B side summer : 10

 尋ねられてトワコは「あ、はい。」と答えた。マスターは「あ、そう。ここ紫水のすぐそばだからね、この夏の甲子園大会の後から、紫水高校目当てのお客さんが増えてね。お客さんは遠くから?」と応じた。トワコは、そういえば職場をずる休みしていたんだ、とも思い出して、「あ、はい。」と小さい声で答えた。

 冴えない顔をしたまま、験担ぎができそうな気がしてトンカツ定食をトワコは頼んだ。見慣れない客を気を遣ってか、店員の女性が明るい調子でトワコに話しかけた。「イチローさんも、時々来られるのよ。」イチローさんって、あの元大リーガーの?トワコが面食らってポカーンとしていると、マスターが続けた。「ははは、びっくりするよな、イチローが来る店って言われたら。紫水のイチロー、鈴木監督よ。大リーガーのイチローさんに風貌が似てるってイチローさんって言われてるけど、俺はジュンちゃん派だね。」ふふふ、と笑いながら女性の店員が言葉を継いだ。「店長は監督の一個先輩だもんね。」店の奥の方に座っていた常連と思しき男性が、立ち上がりながら言った。「俺もジュンちゃん派、いやジュンペイと呼び捨て派だね。アイツが小学生の時から知ってるからな。急に大変よ、全国区になっちゃって。はいはい、お会計よろしく。」

 レジに移動しながら、その男性は続けた。「そうそう、明日明後日と、あそこの浜でゴミ拾い大会があるのよ。ジュンペイちゃんとこの部員も、何人か出るらしいわ。当日参加も受け付けてるらしいわ。お姉さんも行ってみたら?」先ほどトワコが行ってきた砂浜の方向を指差しながら、何故か男性はカウンター席で小さくなっているトワコにまで声をかけて支払いを済ませると、ベルのついたドアを押して、チャリンチャリンと音を立てながら店から出て行った。社交辞令とはいえ、トワコも「お姉さん」と言われて悪い気はしなかった。そうか、ゴミ拾い大会。

 そうこうしていると、4、5人のグループ客がガヤガヤと話しながら入店しテーブル席につき、トワコが注文したトンカツ定食が届いた。トワコはゆっくり味わいながら食べ終え、お会計のためにレジに行くと、レジの横にノートが置いてあった。表紙に「紫水高校野球部 甲子園出場おめでとう&ありがとう!」とある。

 店員の女性がトワコに「良かったら、どうぞ。」と声をかけた。「ご馳走様でした。」と礼を言ってお会計を済ませ、トワコはノートを広げてみた。大学ノートのページも後半に入っている。今日は平日だからか、メッセージは一頁に4つほどだった。トワコは考えながら、紫水高校野球部の試合を最初に見て心を震わせたことを思い起こし、ペンを取った。

「一点は一点にして、一点にあらず。皆さんの一点を大切にする試合から、一つ一つ努力することの大切さ、人生の他事に通ずる大事なことを、教えてもらいました。本当にありがとうございます。皆さんのこれからの人生に、幸あれ!」

 そして、静かにノートをレジ横に置くと、「ありがとうございました。」とトワコは店を出た。

 

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あの空に戻れ 正印 藍子 @kokin_shu

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