白妙の鎹

汐史 故

本編

眠るように静まり返った町。

人っ子一人おらず、どこか隔離されたような異質な空間。

田舎と呼ぶにも贅沢、辺境地と呼ぶに相応しいこの場所にあるものと言えば、無人駅に錆びたガードレール、ぽつぽつと佇んだのっぽな墓ぐらいである。

しかしこの時期はというとそれに加えて、白色に模様替えした山と、春の訪れを待つ田畑が遠くまで広がるのだ。木々は冬の重さに項垂れ、白銀の霜を着た枝がやみくもに空へ手を伸ばす。

久々に足を運んだ故郷は昔を鮮明に思い出すほど、何もかもが色褪せずあの時のまま。それはもう鬱々するようであったが、同時に不覚にも私は懐かしさがこみ上げていて、本能には逆らえないのだと一人ため息をつく。


故郷であるここは丁度私がやって来る数日前から雪が降り始め、辺り一面が雪に覆われており、今は一時的に姿を消したが言うまでもなく極寒である。

そして喪服から着替えたまさに今着ているこの服が、寒さに到底耐えられるものではない薄着であることに改めて後悔していた。上京したことで冬の暖かさに慣れてしまったのか、感覚が鈍ってしまったのか。うっかりしていた。

ぶるりと強く身震いをしてみるも、駅に向かう為のバスはからっきし顔を出さず。過疎地域も過疎地域だ。流石、一日に数本しか走らないだけある。

幸い行きは駅からタクシーがでていた上に、急ぎであった為迷うことなく使ったが、帰りとなるとまた話が変わってくるのだ。それに、この年齢にしてむなしくも未だ節約を心掛ける生活は続いており、悲しい現実ではあるが私に残された選択肢はろくにないらしい。

決して到着時間が早くなる訳でもないと分かっているのに、ちらちらと何度も時刻表を覗くが本当に意味がなく。本数の少なさに学生の頃は腹が立って仕方なかったが、今は大人としての余裕ができたのか、ただ慣れてしまったのか、そういうものなのだと自然に受け入れていて、ただひたすら待つのみである。

氷のように冷たい椅子ももはや体の一部となっていて、安心感さえ覚える始末。二、三度ほど大きく欠伸をし、私を襲う眠気にそのまま身を預けてしまおうかと思い始めていたところで、乱暴に雪を踏みしめながらゆっくりとバスが目の前に停車し、慌ただしくドアが開かれた。

凍り付くようにひんやりとした空気が立ち込めた車内を進む。乗客は勿論のこと私しかおらず、それこそ席は選び放題ではあったのだが、何となく後ろの方の席に腰を下ろした。

静かにバスに揺られていると、先程からの眠気もあり、何だか今日のことも現実ではないように思えてきて、深く眠ってしまいそうになりながら、ぼーっと窓の外を眺めてみる。無論、窓ガラスは曇っており目を擦った時のように不明瞭だったが、暖かくオレンジ色に染まった夕焼けの光だけは私を照らしていた。


しばらくして前へ顔を戻すと、鏡に映る運転手の顔が目に入る。どうやら私の人生長い間を共にし、お世話になった運転手は私のいない内に新しい人に代わってしまったようだ。しかし、もうあれから二十年近く経っているので無理もない。

時間が過ぎるのは遅いようで早いのだと、使い古された言葉を繰り返し噛み締めてみる。

だがそんな時間もつかの間。

不規則なリズムを奏でるゆりかごのようなバスが大きく乱れ揺れ、横の席に置いていた荷物が音を立てたことで我に返った。

私が生まれた頃から相も変わらず、いつまで経っても舗装されない荒れた道路。デコボコとした地面は子供のお遊びのような、くだらない前戯のようでもあり、私が故郷を苦手としている原因の一つでもある。誰もが不本意であったはずの私の帰省は、ほんの少しの侘しさを残して終わるのだとかなんだとか。

母の件がなければ、二度とこの地を踏むことはなかったのだろうか。愚痴不満に近しい自問をこぼす。


そもそもの話、ここへ帰ってきたのは、母が亡くなったのだと連絡を受けたからであった。

急遽一日葬の日程を取り決めた前の日のこと。母が生前仲良くしていた数少ない取り巻きのような友人複数人から、まくし立てるように何度も電話を受けた。だがまるで頭に入らず、ただ私は皆に平等に訪れる瞬間が母にも来るべくしてきたのだとやけに冷静だった。

母は少し前から病気を患っており、もう先は長くなかったのだと。しかし、何があろうと息子である私には言うなと頑なに止められていたらしい。

そんなこと知りもしなかった。いや、知ろうとすらいなかった。恐らく、一連の流れを知るお節介なあの人達からは、薄情で親不孝な息子だと思われているに違いない。なぜなら、あれほど望んでもいなかったあの人達との再会は、肉親を亡くした私への慰めでも久々の帰省への歓迎でもなく、私への敵対心とよそ者を見るような冷たい視線で溢れかえっていたからだ。

なんせ、昔から母は悲劇に巻き込まれた被害者の如く振る舞い、同情を集めるのが得意だった。


何十年も前。私は波に抗うことなく流れるように地元の高校、地元のそれなりの大学を卒業した後、幾度となく面接を受けやっとのことで今の会社に就職し上京した。

本来ならば、この辺りで一番いい会社で働くかと拒否権のない半ば強制的な提案をされていたのだが、私はここで生まれここで死んでいくのだけは絶対に御免だと、逃げるように遠く離れた場所を選んだのだ。

家族関係を修復することへの諦めだけを抱えたその頃には、すでに私と母の関係は冷え切っており会話もなく、家族と呼ぶより他人と呼ぶ方が正しく見えた。

上京してからも母と連絡を取ることはなく、私も新生活に馴染むことに必死ということもあったが、あくまでもそれは建前であり。実際のところ、母への嫌悪感と、それでも生まれ育った場所を捨ててきたという事実や底なしの罪悪感から、この場所に関するすべてを自然に避けていたのだと思う。

何より私は、家族というしがらみから解放されたかった。家族なんていなくとも、私は一人で生きていける強い人間なのだと、誰にでもいいから証明してみせたかった。今考えれば、あれこそ弱い心が生みだすもっともな虚栄心の塊であったが。


私は両親からの愛情を特別感じたことはなかった。それに気づいたのは皮肉にも、まだ物心ついたばかりの幼い頃だ。

両親はいつだって厳しく、高校を卒業してからは特に私が家で過ごすのをどこか嫌がってるようで。常に私は居場所がなく、存在そのものを否定されている気がしていた。

最初こそ両親に認められるべくあらゆる努力を重ねたがしかし、それは何もかもが無駄なことだとすぐに自覚する。なぜなら、結局両親は私には何も求めていないからだ。何も求めていないからこそ何も叶えられず、それこそいくらでも替えのきく存在であり、私でなくてはならない理由などどこにもない。くだらない偶然が重なったがために、私がここにいるだけであった。

体裁ばかりを重視する父。そんな父の言いなりになるだけの母。

父は仕事柄出張続きで滅多に家には帰らず、唯一顔を出すのは酒を飲んで帰ってきたときだけだった。改めて情けない父だと実感するが、私は父が酔っ払っていないときの姿を鮮明に思い出せない。

そして人恋しい母は、主人の帰宅を知らせるインターホンの音が鳴る度に安堵の表情を浮かべ、まるで家政婦のようにせっせと働く。

うるさく耳障りな大きな声で都合よく豪語し、下品な笑い声をあげてアルコールの匂いを漂わせる父。そんな人間の顔色を窺い、ヘラヘラとご機嫌取りをする母。私は母に同情すると同時に、なんて馬鹿らしいのだと思いながらいつも見ていた。

しかしふと過去を振り返り、あの時の父に対しての母の姿が、母に対しての自分の姿とまるっきり同じだったということは、今になって分かったことであるが。

部屋の片隅の日の当たる場所で丸くなり、真っ黒な瞳でこちらをジッと眺めていた実家の飼い猫も、もしかすると私と同じことを感じていたのかもしれない。

父がいないときの母は、どこか哀愁が隠れていた。とにかく本能的にぶしつけに人を求めているような、寂しい人間というのは母のような人を呼ぶのだろうと、子供ながらに感じたのを覚えている。


元々、両親は私に対して過干渉だった。まずまず、この町ではプライバシーなどありやしないが、味方であってほしかった二人さえも私のすべてを把握し管理したがり、あの頃の私の人生とは両親の人生と呼ぶに等しかっただろう。

そして「お前をそんな風に育てた覚えはない」これが父の口癖だった。本の中でしか聞かないような時代錯誤な言葉。私はそれでも父の作る道をその通りに歩むしかなかったが、母は救いもできないのに時折私を憐れんでいた。


私が大学に入学してしばらく経った頃、父が不運にも交通事故で亡くなった。

母はいくら強がっていても憔悴しきっているのが目に見えて分かったが、私はかえって落ち着いていた上に、余計にひどくなった母から私への過干渉でそれどころではなかった。一つ確かなことは「お前のためだ」と聞き飽きた嘘をつく父とは異なり、母の思惑は謎のままだということ。

しかし、母はそれでも私自身を見てはいないようで、言ってしまえば父の面影を残した息子である私を、父というフィルターを通してみているだけであって。私を見ているのに、私を見ていない。それが尚のこと苦しくてたまらなかったのだろうか。私はますます、母への負の感情で満たされていった。

だが視野が狭く、限られた世界で生きる純粋なものほど洗脳しやすいもので、ましてや現代から隔離されたも同然のここでは尚更、自分の最も近くにいる親を信じるしかなく。懲りずに母への愛情を求めていた影が今でも残っている。


だがそれは、私が就職に失敗し何度も面接に落ちた途端に終わりを告げた。

私が父のような世間から優秀とされる人間にはなれないと、母が望む人物像には当てはまらないのだと、私自身が悟る以上に母も感じていたのか、別人のように呆気なく無干渉へと変わったのだ。

良く言えば、私に関することは全て私に選択権が委ねられた。まさに喉から手が出るほど求めていた自由である。

本当にこれで両親の呪縛から解き放たれるのかと、疑い湧き出る不信感と、無干渉となったことで完全にこの家にいないものに成り果てた自分という存在への憐憫。

何よりも胸が張り裂けそうになったのは、無干渉が始まってから二度と、私の誕生日を祝われることがなくなったことだった。どれだけ痛ましい日々を送っていても、私がこの世に生まれてきたことが喜ばしいことでなくても、この日だけは生きててもいいと思えた日。

最初は本当に悪夢に飲み込まれてしまいそうなくらいに耐え難いものであったが、慣れとは恐ろしいもので、仕方のないことだと割り切ることが、案外できなくもないらしい。突然の環境の変化に適応できたのは、嬉しくもないが今までの積み重ねだろう。その状況を自然と受け入れるのが、私にはちょうど良かった。

母は決して私を無視することはなかったが、よそよそしさは消えずに蔓延り、未だ私を哀れんだ目で見つめる母へ虚しさを募らせていた。

母が何を言おうと私よりうんと遠くで話しているようにみえて、その度に曖昧に聞いていた。私が母に近づけば近づいた分だけ、母が私から離れていく気がした。

そんなことを繰り返していた結果、母とは普通の親子になれないのだと分かった。いや、最初から分かりきっていたのかもしれない。納得のいったふりをすることで、私は少し心が軽くなったように感じ、ようやく自分のために生きていく術を身につけたのだと思えた。

だが血は何より揺るぎなく、憎らしくも私はやはり不器用な母によく似ていた。


両親の事を恨んでいないと言えば噓になるだろう。私は父のように、醜い嘘はつけない。だが、ただ恨むだけには烏滸がましいほどに思い出が記憶に居座っている。

蒸し暑い夏の日、首を滴る水と入りまじった汗をタオルでふき、浴室からでた瞬間に向いいれてくれた夕飯の匂い。

両親と出かけた帰り道、肌寒さを静かに味わいながら、車の窓をつたう雨粒を指でなぞったこと。

湯気を立たせたお椀が机に3つ並び、正面に鎮座したテレビから音が絶えない大みそかの日。

口を一文字に結び泣きべそをかきながら、眩しい夕焼けを反射した稲穂の香りが包む道を、母と手を繋いで歩いたあの日。

忘れる必要もないが、忘れなければ苦しかった。


母の遺骨を手に、再び窓へ目を向ける。

今なら言えるだろう。年を重ねるごとに小さくなってゆく、母であるあなたの背中を見て育った、これが私なのだと。胸を張って母の子に生まれてよかったとは決して言えないが。

ああ、なんだか少し名残惜しい。

思い返せば、あれも母なりの愛だったのだろうか。もっとも、真っすぐなほどに歪んだ愛情には違いなかったが。

しかし、母が亡くなる前にもう一度だけ、母の作るおでんが食べたかった。

完璧主義である父の影響から、家事に高い水準を求められる母の作るご飯は、どれも手間がかかっており美味しかった。中でも、少し味の濃いおでんがたまらなく好きだった。というよりも、私自身おでんだけでなく、あのおでんを作るときの母を愛していたのだと思う。

台所に立ち、やや大きめに包丁の音を響かせながら具材を切る母。慣れた様子で不愛想に私を呼び、味見を求める母の声。毎度呼ばれると分かっていながら、素知らぬ顔でただその瞬間を黙って待つ私。

あの時間だけは、体の芯まで染みわたる料理の温かさを、母からの愛だと思い込むことができたからだ。

今更こんなことを言おうと、全て終わってしまった後だというのに。未練と後悔が波のように押し寄せてくる。


白い息を吐くと、私はのろのろと横から封筒と風呂敷を取り出した。

どちらも、実家で見つけたものである。

母だけが残された空っぽの家には大して物もなかったが、整理と片づけをしなくてはと思い母の部屋を確認していたときに、タンスにしまわれていたのを持ち出してきてしまった。

それもそのはず、風呂敷はなんだか大事なもののように見えたし、厚みのある封筒の中に納まっていた手紙に至っては私に宛てたものだったからだ。

母は私に何を思っていたのだろうか。一つ、真実を知るとき人間は尋常じゃなく鼓動が早くなるらしい。

寒さで震える手で手紙を取り出した。達筆だが読みづらい字。白い紙がほとんど黒く埋まってしまうほどに文字が綴られていた。

そんなのが何枚も何枚もあるものだから、きっと全てを読み終わる頃には家についてしまうだろう。

そして何も語らなかった母は、ここで多くのことを語っていた。


この町にいるのは全員が大人の皮を被った子供で、皆が過去にとらわれて生きてる。冬が終わる頃に草木が芽吹くことはなく、誰も成長できずに、共倒れのように終わりを告げるだけ。少しの油断が命取りになる、何もない息苦しいこの町から早く抜け出してほしい。

だけど心優しいあなたをきちんと育ててしまえば、誰に頼まれなくとも母親である自分を残せず一緒になって埋もれてしまうはず。だからこそ必要以上に厳しくし、私を憎んで離れたがるように仕向けた。

私はあなたにもっとちゃんとした愛で接して、もっと家族として過ごしたかった。あなたは私がお腹を痛めて生んだ子で、何歳になっても可愛い息子。雑草のように、水を与えずとも立派に力強く育ったあなたを誇りに思う。

息子である心の底からあなたを愛してる。それでも、あなたが私を憎んでくれているのなら嬉しい。


そう書かれていた。

拍子抜けした。なぜなら母のような人間こそ、ここを愛しここに愛され、ここで生まれここで死んでいくのだと思っていたからだ。

結果、確かに母が願っていた通りに私はここを抜け出した。だが、私の気持ちはどうなるのだろうか。この自己中心的で一方的な内容が私の為だったと、私が憎むことで母が報われると、そう言いたいのだろうか。

怒りと悔しさでシワだらけになった手紙には、私に向けられた謝罪の言葉と、私が祝われなくなってから今まで繰り返してきた誕生日に向けたお祝いの言葉でいっぱいだった。

そして手紙が更に滲み、文字がかすむまでにさほど時間はかからなかった。

私は手紙を封筒に戻すと、風呂敷が守っていた物が何であるのかをどこか予想できながら、硬く結ばれた結び目を力強く解く。若干の埃っぽさを纏うそこには、私が今まで母にあげた物だけが並んでいた。

純粋な気持ちで渡すことも少なくはなかったが、大半は母へのご機嫌取りという不純な動機を兼ねたプレゼント。そんな含みのある感情さえも受け入れ、まるで我が子を抱擁するかのように大切に包まれていたすべて。入浴剤にハンカチにポーチ、母の好きだった花が描かれた湯呑み、あかぎれの塗り薬まで。薬なのに使わずにとっておいてどうするのだと、私は呆れて笑うことしかできなかった。

白く冷え切った息とは反対に、目頭が熱くなるのを感じる。

何よりも許される側でいるより、許す側でいる事実が辛く、いっそのこと母が私を一切愛していなければどれだけ気が楽だっただろうか。本当に同情させるのが上手く、不器用な人だ。


幼い頃に子供でいることを認められなかった人間は、自分自身を偽り変に大人びた子供として成長するが、ふとした拍子、あるいはある程度の年齢に達したあたりで過去の呪いから解き放たれ、子供のような振る舞いをするのだと気づいた。

私も母の言うように、変わらず大人の皮を被った子供なのかもしれない。

まるで縋るようであったが、今だけあの瞬間をやり直せないだろうか。あの時に言えなかったわがままを言わせてはくれないだろうか。

ここにいるのは静寂に息をひそめる者たちと、永遠に時間の進まない孤独な冬だけだ。

「母さん...」

白い町を背に、母の遺骨が入った骨壺を、あまりにも小さくなってしまった母を抱きしめ私は目を瞑った。

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