第91話 文化祭—4

「こうなるはずじゃ…、こうなるはずじゃなかったのに……!!」


女子トイレの個室にて、桃山京香はため息混じりで虚空に文句を吐き捨てた。


「うぅ…」


特に尿意も便意も感じていない。ただ文化祭の空気に耐えきれず逃げて来た先がこのトイレであった。それも、普段生徒が使うような所ではなく、教室棟から遠く離れた辺鄙な場所にある薄暗いトイレである。


そんな場所に隠れるようにやって来た桃山は、個室の壁に寄りかかり、しゃがみ込んで表情を曇らせる。


「ウチには眩しすぎる…。眩しすぎるよ!」


半ば自暴自棄になりつつある頭の中で思い浮かべるのは、ワイワイ文化祭を楽しんでいた生徒たちの姿だ。

手を組んだり、写真を撮ったり、食べ物を食べさせあったりしている光景がトイレの白い壁に映し出されるような気がした。

それは桃山が望んだ光景であり、そして叶うことのなかった光景である。


「言う勇気が出ないんだよなぁ、『一緒に回ろう!』の一言が…」


もちろん桃山は色んな人と文化祭を回ってみたいと思っていた。しかし、誘おうとしても中々それを実行に移すことができず、さらには早い段階から『ねえねえ一緒に回ろー!』という話はクラス内でも出ていたので、そもそも桃山の出る幕は無かった。

頼みの綱である藤宮春は己の知人と既に回っているし、ワンチャンありそうな花道薫は今日1日中屋台で料理だ。だから桃山が誘えそうな相手は誰1人として残っていなかった。

その結果、桃山はシフトのない午前の時間を1人で過ごさなければならない事実に耐えきれず、こうしてトイレに逃げて来たのである。


自分とは違い、何人もで仲良く文化祭を回っている同級生を見るのは辛いものがある。

そんなものを見せられるのならば、1人でトイレに引きこもっている方がマシだ。


そんな思いを胸中に抱きながらトイレに隠れる桃山だが、やはりこの状況はこの状況で悲しいものがあった。


「…おしっこしよ」


ただトイレの隅でしゃがんでいても虚しいだけなので、とりあえずこの場で出来そうなことをやってみる。

桃山はスカートとパンツを下ろし、少しヒンヤリする便座に腰掛けた。


「はぁ…。ウチ、嫌われてこそないだろうけど大抵の人から遠ざけられてるよねぇ…。そんな状況で誘えるはずもなく。ホント、ぼっちには厳しいイベントだよ文化祭って」


そんなことをボヤキながら用を足している時だった。


キィィと音を立てて扉が開き、誰かがトイレに入ってきた。


(あれ、こんなとこに来る人他にもいたんだ)


桃山は耳を澄ませて個室の扉の向こうにいる人物の動向を窺う。

足音からして人数は1人。また、どこの個室にも入らないあたり、入り口付近の鏡の前で髪でも直しているのだろう。

そう推測した桃山は、何度目か分からないため息をついた。


「はぁぁ…」


(そりゃあそうだよね。ウチみたいにトイレ暮らしする人がポンポン現れるわけないよね。多分向こうのトイレが混んでたからこっちに来たんだな)


と、そう考えた瞬間だった。


「んー、汗で化粧がなぁ…。後で直した方がいいかな」


(!? この声は!?)


扉の向こうから突然聞こえて来た声。それは確実に藤宮春のものだった。それは確信を持って言える。

なにせ、自分に話しかけてくれる数少ない人間の声なのだ。忘れることも間違えることもない。


(ど、どうしよう!? 誘うべき?いやいや、紗夜ちゃんがいるんだから一緒には回れないに決まってるか。…でも3人で回れる可能性も?

うーん、分からん!分からんぞー!)


心の中で葛藤する桃山の向こう側では、桃山の存在になど気づいていないシュンが独り言を続ける。


「てかやっぱりポムやべーよな。アレはもうポムっぱいってよりもポムボムだよ…。後でまた揉ませてもらおー」


(…??? 藤宮さん、何かいつもと口調違うような? それに何、ポムっぱいって?)


聞こえてきたシュンの独り言があまりにも気になる桃山。自分も独り言は多い方なので親近感を感じると同時に、その内容には引っ掛かる所が多かった。


(ポムっぱい?……ああ!〝ポム〟ってニックネームと〝おっぱい〟を組み合わせたのか!ふふ、ちょっと面白いなコレ。けどそうか、やっぱり藤宮さんも紗夜ちゃんのおっぱいには敵わないのか…)


心の中に少し愉快なモノを抱き始めつつ、桃山は今ここから出ていくべきか否かを考え始める。

今ここで出ていけば、信じられないくらい気まずい空気になってしまうだろう。しかし出て行かなければ藤宮春は行ってしまい、再び自分は一人ぼっちになってしまう。


その2つを天秤にかけた桃山は数秒の黙考の末に結論を出し、便座から立ち上がってパンツとスカートを履き直した。


そして個室の扉を開ける。


「……ふ、藤宮さん。こんにちは」


扉を開け、予想通り鏡の前で前髪を直していたシュンと対面する。

棒立ちしながら小さく呟いた桃山に対して、シュンは顔だけを桃山の方に向けて固まってしまった。


「え、ちょ、え?…えっと、え、あ、えっと……こ、こんにちは。いたんだね、京香ちゃん…」

「…うん」


手に持っていた櫛を落としてしまう程に狼狽えているシュンを前にし、桃山は申し訳ない気持ちになってしまった。

だからこそ、それを払拭するために桃山は思い切って行動に出る。


「…えっと、ごめん。盗み聞きしようとかは思ってなかったんだけど、藤宮さんの独り言聞こえちゃって」


桃山は少しずつ、本当に少しずつシュンの方に近づきながらそう話す。

すると、シュンは頭を掻きながら視線を桃山から逸らして答えた。


「いやいや、最初から京香ちゃんここにいたみたいだし、私が独り言なんか言ってたのが悪いんだから気にしなくていいよ。そりゃあ聞きたくなくても聞こえてきちゃうよね、こんなに静かなんだし。アハハ…」

「……」


苦笑しながら床に落ちた櫛を拾うシュン。

そのままシュンは桃山に背を向け、トイレから出て行こうとした。


「じ、じゃあ私は行くね。また後で会お—」

「待って」

「—?」


しかし、遠くなっていくその背中を桃山は呼び止めた。するとシュンは立ち止まり、桃山の方に振り返る。

そんな彼女に近づいていった桃山は、最善だと確信する行動を取った。


「ど、どうしたの京香ちゃん?」

「…さっき独り言聞こえたって言ったでしょ?だからさ………ウチのおっぱい揉む?」

「!?!?!?」

「ほ、ほら! ウチってこれでも胸だけはあるしさ、何なら紗夜ちゃんよりも少しあるし、藤宮さんがおっぱい好きなのはちょっと意外だったけど、紗夜ちゃんのを揉みたいって思ってるならウチのでも満足してもらえるんじゃないかって思ったの!まあ、ウチのおっぱいは少し垂れてるかもしれないけどそれは大きいからだし、年相応のハリはあると思うから触り心地はいいと思うよ?ブラジャーもしてるから今は形だって綺麗だしね。それに、お風呂でも我ながら迫力あるなぁとは思ったりするんだよ?そうそう、夏なんかは谷間の汗がヤバイけどそれはそれで嬉しい悩みって言うか、ある意味誇らしいよね。あ、もちろん今は大丈夫だよ!あんまり動いてないから汗もかいてないし綺麗なはず!………あ」


焦ったあまり信じられない速さで一方的に喋り続けてしまった桃山。

一瞬冷静になったその時、自分の言動のヤバさが頭の中に流れ込んできて目の前が真っ白になった。


そんな桃山の姿をシュンはポカンと口を開けながらただ茫然と見つめ、そして——


「…ぷっ、ははっ!! あははははっ!!」


——堪えきれなくなったといった風に笑い始めた。


「あっははははっ、ははっ、はははっ!!!」

「…ふ、藤宮さん?」

「はははっ!!! あははっ!!」


(やっべぇ…、ウチ、終わった。コレ多分あれだ、ウチがヤバすぎて爆笑されてるやつだ。絶対裏で「あいつヤバイんだけど」って言われるやつだ。…そりゃそうだよね。いくら藤宮さんでもいきなりこんなこと言い出すやつキモいと思うよね。…くそっ。さっき焦ってベラベラベラベラ変なこと言わなければ『え、いいの!? 揉むー!』で終わってたのに。ウチのバカっ!!!)


爆笑し続けるシュンの前で立ち尽くす桃山。

後悔に支配されたその心は、しかし、やがて満足して笑い終えたシュンの言葉で浄化されていく。


「はは、はははっ。…ふぅ。いやぁ、いきなりでビックリしちゃったよ京香ちゃん。なんだ、全然喋ってくれるんじゃん。口数少ないのかなって思ってたけど、そんなことなかったね」

「え?あ、はい…」

「もー!せっかく喋ってくれたのに何で敬語になっちゃってんの」


シュンは桃山の両肩に手を置き、桃山の目を見てニカッと笑った。


「喋れるって分かったんだからもう逃さないからね。緊張してたのか何なのかは知らないけど、君が饒舌だと知った以上これからはもっと仲良くしてもらうから。良いでしょ?」

「…うん、分かった」

「だから照れるなってー!ほらほらー」


左手で桃山の肩をポンポン叩きつつ、右手ではクラスTシャツ越しに桃山の胸を撫でるように揉むシュン。

そんな状況になり、桃山の頭は爆発寸前だった。


(やばいってー!まさかそんな流れになるとは思わないじゃんー!神なの!? この人やっぱり神なの!? このイケメン優しすぎてウチどうにかなりそうなんですけど!? …けど、そんな子がウチの胸にご執心なのを見るとちょっと勝った気分になれるかも。やけに手慣れた揉み方なのは気になるけど。……ま、何にせよ良かった。嫌われてないみたいだし仲良くしてくれるって言ってるし。さっきは勢いで喋れたけど、普段からペラペラ喋れるようにならないとだ…!!)  


「ふう、満足満足。確かに重量感のある最高の胸だね。ここだけの話、ポムのよりも好きかも」

「本当?」

「ほんとほんとー。ま、それはさておき、この後暇?」

「うん」

「お、じゃあ文化祭回ろうよ」

「えっ!?」


思ってもみなかった言葉に桃山は目を丸くして驚く。

そんな桃山に構わず、シュンは桃山の手を引いてトイレから出ようと足を進めた。

大人しくその手に連れられながら、桃山はシュンの背中に質問する。


「でも紗夜ちゃんは?一緒だったんじゃ?」

「いやぁ実はね、ポム、吹部の先輩たちに捕まって連れ去られちゃったんだよね。『そーゆーことだから後は適当に誰か見つけて回ってねー』ってポムに言われたから、混んでないであろうこのトイレに来て前髪を直すと同時にこの後どうするか考えてたってわけ」

「そうだったんだ」

「そ。だからどう?回らない?」

「回る!!」

「よし!じゃあ部活の友達がやってるお化け屋敷あるから、そっち行こー」

「分かった!」


そうして、桃山はシュンに連れられて廊下を歩いて行く。


(最高。最高すぎるよ藤宮さん。いや、今ならきっとシュンちゃんって呼んでもいいはず。最高だよシュンちゃん!)


そんなことを思いながら胸を躍らせる桃山は、何気に先ほどから気になっていたことを尋ねてみることにした。


「ところで、その剣は?」

「あー、これ?」


質問されたシュンは、背中のサスペンダーに上手いこと挟んでいた風船ブレードを抜き出してフリフリしてみせた。


「これは2年生の所で作ってもらったやつ。後で行く?バルーンアートだよ」

「行きたいかも」

「じゃあお化け屋敷の後に行こー。はは、2個目作ってもらえるかな?」


笑顔でそう言うシュンの横顔を見て、桃山は胸の奥が熱くなったのを感じた。

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元男子高校生、イケメン女子になる 餅わらび @hide435432

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