私は影だった

白川津 中々

◾️

私は影だった。



指が震えて汗が止まらず大変みっともなかったものだから医者に診てもらうと精神的なものだと診断された。自律神経が失調しているそうだ。




「最近旦那さんとご無沙汰でしょう。出るんですよ、そういうのが」




馴染みにしている先生は下世話な話が好きで、決まって失礼な事を言う。




「なら、先生がお相手してくれるのかしら」


「いや、あと五年若ければね」




あと五年、どちらが若ければよかったのか。歯痒く、癪に障る。こんな老耄にさえ女として見られていない。あまりに自分が哀れでならない。




「しばらく休んでください。旅行などいかがでしょうか。今頃は駒ヶ根なんていいですよ」


「それは、どちら」


「長野です」


「そう」




長野だなんて、縁のない場所では休めるものも休めない。それになんだか逃げ隠れしているようで、返って苦しくなりそうだ。




「考えておきます」


「ま、あまり考えすぎない事が肝要ですよ。人生上手くいかないもんですから」




先生の助言を聞き流し、診察料をお渡ししてお帰りいただいた。「気休めですが」と言って渡された栄養剤だけが部屋に残る。どうせ飲まれもしないその錠剤は寂しげで今の自分と重なる。家仕事をするだけで、誰にも見向きもされない私と。




「……」




無意識に、箪笥に隠していた指輪を取り出して、見る。宝石が散らばった、金色の下品な装飾。私のサイズではない。




こんなものを。あんな女を。




指輪の持ち主と旦那の顔を想像し、激情に駆られる。私を見て見ぬふりしている人間に対しての激しい感情。これまで抑えてきた心にひびが入る音がした。どうして今更、脈絡もなくと思いはしたけれど、いつだってそんな時は突然やってくるものなんだろうなと不思議な納得があった。




「しょうがない、しょうがないから。ね」




ほんの僅かに残った律しようとする自分を宥めるように言い聞かせる。しょうがない、しょうがないのだ。こうなってしまったら、もうしょうがない。


家を出て、女の部屋へ行く。扉を叩くと間抜けな顔をして出てきて、私を見るや否や鼻で笑った。許せなかった。間髪を入れずに忍ばせていた包丁で刺し殺す。喉に穴を空けてあげたから声も出ないようだった。胸焼けしそうな甘ったるい馬鹿みたいな声を最後に聞かなくてよかった。血を洗い、その足で旦那の勤め先へ。旦那は「困るね」と言った。そのまま刺して殺した。心地よかった。呪縛から解放された気がした。私を影のように扱ってきた人間の命が消えていくのが快かった。悲鳴と、こちらに向かってくる足音が聞こえた。それが面白かった。影ではなく、皆私を見るのだ。この日が、この時が、私として一歩踏み出した瞬間。手の震えもなく、汗も止まっていた。もう、私は影じゃない。

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