エターナル編 一章

 ぼー、とはしていられない。

 朝の日が昇る時刻五時、暇のない俺は掛け布団を蹴飛ばした。隣で寝ている妹達を起こさないように自分の布団だけでも抱え、ベランダへ迅速に移動する。

 干し竿に引っ掛けた後は洗濯機へ向かい、溜めてある衣類をぶち込んで漂白剤と柔軟剤を掛け、電源ボタンを押して起動させた。

 次に料理場へ直行する。冷蔵庫からありとあらゆる肉類魚類野菜類を取り出して、二つしかないコンロを着火しながら威力を全開に引き上げる。フライパンにわずかな空気の揺らぎが出来ると油を入れ、食材を切り終わった頃に沸騰した鍋にそれをぶっ込む。

 人生ハードモードではあるが俺の命などどうでも良い。妹達さえ立派に育ってくれれば俺は死んでも良い。その信念に従って俺はどこまでも働ける。

 朝食、夕食の準備、明日の朝食の準備、掃除洗濯を朝に終わらせる。午後では妹達の勉強の面倒を見たり、遊びの相手になったり、稼ぎに行ったり、買い物に行ったり、自分の時間は一欠片もありはしないが気にもしない。

 私達の子供じゃないと言って別居する両親には特に恨みはない。それなら児童保護施設から三人も引き抜くなとは言いたくもなるが、そもそも親など居らずとも生きていける。

 六時か。洗濯物を干さなければ……。


「──おにぃ! 私がやるって言ってるでしょ!?」


 金切声をけたたましく響かせて俺の歩みを止めさせられる。

 廊下の中心で両手を広げて邪魔をするのは俺の妹の双子の姉の方、流魅果【るみか】だ。クリーム色のふわりとした長い髪と荒れた所ひとつない綺麗な肌が特徴の可憐なお姫様。不気味でありながら宝石のような赤紫の瞳をキッとさせ、俺に人差し指を刺しながら近付いてきた。

「いっつもいつも私を置いて何しでかしてるのよ! 馬鹿占七【せんなの】!」

「あのな、お前のことを想ってだな」

「私の人生はおにぃのものだって言ってるよね!? そもそも、良くもまぁ、血の繋がらない私にそこまで出来るものよ!」

「お前は俺の妹だ。血の繋がりがなんなんだってんだ」

「私が他の男と子供を産んでもおにぃの血は受け継がないのよ! 私を女として見るのならそこまでしても良いのかもしれないけれど、私を妹と言っておきながら自分には何も施さないことはありえないことなの! ボサボサ、よれよれ、睡眠不足にクマ! 私なんか殺されてしまえばいいのに!」

「おい流魅果てめぇなんてこと言いやがる!」

「そう思わせてるのはおにぃでしょ! バカァー!」

 そう言って流魅果はドタバタと洗濯機の元へ走って行った。やらせるか! と追おうとするが、二階への階段の手すりからこちらを覗くもう一人の妹に気付く。

 星色の長い髪と、黄金の満月のように煌めく目。小柄で華奢、無表情で真っ直ぐな五七【いつなの】である。

「兄さん。何してるの」

「家事だけど」

「流魅果が泣いていた。泣かせてまですることなの。それに料理は私がすると伝えているはず」

「お前の手料理はなんかうっすいじゃんか」

「美味しくなかった……?」

「馬鹿野郎てめぇめちゃくちゃうめぇに決まってんだろ」

 長所を殺さない素材の力を最大限引き出した職人料理しか作らない五七は、それはもう天才と呼ぶ他ない。

 もしかすると料理だけなら彼女に任せたほうが良いのかもしれないが、生憎と俺は彼女の兄である。

 負担は全て俺が背負う。

「けどな、俺は和々切占七。五七と流魅果を立派な大人にする使命を背負っているんだ。俺が家事をこなさなきゃ何をするっていうんだ」

「兄さんは他の女の子と仲良くなったり、友達を作ったり、子供であるうちにたくさんの経験を得なければならない。わたし達に付きっきりなのは駄目」

「俺の人生はお前の人生だから良いんだよ」

「……なら、もしわたしが虐められているとしたら、兄さんは助けてくれるの」

「当たり前だろ! ぶん殴ってやる!」

「そう。自分で自分を殴ることになるけど」

 五七はふらふらと俺の横を通り過ぎ、キッチンへ向かおうとしていた。

 俺の仕事を奪われると思い、反射的に彼女の腕を掴む。

「いたっ……」

「うわ悪い!」

 そんなに力強くしていないはずだが、腕がブルブルと痙攣し出すので慌てて離した。

 五七は掴まれた部位をさすり……途中でやめ、俺の手を掴んで歩く。

「兄さんとわたしは一緒に行動して、日々の課題を協力して打ち壊すの。それが愛のパワー」

「……流魅果は?」

「無視していい」

 そこに関しては笑って答えるので冗談であることが伝わる。可哀想な流魅果。

 再び台所に戻ると、五七は爪先立ちで鍋の中を見てお玉を持ってゆっくりとかき混ぜながら、横目で俺に視線を送る。

「何を作るか分からない。だから占七の兄さんは台に必要な器具と食材を置いていって」

「やっぱさ……」

「兄さんはわたしを虐めて楽しいの?」

「……分かった。共同作業だ。五七は朝食だけ作れば良いからな」

「そう」

 表情の変化は乏しいが、俺に顔を合わせないようにしたところを考えると、少し不服になっている気がする。

 俺が進んで彼女達のために行動をすると不機嫌になり、俺が何もしないと喜ぶ。これを善意と決めたくはないが……。

『ひゃー!』

 家の中に素っ頓狂な悲鳴が響く。そして同時にガコンと物が落ちた音と、いくつもの布の擦れる音が続く。

「流魅果……ッ!?」

 まさか転んで頭を打って死んでんじゃないか……っ!?

 肺が凍りついて口をパクパクとさせながら、俺は全力で流魅果の元へ駆けた。

 仁義に生きる彼女がどうして不幸に見舞われなければならないというのだろう。親を知らず恋も出来ぬまま、死んでしまうなんて!

「流魅果生きてんのか!」

「死なないわよ!」

 廊下に洗濯物をぶち撒け、うつ伏せに倒れた流魅果はゆっくりと起き上がる。

「怪我は……? 怪我はねぇのか!」

「いてて……大丈夫だよおにぃ」

「怪我がねぇ奴が痛てなんて言わねぇんだよ!」

「転んで痛くない人なんかいないでしょうが!」

 涙目になりながらも、自身の失態をすぐさま消し去ろうと散らかった服を片付けていく。

 こんなことで流魅果の人生を消費させる訳にはいかない。俺もすぐに手伝った。

「お前はな、まだ小学四年生なんだ。おにぃに頼って良いんだぞ」

「おにぃは私と同い年でしょ。私と五七はおにぃと同学年の同級生、三つ子みたいなものなんだから執拗な兄ヅラはやめて欲しいわ」

「そうだな。だがよ、お前が可愛くて可愛くて、お前が幸せになってくれれば俺も幸せなんだ。こんな親がやらなければならない、大人になるためのステップをお前達に教えなきゃならない。だから俺は兄なんだ」

 ……流魅果の動きが止まる。次に俺の側に寄ってくる。

 冷えた小さな手を俺の頬に添えると、控えめで小っ恥ずかしく、優しくキスをした。

 俺の男としての役得の十二割を満たしたそれを、彼女は小さく笑う。

「……不幸の顛末確定のお兄に保険をかけてあげる。占七さんが永遠に愛する人と結ばれるまで、私、誰ともキスをしないし、誰ともエッチしない。それで占七さんが誰とも結ばれなかったら──私があなたの理想の花嫁になってあげる!」

 童話の中のお姫様のような彼女のカラカラと笑う顔に、寝巻きのピンクのワンピースをひらひらと軽やかに舞わせる優雅な仕草。

 不幸の身の上でも、心はファンタスティック。和々切流魅果は残酷な世界のウイルス。

 人へ幸せと不幸の両方を等しく与えるコンピューターのような仕組みがあるのなら、幸せのみを運ぶ彼女はコンピューターウイルスといって良いだろう。

 その証拠に、ただ洗濯物のカゴを持つだけで──絵になる程綺麗じゃないか。

「……気をつけろよ、俺は困った人を放っとけない紳士なんだからな」

「うん。次は転ばないように気をつけるわ」

 流魅果は俺の横を通り過ぎてベランダへ向かった。途中、五七と会い会話をする。

 俺はこっそり聞き耳を立てた。

「今日、転校生が来るって聞いた。流魅果は誰だか知ってるの」

「知ってるよー。市絆黒夜【しほだくろや】だか、心巳【うらみ】だか……。親と一緒に校長室へ入るところを見た子がいてね、すごく暗そうな女の子だったって」

「……そう。わたしと気が合いそう」

「そうだといいね」

 と、流魅果の足音が遠ざかっていく。

 ──そうだった、今日は転校生がやってくるんだ。

 名前は市絆心巳。夜を連想させるのほどの綺麗な長い黒髪と、満月を連想させる黄金の目が特徴の少女だ。俺がたまたま彼女と出会い、そのことを流魅果に話したのだったか。

 まぁ、仲間と呼べるほどの信用できる人はいないし、良くて幼馴染二人がいるくらいの交友関係の狭さが売りの占七くんには、関係の無い話なのかもしれないが。

 つくづく自分にとって大切な人が限られていることを実感させられながら、五七の元へ戻った。





 五七が作った料理というだけで俺は人生の役得の十割を得てしまい、内心は狂喜乱舞しながらも平常を装って食事を進める。

「新学年早々に転校生か。今年は新鮮な一年になりそうよねぇ」

 俺の向かいに座っている流魅果は黒パンをちびちび食べ、ませたことを言う。

「おい九歳。ガキだろ。俺たちに新しくない一日なんて一つもねぇぞ」

「もー分かってるよおにぃ」

 そうしてボルシチを一啜り。自分の小皿にオリヴィエサラダを分けて、小さく口に入れて何度も噛む。

 百回は絶対に噛んでいる。一般的に遅いと言われるくらいの五七の食事の十倍は遅い。食の細さが噛み合って、俺と同じくらいに食べ終わる五七と比べて流魅果は普通にお腹は減るし量も多くも少なくもない。

 彼女を見ていると、全ての食べ物が飲み込めるタイプのガムのように見えてしまう。どうにか速度を上げてもらいたいものだ。

「と、そういやよ、お前ら友達は出来たのか? いっつも俺にかまっててさ、お前らが他の子と遊んでるところあんまり見たことないぞ」

 俺の問いかけに五七はティッシュで口元を拭いて答える。

「話が噛み合わない。人の悪口を言って団結する。習ったものを自主的に自慢する……そんなのと関わる気にはなれない」

「んく、ちょっと言い過ぎよ」

 流魅果がやんわり窘めると、五七は再び物を口に運んだ。

 賢すぎるのも良いことばかりではないな。

「流魅果は割と交流してるよな」

「楽しくはないわ? 私の言いたいことが伝わらないんだもの、私は聞いて頷くだけ」

「そうかぁ? 難しいこと言わねぇのになぁ……」

「私には、おにぃと五七だけで十分」

「俺が居なくなったらどうするんだよ」

「どうするんでしょうねぇ」

 彼女はスープを口に運び、噛み始めた。おかしいだろ。

 ──俺の妹は双子だ。特殊な遺伝子でも受け継いだのか、やけにカラフルな目の色をしている訳だが二卵性双生児というものだろう。兄妹となって四年、彼女達がどのような人間なのかは理解出来たと思っている。

 五七は無表情で無愛想に振る舞っているが、おそらく根は生真面目で物事を理屈で捉えるし、感情豊かではあるものの無闇やたらに振り撒くのではなく適材適所で真っ直ぐに出す。それを表に出さない理由は今でも検討がつかないが、だからと言って俺の好きの気持ちが無くなることはない。

 対して流魅果は表面上は可愛い女の子で知的な面も見えはするが、中身が無に等しい。面はがっちがちに固めても、いざ芯に迫ると柔らかくてあっちにもこっちにも意思がブレる。それでも有り余る包容力と義理堅さには好意を持てるし、なにより嘘をつける子ではないのが清々しいのだ。

 総じて優しすぎる。彼女らが誰かを虐めたことはないし、いつも困った人を助けている。例えそれが嫌われ者でも構うことはない。

 彼女達と過ごす毎日が俺にとっての宝物で、大人になり袂を分かつことになろうとも、ここで過ごした事実は永遠に失われることはない。

 しかし……俺の我が儘を叶えてくれる者がいるのなら、どうか聞いて欲しい。

 俺は寿命を取っ払って、彼女達と永遠に生きたい。そのために必要な犠牲があるのなら、全部俺が背負おう。

 それだけが俺の願いだ。

 ……と、おかしいな、俺ってこんなに子供みたいなことを考える奴だったか。結構成長した気でいたのだが、初心に返ったみたいに胸がすっとする。

 まぁいい。俺は食べ終わった食器を片付けることにした。

「あぁん! 早いよおにぃ!」

「あのな、今何時だと思ってるんだ? 七時半だぞ。一時間粘ってんだぞ? なんでまだ半分も食べてないんだお前は」

「美味しいんだもの」

「お前の妹を見ろよ。残すものはあらかじめラップしてんぞ。なんで妹よりだらしないんだ流魅果」

「うるさいうるさいうるさい! 説教なんかいらないのよ! 他の美食屋と区別する時は、健啖家の流魅果の美食屋で通るわ!」

「健啖家の流魅果……?」

 俺と流魅果の間にすっ、と五七が入る。

「この子の持つ二つ名の名」

「健啖家の流魅果……。じゃあ、お前は流魅果だ! 俺は今からそう呼ぶ。君は流魅果、もうただの美食屋じゃない。俺もただの説教なんかじゃない。和々切占七だ!」

「何言ってるの」

 俺と流魅果の即興劇に付き合いきれなくなった五七は、流魅果の食べ残しの皿を持ってキッチンへ行った。

 流魅果にはそういう所があって、付き合う俺にもこういう所がある。

 おい、笑う所だぞ。




「行こう、兄さん」

「まぁ待て」

 玄関の外でケータイの時間を見ながら、俺と五七は流魅果を待つ。

 このまま流魅果が出てこなければ、歩いてギリギリで朝の会に間に合うくらいの遅刻魔がするようなことが起きてしまう。

 相変わらずのトロさで身支度が済ませない流魅果は、どの服を着て登校しようか迷っている。派手すぎず、地味すぎず、それでいて可愛さを出したいらしい。彼女は毎日が制服だったら良いのにとよく言う。

 何を着ていても美人なんだからどうでも良いだろとは俺の口癖。

「遅い。行こう」

「流魅果はマイペースだからなぁ。まぁ待て待て」

「……」

 流魅果主体に物事が運ぶのに業を煮やしているのだろう、五七は明らかに不機嫌だ。

 歳を重ねていくにつれ感情を表に出さなくなっているにしても、瞼がピクピクと動いているのはかなりお怒りか。

「兄さん。わたしは兄さんの自由を優先しておしゃれの楽しみを控えている。そうしているの」

「おいおい……別に俺なんか気にしなくて良いんだぞ」

「兄さんが金銀財宝を見せびらかされても気にも留めない人なのは知っている。でも他の選択肢を選ぶ自由というのは必要なもの」

「いらないね」

「もしも兄さんの、わたしと同等に好きになれる可能性を持った人達が居るとしたなら絶対に後悔する。前提として、兄さんは相手のことを心の底まで理解しないと気が済まない性格で、それでいて完全には理解が出来ない相手を好きになる。空想や妄想ではなく、現実的な回路で」

「難しい言葉よく知ってるな。分かる、言ってることはそうかもしれない。探したり、作ったりして、お前と同じように愛せる存在を見つけることは出来るだろう。だが俺にはお前がいる。お前よりも大切な人は居ないんだ。もしも五七の言うようにお前と同等の存在が現れたとしても、例えば重ねてきた年月が違うだろ?」

 そこまで言われてようやく五七は口を閉ざした。ちらりと道路に立つ電柱に目を逸らしたり、空を見てみたり、思考を巡らせる。

 次には自分の袖を捲って真っ白な腕を見せつけた。

「わたしは……体が弱い。流魅果の姉さんとは違って食事はつたなく、筋力も劣る。兄さんと歩幅を合わせようとしても、むしろ合わせられるような存在。これからもずっと一緒に居れば……兄さんはわたしを鬱陶しく感じるのではないかと不安になってしまう。……占七くんは、そんなわたしを永遠に愛せるのですか?」

「愛そう。神にでも悪魔にでも誓って」

 俺が本気で言っていることを五七は確実に理解出来る。その上で彼女は狼狽える。

 俺の考えを否定しようと言葉を練っていても、それが出来ないのかもしれない。五七は理屈屋だ、感情だけでぶつけはしない。

 それでもなんとか会話を紡いだ。

「……兄さんは約束を絶対に破らない。だからわたしは兄さんと約束をしない。それをすれば王手になるから。王手になればわたしは絶対に降りない。でも……わたしと流魅果だけを愛すると誓った今なら……約束をしてもいいということ?」

「ああ。なんでも言ってみろ」

 玄関が開き、すぐに閉じる。流魅果は来ない。

 一番くじは五七だ。当たるかどうかは俺次第。

 さぁ、どうする。和々切占七。お前は分かっている、絶対に知らないとは言えない。

 五七は占七のことが好きだ。彼女はお前を兄としてではなく男として愛したい。小学四年生のガキの恋などと馬鹿には出来ない。何故なら永遠の愛を掲げるから。

 おい俺。五七と流魅果以外を切り捨てると口に出したな? つまり……他はどうでもいいということだぞ。

 自由を……甘く見たな。

「──占七くんが十七歳になって、誰とも恋人にならなかったら……わたしと結婚してください」

「……分かった。約束だ」

「約束……だから」

 頬を赤くして、額の汗を小指で拭う仕草に、俺は不覚にもときめいてしまう。

 散々妹だと言っていても、根本的には血の繋がらない男女。婚姻関係の男女が結婚前に養子として一緒に暮らすというのも非常識な訳ではない。

 義理の兄妹が結ばれることは……ありえない話ではないのだ。

「おっまたせっ!」

 玄関扉が勢いよく開き、黒い長袖のシャツと膝丈まであるフリフリの紺色のスカートを履いた、いかにも女子小学生の格好の流魅果が俺達に駆け寄った。

「流魅果遅い」

「ごめんねぇ五七。兄さんもごめんなさいね」

「ああ」

 五七にべったりとくっついてぐんぐんと歩き始め、俺はその後ろをついて行く。

 頭の良さも容姿の麗しさも何もかもが俺には勿体無い妹。それが何の代償もなくそばに居るという幸運。今だって胡散臭い。

 俺にそれ程の価値があるのか? 俺を好きになる程の何がある?

 俺は……彼女を幸せに出来るのだろうか。

「ねーねー五七。今日の夕食はなんなのよ」

「教えない」

「ひゃー」

「意地悪な流魅果には教えません」

 若干引っ張られて痛そうな五七を、それでも続ける流魅果は意に介さない。

 普通とはこういうことで、変に気を遣えば異質になる。

 やりたいことをやるのに相手の都合を取り入れることは流儀に反するとでも言いそうだ。

 だからさりげなく注意されてもやめず、相手の気が逸れた時にこっそり直す。

 流魅果は俺の方へ振り向くのと同時に、五七の腕から離れて手を握った。

「そうそうお兄、お兄はどんな髪型が好き……な……」

「……どうした?」

「……ひゃー」

 俺の背後に釘付けか。流魅果の足は止まる。

 まるで星空を眺めているかのような恍惚とした表情に、俺の興味は抑えきれなかった。

 俺はゆっくりと後ろを向く。

 ……それは夜。目を覆うほど長い前髪から覗く三日月が俺の視線と交わり、冷風と共に横切る。

 星よりも小さく、星よりも輝く黄金の月は、あってはならない恋を生んでいた。

 光に照らされて盲目になっているに違いない。最愛の妹との絆よりも……黒夜に心が惹かれたのは。

「──よう転校生! 初日にしては随分遅い出発じゃないか!」

 人との関わりを避けるように足早に動いていた彼女は、俺の掛けた言葉で振り返る。

 遠慮などしなかった。数々の出会いを繰り返す人生において、逃してはならない瞬間だったと確信できる。

 黒夜は俺を見て、訝しげに睨む。

「何か用ですか、和々切占七くん」

「一人で歩くのも寂しいだろ。俺達と一緒に行こうぜ」

 俺の提案に黒夜の視線は五七へ向く。いつもの無表情から何かを読み取ったのか、首を横に振った。

「構わないでください」

「──そんなこと言わないの! ね!」

 ……しかし、流美果は彼女の腕をがっちりと組んで歩き出す。

 今朝からその問答無用の大立ち回りっぷりを発揮する流魅果の前では、駆け引きなど些細なものであった。

「ちょ、ちょっと流魅果ちゃん……」

「私のこと知ってるんだ? もしかして遅れた理由はそれ?」

 引きずられるように進まれながらも、それに器用に適応する黒夜に感心する。

 黒夜のことは何も知らないし、どんな都合があってここにやって来たのかを考える材料さえ揃っていない。しかし、彼女から感じ取れる不幸のオーラと、節々からはみ出ている善性が俺を惹きつける。

 俺が欲しいものを全て持っているような女なのだ。

「黒夜さんよね。どうしてここに越してきたの? 気になるー!」

「……。……親の都合でここへ来たんです」

「私嘘苦手ぇ」

 速攻で黒夜の言うことを嘘認定し、ケラケラと笑う流魅果。

 ……なんで分かる?

「あの、流魅果ちゃん。私は黒夜ではなく、うらみ。心巳です。市絆心巳なんです」

「……え! あれ、え、なんで間違えたのかしら。失礼しました」

 ……おっと、俺も間違えた。そもそも心巳だって知ってたな。でも黒夜っぽいもんな? 仕方ねぇだろ。

「私がここへ来たのは、育て親が実家と喧嘩しているからです。身の安全と心の健全を確保する為に転校したんですよ」

「うーん……まだ嘘臭いね。本当のことを話せぇ!」

「ちょっと、あは、いひひひひひ!」

 遠慮はしない。流魅果の手が心巳の服の中へ侵入し、くすぐり攻撃を仕掛けた。

 流石の心巳も抵抗を始め、身をよじりながら離れようとする。しかし手で引き剥がそうとはしなかった。

 好き嫌いセンサーが発動した流魅果は手を止め、これ以上は嫌われることを理解して大人しく引き下がる。

「ひひひ……もう! やめてくださいよ!」

「負け負け。心巳ちゃんの強情さには感服しましたわ」

「ええ、ええそうです。私は間違ったことは言ってませんから」

「うちのお兄への好意がありながら、自ら身を引こうなんて間違いにも程があると思いますけどね」

「遠慮していれば好き勝手……。こんな関わっちゃ駄目な人に触れたこと、後から悔やんでも知らないんですからね」

 コアラのように抱きつかれていたはずが、液体の如く軟体な身のこなしで抜け出すと、歩みを遅らせて俺の隣にやって来る。

 俺の前には一本道の進路に選択肢を与えてくれる流魅果、俺の後ろには俺の意思を支えてくれる五七。そして一番の特等席であり、誰もが立たなかった俺の隣に心巳が埋まる。

 四年間変わらなかった無敵の陣形のはずが、何故か今完成したように感じる。

 四方対応出来る死角無しのパーティ。男一人なのが欠陥だが、俺以外にこれは務まらない。

 ──タイムリミット十七歳。これから待ち受けるラストボスを果たして攻略できるかな?

「私のこと初めて会った時、どんなふうに見てたんです?」

「どんなとは?」

「私のこと可愛いとか、綺麗とか、気持ち悪いなとか……そんなところです」

 俺は心巳と初めて会った時のことを思い出す。

 ……あ、あ、あ。

 あー……。

 空の青さ、世界は悠久。夜が迫る時、ボロクズを燃やして空を抉っていた。

 隠れていた。隠されていた。醜さを全て包み、今在る全てに道を作っている。

 ほんの少し外れた道草の中に真実を見てしまった彼はそれだけで過去を裏切る決意をした。全てを知り、今ある最善手を捨てたのだ。

 だが……今はどうだ。お前は最善手でないことに恐怖し、一つの宝石ではなく全ての宝石を手に入れてしまった。

 価値などわからぬさ、お前には。

 ……心巳と初めて会ったのは学校での放課後。隣のクラスの恵成【えな】という女子に校舎裏に呼び出された時だった。職員室から出てきた心巳とその保護者が教師と話していたのを目撃し、噂の転校生が彼女だと確信して眺めていた。

 いつも通りに恵成と別れて我愛しの双子達と合流して帰路についたが、美女を見慣れてしまっているのか、然程感動を覚えなかった。

 ただ、間近で見るとやはり緊張してしまう。世界の広さ人間なんてちっぽけなものだろうが、どんな絶景だろうと彼女さえあればどんなものでも勝てないだろうからだ。

 まさに、奇跡を具現化した存在か。

「気持ち悪かったな」

「えー……」

「綺麗すぎて」

 心巳は口元に手を当てて笑う。俺もそれに合わせるように笑みを作った。

「なんで越してきたんだ? わざわざこんなところまで。別に過ごしやすいところでもないだろうに」

「後悔をしないため……ですかね」

「どういうことだ?」

「ここじゃないと後悔すると思ったんです。全てが終わった時にはもう二度と会うことが出来ないから」

「誰に会うことが出来ないって?」

「私です」

 いまいち要領を得ない回答に、俺はパズルのように不足した情報を足した。

 きっと後悔すると言っているのは自分ではなく、特定の他人のことだろう。それがどういうものなのか見当も付かないが、俺は心巳が来るべくしてここに来たのではないかと思っている。

 先程もあったように、この手の質問はやめるべきだろうか。

「五七ちゃん……ですよね。クラスメートの名前は覚えて来ました。あなたが占七くんの妹の五七ちゃん。よろしくです」

 心巳は努めて笑顔で五七に右手を出した。握手の願いに対し、五七は睨んで払う。

 あまり感情を表に出さないはずの彼女が、殺気にも似た怒りを露わにするとは、何が気に入らなかったのだろうか。

「運命はあなたを選ばない。そんな、待ち続ける人生で報われはしない。あなた以外の全員が全力で全てを出し切る。こんな腑抜けた女なんて、わたしはいらない」

 それを……心巳は理解しているようだった。

 俺には五七が急に変なことを言い出したとしか思えなかったが、俺の感じていた焦りのようなものは消えていた。

 無理に心巳に話し掛けたり、心巳を一人にすることに抵抗があったのはその焦りのようなものであり、何か大事なものがなくなってしまうような気がしたのだ。

 だがそれは五七が解決した。五七にとって自分と似た雰囲気を持つ心巳のことはよく分かるのかもしれない。

 実際に顔の作りに関しては近いと思う。五七が痩せすぎているせいで気付きにくいが、髪の色さえ同じにすれば姉妹に見えなくもない。

「……そう、ですね」

「わたしは先に行く。こんなのと付き合いたくない」

 そうして我愛しの妹は足早に先頭を進み、曲がり角で姿を消した。

 俺は……五七を追った。

 俺の知る限り、地頭の良さと、それなのに聡明な目を持つ彼女がわざわざ嫌われるようなことをするのは相当な勇気がいるはずだ。女同士だからこそ分かるものがあるのかもしれないが、俺は兄だからこそ妹のことをよく分かっているようなフリをして放っておくことは出来ない。

 一緒にいられる時間が長かろうと、一緒にいるべき時間が多い訳ではない。俺が付いていなければ駄目なのだ。

 俺は五七の背中に追いつき、肩に手を置いた。

「兄さん、どうして」

「一人には出来ないだろ」

「わたしは一人でいい」

「例えいつでも会えるとしても、嫌われてなくて逆に好かれている人がそばに居ないのは寂しいんじゃないか」

 五七は……俺の手を払った。

「一人でなければならない。わたしはもう兄さんと十七歳の時に結婚すると約束が出来た。だからもう思い出はいらない」

「それは……そうだが」

「このままだと占七くんが結ばれるのはわたし。だからわたしは距離を置くの。占七くんが全力で恋愛をした上でわたしを選んで欲しいから、わたしはその邪魔をしないようにする」

「俺はまだ十一歳で、子供も作れないほど幼いのに、恋なんて出来るかよ」

「しないといけないの!」

 今まで事あるごとに俺にべったりだった五七が、ここまで強く拒絶するとは想像していなかった。

 逆に、俺が五七の立場になって、五七にどこの馬の骨か分からない男と恋愛をさせる場合はどんな時だろうと考える。

 ……駄目だ、全く分からない。五七が俺以外を好きになることがありえないからだ。

 じゃあなんだ、俺はそうじゃないのか。俺は五七以外を好きになるというのか。

 それこそ……ありえない話でありたい。

 彼女はまたしても足早に俺から離れていき、すぐにその姿を消した。

 今度は追いかけなかった。今度こそ追いかければ、言う通り結ばれてしまうだろうからだ。

 もしも今、拒まれなかったらどうなっていただろう。彼女にはまだまだ明らかにされていない大きな魅力がたくさんある。それを彼女が一人だけ発揮すれば、間違いなく俺は虜になる。

 そうすれば……他の女なんて目に入らない。

 気付けば俺は一人だった。付き添うべき相手も、付き添ってくれる相手も、無敵のパーティはいつの間にか解散されている。

 妹のことだけにしか頭にない馬鹿な俺にはこの状況に混乱してしまう。野生を忘れた犬が野生に戻ったような、何をすればいいのか分からない感覚か。

「ですです、ですんですー」

 ですを四回、可愛く声を出したところで不吉な呪文には違いないそれが聞こえ、俺の首は自然と曲がる。

 俺が来た後ろの道、五七が進んだ前の道、気にもしていなかったもう一つの道。そのどうでもよかった道からオレンジ色の長い髪に、白いシャツ、黄緑のスカート、磨き上げられた黒いブーツ、軍服のような大人が使うような大きな上着を肩にかけて、何よりも印象的なみずみずしいぶどうの瞳の少女が俺と交わった。

 真四角の透明で薄い機械のようなものを操作しながら歩いていたが、俺を見ると動きを止め、それを上着の内ポケットにしまった。

 年は……俺と同じだろうか。拗らせるには少々早すぎるその幻想的な少女はコツ、コツ、とゆっくり近付いてくると、右手を軽く上げた。

「こんにちはー」

「おはようございますだろうが」

「厳しくない!?」

 あ、しまった。つい流魅果にするような反応を出してしまった。あまりに人柄が良さそうなもので、フレンドリーに接してしまったのだろうか。

 しかし、少女はそれに嫌悪感を出すことはなく、改めて柔和な笑みを作った。

「……私はベノルリルと言います。こちらは地球が寿命を迎えてしまい、宇宙船で星々を渡って資源を調達していまして、この星に先行調査をしに来ました。良ければ詳しくお話をお聞かせ願えませんか?」

 ……宇宙人? いや、確かにこの地球に存在する人間の中では驚くほどに綺麗な女の子ではあるが、こんな幼さで先行調査などと言われて信じられる方がおかしい。

 多くの矛盾を無くして初めて信用できるだろう。

「別の地球って言う割にはえらく日本語が上手いじゃないか」

「あはは、別の星もみんな日本語が主流なんですよ」

「もしも本当に先行調査だというのなら、それって仕事だろ? なんで子供が来るんだ」

「学校が無いから働いているんです。それに私の遺伝子は優秀なので」

「俺と変わらないと思うけどな」

「何を言いますか。あなたも私と同じスペアの異星人でしょう?」

「……ん?」

「え……?」

 少女の一言は俺にビッグバンを起こした。

 スペアの異星人だって? 確かに六歳になる前の記憶が無い養子だが、まさか地球……いやこの地球ではなく別の星の人間だから天才だったのか?

 それならば、ベノルリルと同じほどの容姿を持つ我愛しの妹達も異星人ではないか。

 俺に異星人を認めろと言うのか。

「とりあえず、近くの公園に行きましょう。そこで私の知らないこと、あなたの知らないことを話し合って、人生の進路について考えるんです。良ければ私達の船に乗れるかも知れませんから」

「俺が……船に……?」

「……あれ? もしかしてスペア人に寿命が無いことを知らないんですか? いけませんよ、地球が寿命を迎えた時に大変なんですから」

 そう言って、時折こちらに振り向きながら彼女は歩き出した。

 俺は……ごく普通の家庭の中で、妹のことばかりを考えている少し頭のおかしな人間で、一般社会においては異常な存在だとは思いもしたが、その一般社会の方が異常なものと認識させられると平衡感覚が一瞬だけずれたような気がした。

 もしも俺が世界よりも妹を大事にする理由が、世界の方が劣っていて俺達が優れ過ぎているだけだとすれば……世界が俺達のように優れてしまえば、俺はただの人間になるのだろうか。

 俺の中の義務感は形を失い、本能の赴くまま、ベノルリルの後を追った。

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終と始 はらわた @kusabunenotsuki

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