第三話 離婚を迷っている人

 夫の野田のだまことの実家は、私達三人が住む家から車で三十分ほどの距離にある。今年の年末も、大掃除を手伝うために誠だけひと足先に実家に帰り、私と和成かずなりは元日に合流した。

 義実家での私の滞在時間は正味五時間程度だから、帰省と呼ぶほど大袈裟なものでもないのだけれど、年始の義実家詣は嫁の仕事と割り切って毎年欠かさず行っている。「義理は果たしていますよ。だから他の364日はわざわざ来ませんし、そちらも暇つぶしのためだけに来ないでくださいね」というプレッシャーをかけているつもりだが、一応効果はでているようだ。

 今年の元日も例年通りお昼に一緒にお節をいただいて、夕食前に辞去する——はずだった。


「義実家との関係性は良好とは言えなくて……」と私は切り出した。

 今年も私と和成はお昼少し前に義実家に到着した。車庫に停めてある義父の車の進路を塞ぐように駐車するのだが、なるべく車庫側ギリギリに寄せるために、前進、後退を何度か繰り返しているうちに、その音を聞きつけた義母が玄関ドアを開け放して出迎えてくれる。

「おかえりーお疲れ様ー」

 寒いのに毎度ご苦労なことだ。こうやって玄関先で出迎えるのは、優しさからではなく、嫁が孫を連れて帰ってきたということをご近所の皆さんにアピールしたいがためだということを知っているので、彼女に合わせて「帰りましたー」と少し大きめの声で返事をしてあげる。

「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」

「明けましておめでとう。まぁまぁとにかく入りなさい」

 恒例のやりとりを済ませて家屋に入る。もちろんご近所に聞こえる程度に声を張ってだ。この時点で嫁としての任務はほぼ全うしたと言ってもいい。あとは世間話を適当に済ませて、失礼のないタイミングを見極めて退出するだけだ。

 誠は大掃除をあらかた終えた後は、年末年始の特別番組を見ながら、上げ膳据え膳でずっと酒を飲んでいるようだ。私と和成が義実家に着くと、彼はソファーに寝そべっていて、そばのローテーブルには小皿に取り分けたかまぼことお煮しめ、酒のグラスが置いてあった。

 家族全員が揃ったということで、私達はダイニングテーブルに着席し、お節料理とお雑煮をいただいた。お節は御重には入れられていたが、どれも市販品で、それを詰め直しただけのものだった。とはいえ、いつもいただくばかりなのも悪いと思って、ぜんざいを作って持参した年もあったのだが、数日経って「これ、お返しだって」と誠が持ち帰った鍋に入っていたのは、果たして義母が作ったぜんざいだった。よもや自分が作ったものと同じ料理を返されるとは思っていなかったので、私は思わず絶句した。私の方が美味しく作れるという義母のマウンティングなのだろうかと勘繰った。

「和成、おばあちゃんが小豆煮てくれたよー後で食べようねー」とその場は取り繕ったものの、翌日には中身を全部捨てた。それ以降、義実家に帰るときはなんの手土産も持って行かないと決めた。

義母ははは表向きは愛想良く対応してくれるんですけどね。嫁ってやっぱり余所者よそものっていうか」

「血の繋がらない親子関係って、なかなか複雑ですよね」

 カコさんの言葉には妙に実感がこもっているように感じた。義母よりも十歳くらい若いだろうか。ベージュのワイドパンツに、紺色のローゲージのカーディガンを合わせている。気取らないファッションに、グレーヘアーがよく似合っていた。

 今日は有給休暇をとって、いつも通り和成を保育園に預けてからここに来ていた。

「どんな夢を、ということでしたよね。私、夫と離婚したらどうなるのか、っていう夢を見たいんです」

まいさんご自身は? 離婚したいという意思がお有りなの?」

「私は……」とまで言って私は答えに詰まった。

 気の置けない女友達との集まりでは、最終的に夫か姑か(もしくは両方)の愚痴大会になる。私も義実家とのあれこれを話すのだが、友人達からはその度に「舞なんて正社員でちゃんと稼げてるんだから、離婚しちゃえばいいんだよ!」と言われて溜飲を下げることはあっても、こんなに真っ直ぐに「離婚したいのかどうか」と聞かれたことはついぞなかった。

 部屋の広い窓から樹木がさわさわと風に揺れる様が見えた。静かなこの部屋の、窓枠に切り取られたそれは、昔見た白黒の無声映画のようだった。

「……意思が固まっているわけではない、です、まだ……」

 歯切れ悪く口から発せられた自身の言葉によってはっきりと意識した。私はまだ、誠と離婚したいとは思っていなかった。

「うちの一人息子なんですけどね。和成かずなりというんですが、この四月から小学校にあがるんです。アトピーを患ってまして、今はアレルゲンの除去と保湿ケアを徹底して、なんとか小康状態を保ってるって状態なんです。カコさんはアトピーってご存知ですか?」

「アトピー性皮膚炎ですね。私の友人にもいますよ。我慢できないくらいの痒みが続くそうですね」

 カコさんはそう言って少し眉をしかめた。そのご友人さんのことを思い浮かべているのだろうか。

「今の医学では根治はできないんです。だから、痒みを緩和させて、その状態を維持することが肝要なんです」

 和成は生後三ヶ月頃から顔に湿疹が出始めた。赤ちゃんによく見られがちな乳児性湿疹という肌トラブルだろうと思っていたのだが、非常に痒がり、肌を掻きこわすようになったので、病院に連れて行ってみたら、アトピーだと診断された。

 帰宅後に処方された軟膏をインターネットで検索してみたら、ステロイドであると表示されたので、「ステロイド」をキーワードにして更に調べていく。痒み止め成分で即効性が高く、市販の軟膏にも配合されていて、使用方法を守って使う分には問題ないが、慢性的な肌トラブルを持つ人が長期間にわたって使用し続けると副作用が出るリスクがあることがわかった。

 アトピーの症状は体質に依るところが大きく、軟膏を塗れば治るというものではないことも理解した。

 私は長期戦になることを覚悟した。

 そして、和成本人がステロイドのメリットとデメリットを理解して、自分自身で使うかどうかを判断できる歳になるまで使わないことを決めた。それまでは、生活習慣と食事内容を改善して、保湿を徹底する。

 誠にそう話すと、「お前に任せるよ」と言われた。

——医者の薬を塗っときゃいいだけの話じゃねーのかよ。

 小さく呟いた彼の声は聞こえなかったふりをした。


「あら、和ちゃん、ほっぺ痒いの?」

 お雑煮を食べている和成のほっぺが赤くなっていた。温かい料理を食べたことで、体が温まったからだろう。冬は空気が乾燥しているせいで、炎症している部位が特に赤く目立ってしまう。

「これね」と言って義母がサイドテーブルに置いてあったボトルを取り出した。「ばあばがカユカユになった時に使うの。スーッとして気持ちいいのよー」

「お義母かあさんー、薬は使わないと決めてるので、それは塗らないでくださーい」

 私は猫撫で声で和成に話しかける義母の声にトーンを合わせてやんわりと制止した。

「これ、ほんとよく効くのよー。スーッとして気持ちいいし。痒がってるみたいだから塗ってあげたらいいじゃない」

 こんなやりとりはもう何回もしている。その度に我が家の治療方針を話して聞かせるのだが、おそらく義母は納得していないのだろう。毎度こうしてなし崩し的に自分の意見を押し通そうとしてくる。私は私で一歩も譲らないものだから、頑固な嫁だと思われているに違いない。

「あ、そうだ」と義母がサイドテーブルの下の段に置いてあった紙袋を取りながら言った。

「よく効くっていう漢方をもらったのよ。和ちゃんがアトピーだって言ったらね、お隣の小林さんが『漢方がいいわよ』って分けて下すったの。血行を促進する漢方でね、新陳代謝を高めるんですって。大人も子供も飲んで大丈夫っていうのよ。ちょっと今、一口飲ませてみない?」

「ですから」

 思ったよりも大きい声が出た。誠がじろりと私の方を見る気配があった。

「大人なら、自分の体に合う合わないを言葉で伝えることができますけど、幼児は良いも悪いもわからずに、大人の言うがままに薬を使い続けてしまうでしょう? 私は和成をモルモットにしたくないんです」飲み込んだ方がいいとわかっていた。勢いのままに口から出た。「何度言ったらわかってくれるんですか」

「……なんなのよ、もう。人が好意で言っているのに」凍りついた食卓の空気を破るように義母が言った。「……あなたっていつもそうね」

 この言葉を私は黙殺した。こういうときは、沈黙で会話を強制終了させるのが一番だ。私にとってアウェイのこの場所では特に。

「……はぁぅ」

 和成が大きな欠伸をした。

「……私達、そろそろおいとましますね」

 和成の欠伸はこの場から去るためのキューだった。

「和成、お家に帰ってお昼寝しようね」

 例年ならソファーで和成を横にならせて、その間義両親とのおしゃべりに付き合うのだが、今日の雰囲気ではおよそ和やかにおしゃべりできそうになかった。

 私はバッグと車のキーをさっと手に取り、和成を玄関口へといざなった。腹がくちて眠くなった和成は、それでもぐずることなく、私に促されるままに靴を履いてくれた。

「そんなに慌てて帰らなくても……」という義母の声が聞こえたが、「お節、ご馳走さまでしたー」と朗らかに退去の宣言をした。


「義母とこんな風にあからさまに衝突するのは初めてで」

 初めてにも関わらず「あなたっていつもそうね」と言われてしまった。

「夫は私を援護するでもなく、引き留めるでもなくて。和成と二人で帰ってきちゃいました」

 誠が帰宅したのは翌日の昼だった。昨日は義父も飲んでいたし、義母は免許証を持っていないから、帰る足がなかったのだろう。わざわざタクシーを呼んで帰るのも癪だと思ったのかもしれない。

「ただいま」と声をかけられたので、「おかえり」と反射的に返したが、それ以上の会話はなかった。

 私は出された紅茶を二口ほど飲んだ。

「正月二日はいつもなら親子三人で初詣に行くんですけど、今年は気まずい雰囲気のまま正月休みが終わっちゃって。私も夫も正社員で勤めてるんで、休みが明けていつもの日常に戻りました」

 それでも誠の分の夕食は用意していた。ただ、誠の帰宅を待って夕食にすると、和成の就寝時間が遅くなってしまうから、母子二人きりで先に食べるのが常だった。

「夫は正月明けからは寝室に篭ることが多くなって。彼のパソコンが置いてあるものですから、それで動画なんかを見て、一人の時間を過ごしているようです。休日も、私達の食事が終わったタイミングで出てきて、一人で食べていたりします」

「夫婦の寝室を彼が独占しているということ? 舞さん、ご不便でしょう?」

「年末に、クリスマスプレゼントってことで義実家から学習机を贈られたんですよね。来年から一年生だからって。それで、和成の一人部屋をしつらえたばかりだったんです。でもまだ一人で寝るのを嫌がるもんですから、和成の部屋に布団を敷いて、私はそっちで寝ていたので特に問題はなくて……」

 これじゃあまるで——

「それじゃあまるで家庭内別居ね」私の心の声を補うようにカコさんが言った。

「二月になってすぐに夫が『寿司でも食べにいこうか』って言ってきたんですけど、和成が熱を出してしまって、結局行けずじまいで。それ以来、会話らしい会話はなくなりました。家事も育児も私一人でやってるようなものですし、給料と役所からの手当があれば、離婚したとしてもたぶん今とそれほど変わらない生活を維持できるんじゃないかと思うんですよね。ただ、そうなる前に、何らかの気づきが得られたらって思ってるんです」

「……承知しました」と言って、カコさんは立ち上がり、壁際の棚の方へ移動した。

 棚には書籍や文房具などが整理されて置いてある。上の方に視線を移すと、黒い塊があるのを見つけた。目を凝らしてよく見ると猫を模した置き物のようだ。金属製なのか、その光沢が何やらなまめかしく見える。

「さ、舞さんにはこれね」

 カコさんは厚みが五センチほどある、文庫本大の白い化粧箱を手にして席に戻ってきた。その上に左手を添え、私には左手を手のひらを上にしてテーブルに置き、右手は自分の手の上に重ねるように指示した。左手にカコさんの右手が重なる。

「目を瞑って。リラックスしてくださいね。私が声をかけるまでそのままで」

 私は目を閉じて、なんとなく深呼吸した。ラベンダーの匂いが嗅ぎとれた。和成のスキンケアで使っているラベンダーオイルの匂いだ。カコさんもアロマオイルを日常的に使っているのかもしれない。

「いいですよ。目を開けて」

 カコさんがこちらを見て微笑んでいる。

「夢の種をこの中に込めました。夢を見たいと思った夜に、この箱を枕元に置いてお眠りください」

 私はそれをカバンにしまうと、お礼を述べて辞去した。

 駅までの道を歩きながらカコさんの人物像を振り返る。年上の姉御という感じで、頼れそうな人だと感じた。相談者に身の上話をさせた上で、自身の人生訓を滔々と語られでもしたら閉口してしまうと少し身構えていたのだが、特に何かを詮索するでもなく、あっさりと夢の種を提供してくれたのがありがたかった。これなら、和成のお迎えの時間にも十分間に合いそうだ。


*****


「あんた、今日は静かだったじゃない」

 カコがソファーに身を預けるようにして座り、目を閉じたまま聞いてきた。室内には、さっきカコが噴霧したアロマスプレーがほのかに香っている。客を送り出した後、こうやって十分ほど瞑想するのがカコのいつものルーティンだ。思考に同調すると、自分のものではない念に占領されてしまうんだそうだ。

「だって、何か言いたそうにしてる人もいなかったしさ」と僕は言った。「前世で何の繋がりもなかったのに夫婦になるってこともあるんだね」

「母親と子供との間に強いご縁があるみたいね。この世に生まれ出るために、伴侶にさせられたんでしょう」

「じゃあ、僕とカコの間にも強いご縁があるんだね、きっと」

 僕は軽い調子で言ってみた。カコは目を瞑ったまま眉を顰めていたから。

「それはそうよ」

——あなたが来てくれたから、もう少し頑張ろうって思えたんだから。

 カコの思念が伝わってきた。

 どういう意味かはわからないけれど、カコの口元が少し緩んだようだったので、僕は安心した。


*****


 カフェに着くと、昭代あきよ先輩はもう席についていて、こっちに向かって小さく手を振った。

「先輩! お久しぶりです!」

「久しぶり! あたしもさっき来たとこ。先に注文しちゃお」

 私は彼女の向かいの席に腰を下ろして、ランチのAとBとをそれぞれ頼んだ。

 高校の部活の先輩だった昭代先輩とは、私の会社の最寄駅でばったり会ったのを機に、月一で飲みに行く関係になった。和成が赤ちゃんの頃は、外食よりも家の方が面倒を見やすいだろうからと、何度か家飲みもしたことがある。

 私がカコさんを訪問してから二日経っていた。

「ほんとにお久しぶりですね!」

「台湾に行ってからもう二年経つからね」

 先輩は二年前にお父さんを亡くした後、仕事を辞めたと聞いていた。告別式にも参列したが、すっかり憔悴したその姿に心が痛んだ。気持ちが落ち着くまではと飲みに誘うのを控えていたのだが、台湾に暮らしているのをフェイスブックの投稿で知って、慌てて連絡したのだった。少しの期間だけ連絡を取らずにいるつもりが、二年も経っていたことに自分でも驚いた。フェイスブックをもっと熱心にチェックしていれば、出発前にもっと会う時間がとれただろうに、と悔やまれた。先輩がパスポートの更新で日本に一時帰国するということだったので、今日のランチの約束を取り付けたのだった。

「しっかし……ずいぶん思い切りましたよね! すごい!」

「全部リセットしてやり直そうって思ってさ。ちょうど仕事もしてなかったし、現地の語学学校に申し込んで、チケット取って、荷物まとめてビューンよ」

 先輩はあははと快活に笑った。台湾では充実した生活を送っているようだ。

「行動力がある先輩が羨ましいですよー。私も海外留学してみたかったなー」

 社会に出てほどなくして結婚、出産したことで、すっかり身動きがとれなくなってしまった。まだ独身で行動力のある先輩が本当に羨ましい。

「マーイーちゃーん、隣の芝生は青く見えるもんだよ。結婚もして子供もいる舞の方があたしは羨ましいよ」

「それなんですけどね。最近ちょっと微妙……というか、既婚者は既婚者でいろいろあるんですよ」

「え、なになに、離婚の危機なの!?」

「危機……なんでしょうかね……」

 私は正月からの経緯をかいつまんで話して聞かせた。

「なるほどね。それはだいぶ重症だね」

「え? そうなんですか?」

 ドキッとした。うちら夫婦はそんなに重症なのだろうか。

「おしゅうとめさんのそれ、わざとだよ」

「え? 姑?」

「『いつもそうね』って言われて、すごく引っかかってるんでしょ?」

「……引っかかってます」

 義母と会うのは年に一度、正月に会うだけだから、「いつもそうだ」と言われる筋合いはなかった。あんなに強い口調で主張したのもあれが初めてだった。

「それ、意図的にやってるよ」

「意図的……わざと?」

「そう、わざと。罪悪感を植え付けるためにね。舞は、次に会うときは何か埋め合わせをしなくちゃ、とか思ってるでしょ?」

 言ってしまったこと自体に後悔はないが、面子を気にする義母の自尊心を刺激しすぎたかもしれないという罪悪感は確かにあった。

「まぁ……この気まずさは早めに解消しておいたほうがいいかな、とは思ってます……けど……誠とも家庭内別居状態で。まさにんだって感じで」

「お姑さんも理屈がわかってやってるわけじゃないだろうけどね。有効だってことは知ってるだろうね」

「有効……?」

「相手を意のままに動かすのに有効ってこと」

「意のままに動かす……」話が突飛すぎて、オウム返ししかできない。

「あたしはさ、『とらタヌ』って母親によく言われてたの。『取らぬ狸の皮算用』ね」

 不確かなものをあてにして計画を立てることを戒める諺だ。

「元々は親父の悪口で言ってたのに、いつの間にかあたしもそれを言われるようになったんだよね。例えばさ、高校生の私が『バイトしてお金貯めて、アメリカに留学するんだ!』とか言うとするじゃない。そしたら、『あー、はいはい、あんたのとらタヌがまた始まった』って言われちゃうわけ」

「え? それはとらタヌじゃないでしょ? いつか叶うかもしれない素敵な夢じゃないですか。先輩は実際叶えてるし。アメリカじゃなくて台湾だけど」

「親にたしなめられ続ければ、良くないことだってインプットされちゃうってことよ」

「……」

「自分のやりたいことを我慢しないあなたは偉いわねぇ」

 そう言う先輩の口調が、表情が、あの日の義母と重なって見えた。

「うちのお姑さん、まさにそんな顔してました……」

 先輩は「でしょ?」と言わんばかりに眉毛をちょっとだけあげた。

「今回二年ぶりに実家に戻ってさ、『とらタヌってさんざん言われたよねー』って母親にちょっと聞いてみたの。そしたらさ、『あたし、そんなに何遍も言ってないでしょ』って返されてさ」

 先輩は今度は目玉をぐるりと回す。台湾で暮らすようになって、顔の表情がさらに豊かになったようだ。

「本人に自覚はないのよ。自分が負の洗脳をしてきたことに」

「負の洗脳……」

「台湾なんて何かあってもすぐに駆けつけられないとこに住んじゃってさ、親不孝してるかもって思ったりもするけど、親と一緒に住んでるから孝行娘だってことでもないし」

「まぁ、親目線で言うなら、和成にはできればママのそばにずっといて欲しいかも……でも、しっかり自立して欲しいとも思うし……」

「もし仮に舞がその親のエゴを全開にして和くんに接したとしたら?」

「ずっとママのそばにいてくれるようにするために……?」

「そう」

「……和成が自分でやろうとするのを阻止して、『和成はママがいないと何にもできないもんねー』って言う……」

「そうすると、和くんは『自分はママがいないと何にもできないんだ』って思って、新しい挑戦をしなくなるか……」

「……徹底的に親に反抗するか」私は先輩が途中で止めた言葉の先を補足した。

「そうそう。それ、あたし」と先輩は自分の顔を指さしてくすくす笑った。

「後ろめたい気持ちを押し除けるのってすごく気力がいるのよ。例えば」

 先輩はそう言って、私のアイスティーのグラスを持って、自分の方に少し傾けた。

「舞がアイスティーのグラスをうっかり倒してあたしの服を汚したとするじゃない? 舞はきっとのちのちまで気にするでしょ?」

「気にします……フェイスブックで先輩の写真を見るたびにきっと思い出します」

「それを故意にやる人がいるのよ。舞にアイスティーをこぼさせて、自分の服を汚すの。舞に罪悪感を抱かせるためにね。いま考えると、うちの母がやってたことがそれだし、舞のお姑さんもそれをやってるんじゃないかなって」

「……私は“義両親おやの善意を無碍むげにする融通の効かない嫁”で、姑は被害者で、だから姑の意見は尊重されるべき、ということを自作自演してるってこと……?」

「それを、正月にされたんじゃない?」

「……え」脳内で点と点が繋がった。「……誠が『お袋と一緒に寿司でも食べにいかないか』って誘ってきたことがあったんですよ、一ヶ月くらい前ですけど」

「あー、それ、言い出しっぺはお姑さんじゃないかな」

「そうそうそうそう……そうですよ……」私はその当時を回想した。「和成が熱出しちゃって、行けずじまいでしたけど……」

——今度の日曜日、お袋と一緒に寿司でも食べに行かないか。

 二月の初め、夕食後に和成とテレビを見ているときにそう誠に話しかけられた。「お寿司! 食べたい!」と和成は喜んだが、私はちょっと気後れした。この気まずさは早めに解消するに越したことはないとは思っていたが、なぜだか気分が乗らなかった。だが、和成が喜んでいるので、最終的には承諾した。

 果たして約束のその日、和成が熱を出した。朝、起きたときはなんともなかったのだが、そろそろ準備をしようかという時間になって、顔が火照っているように見えたので、熱を測ってみると37.2度あった。和成には残念だが、無理をして出かけたところで大して食べられないだろう。しかもお寿司だ。場合によっては店内で吐いてしまうかもしれない。今日養生しておけば、月曜は保育園を休ませずに済むだろうし、看病のための有給を取らずに済むという打算もあった。

「……というわけだから、悪いけど、今日はご実家とあなただけで食べに行って」

 誠は不服そうに「はぁ」と大袈裟にため息をつくと、「お前っていっつもそうだよな。せっかくお袋が誘ってくれたのに」と悪態と言っても差し支えないような台詞を残して出て行った。

 誠のこの反応は、きっと私が間違ったタイミングか間違った段取りで伝えたから引き起こされたのだ。と思った。和成は風邪の引き始めのようだから、症状が重くならないように養生させたいという思いも、突発的な欠勤は職場に迷惑をかけるから、私的な用事の方を調整するという配慮も、私にとっては常識だったし、至極真っ当な理由だと思っていた。ただ、誠を納得させるだけのスキルを私が持ち合わせていなかっただけなのだ、と。

「あー……誠君もそういうこと言っちゃうのか……」

「……」

「あのね」先輩は椅子に座り直して、ぐっと身を乗り出して言った。「そういう人達は、いつもはあからさまに主張したりしないのよ。徹底的に反抗されると面倒だから。あたしみたいに、どっかに飛んでっちゃうからね。でも、折々にそうやって罪悪感を思い出させるようにするのね。『親にとって従順ないい子』にしつけるためにね。誠君はそのスキルを使って『俺にとって従順な嫁』に躾けようとし始めてるように見えるよ」

 この術式すべの矛先は義母から私に向けられているけれど、かつてはきっと誠に向けられていたのだろう。いま、誠の矛先は私に向いている。そして、いずれは和成にも向けられるのではないだろうか。

 私はその未来を想像して、全身が総毛立った。

「え、じゃあ先輩はどうやってその術式を突破したんですか?」

「気づいちゃったからよ。『世界は私を中心に回っている』ってことに」

「……?」

「これも母親によく言われてた台詞なんだわ。『あんたは、自分を中心にして世界が回ってると思ってるわよね』って。まあ、これももともとは親父の悪口だったんだけどさ。やりたいことを我慢しない夫と娘が妬ましかったんじゃない?」

 先輩はそう言って、前のめりだった体を起こして、背中を椅子の背もたれに預けた。戦中、戦後を生きてきた時代の女は、夫に庇護され、従って生きるのが常識だった。「私の若い頃はそんなことできなかった」と、何かにつけ母親に言われたと先輩は言った。

「けどさ、ある日気づいちゃったの。じゃあ、あんたの世界は誰を中心にして回ってるんだ? って。天皇陛下なの? 時の首相なの? 結局、自分自身じゃん? って。自分の人間関係は、自分を中心にして広がってるし、自分の人生の主人公は自分でしょ。うちの母親は賢そうな言い回しで人を批判してるだけで、結局のところ、自分に都合のいいように人を動かそうとしてただけだったんだよね」

 昭代先輩とのランチを終えて、私は帰途に着いていた。言い当てられて納得したし、でも消化不良のままの言葉が頭の中をぐるぐると巡っていた。

 今日もきっと寝つきが悪いだろう。最近は夢らしい夢も見ていなかった。熟睡できずに、浅い眠りを繰り返している。

 カコさんがくれた夢の種をまだ使っていないのは、夢を見てしまったら、決定的な何かが引き起こされてしまうのではないかと恐れているからだった。

 だが、夢を見るまでもなく、私達夫婦を取り巻く状況は、私が危惧する方向へと向かっているようだった。


「昭代先輩ー! 聞こえてますかー?」私はモニター越しに手を振った。

「聞こえてるよー! なんか久しぶりに日本語話すわー!」先輩も嬉しそうだ。

 五月のG.W.が過ぎた最初の週末、私は昭代先輩とビデオ通話をしていた。先輩とのランチから二ヶ月ちょっとが経っていた。

「オンライン飲み会しましょーってラインくれたじゃん。もー、楽しみで楽しみで、夜しか眠れなかったよ!」

「先輩! それ、みんなそうだから!」

「はいはいはい、まずは、乾杯ー!」

 私と先輩はモニター越しにそれぞれのグラスを持ち上げた。

「だってさあ、わざわざこうして声をかけてきたってことは、良い話か悪い話かのどっちかじゃん!」自分の飲み物を一口飲んで、先輩がご機嫌に切り出した。「その声の調子だと、どうやら良い話のようね。んで? どんな感じになったの?」

「実は……別居することになりました!」

「……なるほど?」とだけ言って先輩は自分のグラスの液体をさらに一口飲んだ。

「誠が転勤になったんです。この四月からの辞令で、我が家はもうてんてこ舞いでしたよ」

 先輩とのランチからまもなく、誠から「九州の支店に移動になった」と聞かされた。内部的には他の候補者がいたのだが、その人が内示の直前に退職してしまったとかで、急遽誠にお鉢が回ってきたということらしかった。

 彼は家族と一緒に赴任することを想定していたようだが、私がそれを拒否した。育児休暇を取得してまで続けてきた職場だ。自分のため、よしんば和成のためなら辞職も考えたかもしれない。だが、夫の都合で辞めるというのは違う気がした。

 誠にとって意外だったのは、「パパと一緒にいかない」と和成が言ったことだったろう。和成は「友達と一緒にここで一年生するの!」と主張した。母親でもなく父親でもなく、友達と一緒にいたいという言葉に私も少なからずショックを受けたが、誠も「そっか」と言ったきり黙り込んだ。そして単身赴任という形に落ち着いた。

「実は、別居の話も出てはいたんですよ」

「え、それって、あたしと会った時には、もう?」

「へへ。実はそうなんです。言うか言うまいか迷ってたんですけど。ただ、踏み切るには労力がいるでしょ。そしたら、まさかの辞令で。でね、誠が言うには」

——そもそも別居するって話だったんだから、俺がいなくなるからって、舞がこの家に住み続けるのはおかしいだろ? 俺名義で買った家なんだし。

「……うん? それで?」先輩の眉間にシワが寄っているのがモニター越しでもはっきりわかる。

——だから、この家はお袋が住むことにするから。舞と和成が住む家は別に借りてよ。家賃は半分出してあげてもいいし。

「……うん……それで?」先輩の首がちょっと傾いた。

——舞も自分の仕事があるから、完全ワンオペは流石にキツいだろ? だから金土日は和成をお袋に預けたらいいと思うんだ。和成にしたって、もともと住んでた家なんだから問題ないし、お前も自分の時間ができて好都合だろ?

「……言ってることは間違ってないけど? なんつーか……まぁ、最後まで聞こう。それで?」

 先輩の頭はもはや首の可動域限界まで傾いている。

「ここで私がうんと言えばスムーズに話が決まりそうだったから、誠の条件を飲むことにしたんです。小学校の学区内で手頃な物件が見つかったんで、即契約して」

「……そっかー……」先輩は天井を見上げた。

「誠が家賃を半分負担することになってる手前、合鍵を渡すってことになってたんです。彼が赴任先に行く日までに渡す予定だったんですが……」

「うん?」

「……うっかり渡しそびれました!」

「……え? じゃあ、舞と和くんだけ《・・》の家を確保したってこと?」顎と首だけだった先輩の画像が、やにわにカメラ目線になった。「あはは! 幹得好ガンダハォ! あ、中国語で『よくやった!』って意味ね!」

 私達は「いぇ〜い!」と言ってモニター越しにグラスを合わせた。

「え? じゃあ、そこは新居ってことね?」

「そうなんです。襖の向こうで和成が寝てるので、だから、これで」と言って、私は耳のイヤホンを指差した。

義母ははおやに週に二、三回預けろって誠は言ってましたけど」私はぐびっと一口飲んでから続けた。「アトピーに理解がない人になんて頼れませんって」

「そりゃそうだよ! お姑さんが和くんの面倒みて? 良かれと思ってあれこれしてあげて? なんかのきっかけで悪化して?」先輩は電話をかけるジェスチャーをしながら「『和ちゃんが大変なの! 舞さん、今すぐ来て?』」と可愛い子ぶりっこな口調でそう言ってから、大袈裟に白目を剥いた。「勘弁してくれって話よね! 子供がいないあたしにだってわかるよ!」

「別居したことを母に言ったら、『気兼ねなく泊まれる別宅ができたわね』って嬉しそうに言われて。母も母なりに遠慮してたみたいで」

「そうだよ。お母さんにうんと頼るといいよ」先輩はそう言って、ちょっと間を置いて尋ねた。「ねぇ、この延長線上の未来の舞は、罪悪感を感じてるかな?」

 私は自分の未来を想像して言った。「感じてませんね」

「じゃあ大丈夫だ」あはは、と先輩は笑った。「結論を急ぐ必要はないんじゃない? 十年後には今と全く違う展開が待っているかもしれないし、この経験は無駄にはならないよ。今は理不尽でやるせなくてもね」

 先輩はふんっと鼻から息を出して続けた。「あたしだって、台湾に来るまで、台湾に住む未来なんて考えてもなかったもん」

「私も昭代先輩みたいになれるかなー」

 私は若干酔いが回った声で問うた。

「なれる、なれる」という快活な返答が聞こえた。「ってか、もうなってる」

 先輩の陽気な声につられて、私もうふふと声を出して笑った。


 いつの間にか背負わされた役割を演じていたのかもしれない。今、私は“妻”と“嫁”の役を降りた。

 私の肩は実質的に軽くなったわけではないけれど、なんだか息がしやすくなったような気がしていた。例えるなら、朝起きてうーんと伸びをしたときに、今まで手が届いていた高さよりも高い所に手が届いたような感覚と、伸ばせるだけ伸ばし続けても、誰に咎められることもないという爽快感だった。

 思う存分伸びをしたかったのに、その自由を制限されていると感じていたのだ。そう制限していたのは、“妻”の私と“嫁”の私だったのかもしれないとも思う。

 誠の単身赴任の準備と、自分達の引っ越しの準備とが着々と進む中、和成は何を言うでもなかった。父と母が「仲良し」ではないことを、子供ながらに察していたのかもしれない。親が考えるよりも遥かに多くのことを子供は感じ取っているものだ。

 願わくば、今回の別居のことを、和成がネガティブに捉えないでくれればと思った。もし彼が悪い道に進みそうになったとしたら、親としてどのように対処するのが正しいのだろう……

「そっか、お義母さんがやってるのは、つまりこれなんだわ」

 子が親の目の届くところにいてくれれば管理がしやすい。そのためには、子が目の届く範囲から逸脱しないようにコントロールする必要がある。

 罪悪感を抱いている人は、それを解消するために埋め合わせをしようとするものだ、と昭代先輩は言っていた。

 ボールが遠くに飛んでいってしまっても、埋め合わせのためにボール自らが戻ってくるなら、わざわざ拾いに行く手間が省けるというものだ。たまたま遠くに飛んでいってしまったとしても、どこかに紛れてしまうことなく、また自ら戻ってくるなら、親はボールを探すことも、拾うこともせずに、自分だけ楽チンなキャッチボール遊びを続けられるというわけだ。

 そうやって育てられた誠は、知らず知らずのうちにストレスを貯めてきた。そりゃそうだ。自分だけが疲れるキャッチボールを強いられてきたのだから。

 そして今度はそれを私に仕掛けてきた。

——医者の薬を塗っときゃいいだけの話じゃねーのかよ。

 誠の言葉を思い出した。

「いつもそうだ」と言われて、私自身は寝耳に水だったけれど、誠も、そして義母も、心の中でずっと思っていたのではないだろうか。

「俺(私)の方が正しいのに」と。

 専門家医者が解決方法を提示してくれているのに、それを拒否する私に対して、頑固で扱いづらい女だとずっと思っていたに違いない。

 彼らにとって私は、飛んで行ったら行ったきりの、探しに行って見つけ出さないと続きが遊べない、手間のかかるボールなのだ。

 状況が好転したわけではないが、家族不和のカラクリが解けたような気がして、私はすっきりした気持ちになった。

 誠とは何度か夫婦喧嘩もしたが、大抵はきちんと説明して事前に承諾を得たにも関わらず、それを白紙に戻そうとされたことが原因だった。和成のアトピーの対応法についてもそうだ。私が信頼に足る情報を収集して、方針を定めて、それをきちんと告知しているのに、誠も義母もそれをひっくり返そうとしてきた。

 私はもともと喜怒哀楽を表現することが得意ではない方だが、義母にしてみれば挑発しがいがなく、面白くなかったかもしれない。でも、結果的には、この対処方法が正しかったということのようだ。

 誠がそばにいない今、義母と直接やりとりする機会が今後は増えるだろう。でも、もう大丈夫。相手の術式の型がわかった今は、それに事前に気づける。

 そうやって対処していても、いよいよ腹に据えかねるような言動をされた時は……お笑い芸人の動画でも見て笑おう!

 明日は一日有給を取ってある。朝はゆっくり起きよう。午後からは、新居に置くための新しい棚を物色しに行こうか。車で行った方が楽だけど、今は義母が住む家に停めてあるから、取りに行けばあれこれ詮索されるだろうと後回しにしていたけれど、バスを乗り継いで行ってみよう。お昼ご飯はあの店のミートボールを食べようか。

 今回の別居は、誠にとっては実質初めての一人暮らしだ。彼も彼なりに新しい気づきを得るだろうし、きっといい契機になるはずだ。それでも離婚という結果になったとしたら……それはそのときに考えよう。

 カコさんの夢の種をもらいに行った時の自分はもういない。この先、この種を使って夢を見ることもきっとないだろう。今年の年末の大掃除で、クローゼットの下着の引き出しの奥にしまったままのそれを発見して、「これ、なんだっけ?」とすっかり忘れて驚いている自分を想像して、ふふっと笑い声が漏れた。

 昭代先輩の、台湾生活でさらにパワーアップした自由闊達な性格にすっかり感化されてしまったようだ。ほんの数ヶ月前まで、離婚してしまうかもしれないことばかりを心配していたのが信じられないくらいだ。

 いまは、未来の自分が遭遇する快楽も、苦労も、すべての事柄を楽しめる予感しかなかった。

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