B side summer : 8

 どうして、ここまで来ているんだろう。どうして、せっかく紫水高校まで来たのに、逃げちゃったんだろう。トワコは自問自答した。


 紫水高校の一試合、一試合に心から感動したのは本当だ。感動をありがとう、生きる勇気をありがとう、四試合目で敗退した直後、トワコは感謝の気持ちを書き連ねて紫水高校に送ろうと思ったくらいだ。ファックスで送るのがいいのか、便箋に認めるのがいいのか、頭を悩ませ、またトワコが頭の中で文の構成を考えている間に、素早く地元新聞社が全国の紫水高校野球部ファンに呼びかけ、新聞社を通し、紫水高校野球部にメッセージを送るという一大企画を立ち上げた。メッセージのうち、厳選五十通が紙面に載り、紙面に載らなくとも、投稿者全員に大会記念特集号が送られてくるという、地元紙ならではの企画だ。投稿はインターネット上から参加できたので、当然ながら、トワコもその企画に乗り、感謝の言葉を書き連ねた。厳選五十通には漏れたけれど、地元新聞社を通して、感謝の思いを伝えられたことに、トワコは満足した。

 それが何故、寄付金一千万円に膨れ上がったのだろう。費用が思いの外、かかったという報道を見たのは事実だ。感動が値千金だったから?それは事実だ。かけがえのない感動と勇気をもらった。以前から、活きたお金の使い方に憧れていた。それも事実だ。そして、斜に構えた、嫌味な高校生だった時の自分に懺悔したい思いがあったのも事実だ。


 もう一つ、トワコがのめり込んだのには理由があった。それは理由と言えるほどの理由ではないかもしれない。ただ、鮮烈に過去を思い出した、と言うだけのことだ。

 夏の甲子園の試合中継を見ていて、選手の名前を聞いた時、ドキッとした。「3番、ナカハラケイスケくん」のアナウンス。え、先輩?一瞬、聞き間違いかと、トワコはテレビの字幕を見直した。3番、中原啓介。聞き間違いではなかった。トワコが中学生の頃、追っかけていた先輩と全く同姓同名だった。勿論、全く別人だ。年齢も違うし、見た目も違う。夏の旋風の中にいた中原啓介選手は日焼けして、すっと整った顔立ちで、細身だけれど筋肉質に違いない。自分が追いかけていた中原啓介先輩は、背丈はそこそこ高かったけれど、色白で、卵形の顔をして、眼鏡をかけていた。決して太ってはいないけれど、いわゆる中肉だった。

 トワコは文字を見間違えたかと、それまで気に留めていなかった選手たちの名前を確認した。改めて確認しても、3番の選手は漢字が全く同じ、同姓同名だった。そして、他には‥当たり前だけれど‥知っている人と同じ名前の選手はいなかった。

 応援しながら、どこかあの頃の先輩が試合中継の映像の向こうにいるような気分になった。カッコいい中原選手の試合の動画は、繰り返し見ているけれど、それでも中原選手個人だけが好きな訳ではない。チーム全体がカッコいいし、痺れる。勿論、好き、というのは、ファンとしてだ。

 トワコの息子もたまたま啓介だ。これはやむにやまれぬ事情から、「啓」の字をつけざるを得なくなったからで、「介」を下につけたのも響きと収まりが良さそうだったからだ。そのように、ずっとトワコは自分に言い聞かせてきた。先輩にあやかった訳ではない。無論、トワコが「中原啓介先輩」を追いかけていた、ということを、中学時代の友人は覚えていてもおかしくない。記憶力の良い2、3人の友人は覚えているだろう。幸い、古い友人たちから、息子の名前がどうのこうの、と今まで言われたことはなかった。そして、その友人たちが、今夏、高校野球を熱心に応援したり、関心を持ったりしているかは分からない。


 中原先輩、今どうしているんだろう。随分前に、風流な生活を綴った中原先輩のブログを見つけたことがあるけれど、暫くして更新されなくなった。元気ならいい。今も先輩が眩い生活をしているかは分からないけれど、地べたを這うように自転車操業しているトワコとは多分、住まう空間がだいぶん違うだろう。背伸びをしても無理がある。だから、今も好きかとか、会ってみたいかというと、そんなふうには全く思わない。

 それでも、中原先輩は今もトワコの夢の中に時々出てくる。詰襟の学生服で。中学生か高校生か、せいぜい大学生のトワコが先輩に告白して、はっきりとした返事がなくて、そしてなぜか夢の中で現在に戻って「結局私は結婚もしていないし、子どもも産んでいないのか」と焦りと諦観を覚える、そんな粗筋が多い。目が覚めると、散らかった家の中に子どもが大の字で寝ていて、胸を撫で下ろす。


 そもそも、どうしてあの先輩が好きだったんだろう?制服姿の中原先輩は、多分、見た目は中庸で、飛び抜けて眩い男子ではなかったと思うけれど、どうして、あんなにラブレターを書いてたんだろう。今思えば不法侵入じゃないかと思うけれど、学校で勝手に先輩の下駄箱を開けて、ラブレターを下駄箱に入れていた。時間割をチェックして突撃して、登下校も狙い撃ちして、挨拶して、近くをウロウロ歩いていた。何をしていたんだろう。ラブレターに書いた内容は余りはっきり覚えていない。名文なんてものは一つもなく、「好きです」「付き合ってください」「お返事待ってます」「好きなので、諦めません」の繰り返しで、なんのひねりもなかったと思う。そんな、突然、下の学年の妙ちきりんな女子が付き纏ってきて、先輩も良い迷惑だっただろうと後になってトワコ自身、思う。自分が追いかけたかったら、追いかけていただけだ。追いかけている自分が好きなだけだった。

 

 まだ強い日差しの下、ゆったりと波が寄せては返す音を聞きながらトワコはいつしか夏の紫水高校野球部の名試合や、それにまつわる幾つものエピソードではなく、中学校時代を思い起こしていた。トワコは思い浮かんだゆっくりした調子の歌をいつしか口ずさんでいた。

「窓辺に置いた椅子にもたれ あなたは夕陽見てた ‥」

 ここは西に開けているから、さぞかし海に沈む夕陽は綺麗だろう。時刻はまだ正午前だけれど、季節は夏を過ぎかけ、翳っていく。トワコの人生はどうだろう。

 小型犬を抱き抱えて通り過ぎた女の人が、不思議そうにトワコを眺め、砂浜の端にある小高い弁天島にある鳥居の向こうに手を合わせ、また戻ってきた。

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