第〇話 黎明01

 屋上へと続く階段をあがる途中にしゅんの母親のミシン部屋がある。今日も彼女はそこで作業をしていた。階段をあがるごとに彼女に近づく。私の位置から彼女の表情は見えないが、そばを通る時にきっとまた何か小言を言われるだろう。


 起床した私は、ベッドに上半身を起こした状態で、両手で顔を顎の方から擦りあげ、親指の付け根でこめかみをグイグイと力を込めてほぐした。

 起き出してキッチンへ行き、コーヒー豆を挽いて、それをコーヒーメーカーにセットすると、ジャージとTシャツに着替えて、その上にウィンドブレーカーを羽織った。晴れた日は、近所の運動公園まで行ってウォーキングをするようにしている。姿勢を正して真っ直ぐ前を向いて、足が接地する状態や腕の振り方に集中していると、雑念が雲散霧消していった。公園をぐるっと周り、入り口の芝生のところまで戻ると、今度は柔軟体操だ。靴も靴下も脱いで大地に直に触れることで、体内の静電気と一緒になんらかの不要な気も一緒に解放されていくような心地よさがあった。

 家に戻って清潔な服に着替えると、マグカップに出来立てのコーヒーを注いで、応接室と呼んでいる部屋のソファに腰をかけた。


「悪気はなかったんだ。親心じゃないか」


 不意に俊の声が蘇って思わずギュッときつく目をつむった。

「どうしたの? どこか痛いの?」

「大丈夫。ちょっと昔のことを思い出しただけ」

 私はそう応えると、空気を入れ替えようと窓を開けた。この南向きの大きな窓が気に入って入居を決めた。予想通り、明るさが溢れる素敵な部屋だった。

 今日の午後には予約が入っている。


 俊と別れるまでの二年八ヶ月、私は彼の家で彼の母と三人で暮らした。「空いている部屋はあるし、家賃も浮くからいいじゃないか」と何度も俊に勧められて、押し切られる形で一緒に住むことになった。彼としては、親公認の同居という体裁をとることで、婚約状態であるという既成事実を作ってしまおうという打算もあったのだろうと思う。

「ねぇ、洗濯物は日が暮れる前に取り込むものよ」

 屋上へと向かう階段をあがっていると、俊の母がちょうど降りてくるところだった。手には私の衣服が抱えられている。


 2LDKの戸建てで、一階には居間とダイニングキッチン、バス、トイレ、二階には寝室が二つと納戸が一つ、三階部分は屋上で、床面積の半分ほどを覆う屋根を取り付けて、半屋内という感じにしてあった。階段の上がり口に、簡易に仕切った小部屋が設えてあり、俊の母はそこをミシン部屋として使っていた。洋裁をしていた頃の名残だ。部屋といっても扉があるわけでもなく、雨風が吹き込まない程度の本当に簡易なものだった。そこを通り過ぎて、屋根がない側に物干し台が置かれている。


「……いまやろうと思ってあがってきたんです」


 つい口答えするような口調になった。干しっぱなしで夜露に濡れたとしても、困るのは私であなたじゃないでしょうと心の中で悪態をつきながら「ありがとうございました」と言って服を受け取った。そのまま、私と俊が寝室として使っている二階の一室に入り、ドアを閉めた。


 俊の母は私がこの家で暮らすことをそもそも歓迎していないようだった。“息子の恋人”は、彼女にとってはまだ他人と同等なのだろう。


 一緒に住むようになって、彼ら母子の関係もあまり良好ではないらしいことにも気づいた。実際、俊には「お前がお袋の相手をしてくれれば、俺の負担もちょっとは減るだろうと思ってたんだ」と言われたことがあった。


 私を接待要員として家に引き込んだ彼の下心に不誠実さを感じはしたが、縁あって一つ屋根の下に集ったのだから、楽しく暮らせるように盛り立てていこうと思っていた。人生の先輩の昔話をふんふんと頷いているだけで喜ぶなら、少しは付き合ってあげよう、と。


 俊の母は、最初は世間話のていで話をしだすのだが、次第にアドバイスじみた言い回しになり、それを強要する物言いに変わった。言外に「私が一番正しいのよ」という意思が感じられた。


 いつしか私は部屋にこもるようになった。


 平日は、仕事を終えると、帰宅途中で弁当を買って、家に着いたらそのまま部屋に直行した。トイレと風呂、洗濯をする以外はずっと部屋で過ごした。休日はずっと部屋にいるか、外出して遅くに帰るかのどちらかだった。


 私達の寝室は西陽が強く差し込む部屋で、夏は早々にカーテンを閉めて冷房をつけるのだが、それでもカーテン越しに熱気が入り込んできた。けれど、この部屋を出て、俊の母と話をするよりはましだった。


 私が住み始めた最初から、部屋には水のペットボトルが箱買いしてあった。俊は「まとめ買いした方がお得だから」と言っていたが、彼もきっと私と同じ行動パターンを長く続けてきたのに違いなかった。


 俊の母は、日中は三階のミシン部屋にいることが多かった。俊が小学校にあがるまで、洋裁で稼いでいたそうだ。今は、昔仕立てた服を手直ししたり、ラジオを聞きながら屋上の植木の手入れをして過ごしているようだった。


「また洗濯物を勝手に取り込まれたんだけど」と私は俊に抗議した。


「じゃあ、乾燥機買っちゃう?」


「そうじゃなくて、お母さんに干渉しないように言ってほしいのよ」


「乾燥機を買えば時短にもなるし、一石二鳥じゃないか。どうせ何を言ったって聞きゃあしないんだから」


 経験者はかく語りき、だ。


 マンションの頭金になるくらいの貯金ができたら、絶対にこの家を出ようと心に決めた。俊と二人で、新しく家庭を築くのだ。俊もそのつもりでいるはずだ。


 それは予期せぬ妊娠という形で訪れた。


 つわりが思いのほか辛く、めまいと吐き気でろくに食事も摂れなくなった。朝も怠さが勝って起きられないから、昼からの出勤が常態となった。匂いにも敏感になった。今までは気にならなかった訪問客の香水や整髪料が、鼻が曲がるほどの悪臭に感じられて、マスクをして耐えた。

 こんな中途半端な勤務態度はきっと他の社員の士気をさげている。私は心苦しくなり、社長に辞意を伝えた。引き留められはしたが、通勤も、机にただ座っているだけでも辛いのだと伝えて、退職を受理してもらった。実は社長のワンマンぶりにも嫌気がさしていた。とにかく全てが頃合いだった。


 それからは、安全地帯である二階の寝室で横になって過ごした。


 食欲が戻ってきて、長く起きていてもふらつかなくなったから、やっとつわりが終わったのだと感じた。その週の検診に赴くと、流産していることを医者に告げられた。


「妊娠初期に起こる流産は、胎児の発育不全によるものです。健康な女性でも二割の確率で起こる現象なので、お母さんが気に病むことはありませんよ」


 そうは言われても、気に病まないはずがなかった。胎児に良くないものを食べたり飲んだりしなかっただろうかと、自分のこれまでの生活をかえりみずにはいられなかった。


 俊が運転する車の助手席で、俊の母親にどう伝えようかと思案した。普段は最低限の話しかしていないけれど、初孫でもあるし、きっとがっかりさせてしまうに違いなかった。


 俊が医師に言われた通りに母親に伝えた。


「そう」と言ったきり彼女は口を閉ざした。


 私は喪失感と疲労とで、そのまま部屋にあがり、ベッドに横になって翌朝まで眠った。


 一週間ほど様子を見て、自然に排出されないようだったら手術しましょう、と言われていた日は平日で、俊は有給をとって付き添ってくれることになっていた。


 育児雑誌にも医者が言ったことと同じようなことが書かれていたし、どうやっても防げなかったことだったのだと、一週間をかけて気持ちの整理をつけた。今日の手術を受けたら、私の体は私だけになる。


 朝、支度を整えて俊と一緒に一階に降り、キッチンにいた俊の母親に「行ってきます」と声をかけた。


「ねぇ」と彼女はこちらに向き直って切り出した。「少し前に背伸びしてたじゃない。両手をぐーっと上に伸ばして。あれが良くなかったのかもしれないわね」


 私の体内でもはや異物となってしまった我が子を掻き出す手術を受けるという日の朝に一番聞きたくない類の話だった。


「なんなのなんなのなんなの……あの女はいったいなんなの……」


 俊の車の助手席で、私は両手で顔を覆って呪詛のように呟き続けた。


「お袋にも悪気はないんだよ」俊は私を諭すように言った。「次の時は気をつけるようにっていう親心じゃないか」


 俊の母親は、医者の説明を理解していないだけじゃなく、その女の息子は母の無知を許容することを私に強いた。


 もう限界だった。


「せっちゃん!」


 駅前のロータリーに停められた車の横で立っていた女性は、私の呼びかけに応えるように手を振った。


 せっちゃんは、私が大学進学で家を出る少し前に結婚して、実家近くに居を構えていた。父とは仲の良い兄妹きょうだいだったから、私は父の真似をして「せっちゃん」と呼び親しんでいた。


「疲れたでしょ~。え、荷物、それだけ?」と私の特大サイズのスーツケースを見て目を丸くした。「カコちゃんのお母さんのときなんて、トラック一台手配したのに」とカラカラ笑った。


 一人暮らしをしていたときに使っていた家電や家具は、俊の家に同居するときに処分していたし、その後は彼の家のものを使わせてもらっていたから、私物は大して多くなかった。スーツケースに収まりきらなかった分は、これを機に断捨離した。


「せっちゃん、わざわざありがとう」


 せっちゃんの車は軽ながらも荷室が広くて、スーツケースが楽々入った。


「お腹空いてない?」


「駅弁食べたから平気」


「じゃ、このまま家に向かっちゃうね」


 車に乗り込むと、クーラーが効いていて心地よかった。梅雨明け宣言が一昨日されたばかりだったが、すっかり夏日の様相だった。


 私の実家は祖父母、つまり父の両親が建てた一軒家だ。だが、父はすでに亡くなっているし、母が住んでいるわけでもない。


 父の葬儀が済み、私と母とせっちゃんの三人で遺品整理をしている時、母が「あたし、実家に帰ろうと思って」と切り出した。「カコも大学でこの家を出ちゃうし。父も母も『一人でいたら寂しいだろう』って心配してるのよ」


 こんな田舎に一人で住み続けられない、という意思が言外に感じ取れた。


 私がこの春高校を卒業するまでの十八年強をここで暮らしたはずだが、結婚するまで実家暮らしだった母からしたら、ここは結局のところ“余所よその土地”だった。


「お義姉ねえさんさえよければ、私が引き受けようか?」せっちゃんが言った。「うちの旦那にも聞いてみないとだけど、ここは私の実家でもあるし、カコちゃんがいつか戻ってきたくなるかもしれないしね」


 せっちゃんの提案は、若い私にとって魅力的な選択肢とは言えなかったけれど、生まれ育った家がなくなってしまうのはやはり寂しかった。


 叔父も特に異論はなかったらしく、手筈が整うと、母はあっさりと自分の地元に帰ってしまった。


 私は大学の授業があったから母の引っ越しは手伝えなかったのだが、せっちゃんと叔父さんは荷物の積み込みを手伝ったらしい。


「段ボールが後から後から出てくるもんだから、ブロックを隙間なくピッタリに落とすゲーム、あるじゃない? あれみたいにして、それはあっちだ~それはここの隙間に入れろ~って。私も旦那もめちゃめちゃ頭使ったんだよ〜」


 トラック一台は大袈裟だが、母の私物だけで手配したワゴン車の荷台がいっぱいになるほどだったそうだ。


「兄さんが車を手配してくれたんだけど、一往復じゃ運び切れないかと思ったわよ」後日、母は電話でそう話していた。


 駅から実家まではバスで二十分程、最寄りのバス停からも六分ほどは歩かなければならない。せっちゃんが迎えにきてくれたおかげで、身も心も軽くなった。


「カコちゃん、聞いてよー。うち、昨夜カレーだったんだけどさー」


 せっちゃんは実家に着くまでの道中、鍋いっぱいのカレーを汗だくで作ったこと、息子二人と夫がそれを食べ尽くしたことを面白おかしく話してくれた。


 私もケラケラと笑った。


 私の事情を詮索しないでくれたことがありがたかったし、忖度せずに話せる相手が今まで身近にいなかったことを改めて実感した。


 実家の中は私が家を出たときとあまり変化はなかった。テーブルも食器類もそのままだったし、両親の寝室のタンスも残されていた。タンスの横の空いたスペースは、確か母の鏡台が置かれていた場所だった。タンスの中身はきっと空っぽだろう。


「はい、これ、マスターキーと予備ね」


 せっちゃんから鍵を二本手渡された。


「白米はとりあえず二キロ買ってあるし、お惣菜のタッパーをいくつか冷蔵庫に入れておいたから適当に食べて。じゃ、子供達が帰ってくる時間だから今日は帰るね。久々の実家だし、ゆっくりしたらいいよ」


 せっちゃんはそう言ってさっさと帰っていった。まだ五時になろうかという時間だったけれど、大きな荷物を持って半日がかりで移動してきて流石に疲れていた。


 リビングの窓を大きく開けた。流れ込む風が心地よかった。日中の熱気が少し残るものの、冷房をつけるほどでもなさそうだ。


「疲れたー……」


 壁際のソファにどさっと腰を下ろし、そのまま寝そべった。


 今朝家を出る時、俊はもう出勤した後で、顔を合わせることはなかった。


「なんでそうなるんだよ」


 別れを切り出した日、彼はがっかりしたような怒ったような顔をしてそう言った。


「一番の理由はあの手術の日のこと。俊も俊のお母さんも、自分の言いたいことだけ言って、私がどう思うかなんて気にしてなかった。お母さんの干渉もずーっと嫌だった。だけど、俊はこの家を出るつもりはないんでしょ?」


「部屋は十分にあるし通勤にも便利だろ。老後のことを考えたら、アパートを借りて他人にお金を払うより、ここに住んでその分貯金した方がいいじゃないか。子供が生まれたら、お袋に面倒見てもらえるし」


「コスパだけ考えたらそうだけど」


「お袋は確かに煩わしいけど、適当にあしらっとけばいいんだよ」


「血の繋がりがないんだから、なおさら適当になんてあしらえないよ。それにあの人に子供は預けたくない」


「どうして? 自分の母親だと思って頼ればいいじゃないか。家族も同然なんだから」


――無料ただで住まわしてくれる大家で、無料で家事をしてくれるお手伝いさんで、将来的には無料で赤ちゃんの面倒を見てくれるベビーシッターなんだから、多少の不都合があっても我慢するべきだ。現に俺はそうしている。


 俊の主張はつまりこういうことだ。

「結婚を意識するようになったら、その男が自分の母親にどう接しているか、よーく見ておくのよ」


 昔読んだ小説の一説に書かれていたセリフを思い出した。男の母親はつまり未来の老いた自分を映す鏡で、男が母親に敬意をもって接しているなら、きっと妻となる人のことも尊重するのだ、と。


 母親を無料で便利に使える使用人だと思っている俊は、私のこともいずれそのように扱うに違いない。


 私達の会話は微妙に噛み合っていなかった。きっと付き合い始めの頃からずっと。彼は、無意識にだろうけれど、話の矛先を微妙にずらして、私に核心をつかせないようにしている。


 そのカラクリに気づいてしまった私は、もう誤魔化されなかった。


「……私達、まだ入籍もしてなかったじゃない。共通の財産と呼べるようなものもないし。居候の私がこの家を出ていくだけ。あなたの生活は何も変わらないわ」


 少しの沈黙が流れた。


「俊には、私よりもっと合う人がいると思うよ」


 恋人としては申し分なかったけどね。この先何十年と続く人生をこの人とは一緒に歩けない。


「……お前の前に付き合った女にもそう言われたよ」俊は小さくそう言ったあと、「ちょっと頭を冷やしてくる」と言って部屋を出て行った。


「お袋にはもう言ったから」


 コンコンと部屋のドアをノックして入ってきた俊は開口一番そう言った。あの後、俊が部屋に戻ってくることはなかった。昨夜は居間のソファででも寝たのだろう。


 私は私物の整理もあらかた終えていて、明日の朝こっちを出るつもりだとせっちゃんにメールを送ったところだった。


「行くあてはあるのか?」


「うん」


 俊がまだ何か言いたそうにしていたので、「別の男のところとかじゃないから」と言うと、「そんなんじゃねーよ」とそっぽを向かれた。


 私の落ち着き先の情報を聞き出したいのだろうけれど、それを言うつもりはなかった。私の父母のことや、どんな環境で育ったのかなど、過去に俊から一度も質問されたことがなかったことに、今更ながら気がついた。私の実家がどこにあるかも、当然知るはずもない。


「明日の朝には出るから。それまでよろしくお願いします。お母さんにもそう伝えて」


「ん……わかった」


 俊とはこれが最後の会話になった。


 出発の朝、キーホルダーからこの家の鍵を取り外し、二人の寝室のテレビのダッシュボードの上に置いた。


 部屋を出ると、三階で人の気配を感じたので、踊り場から「お世話になりました」と少し声を張って言った。ゴニョゴニョと何かを話す声が聞こえたが、俊の母親が姿を表すことはなかった。私は構わず玄関へと向かった。


 目が覚めると、レースのカーテン越しに朝日が差し込んでいた。


 私はソファに寝そべって、そのまま寝入ってしまったらしい。次の瞬間、玄関の内鍵を閉めていなかったことに思い至ってどきりとした。窓だって開けっぱなしだ。同居生活に慣れてしまって、防犯意識が希薄になっていたことを反省した。


 立ち上がって家の中を見回してみたが、帰ってきた時のままの状態だったし、電気をつける前に寝入ってしまったから、いつもの空き家が昨日と同じように今日もあるだけだと外からは見えたことだろう。


 玄関まで行って内鍵を閉め、これからは一人なんだから気をつけなくちゃ、と思った途端、にわかに寂しさが込み上げた。


 電話が鳴る音が聞こえたのでリビングに戻った。電話回線はまだ解約されないままだったようだ。もしかしたらまだ父の名義のままかもしれない。


 電話の相手は果たしてせっちゃんだった。


「起きてた? 朝ごはんまだだったら、駅前のカフェに一緒に行かない?」


 ホットコーヒーが飲みたいと思っていたところだったので誘いにのった。


 シャワーを浴びたいところだったが、清潔な服に着替えるくらいしか時間はなさそうだ。着替えを終えて鍵を手にしたところで、車輪が砂利を踏む音が聞こえてきた。


 店のドアを開けると、途端にコーヒーのアロマに包まれた。九時を少し過ぎた頃で、席は二割ほど埋まっていた。テーブル同士の間隔が適度に離れているので、混雑時でも隣のテーブルの喋り声に煩わされるということもなさそうだった。小ぶりの一人がけソファの座り心地も申し分なかった。


「ここ、いいでしょ」私にメニューを手渡しながらせっちゃんが言った。「嫌なことがあった日とかさ、夜はとっとと寝ちゃって、ここのモーニングを食べてリセットするんだよね」


「せっちゃんでも嫌なこととかあるんだ」


 いつも陽気なせっちゃんでもそんな日があるのか。


「そりゃあるよー。子供達は毎日どっちかが怪我して帰ってくるしさ、うちのあんぽんたんなんか、夜遅くに帰ってきて『明日五時に起こして』って言うなり寝室に入って行ったから、『朝飯どうする?』って声かけたのに返事がないから見に行ったらもう寝てんのよ!」


「叔父さん、仕事、忙しいんだね」


 叔父は自営で内装関連の仕事をしていると聞いていた。


「亭主元気で留守がいいってやつだけどね」


 あんぽんたんな亭主のことを心から案じていることは、せっちゃんの表情から察せられた。私と俊が持ち得なかった絆だった。


「家の鍵なんだけどさ、やっぱりせっちゃんに合鍵持っててもらってもいい?」


 紛失することはないだろうけれど、万が一ということもある。信頼できる誰かに持っていて欲しかった。


 せっちゃんはニコッと笑って「本当はその方があたしも安心」と私の提案を受け入れてくれた。


 モーニングセットを食べながら、お得なスーパーや激安ショップの場所などを教えてもらった。お古で良ければと、自転車まで貸してもらえることになった。


 カフェを出てせっちゃんの家まで車で行くと、赤く綺麗に塗装された自転車が軒下に停めてあった。チェーンもちゃんと手入れしてあるようだった。私に使わせるつもりで準備しておいてくれたのだろう。感謝を述べて、さっそくその自転車に乗って家に帰った。


 家に着くと、父と母の寝室だった部屋にスーツケースを運び込み、中身の整理をすることにした。


 今日はちゃんと湯を張った風呂に浸かりたいと思い、風呂場へいって買い足す必要があるものをメモする。キッチンやトイレも回って、買い出しリストを作ると、自転車で今朝教えてもらった激安ショップへと向かった。


 店内を歩いていると、あれもこれもと買いたくなったが、自転車のカゴに入る程度にしておかなければならない。今日のところはシャンプーとトリートメント、歯ブラシ、洗濯洗剤、インスタントコーヒーなどにとどめた。


 駐輪場に向かって歩いていると、通りの向こうに男の子が寂しげに立っているのが見えた。そばに保護者らしき姿もない。ひとりぼっちでいるその子がなぜだかとても可哀想に思えた。しばらく見守っていたが、親らしき人が現れる様子はなかった。


 困っていることがあるなら手助けしてあげようと思って、声をかけるために通りを渡って、その男の子の方へ歩いて行った。


 車が一台やってきたので、道の端に寄ってやり過ごしてから目線を戻すと、その子がいなくなっていた。目の届く範囲にそれらしい姿も見えない。ついさっきまで男の子が立っていた場所まで歩いていくと、黒い猫がいた。


 正確には、そこは雑貨店の店先で、黒い猫の置物が置かれていた。


 私は店の前でしばらくキョロキョロと男の子の姿を探したが、どこかへ行ってしまったようだった。キツネにつままれたような気持ちで駐輪場へ戻り、自転車に乗って家まで帰った。


 その晩、夢を見た。


 目の前に棚がある。そのちょうど目の高さの位置に、今日見たあの黒猫の置物があった。眺めていると、背後に気配を感じて振り返ると、少し向こうに女が立っていた。自分と同じくらいの年代の女で、何かを話しているようなのだがよく聞き取れなかった。


 翌朝、夢のあの黒猫がどうにも気になって、落ち着かない気持ちになった。


 雑貨店が開くであろう時間を見計らって自転車で乗りつけると、果たしてあの猫は昨日と同じ場所にあった。店主と思しき男性が店先を掃き掃除している。私は掃除の邪魔にならないところに自転車を停め、店主に声をかけた。


「あの……これが欲しいんですけど」


 店主は私の顔をじっと見て、「……承知しました。どうぞこちらへ」と箒を店先に立てかけ、両手で恭しく黒猫を持ち上げて店内に入っていく。私もその後ろをついて行った。


 店内には思ったよりも雑多な物が置かれていたが、店主はそれらを私に紹介するでも、セールストークをするでもなく、奥のカウンターへ真っ直ぐに歩いて行った。


「これね、南部鉄器なんですよ。いっぱい撫でてやってくださいね」


 黒猫を新聞紙で丁寧に包みながら、店主は嬉しそうに言った。物をでて欲しいという雑貨店の店主らしい言い方だと感じて、「大事にします」と応えて持ち帰った。


 リビングの壁際にある本棚の最上段にそれを置いてみた。自分の顔と同じくらいの高さだった。居心地が悪そうに見えたので、洗面所からハンドタオルを持ってきて、座布団がわりに敷いてやり、今度ちゃんとした座布団を買ってきてあげるからね、と頭を撫でた。


 その晩の夢にも黒猫が出てきた。昨晩と同じように見つめ合っていると、また女が出てきて、何かを言っている。集中しているうちに、その言葉が聞き取れてきた。


「……一人産むんでも大変だったのに」女はそう言った。「もう一人欲しいだなんて」


 それに男の声がかぶさる。

――経済的には問題ないって言ったんだ。だけど体がしんどいって。


「あの人は、もう、自分の趣味ばっかりで、子育てがどれほど大変かわかってないし」


――麻雀だってゴルフだって、息抜きは必要だろ。


 女の後ろ、ちょうど私の死角の位置にもう一人いる。声の主だろうか。


「そもそもあたしは体が弱いし、もう三十五だし」

――子作り自体にもう興味が無かったんだな。


「二人目なんて無理無理って言って」

――あなたはしっかり稼いで、家族を養ってください、って言われてな。


「堕さざるを得なかったってわけ」


 男と女は奇妙な符合と調和をとりながらそれぞれ一方的に話して、消えた。


黎明02につづく

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