し、その兜は零に向いていた。黒騎士はまっすぐ零のもとへ向かおうとしたが、それを悠牙が阻む。悠牙はパラガトリオの槍を黒騎士の左肩へと突き出した。黒騎士はシールドで軽く打ち払うが、槍はよほどの高温だったのだろう、その表面が溶けていた。
それでも、意に介さず零のもとへと向かおうとする黒騎士。悠牙は槍をどこかへ消すと、黒騎士の馬上槍とシールドをつかみ、無理やり黒騎士を止めようとする。一瞬、均衡状態が出来上がるも、少しづつ黒騎士が押し始めた。
「零!早くしろ!」
早くしなければいけないことなどわかっていたが、奏音はまるで起きる気配がなかった。体に一切の力が入っていない。今や、うずくまってすらおらず、その体を零に預け身を任せていた。
「ダメだ!起きそうにない!」
「マジかよ……」
悠牙は力の限り黒騎士を押していたが、完全に力負けしていた。黒騎士は零にかなり近づいており、猶予はわずかしかなかった。悠牙は手に炎を宿し、馬上槍を溶かしつくした。そして肩をつかみ、また押し合いに戻る。武器をなくせば止まるかとも思ったが、まるで気にしていなさそうだ。
零は逆の仮説を立てていた。奏音が気絶しているから黒騎士が動くのではなく、黒騎士が動ける状態にあるから奏音が気絶しているのではないか、と。もしこれが正しいのであれば、黒騎士を倒すことで奏音は目覚めるだろう。もし間違っていたら?何のデメリットもないように思える。悠牙には返り討ちに会うリスクを背負ってもらわなければならないが、まぁ、大丈夫だろう。
「悠牙!そいつをぶちのめせ!」
悠牙は少し迷った。何のためにさせるのか。だが、零を信じることにした。あいつが俺に都合の悪いことをさせるはずがない。
「了解」
そう返事をすると、再度、槍を召喚し狙いを定める。狙うなら胸部。人間にとっての急所であり、意趣返しでもある。
悠牙は後ろに飛びのき距離を取ると、黒騎士の胸部へと炎を纏った槍を突き出した。槍は、構えたシールドを溶かし、胸部装甲すらもやすやすと貫いた。胸部は黒騎士にとっても急所であったようで、貫くや否や鎧はガラガラと音を立てて地面に落下し、光の粒となって消えていった。
黒騎士は消したぞ、奏音はどうだと振り返れば、そこには真っ赤な血だまりと、両手を赤1色に染めた零がいた。
「は?」
まるで状況が理解できなかった。よく見ると、奏音の制服の胸部分も零同様に真っ赤に染まっていた。あの血は奏音から流れたもの。俺が槍を突き刺したのが、黒騎士の胸の部分。そして今、花音の血が出ている個所が胸の部分。認めたくなかった。俺が奏音を殺したなど認めたくなかった。違うはず、そう思って他に原因がないか探したがどこにも手掛かりはない。
零は、自分の両手と奏音とを何度も見比べていた。一言も発さず、ただ驚いていた。辺りに血の匂いが充満し、急に現実味を帯びたのか零はポロポロと涙をこぼした。静かに、その光景から目を離せなくなっていた。
悠牙も目が離せないという点では零と同じであったが、その眼に涙の影はなく、まるで悲しんでいる様子はなかった。しかし、その胸中では悲しみと罪悪感、やるせなさが綯交ぜとなり、今にもはち切れそうになっていた。だが、どれだけ胸の内があれていようとも、悲しみは表に出ない。出てくれない。この時、悠牙は地獄の王の言った『人ではなくなる』という言葉の意味を正しく理解した。
零は泣いていた。しかし目が合うと、普段と変わらぬ俺を見て、少し憐れむような顔をし俺をぎゅっと抱きしめた。俺はただ背中に手を添えてあげることしかできなかった。
「ごめん……ごめん……僕があんなことを言ったせいで……」
「いや、判断を下したのは俺だ。それに、零は奏音を助けようとしただけだ。お前は悪くない」
「でも……」
背中に手を当てて気が澄むまで待つ。
陽は傾き、空を赤く染めている。弓道場の真ん中で、夕陽に照らされる2人の手にはシャベルが握られていた。辺りは焦げた草の香りと、表現しがたい異様な臭いが漂っていた。シャベルをその場に置き、2人で帰路に就く。そこに会話はなく、どこか重々しい空気が漂っていた。
千尋は1人、家族の帰りを待っていた。今は夏休みであり、千尋は留守番を任されていた。そんな中、彼女を揺れが襲い、あまりの恐怖に兄の部屋でガタガタと震えていることしかできなかった。家族のだれにも連絡がつかず、孤独感に襲われ少しの物音にもおびえる。
そうして待つこと数時間。家の鍵が開く音を聞いた千尋は、兄の部屋から出て玄関の様子をうかがうと、そこには普段と様子の違う悠牙がいた。話しかけられない、そう感じた千尋は自室へと帰り、毛布に包まる。あれは本物のお兄ちゃんなのか。考えても答えは出なかった。
「千尋?どこ?」
悠牙の呼び声に応じて部屋を出ると、そこにはいつものお兄ちゃんがいた。
「怖かったよね?大丈夫だった?」
答えるよりも先に悠牙に抱きつく。腕の中で静かに泣く千尋の頭を優しく撫でてあげると、悠牙は気になっていたことを聞いた。
「父さんと母さんはまだ帰ってきてない?」
千尋は首を横に振る。
それから数日が経った今でも、両親は帰ってきていない。テレビでは、揺れによる交通事故が多発して死亡者も多く出ていると言っていた。また、この揺れで超能力に目覚めた者もいて、超能力者による犯罪も起きているらしい。きっとそういうことなんだろう。千尋は賢いから、両親が2度と帰ってこないという事に気づいているだろう。
零とは、どこかぎこちなくではあるが、連絡をとっていた。零のところは母親が帰ってきていないらしい。ただ、父親が何かの超能力に目覚めたらしく、安全なんだとか。千尋や零は、超能力に目覚めてはいないので個人差があるんだろう。かく言う俺も、テレビで取り上げているような超能力の目覚めかたはしていないので、まだ覚醒する余地はあるのかもしれない。
犯罪が多発していると言っていた割には、俺の周辺は静かだった。千尋を危険に晒さないために家から出ていないからかもしれないが。部活は全面的に禁止、外出を控えろと言う連絡が学校から来ていたが、言われるまでもなく外になんか出ない。
かつてと何ら変わらない皓皓たる月を眺め、ぼんやりと思考を巡らせていると、どこかで悲鳴が聞こえたような気がした。窓を開け千尋を起こさないよう静かに外に出る。どこから悲鳴が上がったのか。それを探るために、近所で一番高いビルを屋上まで登った。
ビルの屋上で街を見渡すと、気分の晴れるようなそんな気持ちがしたが、そんなことに浸っている暇はない。街の隅々まで目を凝らし、異変を探す。すると、裏路地の一角で小さな悲鳴がわずかに上がったのが聞こえた。あそこに何かがいる。そう確信し、槍を投げた。
俺は槍を呼び出せる、俺は槍と同化している、つまり槍も俺を呼び出せる。と思い、やってみると意外とすんなりできた。これはいい移動手段だとにやけつつ、問題の路地裏へと行く。そこには服が乱れあちこちから大量に血を流した女性が倒れており、その傍らにズボンを引き上げる金髪の男がいた。
「誰だ?」
男がそう質問するころには槍を投げつけていた。かなりの速度で飛ぶ槍を、金髪は驚異的な反射速度で避けたが、槍へと飛び背後を取った悠牙の蹴りは避けられなかった。
「いってぇな!何すんだ!」
金髪はものともせず飛び退き、距離を保って吠える。
「お前がやったのか?」
「俺以外に誰かいるように見えるか?」
金髪の男はニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべている。その笑みを見て、悠牙はふつふつと怒りがわいてくるのを感じていた。なぜ奏音のような善人が死に、この金髪のような悪人が生きているのか。道理が通らないではないか。
「なんでお前が生きている?」
「は?」
金髪は、いきなり現れたこの変な男が何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
「なぜ、善人であるあの子が死に、屑のお前が生きていられるんだ?」
「?」
そこでようやく何を言いたいのか理解した金髪は、思い付きをそのまま口にした。
「あの子ってのが誰だか知らないけどよ、弱いから死んだだけだろ」
「あ?」
「強い奴は何してもいいんだ。弱い奴のことなんか気にかける必要なんかねぇ。弱肉強食が自然の摂理、だろ?」
それを聞いたとき、悠牙の中で何かがはじけるような、そんな感覚があった。悠牙の心の奥底に潜んでいたおぞましい何かが首をもたげ、目覚めたようなそんな感覚がはっきりとあった。と同時に、心の中の炎に薪がくべられたような、より一層自分が強くなる感触があった。
「弱肉強食か。いや、まったくその通りだよ。弱い奴には何したって良い。そうだな、そうだよな」
悠牙は下に向けていた顔を上げた。その眼には、相手を軽侮する冷たさと、存在を許さぬという熱さの両方が混在していた。
「だから殺されるんだ。この俺に」
金髪がその言葉の意味を理解するころには、金髪の右肩に槍が突き立てられていた。金髪はあまりの痛さと熱さに絶叫する。
「ぎゃああああぁぁぁぁ!!!」
「お前の言う通りさ。弱肉強食、強い奴は何したっていい」
悠牙は槍に炎をともすと、差した穴を焼き広げていく。
「だが、お前は弱い」
炎を纏った左手で金髪の喉を掴み、金髪の全身に火を纏わせる。
「お前は苦しんで死ね。それがお前にできる唯一の贖罪だ」
悠牙は苦しむ金髪を床に放り捨て、女性のもとへ歩み寄る。悠牙が金髪と話している間、まるで動きがないからもしやと思っていたが、やはり女性の息は絶えていた。女性の開きっぱなしの目を閉じさせてあげ、両手を合わせて冥福を祈る。そして、地面で苦しみ転がりのたうち回る金髪を放置したまま帰る。
悪漢を倒したというのに、まるで晴れやかな気持ちになれない。誇らしくも感じない。こんなことをしてもあの子は喜ばないと知りながら、あの子を言い訳みたいに使っていた。
帰りながら、悠牙は自分の行動を思い返していた。悠牙が現場に着いたときの一番最初の行動は、女性の救助ではなく、金髪への攻撃であった。自分でもなぜそうしたかわからないが、体が槍を投げていた。
地獄で言われたことをつい思いだしてしまう。『その力は誰かを助けたり守ったりするためのものではない。人を殺し破壊するための力だ』いや、だがこれは自分で否定したはずだ。力の本質とはそれを使うものに左右されると。力自体には善悪はないと。
しかし、俺は今誰かを助けるためではなく、人を殺すために力を使ったではないか。あの時も、助けようとしたつもりが、結果として俺は花音を殺したではないか。これは呪われた力なのか、それとも俺の本質が悪なのか。あの時俺の中で目覚めようとしていたあれは何だったのか。悠牙は頭を悩ませながら帰路に就いた。
家に帰りつき、ベッドにもぐりこんだ。まだ夜は長く、朝が来て千尋が起きてくるまで時間があった。この体になってからというもの、睡眠をとる必要がなくなっていた。だから、夜が明けるまでの間、悠牙はぼんやりと考え事をしていた。
俺が手にしたこの槍はいったい何なのか。地獄の王は何か昔話をしていたが、どうも嘘くさい。あの昔話が本当ならば、地獄の王にとってかなり大事なものだからだ。それを、『気まぐれ』で俺に渡すとはどうも考えにくい。何か裏がありそうだ。それに、この槍の能力についても不思議なことがある。
地獄の王はこの槍の能力の1つに『天国、地上、地獄の3世界を渡る権能』を上げていた。ほかの権能に関しては、ただ思うだけで使えたがこの権能だけは違う。地獄から地上へと戻ったあの1回から使えなくなっている。まぁ、そう頻繁に出入りされたらたまったもんじゃないだろうし、そこの王の許可がなければ移動できないのだろう。そもそも肉体を持ったまま世界を渡ることはできるのだろうか。
それに、3世界と言っていたが、天国と地獄にはそれぞれ王がいる。では地上はどうなのだろう。地上の王、この地上というのは地球にとどまらないはずだ。地獄の王が昔話をするときに、天翼は地球とは別の星にいたと言っていた。ならばどこの星なのだろうか。
どれだけ考えても情報が足りない。そもそも頭が良い方ではない。何ならちょっと馬鹿まである。考えていても答えが出るとは思えなかった。しかし、考え続ける以外にすることもない。
そもそも、あの揺れとは何だったのだろうか。あれは決して地震ではない。表現が難しいが揺れだ。あの7月22日の揺れ以来、世界には超能力に目覚めるものが現れ始めた。つまりあの揺れは、人間が超能力に目覚められるだけの何かがあったということだ。
あの時変わっていたこと……鳥……?確か揺れる直前に鳥が一斉に羽ばたいていた。地震の直前に鳥が異常行動を起こすというのは聞いたことがある。鳥が地下の微小な変化や気候の変化に気づいているというやつだ。ほかにもナマズとかも自信に反応するっけか。いや、あの揺れは地震ではない。地面は揺れていない。ならば鳥たちは何を感知したのだろうか。
思い返せば、動物の能力を得た人間をテレビで取り上げていたが、能力を得た動物というのはやっていなかった。やはりあれは、対人間として意図的に起こされたものなのか?しかし、地面を揺らさずして人間だけを揺らすというのは、それこそ超能力、それも特別強いものでしか起こせないような気がする。そんなことのできる人間がいたのなら、そいつの名前は神だろう。
そんなことを考えているうちに太陽は登っていた。悠牙は千尋を起こさないように朝食を作り始める。
その夜、悠牙は千尋が眠りについたタイミングで家を出ると、昨日と同じビルをよじ登る。今日の空は曇りなく、一際輝く月と数多の星々が天に輝いていた。夜風に吹かれながら、ぼんやり街を眺める。
夜闇に交じり、空高くから街を見下ろす。鼻歌でも歌いたくなるぐらい気持ちがよかった。ビルの屋上でボーっとしていると、路地裏に小さな稲妻が見えた。悲鳴などは聞こえず、ただの空目の可能性もあったが、念のためそこへ飛ぶことにした。
問題の路地裏を見ると、髪を青く染めた青年と、その足元に人間の体がいくつかゴロゴロと転がっていた。その体が動く気配はない。おそらくこの青年に殺されたのだろう。
「何があった?」
そう青年に問いかけたが返事はしなかった。青年は一度こちらをちらりと見たが、すぐに顔を死体の1つへと戻し漁り始めた。死体の服から財布を取り出し、中身を物色している。
「何をしている?言わないとこれだぞ?」
そういうと、悠牙は槍を取り出し見せつけた。青年は流石に無視できなかったのか、漁るのをやめ、取り出した財布なども一度地面に置くと、すくと立ち上がった。
「俺が何をしていたら、問題なんだ?」
「何、問題にしようと言うんじゃない。ただ、気になって、洒落てみただけだ」
悠牙はその手に持つ槍を消し去り、空になった手を腰に当てた。
「で、なぜ殺したんだ?」
「人が人を殺していい理由があるか?聞いてお前は納得するのか?」
この男の嫌な言い回しに悠牙は次第にイライラしてきた。だが、ここで手を上げてしまっては、俺が悪であることの裏付けになってしまうと我慢をする。
「いや、納得とかじゃなく聞いているだけだ。正当防衛かもしれんだろ?」
「殺してしまっては過剰防衛だろう。それに、正当防衛じゃなかったとして、どうするつもりなんだ?」
悠牙は言葉に詰まった。俺は今、この青年に何をするつもりだったんだ?またも殺そうとしていたのか?あの金髪のように。
「素直になれよ少年。お前はその力を使いたいだけだ。何のかんのと理由をつけて正当化してな」
青年は体に紫電を纏わせ、人差し指をたててクイクイと曲げ、挑発してくる。
「俺は灰正会副長の相馬徹。堅気じゃねぇんだ遠慮せずに来い」
終始舐めた態度の相馬に堪忍袋の緒が切れ、名乗ることもせずに槍を突き出した。相馬は槍を軽く避けると、紫電を纏わせた拳をボディへと打ち込む。
相馬は紫電を纏うことで肉体を活性化させ、パワー、スピード、反応速度、そして硬度を向上させることができる。紫電によって硬くなったその拳はアスファルトを容易に砕き、コンクリートを粉微塵にし、鋼板をいとも簡単に貫く。
だが、今回ばかりは様子が違った。悠牙の体を破壊するどころか、相馬は中手骨に強い痛みを感じていた。悠牙の力任せな攻撃をよけ、顔面を狙い背後から上段蹴りを放つ。しかし、これも悠牙の体勢を崩すことはできてもダメージが通っている気配はなく、逆に相馬の足が痛む。
これはまずいと思った相馬が悠牙との距離を取る一方で悠牙もあせっていた。というのも、戦うのはこれが3回目で、過去2回は戦いとも呼べない一方的なものだった。悠牙はその硬さでどうにか誤魔化せてはいるが、相手の攻撃を捌く術を知らなかった。悠牙は、攻撃した相馬のダメージのほうがでかいことなどつゆ知らず、どうするべきか考えていた。
相馬も悩んでいた。遠慮せず来いと言った手前、しっぽ巻いて逃げるのは恥ずかしい。かといって、この少年と戦い続けて勝つことなど、ほぼ不可能であった。相馬の取れる選択肢は2つ。1つ目は、ボスを呼ぶ。この少年がいくら硬かろうと、我らがボスならばどうにかしてくれる気がしていた。2つ目は、自分の体が壊れるのを覚悟で攻撃し、見逃すふりをして逃走をする。
相馬には懸念点があった。それは、悠牙の攻撃性能がわからないという点だ。防御力の高さは身にしみてわかっている。おそらく、あの不気味に煌々と輝く槍で攻撃をするのだろうが、それがどれほどの能力を持っているかわからない。大した能力を持っていなければいいのだが、仮に一撃必殺となるだけの能力があると、ボスを死地へと呼びだしてしまうことになる。
相馬にはもう選択肢が1つしかなかった。自らの体を顧みない攻撃。これしかない。相馬は集中し、悠牙の一挙手一投足をすべて見逃さないようにする。この攻撃で始末できれば最高、最低でも行動不能にはしなければならない。
体に紫電を溜め、その時を待つ。静かなにらみ合いが続き、悠牙がスゥッと息を吸ったと同時にため込んだ紫電を解放させ、超高速で悠牙の背後に回る。壁を蹴って悠牙の背後へと回り込んだ相馬は、体を弓の如くしならせ、自分にできる最大威力の蹴りを悠牙の後頭部へと放つ。悠牙は相馬を完全に見失っており、相馬の場所がわかったのは背後から蹴り飛ばされた後であった。
相馬は右足から聞こえた異音を無視して、悠牙を追撃する。跳ねるように吹き飛ばされた悠牙、その顔面をとらえ、垂直に打ち下ろす。だが、足の痛みのせいか僅かに遅れ、悠牙は両腕を割り込ませた。両腕でガードしたとはいえ、その打ち下ろしの威力はすさまじく、地面が放射状に割れ、轟音が鳴り響く。
相馬の状態はかなり悪かった。右手の甲からは骨が飛び出し、前腕部も骨こそ出てきてはいないが確実に折れているという感触がある。右足は靴で見えないが、血が流れている感触があるので骨が肉を突き破って出てきているのだろう。
だが、同様に悠牙の状態も良くなかった。外傷はない。内出血もしていない。ただ、頭部という急所を二度も連続して狙われたことで、視界は歪み、うまく立ち上がれずにいる。
「ふん、どうやらぼろぼろのようだな。今夜はここらにしておいてやろう!」
そう吐き捨てると、相馬は夜闇の中に消えていった。
悠牙はすぐには立ち上がれなかった。いまだ頭が回復していないからというのもあるが、それよりも、これほどまでに一方的にやられたということへの無力感によるものの方が大きかった。実際は相馬も戦える状態ではなかったため、引き分けといってもいいのだが、悠牙はそのことに気づいておらずボコボコにされたと思っていた。心身ともにボロボロでしばらくは立ち直れそうになかった。
どうにか逃げ出した相馬は激痛に耐えながら、アジトへと帰り、ボスの部屋へと向かった。
「ボス、話があります」
「何だ?なんだ!?お前どうしたその怪我!?」
窓から夜景を眺めて酒を傾けていた灰正会会長の影城悪鬼は、振り返ったら自分の大事な部下がボロボロになっているという状況に軽くパニックになる。
「いや、この怪我はまぁよくて、それよりもヤバい奴を見つけましたよ」
「ヤバい奴はお前だよ。とりあえずその怪我を治せ」
そういうと、ボスはどこかへ電話をし始めた。その電話が終わるのを待って相馬は口を開く。
「ボスが楽しめそうなやつがいましたよ」
「だろうな。それよりもターゲットはちゃんと始末したのか?」
あの場で死体となって転がっていた4人はボスの指定した、暗殺のターゲットであった。灰正会の重要な金策の1つにこの暗殺がある。その暗殺部隊の隊長として長いこと前線に立っていた相馬は、能力覚醒に伴い、副長の椅子をボス直々に与えられた。
「問題なく始末しました。それよりもですね……」
「なんか強い奴がいたんだろ?わかったって。で、どこの組のやつだ?」
「あー、どこなんでしょうね?」
思い返してみると、あの少年は反社会的組織に所属するには幼く見えた。それに、もし反社会的組織に所属していながら、灰正会の名前に反応しないというのは考えにくい。
「うん。多分、堅気ですね」
そう言うと悪鬼の雰囲気ががらりと変わり、威圧的な殺気じみた覇気を纏いだした。
「お前、堅気に手を出したのか?」
「手を出したというか、手も足も出なかったというか」
「うん?どういうことだ?」
相馬は悪鬼に何があったかをあらかた話した。少年に殺人現場を見られたこと、少年の体がやたら硬く拳を砕かれたこと、攻撃性能がわからず応援を呼ばずに撤退したこと。悪鬼は最後まで黙って聞くと、ため息をついた。
「堅気には手を出さねえのが、うちの方針っていうのは知ってたか?」
「そりゃもちろん!」
「もちろんじゃねぇよ……」
悪鬼も戦いは好きだが、相馬の行き過ぎたバトルジャンキーっぷりには頭が痛くなる。
「見られたのか、厄介なことになったな……お前名乗ったりしてねぇよな?」
「高らかに名乗ってやりましたよ」
「なんで偉そうなんだよ、コイツ」
この相馬という男は、戦闘能力こそ悪鬼に次いで2番目に高いのだが、考え無しなところがあった。その時のテンションで行動をする。別に、頭が悪いとかそういうのではない。ただ、直観主義とでもいうのだろうか。その時の自分の感覚というやつを信じすぎていた。
「まぁ、いいや。その少年を調べるのはお前に任せる。というか、その少年の身元調査が完了するまで戻ってくんな」
「ボスはやらないんですか?」
「お前が死んだらな」
相馬は悪鬼に次いで2番目に強いとは言ったが、悪鬼と相馬の間には大きな実力差があった。相馬といい勝負をしている程度では、悪鬼にはまるで歯が立たない。悪鬼が、考え無しの相馬を副長に置いているのも、自分が真に戦うべき相手を選別するためであった。
「ほら、その傷治してもらえ。行った行った!」
相馬を部屋から追い出すと、夜景を楽しみながら酒を傾ける。相馬があれだけボロボロになるのは、初めて見た。相馬は言っていた。攻撃が通らない、と。さて、どんな能力なのか。思わず笑みがこぼれる。今日の酒は格別にうまかった。
悠牙は5分ほど経って、ようやく立ち上がることができた。いまだに少しふらふらするが、まぁ歩けないほどじゃない。それよりもあの男は何と言っていたか。灰正会の相馬とかなんとか。灰正会なんてグループは聞いたこともない。堅気がどうとか言っていたから、暴力団か何かなのだろうか。
悠牙には、やるべきことが2つあった。まず1つは、灰正会について調べること。いつか、あの相馬とかいう男に借りを返さなければならない。そしてもう1つが、こちらの方がかなり大事なのだが、実戦経験を積んで、より強くなることだ。
今のまま、相馬に勝負を挑んでもまた返り討ちに会うだけだろう。弓道の時もそうだったが、強くなるための最も単純で速い方法は経験を積むことだ。
この2つを同時に解決できる素晴らしい方法を1つだけ思いついていた。それは、毎晩、街を見張り、事件の匂いがすれば乱入して、灰正会について聞きつつ戦うという方法だ。これならば、強くなれるし、灰正会にも近づける。
その日から1週間、俺の悪人退治は始まった。
ビルの屋上で、街の声に耳を傾け、わずかな助けを求める声も聞き逃さないようにする。ある時は殺人未遂に、ある時は強姦未遂に、ある時はもはや未遂じゃなくなっているときに乱入し悪党を叩きのめす。だが、そこらにはびこる悪党は弱く、相手にならないような奴らばかりであった。
灰正会のことについて聞いてみても、知らないと慌てふためくだけ。明らかに知っているリアクションだが、よほど恐ろしい組織なのだろう。しゃべれば死ぬと、その態度が教えてくれた。ちなみに、ネットで調べてみたのだが、5、6年前までの情報しか出てこず、それも具体的なことではなく新しい組織が立ち上がったというレベルのものだった。
そんなある日、街を見張るかと窓から出ようとすると、部屋の扉が開かれた。
「今日もどこか行くの?」
千尋がお気に入りのお人形を抱いて立っていた。今日もということは、悠牙が夜な夜な外に出ていたのには気づいていたのだろう。唯一の家族である兄が夜中に部屋を抜け出し、明け方まで帰ってこないというのは大変な恐怖だったに違いない。それでも、悠牙にはやらなければいけない理由があった。
「朝には帰ってくるから大丈夫だよ」
「でも……」
千尋は服のすそを掴み、言葉を探しているみたいだった。きっと、千尋は千尋なりにわがままを言っちゃいけないと思っているのだろう。それでも、一緒に安全なところにいてほしい。安心させてほしいと思っている、だからこその行動に違いない。
その時、かすかにうわああぁぁという、男の叫び声らしきものが聞こえた。誰かが襲われている。そう確信して、外に飛び出そうとしたが服のすそを掴まれたままだった。
「千尋、お兄ちゃん行かないといけないから」
「危ないよ……」
この日の千尋はいつになく強情だった。千尋は悠牙の力を知らない。だからこその心配なのだが、誰かが苦しんでいるときに、それを知って1人安全なところでのうのうと過ごせるほど、悠牙の善の心はさび付いていなかった。
「危なくないから。お兄ちゃん強いから、大丈夫」
「でも……」
今夜はいつになく強情だった。それを見て、悠牙の心のうちにあるはずのない感情が、静かにその姿を現した。
「千尋、分かるね?」
「うん……」
今まで一度だって見たことのない兄の威圧的な雰囲気に、千尋は思わず手を緩め、うなずいてしまった。悠牙は窓まで戻り、最後にチラリと千尋を一瞥すると、夜の街に飛び出した。
夜の風で頭の冷えた悠牙は、なぜあんなことをしたのか後悔に襲われていた。自分らしくない、と妹を溺愛する兄としての一面が後悔する中、でも面倒くさかっただろ、と何かが言い訳をしている。さっきも、この悠牙の中にいるドス黒い悪意の塊が、悠牙の体を支配したように感じた。
この悪意の塊の存在を認識したのは初めてではない。かつて、金髪を殺した時にもこの悪意の魔物は体を支配した。あの時は、悠牙の意思は魔物に賛同していたが、今回ばかりは無理やり体を乗っ取られた気がした。ごちゃごちゃとした思考のまま、現場へと乗り込んだ。
そこには、尻餅をついているガリガリの男と、それを見下ろすムキムキな男たち。襲われているということは、無能力者なのだろう。仕方ないけど助けるかと、マッチョたちに近づいていきつつ、質問をする。
「どうせとぼけるんだろうけど、灰正会って知ってる?」
マッチョたちに投げかけた質問の答えは、背後から聞こえてきた。
「我々のことをこそこそと嗅ぎまわっているのはお前か」
振り返ると、マッチョ達よりもさらに一段階筋肉をつけたハイパーマッチョが、子分マッチョを引き連れて退路を塞いでいた。ガリガリは這う這うの体でマッチョの後ろへと逃げていく。なるほど、罠にはめられたらしい。
「我々ってことは、あんたら灰正会の人?」
「いかにも。相馬が名乗ったらしいから俺も名乗るが、俺は灰正会副長の金剛武。以後よろしく」
「副長?相馬ってのも副長を名乗ってたが?」
「ボスを支える副長は2人いるんだよ。正の将、奇の将ってな」
奇正相生か。多分、相馬が奇の将だろうな。そんな気がする。
「で、副長様が俺に何の用だ?」
「ボスがお前に会いたがっている。一緒に来てもらおうか」
「断ったら?」
「力づくでもつれていく」
「そうか」
おそらくついていけば俺は殺されるだろう。俺を実際に殺せるかというのはいったん置いておくにしても、殺そうとはするだろう。なんせ、副長の殺人現場を見ている。別に、警察に垂れ込むつもりはなかったが、そんなこと信用ならんのだろう。
「どうする?来てくれるか?」
「力づくで連れていくとか言われるとねぇ」
悠牙は、槍を逆手に握りしめた。
「やってみろ」
悠牙は槍を金剛へと投擲した。槍が金剛の体に刺さる直前、金剛の体がクリスタルのような見た目に変化し、槍をはじいた。驚く暇すらなく、マッチョ達が襲い掛かってくる。背後から迫り来るマッチョと、前方から襲い掛かってくる子分マッチョ。
殴り、蹴り、四方八方から襲い掛かって来るマッチョ達を一撃必殺くらいの気持ちで相手するが、なかなかしぶとい。それに、気を付けるのは金剛だけでいいかと思っていたが、マッチョ達はマッチョ達で意外と力がある。そのうち対処しきれなくなり両腕両足を、マッチョ数人がかりでがっちりと固められてしまった。
「悪いが寝ていてもらうぞ」
そういうと、金剛は肉体を変化させ、拳を振りかぶる。
本当は使いたくなかったのだが、こうなっては仕方ない。俺は少しも動けずにいたが、そんな状態でもできることはある。俺は自分のうちにある槍に意識を向け、力を圧縮させると一気に開放し、全身から解き放った。すなわち、地獄の炎を全身から放出し、俺を取り押さえるマッチョごと焼き殺した。炎は俺に密着していなかった金剛にもダメージを与えたらしく、たまらずその場から退避している。
俺がこの炎を使っていなかったのはただ1つ。これ以上殺しをしたくなかったからだ。この1週間、悪党どもは殺さずに生け捕りにするように努めてきた。殺さず捕まえる方が、あの子が喜ぶと思ったからだ。だが、自分の命の危機とあっては、そんなことも言ってられない。
悠牙を取り囲んでいた、マッチョは黒い炭となり、1人残らず息絶えていた。唯一の生き残りである金剛も、よほどの熱さだったようで、肉体が元の人間に戻っている。
「金剛よ。続けるか?」
金剛に槍の穂先を向け問うと、地面に転がるマッチョの無残な焼死体を見て少し迷ったのちにキッとこちらを睨み吠えた。
「当然!仲間の仇はとる!」
金剛は全身を変化させ、突進してきた。悠牙はその肩に槍を勢い良く突き出したが、やはり刺さらず。その肉体には傷1つついていなかった。悠牙は後ろに大きく飛びのく。確かに驚異的な硬さだ。見た目を鑑みても、その体はダイヤモンド的な何かになっているのだろう。このパラガトリオの槍と同じか、近い硬さを持っている。恐るべき硬さだが、弱点はもうわかっていた。
金剛は構わず一心不乱に突進してくる。悠牙はその両腕に炎を宿すと、金剛に向かって火炎放射器のように炎を浴びせた。先ほどの反応で、金剛の肉体が炎に弱いのは分かっていた。これならひとたまりもないだろう。しかし、悠牙の笑みはすぐに消える。金剛が炎に構わず突っ込んできたからだ。
金剛は、炎が来るだろうことは覚悟していた。覚悟できていた。だから、構わず突っ込み、それどころか炎の中で突進の勢いを増すこともできた。
金剛のタックルをまともに食らった悠牙の体は吹き飛ばされるが、どうにか槍を地面に突き刺し、勢いを殺す。油断した。相馬と違って自分の攻撃が通用したからと調子に乗った。気をさらに一段階引き締めると、金剛をじっくりと観察した。金剛の肉体は全体的にやけどを負っており、煙が上がっている箇所もある。いくら覚悟していたとはいえ、ダメージを抑えられるわけではない。
金剛は激痛と熱でふらふらになりながらも、闘志は決して消えてはいなかった。むしろ、メラメラと闘志の勢いは増し、そのボロボロの肉体のどこにそれだけの元気があるのかと驚いてしまうほどの眼光を放っている。しかし、肉体の限界はもうすぐそこであった。もう、肉体を変化させるだけの余力も残っていない。
「さて、灰正会について教えてもらおうか」
金剛からいろいろと聞き出すためにゆったりと歩いて近づいていた悠牙であったが、全身の毛が逆立つほどの予感があり、全力で後ずさった。悠牙の姿勢は自然と低姿勢となり、槍を強く握りしめる。何かヤバい奴が来る。その予感は正しかった。
悠牙が先ほどまでたっていた位置に隕石のような何かが降ってきた。その隕石なようなものは立ち上がると、金剛に手を差し伸べ、優しく語りかけた。
「もうよい。休め」
あれほどまでに闘志を燃やしていた金剛が、その言葉を聞くや否や、目を閉じてその場に倒れこんだ。
「お前……まさか……」
悠牙はその男に面識はなかった。しかし、その恐怖すら感じるほどのカリスマ。あの相馬が従うほどの人物は相当な大人物と予想を立てていたところに、この男が現れた。
「俺の名は影城悪鬼。そう。その、まさか、さ」
やはりこの男が灰正会の会長で間違いないようだった。しかし、悠牙が灰正会を探っていたのは、あくまで相馬との再戦のためであって、この男に会うためではない。だが、会えたのならば、会えてしまったのならば、槍を交えてみたかった。悪鬼を睨みつけ、絶好の機会を探る。
「さて、あーっと、君名前は?」
「悪人に教えるような名前はない」
「そうか、それならまぁいい」
悪鬼は足元に転がっていた金剛の体を端に寄せると、ピリピリと肌で感じられるほどの覇気を放つ。
「見せてみろ」
気が付けば悪鬼は目と鼻の先にいた。手に持つナイフを真一文字に薙ぐ。それを槍で受け止めたかと思えば、ナイフからは手を放しており、紫電を纏ったクリスタルの拳が脇腹にめり込んでいた。槍で振り払ったかと思えば、背後から吹き飛ばされる。
何かを考える余裕などなかった。まずは落ち着こうと、前方に炎のカーテンを創り出し、悪鬼が近づけないようにした。はずだった。
悪鬼は真正面から炎のカーテンを突き破ってきては、紫電を纏った刀で斬りかかってくる。槍で受け止める余裕などなく仕方なく腕で受け止めたが、そこまで切れ味鋭くなかったのか、刀は悠牙の肌に傷1つ付けられなかった。安心したのもつかの間、悪鬼は悠牙の頭上を軽々と飛び越え、その頭部に向かって右こぶしを突き出し、左手で手首を抑えたポーズを取る。
「BANG!」
悪鬼がそういうと、何かが悠牙の顔面にぶつかり、勢いよく吹き飛ばされる。槍で勢いを殺し、悪鬼の方を伺うと、悪鬼は同じポーズのまま、何かを打ち出す準備は万端といった様子だった。
反射的に、横っ飛びに転がりながら避け、顔を上げるとそこには金剛力士のようなポーズで待ち構えている悪鬼がいた。悪鬼の拳を、とっさに出した槍の柄で受け止める。ガィーンッというまるで金属同士がぶつかったかのような音が夜の街に響き渡る。悪鬼は腕を下ろし、距離を取るわけでもなく話し始める。
「なかなか耐えるな、少年」
悪鬼が距離を取らないので、悠牙が距離を取る。
「警戒するな、もう十分わかった」
それだけ言うと、2m近くある金剛を軽々と持ち上げ、肩に担いだ。
「お前はもうちょい追い詰めんといかんらしい」
悪鬼は金剛を担いだまま、跳躍し、どこかへと消えていった。
悠牙はその場にへたり込んだ。まるで強さの次元が違った。防戦一方で、攻めに転じる隙など一切なかった。悪鬼の最後の言葉は気になるが、今は悪鬼が見逃してくれたということに安堵していた。
家に帰った悠牙は、悪鬼の能力についての分析を始めた。確認できたのは、紫電を纏う能力、クリスタル化する能力、何もないところから刀を取り出す能力、炎のカーテンを無傷で越えた能力、そして拳から何かを飛ばした能力。最初の2つに関しては、相馬と金剛が使っていた能力に酷似している。たまたま被ることもあるかもしれないが、それにしては能力が多彩すぎる。
そこで考えられるのは、コピーのような能力だ。悪鬼自身の能力は、能力をコピーしストックする能力で、使っていたのはコピーした能力たちなのではということだ。これならば、相馬と金剛の能力を使っていたことや、能力が多彩すぎるということとも合致する。
この能力のコピーに関してだが、おそらく俺のパラガトリオの槍は効果適用外なのではないだろうか。この槍は、ほかの能力とは由来が違う。ほかの能力は揺れで与えられたものだが、俺の能力は地獄で獲得したものだからだ。その上で、能力をコピーされない俺だけが、悪鬼を倒すことができる。揺れで力を得た者たちは、自分の能力にストックしている能力が乗っかった悪鬼を倒さなければならない。
とはいえ、どうやってあの悪鬼を倒せばいいのだろうか。今の状態ですらボコボコにされていた。このまま時間がたってしまうと、ほかの能力をコピーしてさらに強くなってしまう。戦闘能力の差は広がるばかりだろう。
ただ、悠牙には1つだけ強くなれる心当たりがあった。悠牙の心の中で蠢動する、この悪意の魔物だ。金髪を殺した時、悠牙は自分が強くなっているという実感があった。この悪しき魔物に身を任せることで、大いなる力が手に入るという確信があった。おそらく、地獄の王が言っていた『力』は、この悪しき魔物を身に宿すことで得られるものだ。
しかし同時に、自分の中の人間性が消えていくだろうというのも感じていた。その前兆が、奏音を殺した時のことだ。この槍を手にした時に、悠牙はすでに人間ではなくなっている。悲しみや、むなしさを感じても、体は何の変化も起こさない。だが、心は別だった。心は傷を負うし苦しむ。肉体は違くとも、心は真に人間のままだった。しかしもし、この魔物にすべてを任せるとそれすらもなくなる予感があった。
あの魔物に頼ることは考えられない。心を殺して勝ち取った勝利では意味がない。あれは悪意の魔物。地獄の王の言う通り、誰かを守るためではなく、破壊するための力だから。しかし、悠牙はこの魔物に頼る条件を1つだけ心に決めた。
悪鬼が、金剛を抱えてアジトへ帰ると、相馬が心配そうな顔で待っていた。
「良かった、無事だったんですね」
「当然だろ」
「あの少年は始末できましたか?」
「いや、できなかった」
そう、悪鬼があの場で退くことを判断したのは、悠牙に対する有効打がなかったからであった。相馬がやったように、頭部を殴りつけて気絶させるというのは頑張ればできたかもしれないが、窮鼠は何とやらだ。金剛を助けに行っただけなのに、予想外の負傷は負いたくなかった。
「相馬、あの少年の家族構成を調べておいてくれ」
「了解です。しかし、なぜ?」
悪鬼は、悠牙の心の奥底にある闇を感じ取っていた。悠牙の大事なものを壊すことで、その闇があふれて出てくるということも。
「面白いものが見られるからさ。それはそうと、おい、おい金剛!起きろ!」
悪鬼は金剛をたたき起こす。
「金剛、その怪我を医者に診てもらったら、能力者のいる団体をリストアップしておいてくれ」
「……わかりました……」
「2人とも頼んだぞ」
「あの少年は今ある分じゃ、足りないですか?」
相馬は、悪鬼があの少年を本気で殺すつもりだと気づいた。そのうえで質問をした。
「いや、数が問題なんじゃない。質の方だな。あの装甲をぶち抜くだけの火力がいる。それに、あいつの能力はコピーできなかった」
「え……?」
「どうやら、なんでも無条件にコピーできるってわけじゃないらしい」
悪鬼は今まで触れるだけで能力をコピーしてきた。どんな能力もコピーできたし、弾かれるということもなかった。しかし、あの少年の能力をコピーしようとしたときは、何か凄まじい力に弾かれた。少しのつけ入る隙もなかった。
「相馬、金剛、次に奴に会う時は確実に殺し尽くすぞ」
「「はっ!!」」
悪鬼との戦いから、1か月が経った。この1か月は実に静かなもので、灰正会の一員を名乗る輩に襲われることも、誰かに罠にはめられることもなかった。そもそも、なんとなくではあるが、悪党に灰正会のことを聞くのは控えていた。悪鬼の最後の言葉がずっと引っかかっていたからだ。こちらからアプローチをかけるべきではないと、そんな気がした。
相変わらず、悪人の命は奪わない方針で、この町の守護者もどきをやっていた。まぁ、1度だけあまりにクソ野郎過ぎて、考える暇もなく殺してしまったことがあった。この時、怒りが頂点に達して魔物を少しだけ目覚めさせてしまった。
零とは連絡を取っていたが、直接会えてはいなかった。まぁ、この御時世、外出するのはよくないとされているし、わざわざ会わなければいけない用事もない。ただ、零の親父さんとは頻繁に連絡を取り合っていた。零の親父さんはよく分からないが、お金に強い仕事をしていて、両親がいなくなってお金の管理ができなくなった我が家の支出を管理してくれている。そのため、頻繁に連絡を取っては、お金のことに関して色々教えてくれたり、報告してくれたりといろいろしてくれる。だが、俺はそこら辺の勘定にめっぽう弱く、零の親父さんの話も1割ぐらいしか理解できていない。
千尋はというと、あの夜のことは考えないようにしているらしく、いつも通りという感じだった。家にこもりっぱなしで、お友達にも合うことができないと寂しがっていた。とはいえ1人で出かけさせるわけにもいかず、誰かの家に行くのも誰かを家に呼ぶのも、親御さんとしては心配だろうと思って、千尋には我慢してもらっている。その分、千尋にはいつも以上に構ってあげているのだが、さすがにうざかったのか、自室にこもって静かに過ごすようになってしまった。
そろそろ学校が始まる時期だが、千尋の通う小学校も、俺の通う高校も臨時休校というお触れが出ていた。能力持ちの犯罪者に対しての警察の対応が定まっておらず、対抗して能力を使っていいのか、能力のないものは銃を使っていいのか、各地で論争が巻き起こり犯罪に対して後手に回っているというのが今の警察の状況であった。
俺の住む町は毎晩の見張りもあってか、それなりに治安はいいが、油断は禁物だ。つい1か月前の失敗を忘れるような俺ではない。しかし、毎晩の見張りも、何も起こらずただ見ていただけという日も増えてきている。確実に治安はよくなってきていた。
それでもやはり懸念点という奴はあった。カス野郎どもを殺した時に気づいたのだが、俺の中の魔物が力を強めて、より意思に近づいているのだ。俺の中の怒りという感情に反応して表に出やすくなっており、その蓋が緩くなっている。
それは戦闘中以外でも、悩んでいると心の奥底から悪しき考えが浮かんでくる。それだけならまだいいのだが、その考えに同調して実際に気分がどんどん暗くなっていく。思考の沼におぼれ心が深い闇に覆われたとき、チラリと鏡を見るとそこには、暗く黒く、正義や善とは程遠いところにいる顔があった。あまりの恐怖に鏡をたたき割ったが、残ったのはほろ苦さだけだった。
そんなある日、零からメッセージが来ていた。
曰く、直接会って話したいことがあるから公園に来てくれ、とのこと。しばらく顔を見ていなかったので、二つ返事で了承をする。零の指定した公園は、家からもすぐ近いそこそこの広さの公園だった。俺1人で行ってもよかったが、どうせなら千尋もつれて行ってあげよう。
「千尋ー、公園行くけど一緒に行く?」
「行く!」
やっぱり、久しぶりに外出できるとあって、すぐに返事が飛んできた。よほど楽しみなのか、鼻歌を歌いながら着替えている。それをほほえましく思いつつも、気を引き締めておかないとなと、自分を戒める。さて、自分も着替えるかと、クローゼットの中を覗き込んだところで異変に気が付いた。ジャケットがない。お気に入りでよく着ていた半袖のジャケットがどこにも見当たらないのだ。
まぁ、すぐ近くだしなんでもいいか。適当な服をひっつかんで着替えた。着替えている間、気づけば俺も鼻歌を歌っていた。自分でも意識しないうちに、友人と会えるというのを楽しみにしていたらしい。
家を出ると、曇り空だった。だが、8月後半とはいえ、まだ夏の暑さに衰えは見えなかったため、ノーテンピーカンに空が晴れているより、これくらいの曇り空の方が涼しくて気持ちがいい。
「零に会ったことある?」
「1回だけ」
いつだったか。記憶の中を探すと、たしかに、千尋といるときに零と話した記憶があるがいつのことだったかまるで覚えていない。
「いつだっけ?」
「うん?去年だよ」
あぁ、思い出した。千尋と買い物に行ったら、スーパーにいたんだった。話したのは短い時間だったような気がするけど、千尋はよく覚えていたな。これが若さか。
そうこうしているうちに公園に到着した。そこには先に零が到着しており、気づくと手を振ってくる。適当に手を振り返しつつ、公園に近づく。
「千尋、遊んでおいで」
そういうと、フラフラと歩きながら脇に生えている木を観察し始めた。
「悠牙久しぶり」
「1か月ぶりか?」
「そうだね」
「で、用事って何よ」
「いや、別に何もないよ。ただ、会って話したかっただけ」
「そうか」
そこから色々な話をした。といっても、話していたのはほとんど俺だった。零はこの1か月、家に引きこもっていたらしく、特に変わったことはない、あるとすれば筋肉が付いたことぐらいだとか。それと、零はまだ能力に目覚めてはいないらしい。まぁ、あんな得体のしれないものは目覚めなくてもいいと思うが、自衛のためにはほしいのだとか。
俺はこの1か月の間に起こったことをいろいろと話していた。金髪のこと、灰正会の副長たちのこと、そして悪鬼のこと。静かに聞いていた零は、すべてを聞き終えると口を開いた。
「大変だったんだね」
「ま、よゆーだけどね」
実際は余裕なんてかけらもなかったのだが、とりあえず強がっておく。
「灰正会なんて聞いたことないなぁ。お父さんなら知ってるのかな」
「あー、どうなんだろ」
零の親父さんはよくわからない仕事をしている。だから、灰正会と何かしらのつながりがあってもおかしくはない。
「にしても、その悪鬼とかいう人めちゃくちゃ強いんだね」
「強いというか理不尽」
そりゃあ、あんな能力があれば強くて当然だ。あの能力があれば誰でも、とは言わないが、たいていの人間は最強の戦士になれる。
「もし、灰正会が襲ってきたらどうする?」
「まぁ、迎え撃つしかないよねぇ。一応、あれだけ戦って外傷は1つもなかったから、死ぬってことはないと思うし」
悠牙は自分の肉体の異常なまでの頑丈さに気づいていた。相馬、金剛、悪鬼と戦って傷をつけられた敵はいなかった。おそらく、槍と同化したことで、肉体が天国にしかない鉱物と同じだけの硬さに変化したのだろうと予想していたが、槍と同化したとき悠牙の肉体は地上にあった。まぁ、そこらへんは不思議パワーでどうにかしたのだと納得していたが、やっぱり思い返すとおかしい。
「外傷ゼロか、触った感じは普通の人間と一緒なんだけどな」
零は、俺の腕をつついたり握ったりつまんだりしながら、自分の腕と比べている。
悠牙は心の中にいる悪意の魔物のことについて、零に話せなかった。嫌われるだとか、怖がられるだとか、確かに少しは考えたが、それよりも零に心配をかけたくなかった。この魔物は零にとって、ある意味では灰正会よりも身近な存在であった。その存在を零に知らせるというのは、対策のない恐怖を教えることと同意義であった。しかし、教えないということは、心の準備をさせないという意味でもある。
悠牙は自分がどちらを取るべきなのかまるっきりわからなくなっていた。教えなければ無責任である。かといって教えるのは配慮に欠けている。悠牙は悩みの輪の中でどうするべきかわからず溺れていた。
その時、バチンッとおでこに鋭い痛みが走った。
「目は覚めた?」
零が、中指の先を痛そうに抑えながら聞いてくる。
「考えすぎはよくない」
よほど痛かったのか、手を振って覚ましながら言葉をつづける。見た目はコミカルだが、行っていることは確かに一理あった。一理どころか、十理くらいあったかもしれない。
「本当に硬いんだな。指めっちゃ痛いんだけど」
「自業自得でしょ……」
まだ痛みが引かないのか、中指に息を吹きかけたり椅子の金属部分に当てたりしている。
「……ありがと……」
「なんのことだか」
悠牙がつぶやくように発した感謝を聞くと、零はうれしそうに笑いミエミエのとぼけをした。
悠牙と零がおしゃべりを楽しんでいると、1台の黒いワゴンが公園の近くに止まった。悠牙は嫌な予感がして、千尋を呼び寄せようとしたその時。公園にいた1人の小汚い爺さんが千尋に駆け寄って攫い、そのままワゴンに飛び乗った。
反射的に槍を取り出し、ワゴンへと投げつけるが、どこからか現れた別の男が槍を掴む。あの槍はかなりの高温を発しているはずだが、男に気にするそぶりはない。公園から走り去るワゴンを追いかけようと、走り出したが男に肩を掴まれ阻まれてしまう。
「どけ」
「断る」
悠牙は自分の肩を掴むこの男を燃やそうと、全身から炎を放ったが、男は涼しげな表情だった。
「ぬるい、ぬるいぞ。立花悠牙」
「てめぇ、なんで俺の名前を」
「灰正会がお前を殺すと決めたからさ」
そういうと、男は肩を握る力を強め、悠牙が動けないようにする。
「てめぇは何だ」
「足止めだよ」
そういうと男はニヤリと笑って続けた。
「俺の能力は適応でね。お前如きの炎など熱くもないのさ」
「そうか」
悠牙は自分の中でかけていたセーフティを外した。こいつ相手なら、灰正会相手なら、少しの手加減も必要ない。
「なら、適応してみろ」
悠牙の纏う炎は次第に色を変えた。初めは赤かった炎も、黄色く変化し、今は白色になっている。
「う、ぐ、ぐ……」
上がり続ける炎の温度に、余裕がなくなったのか、うめき声をあげる男。
「どうした?適応、だろ?」
悠牙はさらに温度を上げる。炎は青く光り始めた。その温度は1万度を優に超えている。ついに、男は適応しきれずに、声にならない吐息をもらして燃え尽きた。
「悠牙!」
零がスマホ片手に駆け寄ってくる。
「ベタだとは思うけど、この先に廃工場がある。あの車も多分そこに」
そのとき電話がかかってきた。零と目を見合わせ、電話に出る。
「もしもし?」
「久しぶりだな立花悠牙」
「お前……」
「そう、影城悪鬼だよ。言いたいことは分かるな?」
「なぜ、あの子を狙った?」
「お前に本気を出してもらうためさ」
「本気、だと?」
「そうだ、今すぐ秋日川の河川敷にこい。差しで決着をつけようじゃないか」
そういうと、電話は切られた。舌打ちが出る。
「だれだった?」
「悪鬼、さっき千尋をさらったグループのリーダーだよ」
「あぁ、灰正会とかいう。それでなんて?」
「秋日川の河川敷にこいだと。秋日川ってどこだ?」
零はスマホで調べ、地図を見せてくれる。この公園からは少し離れたところにある小さな川だった。
「廃工場とは真逆の方向だな」
廃工場は、公園から見て東側に、秋日川は公園から見て西側にあった。そして、あのワゴンが走り去っていったのは、東の方向。悠牙はどうにも嫌な予感がした。
「悠牙、工場の方は僕に任せて川に行って」
「任せてって……お前には……何も…………」
「大丈夫」
零は自信満々に目を見てそう言い放つ。もし、秋日川で悪鬼を倒せたとしても、やけを起こした手下どもが千尋を襲う可能性は十分にあった。それを防ぐためには、誰かが廃工場で千尋を保護する必要がある。今それを任せられるのは零しかいなかった。だが、これを頼めば、零を死地へと向かわせることになってしまう。それは容認できない。
「悠牙、今度は僕の番だよ」
悠牙は何も言えなかった。あの時、俺は零の制止を聞かずに足を踏み出した。
「頼んだ」
零の目を見つめ、はっきりと声に出す。どうか死なないでくれ、そう祈りを込めて。
悠牙は、真上に槍を投げると上空から秋日川を目視し、槍を投げつけて一瞬で飛んだ。
秋日川のほとりには10を超えるチンピラが勢ぞろいしていた。その中には相馬の姿もある。差しで決着をつけるとは何だったのか。悠牙が現れたのを確認すると、相馬が1歩前に出る。
「悪鬼はどこだ?」
「お前……意外と素直なんだな」
「何だと?」
「姫から離れる騎士がいるか?」
「結構いるだろ」
言い返しこそしたものの、悠牙は内心焦っていた。悪鬼は廃工場の方にいる、騙されたという悔しさと、零が危ないという焦りとで胸がいっぱいだった。
「まぁ落ち着けよ。お前は俺を倒さねばボスには会えない。もし、ここから逃げようものなら、その時は……」
相馬は途中で話すのをやめる。察しろということなのだろう。
「なるほど、それなら」
悠牙は全力で炎を放出し、チンピラを焼き殺す。相馬だけは、殺気を感じたのか炎を避けていた。
「一瞬で終わらせる」
悠牙は相馬との距離を一瞬で詰め、槍を突き出した。相馬は紫電を纏い、悠牙の背後に回った。しかし、またも嫌な気を感じて飛びのく。見てみると、悠牙の全身を炎が覆っている。ただでさえ硬くてまともにダメージが通らないのに、あれでは近づくことすらできない。相馬の頬を冷や汗が伝う。
相馬はどうするべきか考えようとしたが、悠牙の絶え間ない攻撃に思考するだけの余裕を持てずにいた。悠牙の動きが前と戦った時とはまるで違っていた。それもそのはず、悠牙は全身を炎で覆うことで、相馬の攻撃を完全に封じられることに気づいていた。そのおかげで、防御に一切の意識を回さず、攻め立てることができる。
「あの時とは真逆だな」
悠牙は相馬を煽る。今は、悠牙が攻め続け、相馬が防戦一方。それをわからないほど、相馬は馬鹿じゃない。言い返したい気持ちでいっぱいだったが、そんな余裕はなかった。
あの炎をどうにかしない限り、相馬に勝ち目はなかった。あの炎が切れるのを待つという作戦も考えたが、相馬の限界の方が近そうだった。相馬は川へと目を向けると、自分の機動力が下がるのも構わず、飛び込み、悠牙を誘った。川の中では炎は出せないんじゃないかという目論見であった。
悠牙は川に入らなければ、相馬を仕留められないことを悟った。いやいやながら川へと足を踏み入れると、悠牙を覆っていた炎は消えてしまった。
それを待っていた相馬は、自身の出せるトップスピードで悠牙の背後へ回り、後頭部を蹴ろうとした。足を粉砕する覚悟で、全力で蹴りを叩き込もうとしたが、胸にズンッという衝撃があり、遅れて熱さを感じる。相馬の胸には一振りの槍が突き刺さっていた。悠牙はこちらを見てすらいない。
「な……」
声が出ない。だが、悠牙は相馬が何を言おうとしたかわかった。
「ワンパターンすぎるんだよ。それだけ擦れば馬鹿でもわかる」
悠牙は、相馬の胸から槍を引き抜いた。相馬に一瞥すらくれず、悠牙は工場へと槍を飛ばし、消えた。
相馬は川の中で自分の失敗を思い返していた。あの時、炎が消えたのではなく、消されたということ。勝機を見出し、気を抜いたこと。そして何より、貰った能力を頼った戦い方になっていたこと。
「悪鬼……先に行くぞ……」
誰に言うわけでもないその言葉は、空へと消える。川の中へと沈みゆく相馬の顔は、どこか笑っているようにも見えた。
少し前、廃工場へと到着した零は、千尋をさらったのと同じ黒いワゴンを見つけた。
ここで間違いない。が、どうやって助け出そうか。まずは、隠れて工場の偵察をすることにした。工場の外で見張りをしているのは、5人。うち1人は他と比べて明らかに体がでかい。あいつが、悠牙の言っていた金剛だろう。
工場の中は見えないが、話し声は聞こえてこないので、そんなに多くの人がいるわけではなさそうだ。工場の中へ忍び込めそうな場所はない。出入口はすべて見張られている。1番大きな門は金剛が、小さな通用口はそれぞれ1人づつ見張りがいる。だが、見張りの徘徊の順序を見ると、1人だけ、全ての見張りの目から外れ孤立するタイミングがあった。こいつをまずは狙おう。零はベルトを外した。
ターゲットに隠れて近づき、その機を伺う。そして、首に輪っかにしたベルトをかけると一気に締め上げた。男の首を容赦なく締め上げていく。だが、男は殺されまいと必死に抵抗して大暴れし、激しい物音がしてしまう。このままでは、他の見張りが来てしまう。零は焦って締め上げる力を強めたが、男はなかなか気絶しない。
その時、男の懐に銃があるのを見た。零はその銃を奪い取ると、男の眉間に狙いを定めた。手にジャストフィットする感じがある、待ち人来るというようなそんな気持であった。零は覚悟を決めて、その引き金を引いた。乾いた銃声がし、男の眉間に穴が開いた。零は驚愕した。弾が命中したことにではない。もちろんそれにも驚いていたのだが、それよりも何の反動も感じなかったことに驚きを隠せなかった。銃には強い反動があるという知識があったからだ。
このときに零は、自分は能力者であるということに気づいた。銃声を聞きつけ、見張りが銃を構えて集まってくる。見ると、2人の見張りが銃をこちらに向けて歩いてきていた。零は銃を構えなおし、2人に撃たれるよりも早く引き金を引く。1発づつ2人に放った弾丸は眉間に寸分の狂いもなく命中した。そしてやはりと言うべきか、何の反動も感じなかった。
視界の端に人の姿が映る。零は素早くそちらに銃を向け、引き金を引く。心臓付近を狙ってもやはり命中する。どうやら、この能力は銃を完璧に扱えるようにしてくれるものらしい。ただ、零には懸念点が1つあった。それは銃を撃つたびに強くなる腕の痛みであった。しかし理由は説明できないが、零はこの腕の痛みの正体を知っていた。正体を知っているからと言って痛みを感じなくなるわけではないが。ジンジンとした痛みに耐えながら、工場の中へ入ろうとすると、影ができた。
理由を考えるよりも早く、その場から飛びのくと、ついさっきまで自分の立っていた場所に、クリスタルの腕が刺さっている。百聞は一見に如かずというが、まさにその通りであった。金剛の能力について悠牙から聞いて、さらに悠牙が圧倒したということを聞いていても、実際に見るとここまで恐ろしく感じるものなのか。
零は、急いで銃を構え金剛にありったけを撃ち尽くした。スライドが1番後ろまで下がって止まる。合計で12発撃ったが、それだけ撃っても拳銃では金剛にダメージを与えられてなさそうだった。しかし、ある程度の痛みは感じたようで、腕で頭部をガードしたまま動きが止まった。その隙に、見張りの死体から銃を剥ぎ取る。そしてまた、絶え間なく撃ち続ける。
「効かねぇよ!」
しかし、金剛は痛みに慣れたのか声を張り上げすぐに動き出した。スライドの下がった銃は捨て、金剛から逃げる。逃げながら、新しい銃を回収すると、また金剛に撃つ。もう何発撃ったかわからなくなってきた。それに、腕の痛みがひどく銃を構えるのすら困難になってきた。
「ちょろちょろにげやがって」
膝に手をつき足の止まった零に向かって拳を振り上げる金剛。
「死ね!」
そう言い拳を振り下ろそうとしたその時、零が振り返り金剛の腹を殴りつけた。これが金剛の見た最後の光景であった。
零の拳が金剛の腹にぶつかると、バキッという何かが割れる音ともに金剛の体が吹き飛び、轟音を上げて工場の壁にぶつかった。金剛の腹を覆っていたクリスタルは放射状に割れ、おびただしい血が流れている。口からも血が流れているところを見ると、いくつかの臓器が破裂したのだろう。
零は痛みの消えた腕を軽く振りながら、その威力の大きさに度肝を抜かれていた。零の腕の痛みの正体、それは吸収した銃の反動であった。零は把握していなかったが、零の撃った弾丸はちょうど50発。そのすべてのエネルギーが一度に、金剛の腹部へ与えられ、一瞬で絶命した。
「悪いな。友のためだ」
零はそういうと目を閉じ、金剛の亡骸に手を合わせる。念のため銃をもう2丁拾うと、工場の中に入った。工場の中は閑散としており、ふかふかの椅子に座る千尋と見知らぬ男がいた。
影城悪鬼は、部下が立花悠牙の妹を攫ってくるのを、家族が代々保有する工場の中で待っていた。そして待つ間、高ぶる気持ちを抑えるために、目を閉じて昔のことを思い出していた。
悪鬼は幸運の星のもとに生まれた。容姿端麗で、肉体は強靭。そして人を惹きつける王の風格を持っていた。この大いなる幸運に恵まれた悪鬼であったが、家庭の財政環境は悪かった。両親の心は潔白で、良き親であったが、如何せんお金がなかった。しかし、悪鬼はそのことを不幸だとは微塵も思っていなかった。尊敬できる両親のもとに生まれられたことは幸運だと、心の底から思っていた。
しかし、悪鬼を悲劇が襲った。これは高校2年生の時の出来事。学校が終わり、家に帰ると、両親が首を吊って死んでいた。悪鬼はその光景を受け入れられなかった。自然と涙がこぼれ、床に伏して泣きじゃくった。涙が枯れ、ようやく警察に通報することができた。善良な両親が自殺するはずない。そう思った悪鬼は警察に両親が殺されたと通報を入れた。
しかし、警察は両親の死を自殺だと断定した。まともに取り合ってすらいなかった。その地区の警察が特別悪かったのか、そもそも警察とはそういう物なのかはわからなかったが、貧乏人の死など興味がないという雰囲気だった。警察は頼りにならないと思った悪鬼は、自分の手で両親の死を解明することにした。
悪鬼の両親がは闇金融から金を借りていた。両親は悪鬼にそのことを隠したがっていたが、家に悪鬼しかいないときに、闇金融のお兄さんが来たことがあった。だから、両親が闇金融からお金を借りていることは知っていたが、軽蔑することはなく、むしろ両親への感謝の心を強めていた。
悪鬼はその闇金融のお兄さんなら何か知っているんじゃないかと思い、学校を休んで、記憶を頼りに闇金融の事務所まで乗り込んだ。そこには、記憶にある人がいた。
「君、あの時の少年か」
それは、家に来た闇金融のお兄さんだった。時が経って、お兄さんからおじさんになってはいたが、悪鬼のことは覚えていたようで、にこにこしながら話しかけてくる。この人は信頼できると、直感で判断した悪鬼は、何があったかを包み隠さず話した。
おじさんは悪鬼の話を聞くと、うーんと唸り考え込んだ。そして、実はと前置きしてから話し始めた。おじさんの所属する闇金融は、かなりでかい組織が運営しているらしく、どの闇金融にいくら借りているか、顧客のデータはすべて集められていたという。そのデータによると、悪鬼の両親はほぼすべての闇金融に借金を返済済みで、残り1社というところまで来ていた。
だが、その最後の闇金融は性質の悪さで有名なところであり、借金を返済されてしまうと利子で荒稼ぎできなくなると考えた闇金融側が、両親を殺した可能性があるのだとか。そして、残った借金を子の悪鬼に押し付けまだ稼ごうと考えていたのではないか、とのことだった。
「おじさん、そのデータの写しをくれませんか?それがあれば、警察だってきっと動いてくれるはず」
「おじさんじゃねぇよ。扇ってんだ。それに多分ここの警察は動かねぇな」
「え……なんで……?」
「まぁ、詳しく言うとまずいからぼかすけど、大人の事情ってやつだ」
悪鬼は絶望した。なぜ平和を守るはずの警察が、悪の権化のような奴らと手を組んでいるのか。落ち込んでいる悪鬼を見かねた扇は、ニヤリと笑って悪鬼に耳打ちした。
「奴らに復讐したくはないか?」
悪鬼は目を丸くした。復讐というのは思いついてもいなかったからだ。法の下に裁きを受けさせる。そう考えていた。しかし、法を守るべき警察が黒く染まり裁きを与えられないのなら、悪鬼の手で悪しきものを裁くしかない。悪鬼は覚悟を決めた。
扇の話を聞くと、扇もその闇金融には鬱憤がたまっているようだった。作戦は、作戦ともいえないような単純なものだった。闇金融のアジトにかちこみ、暴れるだけ暴れ倒してとんずらする。シンプルだが、効果的に思えた。
そして決戦当日。金属バットを持った悪鬼は、集合場所へと向かうと、扇はまだ来ていなかった。集合時間になっても扇の姿は見えず、待てど暮らせど扇は現れなかった。裏切られたのか、そう思った悪鬼は1人で事務所へと乗り込み、そこにいた4人を全員撲殺した。
この時、悪鬼は1つの組織を作ることに決めた。それは、法が裁けない悪人を裁くための組織。この腐った世の中に蔓延る悪人どもへ死という裁きを下す組織。悪を滅するために善性を捨てた正義、灰色の正義を掲げる組織。灰正会。
悪鬼というのは、本名ではない。この灰正会を立ち上げるときに、自分でつけた名前だ。悪鬼の本名は愛貴。愛は貴いもの、だからこそ大事にしてほしい。そう願ってつけられた名前。これが、両親が残してくれた1番大事なものだった。それを悪人どもに名乗りたくなかった。
こうして灰正会を立ち上げると、仲間はすぐに集まった。悪しきものが裁かれぬことに悔しい思いをしていた者たちは数多くいた。灰正会は徐々に大きくなり、裏の世界で恐れられる存在となっていった。
ある時、アジトで1人の青年が目に留まった。その青年を呼び寄せ、近くで顔を見るとどこか懐かしさがあった。
「君、名前は?」
「相馬徹といいます」
聞き覚えはなかった。
「なんで灰正会に入った?」
「父がヤクザに殺されて、でもそのヤクザは捕まってなくて」
「その父の名前は?」
「扇です。相馬扇」
「扇……闇金融で働いてた、あの扇さんか?」
「闇金融かは分かりませんが、金融関係の仕事をしていたと母は言ってました」
懐かしい名前が出てきたことに、表にこそ出さなかったが悪鬼は動揺していた。
「扇さんの命日は?」
「確か……9月8日、だったはずです」
それは、闇金融を襲撃する予定の1日前。扇は、悪鬼を裏切ってなどいなかった。その事実に、思わず笑みがこぼれ、心がジンとする。
「そうか、そうだったのか……扇さんは……」
悪鬼は少し泣きそうになりながらも、相馬の言葉を思い出す。
「ヤクザに殺されたのか。誰がやったかはわかっているのか?」
「はい。ですが、組の幹部連中だったみたいで、逮捕されませんでした」
落ち込んでいる相馬を見かねた悪鬼は、ニヤリと笑って相馬に耳打ちした。
「奴らに復讐したくはないか?」
扉の開く音がした。目を開けると、金剛が少女を連れてきていた。この子が立花悠牙の妹、立花千尋か。椅子から立ち上がり、迎えに行く。その時、千尋が逃げようとした。金剛は反射的に、そのポニーテールを掴む。結果、千尋は尻餅をつき、痛みと恐怖で泣き出してしまった。
「金剛、お前」
殺気を込め、金剛を睨みつける。
「す、すいません……ごめんね」
金剛は悪鬼の迫力に押され、千尋に謝る。
「こっち来てここに座ってて」
悪鬼は千尋をかなり質のいい椅子へ案内した。ボロボロの工場の中に1つ、この椅子だけが高級感があり目立っていた。千尋はズビズビと鼻を鳴らしながら悪鬼についていき、椅子にちょこんと座った。
悪鬼は別に子供が苦手とかはなかったが、接し方を知らないので千尋に構わなかった。結果、異様な空気が出来上がり、悪鬼はその空気に耐えながらぼんやりと虚空を見つめていた。
唐突に外が騒がしくなったかと思えば、銃声が聞こえてきた。千尋はその音が怖く手で耳をふさぐと、悪鬼は椅子の下からイヤーマフを取り出し千尋に渡した。千尋は悪鬼に少し心を許していた。この人は悪い人じゃないと、そう感じていた。銃声が激しさを増し、轟音が工場の中にも響く。そして急に静かになり、工場の門が開いた。
見知らぬ男は椅子から立ち上がった。零はその男に銃を向け、警告する。
「動くな!動くと……」
「動くと、なんだ?」
その男は瞬く間に零の目の前へと移動し、銃口を掌で抑えていた。零は引き金を引けなかった。零は男の目を見たときに、その男が悪鬼だと気づいていた。いや、気づかされた。その身に纏う雰囲気、態度、そして自ら前に出る豪胆さ。悪鬼の目から大器の片鱗を見せられ、零は委縮していた。
「そんなに緊張するな。俺は、君やあの子には興味はないんだ」
「千尋ちゃんに興味はない?なら、なんで攫ったんだ?」
「悠牙に本気を出してほしくてね」
「は?」
「俺は、悠牙の心の奥底に居る魔物を引きずり出したいだけだ」
それを聞いて、零は思うところがあった。悪鬼の言う、悠牙の心の奥底に居る魔物、その存在を零は感じていた。悠牙と1か月ぶりに会った時、その眼の奥に陰りが見えた。よくないものだとは気づいていたが、言い出せなかった。
「その様子だと、君も気づいていたようだな」
「あんなものを引きずり出してどうする?」
「戦うのさ。あの魔物は人間の持つ悪そのものだ。ここで消しておかねばならん」
「嘘だな」
「ほう」
悪鬼は思わず笑みがこぼれる。悪鬼は零の言う通り、嘘をついていた。悠牙の持つ魔物が悪かどうかなんて微塵の興味もなかった。ただ、本気を出した悠牙を打倒し、自分の最強を証明したかった。たとえそれが、悪鬼自身が嫌悪した悪党の姿であっても、自分の欲に悪鬼は負けた。
「あんたは自分の持つ力を試したいだけだろ?悪とかなんとか理由をつけて」
「お前、良い目をしているな」
その時、空から何かが降ってきた。振り返ると、それは煌々と輝く神秘的な1振りの槍であった。その名はパラガトリオの槍。続けて降ってきたのは、全身に炎を纏い並々ならぬ怒気を放つ一人の男であった。その名は立花悠牙。
「随分と遅かったな」
「黙れ、千尋はどこだ」
悪鬼は、目の前に立つ零の首を掴むと、思い切り放り投げた。
「てめぇ!」
悠牙が怒って槍を取り出すよりも早く、悪鬼の拳は悠牙の顔面を捉え、殴り飛ばしていた。吹き飛ばされた悠牙に蹴りで追撃を入れ、虚空から1丁の拳銃を取り出した。
「試させてもらうぞ」
悪鬼はスライドを引き、弾を装填すると、悠牙に7発撃ちこんだ。その銃声は先ほどのものと比べ物にならないほど大きく、低かった。悪鬼はマガジンを自重で落下させ、次のマガジンを差し込む。スライドを戻し、また7発撃ちこむ。悠牙の体には傷1つついていなかったが、金剛と同じく痛みは感じるようで動けなくなっていた。
悪鬼は悠牙の髪を掴み、無理やり立たせると、腹を思い切り殴りつけた。悠牙の体は吹き飛び、工場の壁に当たって轟音を立てる。金剛の時と似た光景であったが、違うのは悠牙の肉体はひび割れたりはしていないという点だ。しかし、内臓にはかなりのダメージがあったようで、口から血を流していた。
「これはすごいな」
悪鬼はぽつりと漏らす。対集団戦では、反動吸収が強みを見せ、対個人戦では、一撃必殺のパワーがある。能力だけで見れば、悪鬼のストックの中でも最強クラスだった。
しかし、零の能力に感心する一方で、悠牙には失望していた。まるで成長する気配もなく、魔物が顔を見せる様子もないからだ。あまりやりたくなかったが仕方がない。そう割り切り、虚空から大ぶりなナイフを取り出すと、右方で銃を構えていた零に向かって投げつけた。緑色のオーラを纏ったナイフは、零の胸骨を容易く貫通し深々と刺さった。
衝撃に立ち上がれず、膝をついていた悠牙はその両目を見開いた。零の胸にナイフが刺さっている。それを認識した瞬間、悠牙の脳内をありとあらゆる言葉が駆け巡った。零。死ぬ。病院。悪鬼は。千尋。血。ナイフ。しかしすぐにある結論へ達した。
今すぐこいつを殺す。
すぐに殺して病院へ行ければ助かる。その結論へとたどり着くと同時に、かつて悠牙が自分へ課した条件を満たしてしまった。それは、守るべきものの命の危機。すなわち、零と千尋の命の危機。
殺すために力を欲する意思、魔物を解放するための条件、動揺による心の揺らぎ。その3つすべてがかみ合い、悠牙の心から精神を汚染し肉体へと邪悪があふれ出した。
悪鬼は確信した。悠牙の心の中にいた魔物を引きずり出せた、と。しかし、それと同時に強い衝撃が腹部に走り、悪鬼の肉体は吹き飛ばされた。悠牙の追撃をどうにか避け、観察する。
悠牙が体に纏っていた炎は黒く揺らめき、その瞳は血のような赤黒色に変化している。髪はいつの間にか白く変色し、肌は裂け奥から赤い光が漏れ出している。額から角、背中から翼が生えていたっておかしくない。その相貌は、もはや人とは呼べず、さながら悪魔のようであった。
悪鬼は観察した。してしまった、できてしまった。それゆえに、悠牙の纏う圧倒的なまでの威圧感を目で、肌で感じ取れた。その瞬間、悪鬼の動きが止まった。どれだけ強くともただの人間でしかない悪鬼と、パラガトリオの槍と同化しそのすべてを解放した悠牙とでは存在の格に差があった。故に、悪鬼の本能が体の動きを止めた。まるで、天敵から身を隠す獲物のように。
悠牙は、いや魔物は悪鬼の首根っこを掴み、投げ飛ばした。壁に激突し、カハッと肺から空気が抜けるが、反射的に腕を上げガードする。魔物はそのガードの上から蹴りを叩き込む。壁を粉砕し、外に飛ばされた悪鬼は、虚空からSMGを取り出すと、フルオートで全弾撃ち尽くした。悠牙の眉間を目掛けて飛んで行った100発の弾丸は、魔物の纏う黒炎に溶かされてしまう。しかし、悪鬼の狙いはそっちではない。
紫電を纏い、一気に接近した悪鬼は溜めたエネルギーを拳へ回し、魔物に殴りかかった。しかし、魔物は右手でそれを受けると、勢いを利用して回し蹴りを悪鬼に当てる。吹き飛んだ悪鬼の体に追撃をしようと魔物が追いかけると、待ち構えていた悪鬼が右手首を握り拳から圧縮した空気弾を放ち、撃ち落とす。
一見、悪鬼と魔物は互角であるかのように見えた。しかし、その天秤は次第に魔物へと傾いていく。
やはり、悪鬼は所詮1人間でしかなかった。そのスタミナは他の人間に比べるとかなり多い。蓄積した能力の中に自動回復もある。しかし、それでも地獄から制限なく炎を呼び出すことができ、悪鬼の攻撃で何1つダメージを負わない魔物との差は、はじめは小さなものでも次第に大きく離れていった。
「ふふ、ふはは、ふははははは」
追い詰められた悪鬼は自然と笑っていた。笑うことしかできなかった。これ程までに力に差があるとは思っていなかった。悪鬼は気づいていた。魔物は零を助けることなど、これっぽちも考えていないことを。現に、魔物は槍を使っていない。あの槍を使えば、悪鬼などとうに死んでいただろう。この魔物は楽しんでいた。悪鬼を蹂躙し、破壊しつくすことを楽しんでいたのだ。
「くそ、くそが……」
悪鬼は膝をついた。スタミナが底をつきかけていた。悪鬼の能力も無制限に使えるわけではない。普段から力をため込んでおくことで、複製した力を使えるようになるものだった。そのチャージが底をつきた。今となってはもはや、ただの無能力者と同じになってしまった。しかし、能力がなくなったからか、力を失ったからか、目の前の悪の化身を滅さねばという本来の悪鬼の意志が戻ってきていた。だがもう遅い。
ようやく、魔物は槍を取り出した。その槍は魔物に呼応するかのように、赤褐色の光を強め、その穂先は2つに割れていた。
いよいよか。悪鬼は己の死を覚悟し、悪しき魔物を呼び起こしたことを心から後悔した。せめて、最後にその魔物を目に焼き付けようと睨みつけたその時、悪鬼の前に誰かが立ちふさがった。小さな背中、震えている足。それはいまだ小さき千尋だった。
千尋は何がどうなっているかまるで分らなかった。わかっていることは、零が死にかけていること。悪鬼がやっぱり悪者だったこと。そして、悠牙が壊れかけていること。悠牙の見た目はまるっきり変化していたが、それが自分の大好きな兄だということは分かっていた。その意思は兄ではないことも。
千尋はこんな兄の姿を何度か見たことがあった。初めは、悲鳴が聞こえた夜。あの時は機嫌が悪い日もあるのだろうと飲み込んだ。あんな怖いのが自分の兄の本性だとは思いたくなかった。次は、兄の部屋を覗き込んだ時。その時は、何かに激しく悩んでいるようで、その顔は悪魔のように恐ろしかった。
その時だろうか。兄が少しづつ変わりかけていることに気づいたのは。そして、兄がその変化を拒んでいることも。千尋は悠牙が何に悩み、何に苦しんでいるのかわからなかった。だから、せめてそばにはいてあげようと思った。だが、千尋がそばにいると悠牙が無茶をしているように見えた。心配をさせたくないからか、空元気を出していることに気づいてしまった。
それ以来、自室にこもるようになった。自分のことは自分でやれるようになろう、兄がいなくても大丈夫だと思ってもらおう。そう決心した。そんなときに、兄が暗闇に飲み込まれてしまった。
悪鬼の足が止まり、魔物が槍を取り出した時、千尋は駆け寄っていた。悪鬼を守るつもりなんて毛頭なかった。こんなやつ負けちゃえばいいと思った。でも、ここでお兄ちゃんがこの人を殺すと二度と戻ってこれなくなるような、そんな嫌な感じがした。だから、走ってお兄ちゃんと対峙した。
怖い、足がすくむ、声なんて出せそうもない。ただ、千尋は信じるしかなかった。今までもらってきた悠牙からの愛情を。
零はそれを見たとき、心臓がドクンッと大きく跳ねるような感じがあった。
お前がやるしかない、立ち上がれ、今やるしかない。大勢の民衆から、そういわれているような気がした。心の臓の奥底から、熱い炎が猛り湧いて出てきた。
今立ち上がらねば、あんなに幼い子の偉大な勇気を無駄にし、友人を見殺しにすることとなる。
四肢に力が入らない、心臓から血があふれ流れている、視界がぼやける、今動けば死ぬ。
そんなこと関係ない。
歯を食いしばり、手を握りしめ、目を見開き、持てる限りの全ての力を振り絞って右足を踏み出した。
魔物は小さく貧弱なそれが出てきたとき、動きを止めた。千尋の記憶があったからではない。自分にとってわずかな脅威にもなりえないそれが、前に自ら出てきたことに身構えたのだ。しかし、大したことはないと諸共に貫こうとしたとき、肩を引かれた。振り返ると、額にバチンッとかなり強い衝撃が走った。
「目は覚めた?」
そこには、中指が変な方向に折れ曲がって、それでもニヤリと笑う零の姿。しかし、そこが限界だったのか零は仰向けにふらりと地面に倒れ、目を閉じた。
悠牙は魔物の中でもがいていた。肉体の主導権を取り戻そうとしていた。しかし、それはできそうになかった。魔物の正体。それは、パラガトリオの槍に込められた天翼族の魂の残滓。この世に未練を残す、天翼族の悪性の積層だった。その数は計り知れない。1種族に、悠牙1人で対抗することは到底無理であった。
魔物の中でもがき疲れ、終わりの見えない闇の中で自分を保つことにあきらめを感じていたその時、目を通してなじみのある姿が見えた。それは、必死に魔物を止めようとする最愛の妹の姿。
心に光があふれ、勇気があふれ、悠牙の肉体を奪う力が強まる。抜け出せる。勝機を見出した時、魔物のうちに一筋の光の柱が下りた。それは、魔物が初めてまともに食らった攻撃。愛のある攻撃。そこに魔物は隙を生み出してしまった。悠牙は、友の救いの手を握り返せない男ではない。
一気に魔物から抜け出し、肉体の主導権を奪い返すと、かつてないほどの強靭な意思でもって魔物を奥底へと抑えこんだ。魔物の気配を感じなくなると、悠牙はすぐさま振り返った。
「零……」
そこには、仰向けで倒れる悠牙の躯。血の海に沈み、微動だにしない友の姿。心臓が強く跳ねたような、そんな気がした。悠牙は友の体に手を伸ばそうとしたが動かなかった。悠牙の体がこの事実を否定しているかのようだった。
「どけ」
振り返ると、そこには千尋を押しのけ近づいてくる悪鬼の姿があった。
「お前……」
動こうとしない体を、精神の力だ持って動かし、悠牙は立ち塞がろうとする。
「どけっ!」
もう一度、鋭く声を張り上げる悪鬼。その真剣なまなざしと、有無を言わさぬ雰囲気に押され、思わず道を開けてしまう。
悪鬼は零の死体のそばに立つと、死体に手を添えた。すると、悪鬼の体はおろか零の体からも、凄まじいオーラが放たれ、それは悠牙でさえもよろけるほどであった。
「何を……?」
「俺の能力は大まかに分けると3種類。複製、蓄積、そして譲渡」
「譲渡?」
悠牙は、前2つに関してはなんとなく知っていたが、最後の1つは覚えがなかった。
「そうだ。今から俺の全てを、魂までをも譲渡し、生き返らせる」
「なんで……」
悠牙がやるならともかく、悪鬼にそんなことをする義理はないように思えた。悪鬼が振り返ると、その眼に揺らぎはなく、固い信念と意志を感じさせる眼であった。
「意志を曲げ、欲に身を任せ、挙句命を救われた。ただそれだけだ」
悪鬼は零に顔を戻すと、苦しそうな顔をして続けた。
「屑として死ぬところだった、悪人として終わるところだった。今、誇りをもって死ねるなら、それだけで全てを懸けるには十分だ!」
千尋が悪鬼を守ろうとしたとき、悪鬼の心の中には深い後悔と怒りとが充満していた。この怒りは悠牙に向けてではなかった。悪鬼の心の中にいた、自分の力をふるいたいという浅はかな欲望と、それに負けた己へ向けたものだった。悠牙の中の魔物を引きずり出そうとしていたのも、この幼稚な欲望によるもの。
それは悪鬼が心の底から嫌悪した悪人の姿に酷似していた。それが今ならわかる。だから後悔していた。正義だ悪だとほざいても、結局のところ自分はただの悪人でしかなかった。灰正会なんてその言い訳に過ぎなかった。
だが、今ならまだ取り戻せる。すべての悪行を無かったことにはできないが、せめて善人であるこの零という男を呼び戻す。これを最後の贖罪にする。
だが、その思いと裏腹に、空気をゆがませるほどに強烈だったオーラもその勢いを失っている。
「足りないかっ……」
「何がだ、何が足りない?」
「力だ。この魂を呼び戻すだけの力が足りない。人間では呼び戻せない……」
悠牙の頭の中で、ありとあらゆる考えが廻った。悪鬼に力を渡す方法、悪鬼に力を与える方法。
「俺の、俺の能力は使えないか?」
「お前のはコピーできねぇ!あったら、多少は変わるだろうが……」
廻る頭の中で、能力を渡す方法を考え、悠牙は自分が能力を得たときのことを思い出した。そして悪鬼に槍を突き出す。
「これを握れ。説明は省くが、これで力は得られるはずだ」
悪鬼は何も言い返さず、ただ悠牙を信じた。悪鬼が槍を握りしめた途端、悪鬼の体を炎が包み焼くと同時に、悪鬼の能力が肉体を修復し始めた。
「なるほど……これならっ!」
悪鬼はより一層力を籠め、零の肉体に力を注ぎこみ。2人を纏うオーラもその激しさを増し、小さな竜巻がそこにあるかのようだった。
「悠牙、受け入れろ」
「何をだ」
「お前の中にいるソレをだ。心から悪をなくすことなど無理だ。だから受け入れて利用するんだ」
「なんで俺に……?」
「さぁな」
そういうと悪鬼は槍からも、零の体からも手を離した。オーラは零の体を包むと、その心臓の部分へと収まっていった。悪鬼の目は半分閉じ、それでもその眼光は鋭くこちらを見つめている。
「最後に……名前を教えてくれねぇか……?」
「立花……」
「違う、違うだろ?ヒーロー」
その言葉を聞いたとき、悠牙の中に地獄の炎とは違う何か別の、熱くそれでいて静かな炎がともったような気がした。悠牙は少し考え、覚悟を決めて口を開いた。
「ルビカンテだ」
それを聞いた悪鬼はニヤリと笑った。
「地獄の悪魔か。悪人のための悪魔。いいじゃねぇの」
そしてふらっと倒れこんだ。それと同時に視界の端に動くものが見えた。
「う、ん……おはよう……?」
「零!」
零がゆっくりと体を起こしていた。すかさず、その体を支える悠牙。
「覚えてるか?俺が誰だかわかるか?」
零はゆっくりと周りを見回し、そして悪鬼で目を留めると、静かに答えた。
「覚えてるよ、何もかも」
零は、生き返りたてとは思えないほど体の調子がいいらしく、自分で立ち上がると、悪鬼の亡骸を丁寧に持ち上げた。
「悠牙、千尋ちゃん、帰ろう」
3人は夕日に照らされながら、並んで工場を出た。
数日後、悠牙、零、千尋の3人は同じ公園に集まっていた。
あの後、悪鬼の安置場をどこにするか悩んでいると、知り合いと名乗る男が現れ死体を引き取った。そのあと、悪鬼の死体がどうなったのかは知らない。どこかで安らかに寝ていることを祈るばかりだ。死んだ者に罪はないのだから。
家に帰った3人だが、どこかでゆっくり話がしたいということで、分かりやすい公園に集合していた。とはいえ、千尋は話にあまり興味がないらしく、また植物を眺めている。
「あれから体の調子はどうなのさ?」
「すこぶる元気だよ。前よりずっと元気」
悠牙はボーっと空を眺めながら質問する。
「これからどうする?」
零は悠牙をちらっと見ると、空に浮かぶ雲に目を戻して答えた。
「灰正会について調べようかなって。まだ、組織自体は残ってるみたいだし」
「灰正会?」
「うん。放置するには危険な組織みたいだし、それに、受け取ったものもある」
そういうと、零は右手を見た。
「複製してた分しかないみたいだし、僕が複製するのは無理みたいだけど……」
「託された?」
「うん」
零は確かな意思を感じさせる眼で、悠牙の目をがんと見た。
「悠牙はどうするの?」
「ゆっくり暮らすかな」
「隠居には早くない?」
「いや、隠居ってわけじゃ……就職もしてないし……ただゆっくりしたいだけだよ」
そんな話をしていると、1人の女が公園に近づいてきていた。反射的に槍を取り出し構える悠牙。隣の零も、どこから取り出したのか銃を構えている。
女は想定外の反応だったのか両手を上げる。
「あの……これ……」
そういうと、カバンの中から何やら見覚えのあるジャケットを取り出した。
「あ……」
それは、失くしたと思っていた悠牙のジャケットであった。
「あー、あなたあの時の」
悠牙は女が誰か思い出すと同時に、できるだけその時のことを思い出さないようにした。
「はい。お礼を言えてなくて、前にこの公園にいるのを見かけたから……」
「それはどうも」
悠牙はジャケットを受け取る。
「あの……高橋詩音って言います」
「はぁ……」
悠牙がよくわからずポカンとしていると、隣の零が肘でわき腹をつついてきた。それで、ようやく察した。
「あぁ、俺は……」
そこで言いよどんだ。少し悩んだ後、詩音の目を見て口を開いた。
「立花悠牙だ」
そういうと、悠牙は手を差し出した。
The Dawn of Myth 棗真広 @natumemahilo
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