第2話 重なりゆく影

 美月は暗闇の中、体を引き裂くような轟音とともに、世界が崩れ落ちる瞬間を再び夢見た。異国の地でのあの日、冷たい風が頬を刺し遠くから不気味な低い音が押し寄せてくる。目の前に広がる光景は、決して色褪せることなく彼女の記憶に深く刻まれていた。

 彼女の体は恐怖に凍りつき、動くことができない。母の必死な叫び、父の力強い声、そして兄の「逃げろ!」という切羽詰まった言葉が耳を貫く。彼女の足はまるで鉛のように重く、目の前で起きている破滅をただ見届けるしかなかった。全てがスローモーションで進むかのように感じられ、時間は彼女を嘲笑うかのように残酷に流れていく。

 大地が激しく震え、爆発音が全身に響き渡る。全てを焼き尽くすかのような閃光が彼女の視界を奪い、その瞬間、全てが白く染まり熱風が彼女を包み込む。彼女の存在は一瞬にして消え去り、無力感が彼女の全てを飲み込んでいった。

 そして、静寂が訪れる。耳をつんざく轟音の後に訪れる沈黙はあまりに非現実的で、まるで全てが夢であったかのようだった。風が止み、焼け焦げた臭いが鼻をつく。美月は震える手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。何もかもが消えてしまった現実を、彼女はただ無感情に受け入れるしかなかった。

 全てが消え去り取り残された静寂の中でふと横に気配を感じて、彼女はゆっくりと視線を動かしその存在に目を向ける。そこには一人の少年が立っているが彼の姿はおぼろげで、まるで霧の中に浮かび上がるかのよう。ダークブラウンの髪に整った顔立ち、憂いを帯びた青い瞳が彼女を見つめている。

 美月はその少年の姿をぼんやりと見つめるも、記憶に霧がかかりうまく思い出せずにいる。ただ、その存在が心にわずかな響きを残した気がした。彼の姿が再び霧の中に溶け込むように消えていくのを見送りながら、美月は胸の中に静かな寂しさが広がるのを感じつづけた。


 目が覚めると、薄暗い部屋の天井がぼんやりと視界に映った。外はまだ夜の帳が下りたままで、微かな光がカーテンの隙間から冷たく差し込んでいる。心臓はまるで胸を突き破るかのように激しく脈打ち、冷たい汗が全身をびっしりと覆っていた。彼女は無意識に震える手を見つめ、指先がかすかに痙攣しているのを感じとる。唇を噛みしめ、ゆっくりとその手を拳に握りしめるが、その動作一つ一つはまるで重りを持ち上げるかのように鈍い。

「夢……久しぶりに見た……」美月は声を震わせながら、夢の余韻が全身に絡みついているのを感じた。忘れたころに夢に浮かぶあの光景――崩壊していく現実、手の届かない場所にある救い――そのすべてが彼女を再び過去の闇へと引きずり込もうとする。それは、まるで古傷が疼き出すかのように彼女の心に喰らいついて離れない。夢と現実の境目が曖昧なまま、恐怖と喪失感が鉛のように胸にのしかかり、呼吸さえも浅くなっていく。彼女はふと口元を覆い、目を閉じた。深く息を吸い込み、吐き出そうとするが、胸の中にこびりつく感情は、どうしても振り払えない。

「……イーサン」不意にその名が口をついて出た。夢の中に現れたあの少年。彼の姿は、何かを訴えかけるようだったが、その言葉は届かなかった。彼が伝えたかったものが何だったのか、その答えを求めるように、彼の青い瞳が頭に浮かんだ。

 美月はシーツを指の関節が白くなるほど強く握りしめる。感情が暴れ出すのを抑え込もうとするかのように、ぎゅっと拳を握り締め、やがて重い体をベッドから引き剥がすようにして起こした。汗で湿った寝間着が肌にまとわりつき、不快感が体中に広がっている。だが、彼女はその感覚さえも現実に引き戻してくれるものだと感じるように、自分を冷静にさせようと意識を集中させた。

 わずかに開いたカーテンの隙間に目をやると、街はまだ夜の静寂に包まれていた。遠くには一日の始まりを予感させる微かな光が差し始めている。だが、その光を感じながらも、夢から解き放たれたばかりの彼女の心は、まだ現実へと完全には戻りきれていない。夢が残した恐怖と無力感が、まるで霞のように彼女の意識の周りに漂い、すぐには消えてくれそうになかった。

 鏡の前に立った美月は、自分の顔をじっと見つめた。青白い顔色、汗で額に貼りついた銀色の髪、そしてその奥にある虚ろな瞳。まるで別人のように感じられたその姿が、彼女の内側に眠る恐怖を映し出しているようだった。7年前のあの日、全てが変わってしまったあの日から、今もなお心に残る傷が癒えることはない。夢の中で再び蘇るその痛みは、彼女をどこまでも追い詰める。

「今日からまた始まるんだから……」美月は自分に言い聞かせるように、静かに呟いた。鏡に映る自分の姿を、現実に引き戻そうとするかのようにじっと見つめ続ける。過去の影が重くのしかかっていても、今、この瞬間に立っている自分を受け入れるために。

 美月は薄手の寝間着を脱ぎ捨てる。そのままシャワールームで冷たい水を全身に浴びた。肌を流れる水の感覚が、彼女を現実に戻し、頭の中を静かに清めてくれるように感じられる。そうしてしばらくは汗と思考を洗い流していた。

 新しい服を選び、体に纏わせる。シンプルな白いブラウスが肌に触れるたびに、心の中に少しずつ落ち着きが戻ってきた。それでも、完全に心が解放されることはなく、夢の余韻はまだ彼女を引きずろうとしている。

 朝食を摂る気力は湧かなかったが、冷たい水を一杯飲み干すことで、少しずつ心と体が目覚め始める。水が喉を通るたびに、夢の霞が少しずつ消えていくようだった。台所の窓を開けて外の空気を吸い込むと、冷たい早朝の風が彼女の心を内側から洗い流してくれる。彼女の顔にはようやく生気が宿り始めた。

 今日が大学2年目の始まりであるこの日は、特別な意味を持っていた。新しい学期、新しい出会い、そして新しい挑戦が待っている。同時に、先のテロ事件に関わる立場となったこともまた、彼女にとっての現実を強く意識させた。過去の影に囚われている暇はない。

「行こう」美月は静かに決意を固め、バッグを肩にかけた。玄関のドアを開け、一歩を踏み出すと、朝の静けさが街全体を包んでいるのを感じ、その瞬間微かな風が彼女の銀色の髪を優しく揺らし、今日という日が新たな始まりであることをささやいているように感じた。

 美月は静かに扉を閉めると、まっすぐに大学へと向かった。足取りはまだ重いが、一歩一歩確実に進んでいる。その先に何が待っているのかはわからない。それでも、彼女はその未来を受け入れる覚悟を持っていた。過去の重荷を抱えながらも、未来へと歩みを進める決意が、今の彼女には確かにあった。




 美月は大学の門をくぐり、いつもと変わらないキャンパスの光景が広がるのを目にした。新年度が始まり、学生たちが行き交う中で、彼女の心は依然として落ち着かない。足元に視線を落としながらも、周囲のざわめきが少しずつ耳に届き、彼女は現実に引き戻されるような感覚を覚えた。しかし、その現実はまだどこか遠く、彼女の心はわずかに過去の影を引きずっていた。

「美月!」明るい声が背後から響き渡った瞬間、彼女の曇った心に小さな光が差し込んだようだ。振り向くと、二人の女性が笑顔で近づいてくるのが見えた。彼女たちの笑顔には、どこかいつもと違う緊張感が漂っている。顔に浮かんでいる微笑みは、まるで薄い膜のようで、その向こう側には何か重たいものが隠れているようだった。一方で、美代は相変わらず明るさを纏いながら、手を振りながら近寄ってくる。その無邪気な様子に、美月はわずかに肩の力を抜くことができた

「美代、恵。久しぶり」活発な印象を与える美代と控えめな存在感をもつ恵。美月が明るく声をかけるこの二人は、大学生活が始まってからできた友人のなかでもかなり親しい部類に入る。

「久しぶりだね、元気だった?」

 美代がにこやかに問いかける。彼女の無邪気さにはいつも救われる気がするが、今日はその明るさの中に少しの不安が潜んでいるように感じた。美月は小さく頷き、短い挨拶を返した。新学期の始まりにふさわしい和やかな再会のはずが、その場の空気はどこか不穏で、次第に陰りを帯びていく。

「美月は事件の時こっちにいなかったからよかったけど、最近テロの話がずっと話題にあがるから不安で……」

 恵が小さな声で切り出すと、美代もその明るさを失い、神妙な顔つきになった。

「通勤ラッシュの地下鉄で化学兵器だなんて、本当にどうかしてる」

 美月はその話題に耳を傾けながら、胸の奥でざわつくものを感じた。最近、ニュースで再び大きく取り上げられていた事件。それはおおよそ2週間前に、都心の地下鉄で発生した化学兵器を使った無差別テロだった。多くの犠牲者を出し社会全体に不安を与えたその出来事は、まるで触れてはならない禁忌のようだったが、その反面で様々なうわさが飛び交い話題に尽きない。

「しかも、去年の事件とも似てるって言われてるよね? あの時も化学兵器が使われたって……」

 美代が声を落としてささやいた。去年発生した地方の小さな町での化学兵器を使った無差別テロ事件のことだった。その事件は、多くの命を奪い、周囲の住民たちの心に深い傷を残した。今回の地下鉄テロ事件は、その延長線上にあるとも言われているが、警察の強制捜査が入って尚も両者のつながりはまだ解明されていない。

「本当に怖いよね……松本の時も、普通の暮らしをしてた人たちが突然犠牲になったんだし」恵は、美代の言葉を受けるように言った。化学兵器が人々の生活を突然奪い去る恐怖は、決して他人事ではなくなっていた。東京という大都市で起きた今回の事件もまた、多くの無辜の人々が巻き込まれ、街中に大きな不安を広げていた。

「それに、地下鉄の事件もまだ犯人が全員捕まってないって話もあるし、関係者も多いらしいよ……」恵の声は、いつも以上に震えていた。彼女の瞳には、不安と恐怖が色濃く宿っていた。都市のど真ん中で起こったテロは、犯人の動機も、背景もまだ曖昧なままだった。

 美月はその話に耳を傾けながら、胸の奥で静かにざわつくものを感じていた。この事件は、ただの狂信者による無差別テロというだけでは片付けられない――美月はそれを知っている。民間に知らされている情報の範囲では、化学兵器が使われたこと、犯人がまだ特定されていないことなどが大々的に報道されていた。しかし、彼女は警察庁との関わりの中で、もっと深い闇がこの事件に関わっている可能性を知っているのだ。

 表向きの情報と自分が知り得る情報とのギャップが、彼女の胸に不安を膨らませる。地下鉄の中で何が起き、誰が動いているのか――その詳細はまだ知られていない。だが、その背後に大きな力があるのではないかという疑念は先の秋山との議論で明確になっている。

 彼女はふと視線を地面に落とし足元に広がる影をじっと見つめると、恵と美代の声は遠くで響くように聞こえ、彼女の心の中では静かに何かが揺れ動いていた。周囲で交わされる会話は、表面的にはただの噂話に過ぎないかもしれない。だが、その背後に潜む不安は、美月の心に小さな棘を刺し込むように響いていた。

 美月、美代、そして恵は、講堂に向かいながらゆっくりと歩く。足元には春の柔らかい光が差し込み、まだ冷たい風が頬をかすめる中、静かなキャンパスが広がっている。新学期の始まりでありながら、どこか気だるさと緊張感が漂うその中で、美代がふいに口を開いた。

「ねえ、聞いた? 次郎が言ってたんだけど、涼先輩の恋人、あの加奈子先輩が……地下鉄の事件に巻き込まれて危篤状態なんだって……」

 その言葉は、春の空気を一瞬で冷たく変え、彼女たちの間に重苦しい静寂をもたらした。

 美月は歩調を乱しそうになり、急に振り返った。

「加奈子先輩って……あの涼先輩の恋人の?」

驚きと共に、彼女の顔を思い出そうとした。加奈子は涼の恋人として知られていたが、美月自身は彼女とほんの数回顔を合わせた程度だった。それでも、あの地下鉄テロ事件に巻き込まれたという現実は、急に現実味を持ち、心に重くのしかかる。

「涼先輩、去年加奈子先輩にプロポーズしてたんだよね」

美代の声には、まるで春の陽射しが一瞬で翳るかのような深い哀愁が漂っていた。その言葉は、美月の胸にさらに重みを与える。冷静で頼りがいのある涼が今、恋人を失うかもしれない状況にあるという事実に、まるで絵に描いた世界が崩れ落ちるように感じられた。

「次郎が言ってたんだけど、涼先輩、かなり取り乱してるみたい……」美代は歩みを止めることなく、少し遠くを見るような目つきで続けた。

「加奈子先輩が事件に巻き込まれたときのこと、涼先輩は知らなかったから。それを聞いた瞬間から、彼、完全に動揺しちゃって……。普段はあんなに冷静なのに、まるで別人みたいだって」

 美月は静かに考え込んだ。いつも冷静沈着で感情を抑え穏やかに振る舞っていた涼が、恋人の危機に直面して取り乱すという話はまるで別人のようだ。だが、その話が事実であることを感じ取ったとき、心の中に何かが揺れた。

「次郎も、涼先輩のことが心配で……どうしていいかわからないみたい。彼、涼先輩と親しいでしょ?」

 美代の言葉には、次郎が苦悩している様子が滲んでいた。次郎は涼の信頼できる友人であり、いつも涼先輩を支えている存在だったが、今の話を聞く限り涼にはどんな言葉も届かないかもしれない。

 その時、恵がぽつりと声を上げた。

「そんなこと、あの涼先輩が……信じられないよね。でも、加奈子先輩が巻き込まれたなら無理もないか……」

恵の声には驚きと悲しみが混ざっていたが、彼女のリアクションはどこか戸惑いが見え隠れしていた。

「どうしようもないよね。そんな状況に置かれたら誰だって取り乱すんじゃないかな……」

 恵は美月の方をちらりと見た。彼女もまた、涼の強さに対して感じる違和感と、加奈子が巻き込まれたことの衝撃をどう処理していいか分からないようだった。

 美月の無意識に拳を握りしめた手が、じわじわと彼女の内なる焦燥感を物語っている。誰かの大切な人が、目の前で命を奪われるかもしれない――その考えは、美月にとって決して他人事ではなかった。心の奥底に埋もれていたはずの痛みが、再び姿を現し、静かに彼女を蝕み始める。かつて彼女が味わった、あの深い絶望。自分ではどうしようもなかった喪失感が、今も尚、心の中で波立っている。

「どうしたらいいんだろうね……」美代の言葉が、まるで春の風のように穏やかでありながら、その裏には冷たいものが隠れていた。その冷たさが、美月の心に波紋を広げるように広がっていく。

 美月は目を閉じ、一瞬だけ心の中で過去を振り返った。自分もかつて、ある存在を失ったことで、あの絶望の淵に立たされた。それがどれほど苦しいものだったかを、彼女は痛いほど知っている。だが、涼もまた今その淵に立たされようとしているのだ。もしこのまま彼が沈んでいくことになれば……その先に待つのは、自分がかつて見た景色だ。

 美代の声が静かに耳に届く。「ねえ、美月……顔色悪いよ? 大丈夫?」

 美月は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに笑みを浮かべた。だが、その笑顔はどこか硬く、作り物のように感じられた。

「大丈夫、心配しないで。ただ……ちょっと共感しちゃってね。私も似たような経験があるから」

 美代は少し驚いた表情を浮かべたが、それ以上は深く聞いてこなかった。美月もその瞬間自分が何か言いすぎたのではないかと内心で焦りを感じたが、表情には出さない。彼女の中には、自分だけが抱えている過去があり、それを誰にも知られないようにしてきた。そして、今もその秘密を守り続けなければならない。

 春の穏やかな風が再び彼女たちの間を通り抜け、さっきまでの冷たさを一瞬で和らげたかのように感じた。それでも、美月の心の中では、決して消えることのない冷たさが残り続けている。涼の姿が彼女の頭に浮かび、その運命が自分と重なりそうになるたび、胸の奥で不安が静かに膨れ上がっていく。

「そっか、無理しないでね」美代は優しく微笑みながらも、その微妙な違和感には気づいていない様子だった。

 美月は頷き、また少し微笑んで見せたが、その心はどこか遠くにある。彼女の中にある過去の影は、決して外に見せてはいけない――そう心に強く言い聞かせながら、彼女は一歩ずつ現実に踏みとどまるよう努めた。




 昼休みの時間になり、キャンパス内は活気に包まれる。美月は講堂を出て、人々の間をすり抜けながら次郎の姿を探していた。涼の状況を知るには、どうしても次郎に会って話を聞かなくてはならない。今、彼だけが涼の現状を知っている、唯一の頼りなのだ。

 広場を横切りながら、美月の視線は自然と周囲を彷徨った。そして少し離れた場所に、見覚えのある長身の男性が目に入った。肩にかかる茶髪を揺らしながら、何人かのグループと談笑している。美月は迷わず彼に向かって足を速めた。

「勝正、次郎を見かけなかった?」彼女が呼びかけると、勝正と呼ばれた青年がは少し驚いた様子で振り返りながらも、すぐに笑顔を見せた。

「次郎? さっき食堂の方に向かってたよ。昼飯に行くんじゃないかな」

「ありがとう。美代から次郎、元気がないって聞いたから気になってさ」

 美月はできるだけ自然な口調を保ちながら、軽い笑顔を浮かべて話を続けた。心の中では焦りが押し寄せていたが、表情に出さないように努めている。今は何事もなかったかのように振る舞うしかない。

 勝正の表情が一瞬曇った。「あぁ、涼先輩の話だろ? 詳しくは知らないけど、次郎がずいぶん心配してたな」

 その言葉が、まるで重い石のように美月の胸にのしかかった。動揺しそうになる自分を感じつつも、彼女はあえて表情を変えずに、淡々とした口調で返事をする。

「そう、ちょっと様子を見てくるわ。ちょっと心配になっちゃって」

 心の中では、次郎や涼のことが次々と渦巻いている。頭の中で焦りや不安がせり上がってくるが、美月はその感情をぐっと押し込めていた。涼先輩への心配と、自分が過去に経験した絶望――その二つが複雑に絡み合い、心の中で静かに広がっていく。しかし、それを表に出すことはできない。ここで感情を漏らすわけにはいかないのだ。

「またね」そう軽く告げて、勝正に手を振りながら、美月は食堂の方へと急いだ。心の奥では焦りが募っていたが、慌てている素振りを見せるわけにはいかない。彼女は自分の歩調を一定に保ちながら、少し早歩きで次郎を探す。


 数分歩いたところで、次郎の背中が遠くに見えた。ゆっくりと歩いている彼の姿を見つけると、美月の心は少し早鐘を打つ。焦りを抑え、彼女は足音を小さくして少しだけ小走りで追いかけた。胸の奥で膨らむ不安を押し殺すように、彼の背中へと近づく。

「次郎」静かに呼びかけたその声は、彼女の内心とは裏腹に平穏を装っていた。

 次郎はその声に反応して振り返った。彼の顔には、いつものように柔らかい笑顔が浮かんでいる。

「あれ、美月。どうしたの?」と、いつも通りの調子で問いかける。しかし、その穏やかな表情の裏に何かを隠しているように思えた。美月は無理にでも軽さを保つよう努めながら、できるだけ何気なく言葉を返した。

「勝正がね、次郎が元気ないんじゃないかって心配してたわよ」

 その一言に、自分の焦りが滲み出てしまわないように、美月は意識的に呼吸を整える。しかし、次郎の目の奥にはわずかに緊張が見え隠れし、美月自身もまた平静を装っていることを見抜かれているかのように感じた。

 次郎は美月の言葉に軽く笑みを浮かべたが、その笑顔にはどこか疲れが混じっていた。まるで何かを振り払おうとするかのような笑みだった。

「勝正のやつも余計な心配ばっかりして。でも、まあ……無理もないか」

 次郎の声はいつも通りの穏やかさを保っていたが、その奥には、わずかに緊張と不安が隠れている。美月はその表情を観察しながら、表面上は普通を装っている彼の内心を探るようにして話を続ける。涼先輩の現状が気になって仕方なかった。どこまで追い詰められているのか、その状況を次郎から何としてでも引き出す必要があった。

 美月は軽い調子でふっと笑みを浮かべながら、自然に言葉をつないだ。「勝正も意外とよく見てるわよね」

 次郎は頷きながら、「幼馴染だからな」と返し短い静寂が訪れた。次郎の目が一瞬、美月の目を探るように見つめるが、すぐに視線を落とし、軽くため息をつく。彼は、少しの間何かを言うのを迷っているようだったが、やがてその表情がかすかに暗くなった。

 次郎は少し間を置いて、再び口を開いた。「……涼先輩がさ、最初に加奈子先輩が危篤だって聞いた時、信じられないような顔をしてたんだ。俺も一緒にいたんだけど、その場ではただ立ち尽くして、何も言えなかった。いつも冷静な人が、突然崩れ落ちる瞬間って、あんな感じなんだなって思ったよ」

 彼の声は微かに震え、美月もその光景を想像しようとしたが、あまりに強烈で現実離れしたもののように感じた。涼が崩れ落ちる――それは、美月がこれまで知っていた涼のイメージとは完全にかけ離れたものだった。

「しばらくして、涼先輩はそのままどこかへ行こうとしたんだ。俺が声をかけたけど、まるで俺の言葉なんて届いてないみたいで、ただ無表情で歩き出した。それからずっと病院にいるらしいんだけど、誰にも会わないし、話もしてないって……完全に閉じこもっちゃってるみたいで」

 次郎の言葉には、まるで一人がどんどん深い場所へ沈んでいく様子がありありと浮かんでいた。涼は、その冷静さを失い、孤独の中で沈み込んでしまっている。美月の胸の奥で、冷たい感情がさらに強く押し寄せた。

「それで、病院で涼先輩を見た友達が言ってたんだけど……先輩は目がまるで抜け殻みたいになってたって。表情もなく、ただベッドのそばでじっと座ってるだけだって言ってたよ。そんな涼先輩を見てると、どうやって声をかければいいのか分からなくて……どうするべきか分からないんだ」

 次郎の声には、涼が変わってしまったことへの戸惑いと、自分の無力感が滲んでいた。彼が涼に何かをしたいと思っているにもかかわらず、そのどうしようもない状況に打ちひしがれているのが美月には伝わってきた。

「涼先輩が……そんな風に……」

 美月は、心の中で涼が絶望に沈んでいく姿を思い描かざるを得なかった。彼の冷静さと強さが崩れ去り、その場所に残されたのは無表情な抜け殻――彼女は、過去に自分が経験した絶望と、その姿を重ねずにはいられなかった。

「明日、涼先輩のお見舞いに行こうと思ってるんだ。加奈子先輩のことも知りたいし、何かできることがあるならやりたいからさ」と次郎は静かに言ったが、その言葉には確固たる自信があるわけではなかった。

「私も……一緒に行っていい?」

 美月は迷わず問いかけた。彼女の声には、彼を救いたいという真剣な思いが強く込められていた。涼先輩がさらに深く沈んでいく前に、何とか手を差し伸べなければならないと感じていたのだ。次郎は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその驚きを和らげ、軽く頷いた。

「もちろん、構わないよ。涼先輩も、知っている顔がいた方が少しは気持ちが楽になるかもしれないし」

 美月はその言葉に軽い安堵を覚えた。明日、涼先輩に会いに行く――彼の絶望を止めるために、彼女は何ができるかを考えながら、心の中で覚悟を決めた。

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R.I.S.E. アルギュロス・フェガリ @ArgyrosFegali

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