B side summer : 9
犬を連れた女の人が不思議そうな顔をして、こちらをまた見たけれど、トワコは気に留めずに、「淋しくて〜」と歌を口ずさんでいた。
なぜ中原先輩か。まさに迷惑な一目惚れだな、とトワコは思い返す。源氏物語で主人公の光源氏が、恋焦がれる藤壺によく似た少女を垣間見て、少女の祖母に直談判し、勝手に連れて帰る。一目惚れだ。トワコは中原先輩を勝手に好きになったけれど、周りで騒いでいただけで、なんら進展はなかった。日本文学史上、一、二位を争う色男と比べるのもおこがましい話だが、同じ一目惚れでも、トワコの迷惑度は比べものにならないくらい小さい。
ぼんやりとトワコが物思いに耽っているうちに、太陽が頭の真上に昇っていた。いくら海風があり、麻の帽子を被っていても、水面や砂浜からの照り返しに、ジリジリと熱せられる。トワコは慌てて立ち上がって時計を見た。時刻は十二時を過ぎている。神社に砂を納めに行ってお参りして、お昼ご飯にしたら丁度良さそうだ。案内板によると、神社はここから1キロほど、歩いて十五分程とのことだった。
歩きながら、記憶の中の中原先輩と、小学校の登校班がトワコの頭の中でぐるぐるしていた。中原先輩は、トワコが小学校三年生の時の登校班の班長と見た目がよく似ていた。色白で卵形の顔をして、眼鏡をかけている。班長は4学年上だけれど、班長の弟がトワコの妹と同級生で、なんとなく下の名前で「ナオマサくん」と呼んでいた。
いわゆるカッコいいタイプではないけれど、ナオマサくんは話術に長けて、話しているととても楽しかった。登校班で、班長の後ろは下の学年から並ぶ決まりなのに、妹の前に割って入って、トワコは班長の近くを歩いた。その様子を見て、班長と同じ6年の女子生徒が、「好きなんでしょ?」と言ってきたことがある。その時、トワコは肯定はしなかったけれど、頬が熱くなった。小学校卒業と同時に、その先輩は遠くに引っ越してしまった。引越しの日、トワコは家の前で見送って、姿が見えなくなるまで、千切れんばかりに手を大きく振った。
そう、話していて楽しかったナオマサくんに、中原先輩はそっくりだった。そして、中学の校門付近で、とある日、中原先輩にトワコは思い切って、唐突に「こんにちは」と挨拶したのだった。最初にトワコが声をかけた時、中原先輩はにこやかにトワコを見て、「こんにちは」と挨拶を返した。単なる礼儀で返された挨拶は、風船のようにトワコの想いを膨らませた。それが、中原先輩追っかけの始まりだった。
懐かしい気持ちで久しぶりに思い出した歌をいつしかトワコは口ずさんでいた。「初めて〜言葉を〜」歌声は空と、通りかかる車の音にかき消されていく。周りに人がいないのをいいことに、トワコの歌声はどんどん大きくなっていった。「もう一度あんな気持ちで〜」
気がつくと、三十分以上歩いているし、道の周りも何やら古めかしい家々が並んではいるけれど、一般の住宅地のようで、とても大きな神社の参道のように思えない。おまけに、周りが畑になってきた。神社まで歩いて15分位と案内板が出ていたのに、おかしい。右前方に、何やら見覚えのある校舎、そう、朝、トワコが立ち寄ろうとした紫水高校の校舎が見え、ハッとした。どうやらタクシーに乗って来た道を、トワコはうっかり戻ってきてしまったようだ。足がすくみかけたが、紫水高校の向こうに、飲食店の看板も見える。暑いし歩き疲れているし、気付けば午後一時も周り、お腹が空いているのも事実だった。行ってみるか、と恐る恐る紫水高校の運動場の横をフェンス沿いに歩く。幸い、校庭や校舎の外の敷地には誰もいなくて、トワコはどこかホッとした。
看板の店に近づいて、外に出ているメニュー表を見ると、ボリューム満点の定食に、お値段も良心的なようだった。ドアを開けて中を遠慮気味に覗くと、平日の昼過ぎで客は数人ずつバラバラに座っていた。
「いらっしゃ〜い。お客さん、お一人?」
マスターに声をかけられ、「はい」とトワコが小さく答えると、カウンター席を案内され、トワコは腰掛けた。壁には紫水高校野球部の活躍を伝える新聞がいっぱい貼ってある。トワコが覗き込むとマスターが尋ねた。「お客さん、紫水のファン?」
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