R.I.S.E.

アルギュロス・フェガリ

第1話 異質の狭間

 1995年、東京都の警察庁会議室――夕方過ぎの薄明かりが、窓の外に広がる都会の喧騒をほのかに照らし出していた。部屋の中では蛍光灯の無機質な光の下で、会議机の上に広げられた書類の束が微かに揺れ、まるでその場の重々しい空気を反映するかのようだった。

 ひとりの男が、机に向かい、鋭い眼差しで手元の書類を見つめていた。高身長でがっしりとした体型は、日々の鍛錬を物語っており、その筋肉質な体は彼の強靭な意志と決断力を象徴しているかのようだった。彼は書類に集中しつつも、内に秘めた焦燥と冷徹な覚悟が表情にわずかに滲んでいた。今、彼の思考は、彼女の到着を待ちながら、先を見据えている。

「お久しぶりです、秋山あきやまさん」

 ドアが静かに開き、一人の若い女性が現れた。彼女の白銀の髪がほのかに揺れ、その澄んだ青い瞳が一瞬のうちに室内を見渡した。対面する男の視線と交わると、その場に微妙な緊張感が走る。彼女の姿には、どこか儚げな雰囲気が漂っており、同時にこの厳粛な場にあまりにも相応しすぎる異質さを感じさせる。

「わざわざ来てもらってすまない白銀しろがね。座ってくれ」

 秋山は静かで落ち着いているものの、その奥底には隠しきれない深い懸念が潜んでいるのが感じられた。彼は手元にある書類の束を指で軽く叩きながら、沈黙の中で白銀に着席を促した。彼女は無言のままその対面に腰を下ろし、秋山から手渡された資料に目を落とした。

 室内には、深い静寂と、資料をめくる微かな音だけが満ちている。白銀は資料を流し読みしながらも、その背後に漂う不吉な暗い影を鋭敏に感じ取っていた。それは、まるで迫り来る運命を暗示するかのように、彼女の心に静かに忍び寄ってくるものだった。

「それにしても一介の宗教団体に過ぎないはずの彼らが、これほどの規模で事を起こすとは…。ただの狂信と片付けられる問題ではないでしょうね」

 秋山は再び資料に目をやる。その視線には一抹の陰りがある。

「少なくとも連中の内部に、が存在すると考えるのは否定してよいはずだが……」

 彼は言葉を濁しつつ、その可能性を完全には否定しきれないでいた。白銀もまた、その言葉の隙間に潜む恐怖と不安を感じ取り、冷静な声で問いかけた。

 秋山の脳裏には、絶望の底で死を迎えようとしながらもなお生き延び、その過程で異能を得た者たちの姿が浮かんでいた。彼は、そうした者たちの動向を知る数少ない監視者であるが、その声にはわずかに苦みが含まれている。

「自らこの世を去らんとした、それ故に得た力はあれども、そこから立ち直れたものはわずか……。ましてこのご時世だ。大半は説得に耳を貸すことはなく姿を消していった」

 そんな特異な者達の一員である白銀は自嘲気味に笑みを浮かべる。

「私のような例外は、そう多くないでしょうから」

 秋山と白銀の間に流れる微妙な緊張感は、互いの心の内を探り合う無言の対話となって続いていく。暗に示されるものは、未知なる恐怖と、それにどう対峙するかを問う不確定な未来への警告だ。

 再び書類に目を通していた白銀が、書類に記された事実に少しだけ眉をひそめながらつぶやく。

「それにしても、信仰に陶酔しただけに過ぎない連中がここまで無謀な手を打つとは……」

 その声には、僅かに苛立ちと冷笑が混じっていた。信仰にかこつけた暴力とその犠牲が繰り返される様は、人類の歴史においては少なくない。無意味で残酷な現実がまたも表出したことに対する忌々しさを白銀は隠せない。

 秋山は、彼女の言葉に苦悶の色を隠さずに返答する。

「逆だな。文字通り酔っているからこそ無謀な手段を手札に加えられるのだ。とはいえ完全に後手に回ってしまったな。主犯格の確保にどれほど振り回されるやら」

 彼の声には、現場での人員不足や混乱が、未だに燻る焦りと共に滲み出ていた。今回の事件が単なる狂信者たちの行いとしては、手に余るものだと理解するには十分すぎるほどの犠牲が払われている。

 白銀は資料を指で軽く叩きながら冷静に言葉を続けた。

「なんにせよ化学兵器を持ち出してまで事に及んだ以上、彼らにはそれ相応の理由があるはずです」

 その言葉は、秋山にとっても既に承知の事実だが、その背景に潜む「死に損ない」の存在が如何なるものかを測りかねていた。

「要するに、教団側の思惑にRISEに関連する何かが絡んでいる可能性があるという訳だ」

 秋山の声は冷たく鋭いが、その奥には事態の深刻さを推し量る苦々しさが潜んでいる。

「とはいえ教団内部を除いたとしても、私の手の届く範囲で予期しない活動的な死に損ないがいるとは考えにくいが……。悪名高い教祖の副産物で新たに死に損なった者が現れた可能性自体はあるが、そうだとしたなら矛先が矛盾する」

 彼の懐疑の裏には、これまでの情報が醸し出す不確定な要素が絡みついていた。いかなる場合でも、例外というものは常に存在するが、少なくとも国内の監視網が綿密に張り巡らされている中で、そのような存在が見逃される余地はほとんどない。秋山はその事実を知りながらも、完全に安心しきることはできなかった。

 白銀は、彼の言葉に軽くうなずきながら、遠くを見つめ、ゆっくりと口を開く。

「秋山さんが何を考えているのかは大体想像がつくわ。私たちがどのようにして産まれるのか、その過程を考えればやはり国外からやってきた不招請の客という可能性が大きく割合を占めている」

 彼女の瞳には、これまでの出来事が深く刻まれているかのような思索の色が宿り、その声は静かでありながらも、内に秘めた確信が感じられるもの。それは、既に異国の闇が日本の地に入り込みつつある兆しをほのめかしていた。

 二人の対話はあくまで冷静を保ちながら、その奥底に潜む得体の知れない恐怖と疑念が静かに揺らいでいる。目には見えぬ侵入者が日本の土を踏んでいるかもしれないという現実が、徐々に形を成していく。

 秋山は資料のページをめくりながら、軽く目を閉じた。長い沈黙が続いた後、静かに口を開く。

「敢えて言うまでもないが、今回はかなりややこしくなりそうだ」

 秋山のその一言に、白銀は表情を変えることなく、わずかにうなずく。二人の間で、状況に対する大まかな見解が一致していることは、ほぼ確定したと言ってよい。

「日本国内は静かだが、外の動きは不穏だ。特に、紛争中の国々については、予断を許さない状況だ」

 秋山は声を潜め、淡々とした口調で述べた。その声には、長年の経験からくる重みと、事態の深刻さがにじみ出ていた。

「そうね」

 白銀は静かに応じた。その言葉には、必要以上の説明を避けつつ、秋山との間に共通の認識を暗黙のうちに共有する冷静さが感じられた。秋山は手元の資料を閉じ、深い息を吐いた。

「国際的な壁を越えての捜査となれば、難題が多いだろう」

 二人はすでに、この状況が何を意味するのか、そしてどれほどの困難が待ち受けているのかを、共に理解していた。

 白銀は一度深く息を吸い込み、静かに提案した。

「向こうの出方がわからない以上、最悪は想定して然るべき。敵対勢力によるRISEの行使が否定できない以上、私は事態の収束まで裏方に回るのが妥当でしょう」

 その言葉には、彼女が自分の役割を冷静に見極める覚悟と、そこに漂う諦観が隠れている。秋山はそれを聞き入れた上で苦笑しつつ応じる。

「本来ならば民間人に対応させるようなことはしたくないのだがな」

 白銀は特例中の特例でこの場に居るが、そもそもは民間人でありましてや齢二十歳の大学生だ。極力巻き込むべきではないのは改めて言うまでもない。しかし、白銀は穏やかに微笑んでその気遣いをさらりとかわした。

「程度にもよりますが、やはり私たちを人間と分類するには度を越えていますから、仕方がないですよ」

 彼女の声には、戦いの相手がもはや通常の人間の枠を超えた存在であることを淡々と受け入れている冷静さがある。それは、自らもまたその境界にいる者としての自覚でもあった。秋山は少し視線を落としながら、言葉を続けた。

「どうであれ人間であることに変わりはない……心の脆さはどのような過程を経ても変わりはしないのだ。だから無茶だけはしないでくれ」

 彼の言葉は、彼女が変わり果てた存在であることを否定し、人間らしさを認める思いを込めている。だが、その一方で彼自身の葛藤も見え隠れしていた。そんな秋山を慰めるように白銀は微かにうなずいて見せた。そして静かに席を立ち、軽く頭を下げる。

「ではひとまず帰宅します。大学もそろそろ始まるので準備をしなければなりませんので」

 美月の口調には、任務の一環としての帰宅と、日常へ戻るための切り替えが淡々と含まれている。彼女にとっては、非日常と日常が交錯する生活がすでに当たり前のものとなっている。雄二も席を立ち、手にした書類の束を脇に抱えながら、軽くうなずいた。

「あぁ、そうだな。もう暗いから、帰り道は送っていこう」

 彼の声には、淡々としつつも彼女を気遣う温かさがわずかに滲んでいた。二人は無言のまま机を片づけ、静かに会議室を退出する。廊下を進むと、数人の職員がすれ違うが、彼らはそれぞれの仕事に追われつつも、秋山と美月に一瞬だけ視線を送る。その視線には、秋山に対する深い尊敬と、美月に対する一抹の戸惑いが混在していた。しかし、彼らはすぐに視線を逸らし、それぞれの仕事へと戻っていった。

 警察庁の外に出ると、夜の冷たい空気が二人を包み込んだ。秋山と美月は駐車場へと歩みを進め、その足元には月明かりがコンクリートの地面へ影を落としていた。夜の静寂の中で、二人の足音だけが淡々と響き、刻まれていく。

「乗りたまえ」

 秋山は、車のドアを開け、白銀を促す。彼女は静かに「お邪魔します」と答え、滑らかに車内へと入り込んだ。小柄な彼女が乗り込む様子は、どこか儚げな印象を残しながらも、堂々とした雰囲気を纏っていた。

 秋山が運転席に乗り込むと、ポケットからマイルドセブンの箱を取り出し、一瞬白銀の方を伺う。しかし彼女は慣れたように微笑み、「お気になさらず。気にしません」と穏やかに答える。

 その言葉を受け、秋山は軽くうなずき、「そうか。では遠慮なく」と返して、煙草に火をつけた。煙が静かに車内に漂い、二人の間に淡い霧のような層を作り出す。秋山は一息ついてから、車のエンジンをかけた。

 車が静かに駐車場を後にする。車内の空気は穏やかでありながらも、無言の時間が続く中、どこか安らぎと緊張感が同居している。その夜の静寂に包まれた中で、二人はそれぞれの思いを抱えながら、東京の夜を走り抜けていく。




 ドアを開けて部屋に足を踏み入れると、いつもの冷たい空気が白銀美月みつきを迎えた。その無機質でありながらも整然とした空間は、彼女にとって奇妙なほどの安堵感をもたらしていた。彼女は鞄を音もなく置き、靴を脱ぎ去ると、迷うことなくまっすぐに窓際へと向かっていった。

 美月はそっとカーテンに手をかけ、ほんの少しだけそれを開く。眼下には、夜の帳が一面に広がり、無数の街灯が寂寥感せきりょうかんをもって静かに瞬いていた。外から入る微かな風と共に、彼女はその静寂と暗闇の中に、自らの孤独を重ね合わせている。遠くにちらつく灯りは、彼女の胸に僅かな寂しさを投げかけ、深い無常感を引き起こした。

 その感情に囚われるまま、自然と彼女の手は胸元へと伸び、無意識のうちに薄手のブラウス越しに刻まれた傷跡をなぞり始めた。その指先は、冷たさを帯びた空気に触れたかのようにひんやりとしていて、指が滑らかに動くたびに、過去の痛みと現在の自分が複雑に交錯する。その一瞬、美月は思わず息を止め、瞳を閉じた。その指先に感じるかすかなざらつきが、まるで彼女の胸に小さな炎を灯すように、心臓をゆっくりと脈打たせた。

「この傷が、私を今の私にしたのね」

 彼女は囁くようにそう呟きながら、指先で優しく傷を撫でた。それは自らが過去に手繰り寄せた死の形、絶望の底で衝動が捺した烙印とも呼べる。柔肌に刻まれた過去を撫でる刺激が甘美なものへと変わり、胸元の温もりが彼女の心をさらに深く揺さぶった。美月はその感覚にしばし浸り、まるで自分自身の内に秘めたる深淵を覗き込むようにして、その傷を確かめ続けた。

 そのとき、窓の外で風が木々を揺らし、葉がかすかな音を立て、その音がまるで夢から醒ますように美月の耳に届く。彼女はそのわずかな物音に現実へと引き戻され、少し目を瞬かせた後、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 美月はバッグを開き、秋山から渡された資料を取り出すと、机の鍵付き棚に静かにしまい込んだ。その動作から彼女の慎重さが垣間見える。大学で使用する資料を丁寧にバッグに詰め、玄関先にバッグを置いてからそのまま脱衣所へ向かった。

 脱衣所に入った美月は、鏡に映る自分の姿と対峙した。彼女の瞳に映し出されるのは、色が抜けた髪と、日本人らしからぬ青い瞳を持つ自分自身の姿であった。その髪は、かつて彼女が背負ってきた過去の数々の苦悩や、心に刻まれた深い遺恨によって色を失ったものだった。もともと黒く艶やかだった髪は、今では白銀のような色合いを帯び、まるで彼女の心に宿る陰影を反映しているかのようだった。 

 ストレスと苦悩が彼女の外見にまで影響を及ぼし、髪の色を奪い去ったのは、無理もないことだった。美月はその髪に手を伸ばし、指先で軽く触れた。その白銀の髪は、彼女にとってはかつての自分とは異なる、しかし今の自分を象徴するものであった。

 ヨーロッパで見られるような青い瞳もまた、彼女にとっては運命のいたずらのように感じられるものだった。それは日本人であるはずの彼女に異質さを与え、その姿は鏡越しに見てもなお、現実感が薄い。だが、彼女はその異質さを受け入れていた。それは、彼女が経験してきた非日常の象徴であり、今や彼女にとっては当たり前の一部となっている。

「私は絶望の底から這いあがった。人間は現状を受容することで再び立ち上がる。そして、目的を据えたときに初めて歩き出せるのよ」

 美月はそうつぶやきながら、再び決意を新たにした。鏡に映る自分の姿を見つめ、過去の自分と今の自分を静かに見つめ直す。彼女の髪の色が変わろうと、その瞳に宿る決意は変わらない。彼女はこの姿で、これからも自分の道を進んでいくと、静かに誓った。




 一方で、白銀を送り届けた秋山雄二ゆうじは自宅に戻り、再び書斎に足を踏み入れ、資料に目を通しながら深く考え込んでいた。最近の事案は、単なる狂信者の暴走とは言い難いほどの複雑さを帯びている。地下鉄テロ事件や、昨年の松本テロ事件など、異常な行動を示す教団が背後に関わっていることは確かだ。しかし、その背後にさらに深い闇が潜んでいる可能性があることに、雄二は気づいていた。

 雄二は、教団に関する報告書を再び手に取り、その内容に目を走らせた。この教団は、超能力や転生といったカルト思想を強く押し出し、信者を国家転覆に導こうとしている。その中でも教祖が特に執着しているのは、超能力と称する力だった。彼はその力を神聖視し、無限の力を得ようと執念を燃やしている。しかし、雄二はこの教祖が実際にRISEに直接関与しているかどうかについて、深い疑念を抱いていた。

「教祖は、確かに超能力に固執しているが、どうも腑に落ちない…」

 雄二は独りごちた。教団が化学兵器を使用し、テロを実行に移した背景には狂信的な動機があるのは確かだが、RISEという現象に関しては、教団内部でその力が実際に掌握されている様子は見られない。教祖自身が「力を得る」ことを至上の目標としているならば、もしRISEの力が彼らの手にあるならば、それを利用するはずだ。しかし、現時点での調査からはその兆候が一切見受けられない。

 雄二はデスクから立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。彼の足音が静かな書斎に響き、その一歩一歩がまるで思考を整理するためのリズムのようだった。彼は考えながら、書棚に並ぶ資料に視線を走らせ、必要な情報を求めるかのように無意識に手を伸ばした。だが、途中でその手を止め、深い溜息をついた。その仕草には、彼の心情を示す複雑な感情がにじみ出ている。

「おそらく、黒幕が教祖に接触し、知識や技術を与える形で入れ知恵をしているのだろう…」

 雄二は再びデスクに戻り、椅子に腰を下ろすと、頭を軽く振って思考を整理し始めた。教団の背後に潜む存在が、教祖を駒として利用し、自らの計画を進めるために操っている可能性が浮かび上がる。教団がRISEを直接手に入れることを避けているのは、教祖自身がその力を恐れているからか、あるいは黒幕がそれを意図的に避けさせているのかもしれない。雄二はその可能性を考えながら、次の一手を模索していた。

「教団がRISEを手に入れようとしていないことが、この仮説を裏付ける」

 雄二は手元の資料を閉じ、デスクの上に静かに置いた。国内での監視網から得られた情報や、情報提供者からの報告によれば、活動的な「死に損ない」が存在する兆候は見られない。もし教団がRISEの力を得たならば、もっと明確で破壊的な行動が起きているはずだ。それが起きていない以上、教団内部で力を得た者がいるわけではなく、むしろ彼らは力を操る者ではなく、外部から導かれている者である可能性が高い。

「となると、教団内部で力を得た者がいるわけではない。むしろ、彼らは力を操る者ではなく、導かれた者だと見るべきか…」

 雄二は深く息を吐き、次の手を考える必要があると決意を固めた。教団の背後に潜む影は、国内の暴力行為を超えた何かを示唆している。地下鉄テロ事件や松本テロ事件の恐怖が、ただの狂信者たちによるものではなく、さらに深い意図が絡んでいる可能性があると考えられた。

「この連中を放置するわけにはいかない…だが、慎重に動かなければならん」

 雄二は自分の仮説に納得すると、冷静に次の行動を考え始めた。国内でのRISEに関する異常な動きは見られないが、国外で何かが進行している可能性がある。特に、旧ユーゴスラビア地域における不審な活動や、他国のテロ組織との繋がりが鍵を握ると考え、国際的な捜査協力の必要性を強く感じた。教団の動きにとらわれず、黒幕の意図を探るため、各国との連携が不可欠であることは明白だった。

 雄二はそのままパソコンを立ち上げる。起動を待つ間、雄二はその時間を利用して、デスクの引き出しから煙草を一本取り出し、無言で火をつけた。煙草の先から細い煙が立ち昇り、部屋の静寂をわずかに乱した。彼は煙をゆっくりと吸い込みながら、パソコンの画面が徐々に起動するのを待った。煙が肺の中に広がり、彼の思考がさらに深まっていくのを感じる。

 やがてパソコンが立ち上がると、雄二はすでに接触を図っている海外の監視者たちに向け、情報共有と調査協力を求めるメールを作成し始めた。彼は、タバコを口にくわえながら、キーボードをリズミカルに叩いていく。煙が彼の視界をわずかに曇らせるが、その鋭い目つきはスクリーンに集中している。

 時折、タバコの灰が長く伸びると、彼は口元からタバコを取り、灰皿に軽く叩き落とした。その仕草は無意識のうちに行われており、彼の思考は完全にメールの内容に集中していた。再びタバコをくわえ直し、キーボードを叩く音が静かな部屋に響き続ける。

 雄二はキーボードを打つ手を一度止め、深く息をつく。状況が複雑に絡み合う中で、わずかな手がかりが命運を分けることを痛感していた。タバコの火が消えかけているのに気づき、彼は無言で新たに一本を取り出し、手慣れた動作で火をつける。再び煙草の煙が静かに立ち昇り、部屋の空気に溶け込んでいった。

「手遅れになる前に、全てを掴む必要がある。」

 送信ボタンをクリックし、画面に表示された送信完了のメッセージを確認した雄二は、冷静さを保ちながらも、内に秘めた緊張感が徐々に高まっていくのを感じていた。二本目の煙草をゆっくりと吸い込みながら、彼は次の一手を練り始めた。

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