第三話 離婚を迷っている人

 「夫とは業務連絡しかしてないんです」と舞は切り出した。「年始に義実家に行ってからギクシャクしだしまして」

 夫の野田誠の実家は舞達三人が住む家から車で三十分ほどの距離にある。

 年始の義実家詣は嫁の仕事と割り切って毎年帰省している。元日のお昼前に到着して、その日のうちに帰ってきてしまうのだから、帰省と言うほど大袈裟なものでもない。

 義理を欠きたくない、と言えば聞こえは良いが、「義理を果たしているので、なんでもない平日にわざわざ来ませんし、そちらもアポ無しで来ないでくださいね」というプレッシャーをかけているつもりでもある。それについてはどうやら効果は出ているようで、義母が急に我が家を訪問するというようなことはこれまでなかった。

 誠は前日の大晦日にひと足先に義実家へ帰って大掃除を手伝うのが恒例だ。翌元日はお屠蘇を皮切りに、ほとんど一日中飲んでいる状態になるので、帰りの運転も舞の担当だった。

 今年もお昼少し前に到着した。車庫に停めてある義父の車の進路を塞ぐ位置に駐車する。なるべく車庫側に寄せて駐車するために何度か切り返しをしていると、その音を聞きつけた義母が玄関ドアを開け放して出迎えてくれる。

「おかえりーお疲れ様ー」

 寒いのにご苦労なことだ、と舞は思った。こうやって舞達を受け入れるのは優しさからではなく、嫁が孫を連れて帰ってきたということをご近所の皆さんにアピールしたいがためだろう。

 面子を気にする義母に合わせて、舞も「帰りましたー」と少し大きめの声で返事をする。

「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」

「明けましておめでとう。まぁまぁとにかく入りなさい」

 玄関口で恒例のやりとりをする。この時点で嫁としての任務はほぼ全うしたと言っても過言ではない。あとは失礼のないタイミングを見極めて退出するだけだ。

 トースターで焼いた餅を入れた雑煮と、市販品を詰め直しただけのお節料理を昼食としていただく。いつもいただくばかりなのも悪いと思って、ぜんざいを作って持っていった年もあったのだが、「これ、お返しだって」と数日経って誠が持ち帰った鍋には果たしてぜんざいが入っていた。よもや自分が持参したものと同じ料理を返されるとは思っていなかったので、正直面食らってしまった。私の方が美味しく作れるという義母のマウンティングなのだろうかと勘繰った。

「和成、おばあちゃんが小豆煮てくれたよー」とその場は取り繕ったものの、翌日には中身を全部捨てた。それ以降義実家に帰るときはなんの手土産も持って行かないことに決めた。

義母ははは、表向きは愛想よく対応してくれるんですけどね。嫁ってやっぱり余所者よそものっていうかね」

「血の繋がらない親子関係というのはなかなか複雑ですよね」

 カコの言葉は妙に実感がこもっているように聞こえた。

 カコは義母よりも十くらい年下だろうか。ベージュのワイドパンツに紺色のざっくりと編まれたカーディガンを合わせている。水色のレンズが入ったメガネが、染めずにいる白髪によく似合っている。

 カコの家は道路に面した部分はゲストを迎えるような作りだが、奥はプライベートスペースになっているようだ。住居と兼用しているのかもしれないが、カコ以外の人間の気配は感じられない。

 夢の種をもらえるということで、アポイントを取って今日を迎えた。

「どんな夢を、ということでしたよね」舞は本題を切り出した。「私、夫と離婚したらどうなるのかっていう夢を見たいんです」


 曖昧すぎてすみません、と舞は詫びた。

「もう二ヶ月以上ギクシャクしたままですし、少し距離を置くのもいいかもしれないと考えているんです。すぐに離婚というわけじゃなく、まずは別居という形で」

「舞さんは? 離婚したいという意思がお有りなの?」

 カコに問いかけられて舞は窓の方へ視線を向けた。この部屋の調度品は本棚とソファとこの応接セットという非常にシンプルなものだった。広い窓から見える樹木の葉がサワサワと風に揺れている。静かな空間の中で、窓枠に切り取られたそれはまるで昔見た白黒の無声映画のようだと感じた。

「……私は、まだ、離婚への意思が固まっているわけではない、です」

 歯切れ悪く口から出た言葉によってはっきりと意識した。自分はまだ、離婚したいとは思っていない。

「うちの一人息子が、和成かずなりというのですが、この四月から小学生にあがります。アトピー性皮膚炎を患っていまして、今はアロマオイルで保湿ケアをしていて、なんとか小康状態を保っている状態なんです」

 和成は生後半年頃から顔に発疹が出始めた。病院でアトピー性皮膚炎と診断された時、舞はアトピーに悩む友人達を思い浮かべた。成人しても炎症や痒みの症状が続くことを知っていたので、長期戦になることを覚悟した。

「カコさんはアトピーってご存知ですか?」

「皮膚が慢性的に炎症を起こす病気ですよね。私の友人にもいますよ」

「今の医学ではまだ根治はできないそうです。かゆみを緩和させて、その状態を維持することが肝要なんです」

 アトピーと診断された病院で処方された軟膏をネットで検索してみると「ステロイド」であることがわかった。それをキーワードにして更に調べていく。ステロイドは痒み止め成分で即効性が高く、市販の軟膏にも配合されている。使用方法を守って使う分には問題ないが、慢性的な肌トラブルを持つ人が長期間にわたって使用し続けることで副作用が出るリスクがあるということを知った。

 患者ご本人が公開しているブログも読み漁った。

 そして、和成本人がステロイドの良い面と悪い面を理解し、使うかどうかを自分で判断できる歳になるまで和成の体にステロイドを塗布しないことを決めた。その代わり生活習慣と食事内容を改善し、アロマオイルでのケアを徹底することにした。

 そのことについて誠に話すと「お前に任せるよ」と言われた。

——医者の薬を塗っときゃいーのに。

 小さく呟いた誠の声は聞こえなかったふりをした。

「冬は空気が乾燥するので皮膚の炎症が強くなるみたいなんです。傍目にもわかるくらい赤くなってしまって」

 元日に義実家に入るなり「あら、和ちゃん、痒いの? おばあちゃんの軟膏、使う?」と義母が言い出した。

「これね、おばあちゃんがカユカユになった時に使うの。スーッとして気持ちいいのよ」

「お義母かあさん〜、薬は使わないと決めてるので、それは塗らないでください」

 義母が得体の知れない軟膏を和成に使わせようとしているのをすかさず制止する。

「これ、よく効くのよー。スーッとして気持ちいいし。痒がってるみたいだから塗ってあげたらいいじゃない」

 舞はやんわりとした口調で言ったつもりだったが、義母は不服だったようだ。

 こんなやりとりはもう何回も繰り返してきた。その度に舞の方針を説明するのだが、義母は全く覚えていないようだ。いや、忘れたふりをしているだけなのかもしれない。舞の説明に納得していないから、こうやって蒸し返すことで、なし崩し的に自分の意見を通そうという魂胆なのかもしれなかった。

「そうそう。よく効くっていう漢方をもらったのよ」と義母が紙袋を取り出した。

「和ちゃんがアトピーだって言ったらね、お隣の小林さんが漢方がいいわよって分けて下すったの。血行を促進する漢方でね、新陳代謝を高めるんですって。大人も子供も飲んで大丈夫っていうのよ。ちょっと今、一口飲ませてみない?」

 薬を使わない方針だという前提をなしにしても、どのような処方であるのかも不明な薬を和成に飲ませる気はさらさらなかった。

「だから」思ったよりも大きい声が出た。「薬をあれこれ試すのって、和成をモルモットにしてるのと同じなんですよ」

 大人なら試してみて良ければ続けるし、合わないと感じればやめれば済むだけの話だが、自分の好不調をうまく説明できない幼児のうちは、大人の言うがままに薬を使い続けてしまう。それでは臨床実験用の動物となんら変わらない。

 そんな理屈をこれまで何度も説明してきたのに。

「痒みって本人の主観が大事なんです。それが説明できる年齢になるまでは、保湿を重点においたケアで様子をみたいと言っているんです」何度言ったらわかるんですか、という一言はかろうじて飲み込んだ。

「なんなの、もう。人が好意で言っているのに。あなたっていつもそうね」

 舞が反論しなかったことで、義母のこの言葉は黙殺された形になった。相手のペースに乗ってしまっては埒が明かなくなる。話題を切り上げたいなら、沈黙を以って会話を強制終了させるのが一番効率が良いということを誠と結婚してから学んだ。


義母ははに対してこんなに強く反論したのは、結婚してから初めてだったんですけどね。『いつも』って言われちゃって。夫は夫で私を援護するでもなく黙ってるもんですから、正月早々気まずい感じになってしまいました」

 舞はため息と共に言った。アトピー関係の情報は夫にもシェアしていたのに、全て聞き流されていたのだろう。それとも義母と同じく納得していないのだろうか。

 和成が欠伸をし出した。いつもの昼寝の時間はとっくに過ぎている。例年なら和成をソファーで寝かせておいて、起きるまで義両親のお喋りに付き合うのだが、この日はこの欠伸をきっかけにして「連れて帰って家で寝かせますね」と思い切って切り出した。

「あら、そうなの……」と義母は逡巡した様子を見せたが、バッグと車のキーをさっと手にし、「和成、さあ帰ろうね。お節、ご馳走さまでしたー」と言いながら玄関口へ移動し、そそくさと出てきてしまった。

 誠が帰宅したのは夜の九時を回っていた。義実家で夕食も食べて来たのだろう。和成はもう就寝していた。

 「ただいま」と声をかけられたので、「おかえり」と反射的に返したが、それ以上の会話もなく、誠はすぐに風呂場へ行ってしまった。出てくるまで待っていようかとも思ったが、ベッドでスマホを見ているうちに舞も寝てしまった。


 舞は出された紅茶を二口ほど飲んだ。ほどよく冷めていた。

「いつもなら翌日は三人で初詣とか初売りとかに行くんですけど、今年は気まずい雰囲気のまま過ごしました」

 舞も誠も正社員として働いていたので、正月休みが明けると、忙しい日常が始まった。「夫はこれまで通り一緒に夕食は食べるんですが、しゃべるのはもっぱら私と和成だけで、会話に入るでもなく、自分が食べ終わったらすぐに席を立って、寝室に籠るようになりました。寝室には夫のパソコンが置いてあるので。仕事をしているというよりも、動画なんかを見て一人の時間を過ごしているようです」

「夫婦の寝室を彼が独占しているということ? 舞さん、ご不便でしょう?」

「クリスマスプレゼントとして義実家から和成の学習机が贈られてきたんです。来年から一年生だからって。だから和成の一人部屋をしつらえてたんですよ。でもまだ一人で寝るのを嫌がるもんですから、和成の部屋に布団を敷いて、私はそっちで寝ていたので問題は特になくて……」

 これじゃあまるで——

「それじゃあまるで家庭内別居ね」舞の心の声の後半を補うようにカコが言った。

「二月になってすぐに夫が『寿司でも食べに行こうか』と言ってきたんですが、和成が熱を出してしまったので、結局行けずじまいで。それ以来、会話らしい会話はしていません。家事も育児も私一人でやってるようなものですし、離婚したとしても、今の状態とそれほど変わらないなら……って考えちゃうんです。そうなる前に、何らかの気づきが得られればいいかなって」

 経済面については、舞の給与と役所からの手当てでなんとかなるだろう。生活面や精神面については、和成だけじゃなく、舞自身にとっても何か変化が起こるのかもしれないし、起こらないかもしれない。むしろ起こらない確率の方が高いかもしれないかもしれない。

「……承知しました」カコは壁際の棚の方へ移動した。

 棚の上には書籍や文房具などが整理されて置いてある。カコが何やら作業をしている後ろ姿から棚全体へ視線を動かしてみると、上の方に黒い塊があるのを見つけた。よく見てみると猫を模した置き物のようだ。金属製なのか、その光沢が何やらなまめかしい。

「さ、舞さんにはこれね」カコが四角い白い箱を持ってきた。厚みは五センチほどの文庫本大の化粧箱だ。その上に左手を添えた。

 舞には左手をテーブルの上に手のひらを上にして置くようにいい、右手は自分の手の上に重ねるように指示した。舞の左手にカコの右手が重なる。

「目を瞑って。リラックスしてくださいね。私が声をかけるまでそのままで」

 舞は目を閉じるとなんとなく深呼吸した。ラベンダーの匂いが嗅ぎとれた。和成のスキンケアオイルの調合にはラベンダーオイルも使用する。カコもアロマオイルを日常的に使っているのかもしれない。

「いいですよ。目を開けて」

 カコがこちらを見て微笑んでいる。

「夢の種をこの中に込めました。夢を見たいと思った夜に、この箱を枕元に置いてお眠りください」

 舞はそれをカバンにしまいカコの家を辞去した。歩きながらカコの人物像を振り返る。年上の姉御といった感じで、頼れそうな女性だった。「夢の種を与える」ということだったが、身の上話を聞いた後に人生訓を滔々と語られでもしたら閉口してしまうと身構えていたが、特に詮索するでもなくあっさりと夢の種を提供してくれたのがありがたかった。和成のお迎えの時間にも十分間に合いそうだ。


*****


「あんた、今日は静かだったじゃない」

 カコがソファーに身を預けるようにして座り、目を閉じたまま聞いてきた。室内にはさっきカコが噴霧したアロマスプレーのラベンダーがほのかに香っている。

 客を送り出した後、こうして十分ほど瞑想するのがカコのいつものルーティンだ。思考に同調すると、自分のものではない念に占領されてしまうんだそうだ。

「だって、何か言いたそうにしてる人もいなかったしさ」と僕は言った。

「そうね」

「前世でなんの繋がりもなかったのに夫婦になるってこともあるんだね」

「お母さんと子供の間に強いご縁があるようね。子を成すためだけの伴侶が必要だったのかもしれないわ」

「じゃあ、僕とカコとの間にも強いご縁があるんだね、きっと」

 僕は軽い調子で言ってみた。カコが目を瞑ったまま眉を顰めていたから。

「それはそうよ」

——私があなたを繋ぎ止めているんだから。

 カコの思念が僕に伝わってきた。

 どういう意味かはよくわからないけれど、カコの口元が少し緩んだようだったので、僕は安心した。


*****


 舞がカフェに着くと昭代はすでに席についていて、舞に向かって小さく手を振った。

「昭代先輩、お久しぶりです!」と声をかけ、向かいの席に腰を下ろす。メニューを開いてランチをそれぞれセットで選んだ。

 島中昭代と舞とは高校の陸上部の先輩後輩で、高校を卒業してからは少し疎遠になったのだが、会社の最寄駅でばったり会ったのをきっかけに数ヶ月に一度の割合で飲みに行く仲になった。和成が幼い頃は、外食するよりも家の方が面倒を見やすいだろうからと家まで来てくれたこともある。昭代の実父の葬式にも参列したし、その後仕事を辞めたという連絡ももらっていた。気持ちが落ち着くまではと連絡を控えていたのだが、昭代が台湾に渡っていたことを彼女のフェイスブックで知って驚いた。パスポートの更新のために一時帰国するという投稿を見て今日のランチの約束を取り付けたのだった。

 カコを訪問してから二日経っていた。

「ほんとにお久しぶりですね!」

「台湾に行ってもう二年経つからね」

「ずいぶん思い切りましたよね! すごい!」

「全部リセットしてやり直そうって思ってさ。仕事も辞めてたから引き継ぎもないし、語学学校の情報を集めて、飛行機のチケット取って、荷物まとめてビューンって飛んでっちゃった」

 あはは、と快活に笑う昭代の様子から、台湾での生活が充実していることが伺える。

 舞も海外留学に憧れていた時期があったが、社会に出てほどなくして結婚、子供も産まれたことで身動きが取れなくなってしまった。独身で行動力がある昭代が羨ましかった。

「行動力がある昭代先輩が羨ましいです」思ったことが口に出た。

「マ〜イ〜、隣の芝生は青く見えるもんだよ。結婚もして子供もいる舞の方があたしは羨ましいよ」

「それなんですけどね……最近ちょっと微妙で……既婚者は既婚者でいろいろあるんですよ〜」

「え、なになに、離婚の危機なの!?」昭代にそのものずばりの質問をされてしまった。

「危機……なんでしょうかね……」と正月からの経緯をかいつまんで話した。

「なるほどね。それはだいぶ重症だね」

「え? そうなんですか?」

 ドキッとした。うちら夫婦はそんなに重症なのだろうか。

「お姑さんのそれ、わざとだよ」

「え? 姑?」

「『いつもそうね』って言われて、舞はすごく引っかかってるんでしょ?」

「……引っかかってます」

「それ、意図的にやってるよ」

「意図的……わざと?」

「そう、わざと。罪悪感を植え付けるためにね」

 思い当たらないではなかった。「いつもそうだ」と言われてしまうほど義母とは会っていないし、あんなに強い口調で言ったのはあれが初めてだ。言ってしまったこと自体に後悔はないが、面子を気にする義母の性質を知っていたのに、あの言い方はちょっとやり過ぎだったかもしれないという罪悪感は確かにあった。

「次に会うときは、何か埋め合わせをしなくちゃ、とか思ってるでしょ?」

「まぁ……この気まずさは早めに解消しておいたほうがいいな、とは思ってますけど……」

 とは言え、誠とも家庭内別居状態だ。正に状態とも言える。

「お姑さん本人も理屈をわかっててやってるわけじゃないだろうけどね。有効だってことは知ってるだろうね」

「有効……」

「相手を意のままに動かすのに有効ってこと」

「意のままに動かす……」話が突飛すぎてオウム返ししかできない。

「あたしはさ、『とらタヌ』って母親によく言われてたの。『取らぬ狸の皮算用』ね」

 不確かなものをあてにして計画を立てることを戒める諺だ。

「当の本人は『そんなに何回も言ったかしら』って言ってるけどね。元々は父親への愚痴だったのに、いつの間にかあたしがそう言われるようになっちゃってさ。小学六年のときかなぁ、お年玉たくさんもらったら任天堂のゲーム機買う! って言ったら、『あらあら、またあんたのとらタヌが始まった!』って言われてさ」

「え? それはとらタヌじゃないでしょ? 子供らしいハッピーな空想じゃないですか」

「だけど親に窘められれば良くないことだってインプットされるわけよ。『あんたがもらった分と同じ額だけこっちもお年玉配ってんのよ』とか? 『親の気も知らないで』とか? 『そんな高価なゲーム、分不相応よ』とか?」

 昭代が目玉をぐるりと回す。元々ジェスチャーが大きめの人だったが、さらに表情豊かになった気がする。

「後ろめたいでしょ?」

「後ろめたいです……」

「結局ゲーム機は買わなかったんだけどね。それって母親に行動を制限された、とも言えるじゃない? じゃあもしゲーム機を首尾よく買っていたとしたら?」

「ゲームで遊ぶ度に悪いことをしている気持ちになる……?」

「悪いことをしてるんだから、埋め合わせをしなくちゃって?」

「……思っちゃうかも」

「ね?」と言いつつため息を吐き、またアイスティーを飲む昭代。

 確かに昭代は母親の思惑通りゲーム機を買わない選択をするよう誘導されたようにも見える。

「で、舞は今、この罪悪感下心のあるコントロール術にじわじわ侵食されてる可能性が高いってわけ。故意に植え付けられた罪悪感ってタチ悪いよ」

「……そうなのかな……」

「ま、諸刃の剣でもあるんだけど」

「諸刃の剣……」

「罪悪感を与えている側も罪悪感があるんでしょうね。お姑さん、次に会う時はきっと舞の顔色を窺ってくると思うよ」

「……え」

 舞の脳内で点と点が繋がった。

「……誠が『お袋と一緒に寿司でも食べに行かないか』って言ってきたことがあったんですよ。一ヶ月位前に」

「あー、それ、言い出しっぺはお姑さんかもね」

「そうです、そうです。和成が熱を出しちゃって、結局行けずじまいだったけど……」

——今度の週末、お袋と一緒に寿司でも食べに行かないか。

 二月の初め、夕食時に誠が切り出した。

「お寿司! 食べたい!」と和成がはしゃいだ。

 義母と一緒と聞いて舞はちょっと気後れしたが、気まずい関係は早めに解消したほうが良いと思っていたタイミングでもあったし、和成も喜んでいるので即承知した。

 だが約束のその日、和成が熱を出した。昼までは元気だったのだが、昼寝から起きると顔が火照っているように見えたので、熱を測ってみると36.9度あった。お寿司を楽しみにしていた和成だったが、無理をして出かけたところで大して食べられず、寿司といえば生魚、場合によっては店内で吐いてしまうかもしれない。今日は無理をせずに自宅で休ませたかった。週末にしっかり養生させておけば、月曜日には回復しているだろう。看病のための有給を取らなくて済むという打算もあった。

「……というわけで、悪いけど今日はあなたとお義母さんだけで行ってきて」

 至極合理的な理由だと思ったのだが、果たして誠は「はぁ」という大袈裟なため息をついた。

「お前っていっつもそうだよな。せっかくお袋が誘ってくれたのに」

 舞は何を言われたのか咄嗟に理解が追いつかなかった。風邪の引き始めのようだから家で養生させたいと言っているだけだ。看病のために会社を休むはめになるのはいつも舞の方なのだし、誠になじられる謂れは全くないはずだ。

「お姑さんがこのすべを使うってことは、手本となる人がいたってことでもあるよ」

「術ってそんな大袈裟な……」

 ……つまり義母も自分の親にその術を使われてきたってこと?

 踏襲するか反面教師にするかはその人次第だろう。そして今、誠もその術を舞にしかけてきている。なんのために? 舞を自分の意思に沿うようにするために。

 少なくとも、自分の思い通りになっていない現状に不満を持っていることは確かだろう。

 義母から誠へ、誠から舞へ。誠はいずれその矛先を和成に向けるかもしれない。

 その未来を想像して、舞は全身が総毛立った。


 和成を出産して退院したばかりの頃は、初めての育児に戸惑うばかりだった。

 第一子だからか母乳の出が悪い上に、和成も上手におっぱいを吸えないでいた。満腹になる前に疲れて寝てしまうものだから、すぐまた目を覚ましておっぱいを求めて泣く。

昼も夜も関係なく二時間おきに授乳する生活は生後二ヶ月頃まで続いた。

 夫婦のベッドのすぐ隣に設置してあるベビーベッドから和成の泣き声が聞こえる。抱き上げるためにベッドサイドの灯りをつけると誠が言った。

——いちいち電気つけるなよ。こっちは明日も仕事なんだから。

 舞は産休中だったから、育児だけしてればいいんだからお気楽なもんだとでも思われていたのだろう。産褥期さんじょくきで体はしんどい上に、まだまともに喋れない赤ん坊と二人きり、社会から取り残されたような気持ちになり、精神的にも鬱屈していた。

——粉ミルクにすればいいじゃん。ミルクなら俺だってあげられるし。

 粉ミルクを与えると寝つきが良くなるという話は聞いていた。乳離れする前に産休が明けてしまうし、誠が分担してくれるというのなら、早めに切り替えてしまったほうがいいかもしれない。

 誠が和成にミルクを作って飲ませたことは結局一度もなかった。

「あなたの子でもあるのにね」

 口に出してみたら涙が出てきた。

 舞と誠は、伴侶としてはちゃんと機能していたと思う。和成という登場人物が増えたことで天秤が傾いてしまった。

 それとも、誠の側の天秤の皿の下にはずっと義母がいたのかもしれない。夫婦二人の天秤だと思っていたが、天秤自体が最初から機能していなかったのだとしたら、舞がどう努力しようとそもそも釣り合うわけがない。

 第二子を持つことも考えていたのだが、この天秤はそれに耐えられないだろう。

 和成の成長にしたがって傾いていく天秤がとうとうバランスを失って、本体ごと奈落へ落ちていくイメージが浮かんだ。

 早く手を打たなければ。完全に倒れてしまう前に。天秤がなんとかまだ立っている間に。

 それとも……いっそ天秤の皿から飛び降りてしまおうか……


 最近は夢らしい夢を見ていない。熟睡できていないのかもしれない。

 カコからもらった夢の種をまだ使っていないのは、夢を見てしまったら、決定的な何かを引き起こしてしまうのではないかと感じているからだった。もらった日にクローゼットの下着の引き出しの奥にしまい、そのままにしてある。

 だが、夢を見るまでもなく、事態はその方向に進んでいっているのかもしれない。


*****


「昭代先輩ー!」と舞は元気よく手を振った。

「久しぶりー!」と昭代も嬉しそうだ。「日本語を話すのも久しぶりだわー」

「二泊三日、お世話になります!」

 十月の三連休を利用して台湾にやってきた。台湾もおりよく三連休だ。滞在中は昭代のアパートに泊まらせてもらうことになっている。まずは身軽になって、現地の美食に連れて行ってもらう。

「海外旅行なんて新婚旅行ぶりで! 和成が生まれる前だから、もう七年振りですよ! 電子ゲートなんて便利なもんができてて、逆に手こずりました!」喜びと興奮が隠せない。

 前回の昭代の一時帰国から約半年が経っていた。

「台湾に行きます! ってメッセージくれたじゃん。良い話か悪い話か、どっちにしろ覚悟を決めたんだなって思ったんだけどさ、詳しい話は会ってから聞こうと思って我慢してたんだ」と昭代はニヤニヤしている。「どうやら良い話のようね」

 安くて美味しい店があると言う昭代について行くと「熱炒」という看板が出ているお店に着いた。店内だけじゃなく屋外にもテーブルと椅子が並べられている。

「この店、客が自分で飲み物をとってくるシステムなのよ。台湾ビールでいいよね?」店員に席に案内された後、昭代はそう言ってドリンク類が入っている大型冷蔵庫の方へ向かい、瓶ビールを一本持ってきた。

「まずは乾杯! ようこそ台湾へ!」と乾杯する。昭代は本来の乾杯ガンベイの意味の通りグラスを空にしてしまった。

 メニューを見てみたが、漢字だらけで何がどれやらよくわからない。「台湾っぽい料理がいいよね。とりあえず二、三皿適当に頼んじゃうね」と昭代が言ったのでお任せすることにした。

「んで? どんな感じになったの?」手酌でビールを注ぎながら昭代が問うた。

「別居することになりました」

「……なるほど?」とだけ言って昭代はビールをさらに一口飲んだ。

「誠の転勤が決まったんです。この十月から九州に単身赴任です」

 誠が支店へ転勤になることは三ヶ月前に聞かされた。和成が小学一年生になって二ヶ月目、正月の一件から五ヶ月が経っていた。

 誠は一家で赴任することを想定していたようだが、そうなると舞が職を辞さなければならなくなる。育児休暇を取得してまで続けてきた職場だ。舞は強固に反発した。

 誠にとって意外だったのは、和成が「パパと一緒に行かない」と言ったことだったろう。「友達と一緒にここで一年生するの」と言ったのだ。

 母親でもなく父親でもなく友達と一緒にいたいというセリフには舞も少なからずショックを受けたが、誠も「そっか」と言ったきり黙り込んでしまった。最終的には息子の主張を受け入れ、単身赴任を決めた。

「それより前に別居の話は出ていたんですけどね。踏み切るのは相当な覚悟と労力がいるでしょ。そしたらまさかの赴任の辞令で」

「神による神采配ってわけね」

「正にそれですよ」昭代の言い草に思わず吹き出す。「で、誠が言うんです」

——お前も自分の仕事があるし、お前一人じゃ和成の面倒を見られないだろ? だからお袋を家に寄越すから。

「ん? それで?」昭代が眉をひそめた。

——そもそも別居するつもりだったんだから、俺がいない間、舞がこの家に住み続けるってのはおかしいだろ? 俺名義で買った家なんだから。

「……うーん……それで?」

——だから、この家はお袋が住むから。舞と和成が住む部屋は別に借りて。家賃は半分出してあげるし。それでいいだろ?

「嫁と子供がそのまま住み続けたってなんの不都合もないだろうにね。男らしくないなぁ……っと、これはジェンダーハラスメント? になっちゃうか?」

——舞は週に二、三回この家に来て、お袋に和成を預けて帰ればいい。和成にしたってよく知ってる環境だから問題ないし、お前も自分の時間ができて好都合だろ?

「ここでうんと言っておけばスムーズに話が決まりそうだったから、その条件を飲むことにしたんです。小学校の学区内に手頃な物件が見つかったんで即契約して」

「……そっかー……」昭代は腑に落ちない様子だが、すでに決行した後でもあるし、そう言わざるを得ない。

「誠が家賃を半分負担することになってる手前、合鍵を渡すってことになってて、彼が出発する前に渡す予定だったんですが……」

「うん?」険しい顔をしてビールのグラスを持ち上げたまま、昭代が舞の方へ顔を向ける。

「……うっかり渡しそびれました!」

「舞と和成君の家を確保したってことか。あはは! 幹得好よくやった!」

 昭代が大袈裟に言ってグラスを掲げた。それを聞きつけた隣の席の男女四人組の台湾人が、満面の笑みでこちらを向いて、同じくグラスを掲げ「幹得好ガンダハオ!」「乾杯ガンベイ!」と声をかけてきたので、六人で一斉にグラスを空にした。

「あー楽しい! こんなに楽しい気分になったのは何年振りだろ!」

「今は? 和成君はどうしてるの?」

「母が引っ越し先のアパートに来てくれてます。気兼ねなく泊まれる別宅ができたって言ってますよ。しばらく滞在して東京を満喫するつもりみたいです」

「娘と孫と、親子三代水入らずだもんね」

「誠には週に二、三日義母に預けろって言われましたけど、アトピーに理解がない義母に和成を預けるなんてまっぴらですよ。のらりくらりとはぐらかすしかないかなー」

「それがいいよ」と昭代はあっさり同意した。「そうすることで、未来の舞は罪悪感を感じてるかな?」

「……」自分の未来を想像してみる。「感じてませんね」

「じゃあ大丈夫だ」あははと昭代が笑う。

 母がいてくれて、海外に来て、旧友と会って飲んで、まるで結婚前のに戻ったようだ。ちょっと前まで「妻」と「嫁」という役割にはまってもがいていたのが信じられない。


 昭代のアパートに戻り「舞はベッドの方で寝ていいよ」と昭代が言い終わる前にベッドに倒れ込んだ。朝から大きなスーツケースを転がして、電車、飛行機と乗り継いで長時間移動したのだから、流石に疲れが出た。

「まぁ、結論を急ぐ必要はないんじゃない? 十年後には今と全く違う展開が待ってるかもしれないし。この経験は無駄にはならないよ。今は理不尽でやるせなくてもね」昭代が鼻からふんっと息を出して続ける。「私だって、一年前は台湾に住むことになるなんて思ってもいなかったもん!」

「私も昭代先輩みたいになれるかなー」うつ伏せのまま顔も上げずに言った。

「なれるなれる。ってか、もうなってる」昭代がまたあははっと陽気に笑った。


 二泊三日はあっという間に過ぎた。東京行きの飛行機に搭乗するために搭乗ブリッジ内へ一歩入ると、ムッとするほどの熱気を感じた。空港内の空調が効いていただけに、温度差を余計に感じる。自分が日本に到着する頃には、もう陽も落ちていて涼しいくらいだろう。

 自分はさっきまでこの熱気の中にいた。

 昭代は台湾で楽しく暮らしているようだ。風土や人間性が元来の性格に合っているのだろう。なんてことないことでもコロコロと笑う昭代と一緒にいると、舞もつられて笑ってしまう。おかげで漠然とした不安が今は雲散霧消していた。

 誠の単身赴任の準備と自分たちの引っ越しが着々と進む中、和成は特に何を言うでもなかった。父と母が「仲良し」ではないことを子供ながらに察していたのかもしれない。親が考えるよりも遥かに多くのことを子供は感じ取っている。

 今回の別居のことを、誠がネガティブに受け取らないことを願った。もし悪い道に向かいそうになったとしたら、親としてどのように対処するのが正しいのだろう……

「そっか、お義母さんがやってるのは、つまりこれか」

 親の目の届くところにいてくれれば管理がしやすい。そのためには子の行動をコントロールする必要がある。

 罪悪感があると、それを解消するために埋め合わせをしようとする、と昭代は言った。

 ボールが遠くへ飛んでいってしまっても、そのボール自身が埋め合わせのために戻ってきてくれるのなら、わざわざ拾いに行く手間が省ける。

 そうやって育てられた誠は、今度はそれを舞に仕向けてきた。さらに想定外だったのは和成のアトピーだ。舞の主張が増え、ギスギスした関係を不要に招いている。

「医者が出した痒み止めを使えばいいだけなのに」と誠は言った。

——俺の正しい意見に従わせるために、ちゃんとコントロールしなくちゃ……

 舞はハッとした。「いつもそうだ」と言われて舞にとっては寝耳に水だったけれど、誠も、そして義母も、心の中でずっとそう思っていたのではないだろうか。

「俺(私)の方が正しいのに」と。

 解決方法が提示されているのに、それを試しもしないで自分の考えを堅持する舞を「頭が固くて扱いづらいヤツ」だと認定したのだ。


 現状が好転したわけではないが、カラクリがわかったような気がしてすっきりした。

 誠がそばにいない今、義母と直接やりとりする機会も増えるだろう。でももう大丈夫。気にしなければいい。相手の術中にはまらなければいいだけのことだ。

 誠と結婚して以来、相手の言ったことを黙殺することが増えた。舞にしてみれば、説明は十分にしたし、承諾も得ているのに、それをひっくり返そうとしているように思えたから。そんな舞の態度は、義母にしてみれば挑発しがいがないと感じていただろうが、結果的にこの対処法が正しかったようだ。

 血の繋がりがない親子関係というのは、このくらいでちょうどいいのかもしれない。

 そうやって対処していても、いよいよ腹に据えかねるような言動をされた時は……お笑い芸人の動画でも見て笑おう。昭代のように笑って過ごそう。

「昭代先輩、今回はありがとうございました! 会えてよかった! また来ます!」

 そうラインを送って舞はスマホの電源を切った。まもなく離陸だ。

 お土産もたくさん買ったし、写真もたくさん撮った。帰ったら母と和成にたくさん話して聞かせよう。

 明日は一日有給を取っているので、朝はゆっくり起きよう。午後は新居に合う新しい棚を物色しに行こうか。その店は車じゃないと不便な場所にあるもんだから、今は義母が住む家まで車を取りに行ってあれこれ詮索されるのが煩わしくて後回しにしていたのだが、母と二人、バスを乗り継いで行ってみよう。和成も行きたがったら学校を休ませたっていい。お昼ご飯はあの店のミートボールを一緒に食べようか。

 台湾に来て昭代と話せて本当に良かった。

 今回の別居は誠にとっては実質初めての一人暮らしになる。彼も彼なりに新しい気づきを得るだろうし、きっといい契機になるはずだ。

 それでも離婚という結果になったとしたら……それはそのときに考えよう。

 カコに夢の種をもらいに行った時の自分はもういない。この先、その種を使って夢を見ることもきっとないだろう。

 夢の種は引っ越し先でもクローゼットの下着の引き出しの奥にしまったままだが、今年の年末の大掃除でそれを発見して、「これ、何だっけ?」とすっかり忘れて驚いている自分を想像して「ふふっ」と笑い声が漏れた。慌てて隣の席を見やったが、隣の男性は目を閉じていて気づいた素振りもなかった。

 ほんの半年前までは、離婚してしまうかもしれないことばかり心配していたのに。

 舞はいま、未来の自分が遭遇する全ての事柄が楽しみになっていた。

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夢でも会えない 壁虎 @gecko_tw

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