ミルワームティーとその始まり
もるげんれえて
ミルワームティーとその始まり
「うええ、苦いよう」
湯気立つカップを小さな手で包んだ少女は、んべっと舌を突き出した。
「ジェシカにはまだ早かったかしら」
シルクの手袋に大きな帽子をかぶった女性が笑う。おいしそうに彼女がカップをすすると、ジェシカと呼ばれた少女はぷい、と金色の柔らかな紙を揺らしてむこうを向いた。
「だって、苦いものは苦いのよ」
「あら、レディだって言っていたのはどちら様だったかしら」
「レディでも苦いもん!」
目じりにはわずかに涙が浮かんでいて、女性は眉を下げ、微笑みながら肩をすくめた。
「そうね。確かにお母さんも最初はあまり好きじゃなかったわ」
「ほんと?」
「本当よ。だから、そんなときは」
女性は机の上のブリキ缶を開ける。かわいらしい装飾が施され、「R&W」と印字されたその中から、「高級なのよ」と言いながら、何かを取り出した。
「何それ?」
「ミルクワーム」
彼女の手には、小指ほどの長さと太さの、細長い何かが摘ままれていた。
「うぇ、芋虫なの?」
「違うわよ。でもそっくりよね」
遠目には芋虫やなんかの虫に見えるけれど、別に動くことはなく、一本の棒として横たわっている。
「で、これを入れるの」
腕を伸ばして女性の細い手から、少女のカップへミルクワームを落とした。芋虫のような何かを落とされ、少女はびくりと警戒したが、それは瞬く間に紅茶の中へ溶けていった。とたん、乳製品の甘い匂いが紅茶から立ち上り、紅色のカップは鮮やかなベージュへと変わっていった。
「飲んでも大丈夫?」
少女が上目に聞くと、女性はもちろん、と答えた。
恐る恐るカップを持ち上げ、おっかなびっくりに口を寄せる。
先ほどの熱はまだあるが、苦みはない。牛乳のようなまろやかさとたっぷりの甘みが口いっぱいに広がった。かすかに紅茶の香りが、この甘さに深みをもたらしてくれる。
さっきの苦味と打って変わった味わいに、ジェシカはぱあっと満面の笑みを浮かべた。
「おいしい!」
「ミルクワームはね、練乳と蜂蜜を練ったものをオブラートに包んであるのよ、って聞いてないか」
紅茶に夢中になっている娘を見ながら、微笑んで女性も紅茶を傾けた。
ヴィクトリア朝英国の午後、有閑なものたちはこのように紅茶を楽しんでいた。
「芋虫で紅茶を作った?」
工場の更衣室、交代時間のそこは汗の熱気でむせ返り、油と体臭とが充満していた。
男はハンチング帽を脱ぎながらその匂いを意識しまいと努めた。それでも仕事から帰ってきた男たちの匂いは鼻を刺激する。
声をかけられたのはそんな最中だった。
「虫で紅茶だと。そんなわけあるか、マーク」
「いやケビン、確かに見たんだって」
その男は顔なじみで、たまにパブで飲んだりすることはあった。英国人らしいブラックジョークの好きな男だったが、荒唐無稽な冗談を口にすることはあまりない。
「バカも休み休み言え。ジョナサンのほうがまだ現実的だぞ」
「あいつはただの酔っ払いだ。この前なんてフリッツの嫁を羊と間違えたんだぞ」
「本気で間違えたもんだから、嫁さんがカンカンになっていたな」
「そうさ。あいつは見間違えるだけだ。俺は本当に見たんだよ」
油まみれの作業着を脱ぎ、マークはケビンに突っかかる。いつものにやついた表情はなく、目は真剣のそれだから、ケビンはたじろいでしまった。
「数日前によう、チェルシーのあたりを歩いていたんだ。そしたら、御婦人とその娘がよ、ティータイムしてたんだ」
「テムズ川で死体が浮かんでくるくらい当たり前だな」
「そこまでなら普通の話さ。よくあることで、俺も気にも留めなかっただろうさ。でも、そしたらそのご婦人がよ、ブリキ缶の中から、取り出したんだ」
マークはケビンの前に人差し指と親指を突き出し、その腹を向かい合わせた。それは何かのサイズを示していた。
「こ、これくらいある白い芋虫を、紅茶ん中にドボンと入れたんだ!」
大げさな、とケビンは眉根を顰めた。
「砂糖とかの見間違えだろう」
「いいや、これだけの芋虫だったね。それを娘さんは美味しそうにごくごくと飲んでいたんだよ」
「そんな馬鹿な話があるか」
「いいや、そのご婦人はちゃんと言っていたぜ。『ミルワーム』ってな」
「……」
この馬鹿は何かを見間違えたに違いない。そうとしか信じられないのに、マークからは嘘の色は見えない。どころか、彼の語りの迫真さに他の労働者たちも耳を傾けていた。
なんといえばよいのか。否定するにも言葉が喉に引っかかっていた。
その時、仕事場へ通じる扉から太った男が入ってきた。いかにも身なりが良く、芋虫のような指は鞭を握っていた。
「こらあ!もう就業時間だぞ、早くせんかあ!」
監督官の一括に労働者たちはそれぞれの動きを取り戻した。ケビンもマークもいそいそと服を着替え、ケビンは仕事場へ、マークは退勤していった。
「本当に見たんだよ」
ぶつぶつと繰り返すマークをもう一度だけ振り返り、ケビンは仕事を始めた。
このころの紅茶は、まだケビンたちのような労働者たちには手の届かない代物であった。のちに資産家と呼ばれる管理者たちが、彼ら労働者の働きを見ながら優雅にそれを楽しむさまは、紅茶というもの自体が支配者のアイコン的な立場でもあった。
労働者にとって、紅茶は垂涎の代物でありながら、憎き支配者の嗜好品でもあった。
もし、紅茶が簡単に、それもこのようなおぞましいやり方で再現できたとしたら。
ケビンはその日の仕事を終えると、テムズ川の泥を漁ってミルワームを数匹取ってきた。浮浪者たちから何をしているのか、とじろじろ見られるのはあまり気持ちがいいものではなかった。おかげで今日の服には汚泥の匂いが染み込み、捨てるしかなさそうだ。
ミルワームは持って帰ってきて軽く洗って水の中で数時間泥抜きをした。これでいいのかはわからないが、そのまま使うことは憚れた。
いや、これからこいつらで茶を淹れようというのだから何をいまさら。
カップはないのでスープカップの中にミルワームをぶち込む。ミルワームたちはうねうねとまだ蠢いている。
「……」
本当に大丈夫なのだろうか。脳裏をよぎる。
ここまで来たからには、やるしかない。
沸騰したケトルから、熱湯を注いだ。ミルワームたちが最後にダンスを踊って、静かに浮き沈みし、テムズ川の水流よりも激しい流れの中にさらされていた。
ほどほどにお湯を注いだら、様子を見る。
だんだんとお湯はミルワームの頭部の色に染まっていった。以前見た紅茶の色よりは薄い。
スープカップを持ち上げて臭いを確かめる。お湯の匂いだけだ。だが、かすかに、何かの香りもする。これがミルワームの香りだろうか。
覚悟を決め、ケビンはカップをあおった。
「!」
目を丸くする。カップを見る。
「これは――」
口の中に、淡い豊潤な香りが広がる。土にも似た匂いもあるが、奥からはちみつとバラを思わせる味わいがのぞいている。
美味い。
そう呟いた。
彼の見つけたミルワームは、正確にはミルワームと異なる生物であった。まだ名の与えられていなかったその芋虫は、後に「ティーミルワ―ム」と呼ばれる。
テムズ川などの河川で見つかったティーミルワームは安価で育成も容易いことから、たちまち労働者の嗜好品に上り詰めていった。
最初こそそのままミルワームをお湯で入れるだけであったが、乾燥させたり軽く煎ることで味わいに深みが増すことが分かり、その淹れ方にも様々な工夫が施されるようになった。
発見者でもあるケビンとマークは後にティーミルワームの繁殖、育成、加工と販売事業を始め、最終的に現代まで残る老舗紅茶店にまで伸し上がる。『K&M』のミルワームティーは世界最高級のお茶になり、英国を代表する逸品になった。
こうしてミルワームティーは労働者階級を中心に広がり、労働運動ではアイコン的な立ち位置として愛された。続く世界大戦でも多くの兵士たちに愛飲され、英国の歴史を労働者とともに歩んでゆくことになった。
最後に、ミルワームティーにまつわる小話を一つ、取り上げよう。
マークは事あるごとに「ご婦人がミルクワームを紅茶に入れるのを、自分が見間違えたことが発見につながったのだ」と吹聴したものだから、ミルクワームの製造元であるR&W商店がケビンとマーク――その時はK&W販売所であった――を「弊社の商品をもとに開発したなら、その特許の一部は我々にも還元されるべきである」と訴えたのだ。
判決はすぐに決した。R&Wが敗訴したのだ。
その時の裁判官は次のように判決を述べた。
「あなた方の商品は紅茶に入れる練乳であり、彼らは紅茶そのものを売っていることからも起訴内容に妥当性はない。よしんばその妥当性が認められたとしても、ミルワームで紅茶を作ろうとするのは正気の沙汰ではない。正気ではないので、あなた方の商品がアイデアに寄与したとは考えにくい。
常識で考えたまえ」
ミルワームティーとその始まり もるげんれえて @morghenrate
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