第二話 デパートの夢

「私の夢の種が見せる夢は事実とは限りません。あなたの脳が『それ』を選択して見せている可能性を忘れないでくださいね」

「そうですね……心に一区切りつけたいというか、兄は何を感じていたのか、その片鱗だけでもわかればと思うのです」


 カコの家は静かな住宅地にあった。大通りから一本入っただけなのに、ふっと静寂が訪れる。

「あの人なら、静かすぎて落ち着かないって言うわね、きっと」

 麻弥は思わず笑みをこぼした。麻弥の夫は東京生まれの東京育ちで、麻弥の実家に初めて泊まったときには、「田舎の夜ってこんなに静かなんだね」と驚いていた。博が生まれてからは毎年お盆に帰省するようになったが、麻弥のいとこの子供達に連れられて裏山や川を散策することを本人も楽しんでいるようだ。

「沢蟹がいたよ!」と家に戻るなり大きな声で報告する様は、まるで図体が大きいだけの小学生だ。だが、妻の里帰りに喜んでついてきてくれることはとても有り難かったし、博もはとこ達と遊ぶのを毎年楽しみにしていた。

 ドアに「Welcome」というプレートが下がっていたので、「こんにちはー」と声をかけながらドアを開けた。奥の空間で人が移動する気配があり、「はーい」と女性の声が聞こえてきた。

「勝手に入っちゃって良かったかしら。先にノックするべきだったかな」と麻弥は少し後悔した。見た目が店舗のような雰囲気だったので何も考えずにドアを開けてしまったのだけれど。アクションを起こしてから、思考が追いついてくる。夫はそれを物怖じしない性格だと長所として捉えてくれているようなので良いのだが。

「お待たせしました。高橋麻弥さんですね。ようこそいらっしゃいました」

 出てきた女性は、麻弥より五、六歳年上のように見えた。

「どうぞこちらへ」と声をかけられて奥の部屋へ進む。日当たりがよく、漂う紅茶の香りと相まって、とても心地よい空間だった。

「上着はこちらにどうぞ」と言われ、入り口付近にあるコート掛けにかける。

「カコです。遠いところをようこそ」コートをかけて向き直ると、カコが挨拶をした。「まずはおかけになって」と促され、細い鉄製の足の椅子に腰をかけた。

 カコが紅茶を入れたティーカップを丸テーブルに置き、麻弥の向かいの椅子に腰を下ろす。

 カコの右手の指輪に目がいった。右手の中指に一つ指輪がはめられている。女性がつけるには少し太めのような気がした。左手の方にもちらりと視線を動かすと、こちらには指輪はしていなかった。結婚はされていないのかしら、もしかしたら離婚されたのかもしれない。麻弥の友人の一人は、お付き合いしている人とそろそろ結婚をという段になって婦人科系の病気が見つかり、最終的には「結婚をしない」という選択をした。遼太郎も適齢期を過ぎても結婚しなかったことを母にあれこれと言われていたようだった。

「さて」

 そんなことをつらつらと連想していると、カコの言葉で意識を引き戻された。

「本日はどのような夢をお望みですか?」

「兄の遼太郎です。齋藤遼太郎と言います。兄は二年前に亡くなりました。事故死でした」

 麻弥が切り出すと、カコは麻弥の顔より少し上、ちゅうを見つめるようにして聞いている。

「事故だったからしかたないんですが、本当に突然のお別れだったもので。ただ最近、ふと思うことがありまして」

「どんなことでしょう? 差し支えない範囲で構いませんので、お話しいただけますか?」

「兄は四十六でした。実家の両親と一緒に暮らしていて、結婚はしていませんでした。両親の意向もあって葬式は家族葬で済ませました」

 麻弥もこの十月で四十六歳になる。あの日の遼太郎の年に追いついた。

「亡くなった日の前の晩に母と口論になったそうなんです。結婚のことや孫のことなんかだって言うんですけど。兄も田舎の長男ですから、親戚が集まればだいたいいつもその話題になりますし、いつもは聞き流していたようなんですが、その日はなぜかむきになって反論してきたそうで、『こんな家にはもういられない!』『それなら出てけ!』と売り言葉に買い言葉で出ていってしまったと」

 チリチリンと心地よい金属音がした。音の方へ首を巡らす。部屋の奥の本棚の方向から聞こえた気がする。カコの方へ視線を戻すと、話の続きを待つように麻弥の方を見て微笑んでいる。

 麻弥は紅茶を少し口に含んで喉を湿らせてから続けた。

「兄は着のみ着のまま、部屋着のジャージ姿で出てったので、頭を冷やしたら帰ってくるだろうとそのまま放っておいたんだそうです。まぁ、四十過ぎの大人の男ですからね。馴染みのスナックのママがプレハブで営業を再開したとかで顔を出していたそうなので、そこでツケにでもしてもらって飲んでるんだろうと。玄関の鍵はかけずにおいて先に就寝したんだそうです。でも、朝になっても帰った様子がなくて。そしたら警察から連絡があって」

「まぁ……」カコが不安げな顔をして相槌を打つ。

「近所の川で横たわっているのを発見しました、と」

「……溺死なさったの?」

「いえ、死因は頭部挫傷ということでした。川というか、沢なんです。水深もそれほど深くないし。橋はかかっているんですけど、手すりも腰の高さほどしかなくて。おそらくその橋から落下して、後頭部を強く打って昏倒してそのまま、ということじゃないかと言われたそうです」

「後頭部とおっしゃった?」

「そうなんです。後ろ向きに落ちたんじゃないかと。だから、おそらく自死ではなかっただろうというのが母の慰めになっています」

 カコは目を閉じて静かに頷いている。チリリンとまた金属音が聞こえた。本棚の方へ目をやると猫の置物があった。

「あら、南部鉄器ですね」

「え?」

「あの猫の置物。風鈴ならうちにもあるんですよ。今はこんな可愛らしい置物もあるんですね」

「そうなのよ。無骨な鉄製なのにいい音がするの」

 南部鉄器は麻弥の田舎の名産品だ。風鈴は各家庭に一つはあると言っても過言ではないし、茶釜やすき焼き鍋など、南部鉄器は生活の一部だった。ただ、年老いた母には重すぎて手入れが大変らしく、最近はあまり出番はないようだ。一度、東京のデパートの物産展で手に取ってみたが、結構なお値段だったのでびっくりした記憶がある。

 さっきも聞こえた金属音はこの猫の置物から聞こえていたのだろう。風鈴でもないのに音が鳴るなんて、本体の中に何かそういう仕組みが入っているのだろうか。

「それで、うちの息子が、博と言うんですけど、今年高校二年生にあがりまして。最近、ますます兄に似て来ましてね。それも母の慰めになっています。思春期だからか、お風呂時間も長いし、化粧水とかにも凝りだしたりして」

「最近は男性用化粧品なんかも豊富になってきましたもんね」

 博はパックや美白にも熱心で、母親の麻弥よりも積極的なくらいだ。自分のお小遣いの範囲で買っているのだからなんの問題もないのだが、夫がそれに難色を示すようになってきた。

「もっと男らしくしたらどうなんだ、とか言ったりして、息子には煙たがれています。『父さん、もう昭和は終わったよ』なんて言われちゃって。あなたが過ごした十代とは時代が違うのよ、って私も言うんですけど」と麻弥は苦笑した。

 兄の遼太郎はおしゃれさんで、パーマをかけてきたり、洒落た小物を持っていたりして、麻弥にとって男性のおしゃれは当たり前のことだったから、さほど違和感を感じてはいないのだが。

 夏休みが終わって新学期が始まった最初の土曜日、博の布団を干すために部屋に入ると、机の上には教科書もノートも開きっぱなしになっているのが目についた。今日はクラスメイトの倫也君と出かけていて、夕食前に戻ると言われていた。

「整理整頓しなさいっつの」

 文房具類も筆箱から出しっぱなしだ。使いかけの消しゴムに黒い汚れが付いているような気がして、手に取って消しゴムの紙ケースをずらしてみると、ローマ字で何かが書かれている。「TOMO」まで読み取れた。

 消しゴムに好きな人の名前を書いて、自分以外の誰にも触られずに使い切ったら両思いになれるというおまじないだと気づいて、麻弥は自分の中学生時代を思い出して微笑んだ。

「トモなんとかちゃんっていう子なんだ」

 誰にも触られずに使い切ることがおまじないの肝であることを思い出し、気づかれぬよう、元の位置に戻した。

「今日は俺らずっとヒロりんだったんだよ」

 その日の夕食時に博が楽しそうに話してくれた。ヒロりんというのは今人気のユーチューバーで、倫也君との共通の話題の一つであるようだ。

「倫也がヒロりんのモノマネしたらすっげーそっくりで、俺もヒロりんで対抗したら面白くなっちゃってさ」と思い出し笑いをしている。「そっからずーっとヒロりん口調。楽しかったー」

 博は運動も不得手で引っ込み思案なところがあるので、高校生活に馴染めているか母親としては少し心配だったのだが、気の合う友達ができたようだった。

 夕食後、ソファーに移動した博は熱心にスマホをいじり始めた。どうやらその倫也君とラインでやりとりをしているようだ。クスクスと笑いながら、なにやら一生懸命入力している。まさに今、倫也君と例のトモなんとかちゃんのことを相談していたりするのかもしれない。思えば今年の夏休みは帰省や家族の行事以外、ほとんどの時間を倫也君と過ごしたようだ。

 その日の晩、ベッドに入って博の消しゴムのことを思い出し、麻弥は高校時代に想いを寄せていた先輩のことを考えた。十代の恋は結局片想いで終わった。

「どんまい」と心の中で博にエールを送った次の瞬間、「TOMO」が「倫也」である可能性に思い至ってハッとした。


 LGBTについての知識は多少あったが、ネットで改めて調べてみた。ご本人の経歴や考え方などを知ることはできたが、ネットで知り得た情報で博を理解した気になってはいけないだろう。

 友情、愛情、慕情……どの「情」であろうと、人を好きになるのに決まった理由が必要なわけではないはずだ。パートナーの性別について他人がとやかく言う権利はない。ただ、同性婚はまだ法制化されていないから、一生独身で過ごす人もいることだろう。

 合法の婚姻だって別れる時は別れるものだ。麻弥は離婚した友人知人を指折り数えてみた。

「そうだ、林君もこないだ離婚したって言ってたっけ」と思わず苦笑した。

 自分の周辺に限って言えば、離婚していないカップルの方が少数派だ。その時ふと、脳裏に兄の遼太郎の顔が浮かんだ。「一生独身」というキーワードから連想したのかもしれない。

 が、点と点が繋がったような、奇妙な付合を感じた。

 遼ちゃんが大学生の頃に「彼女ができた」と本人から聞いたことがある。ただ、彼女とのあれこれについて話してくれることはあまりなくて、そのうち彼女の話を振っても話題を逸らされるようになった。きっとふられたんだろうな、と麻弥の方でもなんとなく察してわざわざ聞くことはしなくなった。

 それ以降、お付き合いしている人がいるという話はついぞ聞かなかった。

「うちの母は、身内に対してひどく遠慮を欠く物言いをすることがあるんですよね」

 母親に「だからあんたはダメなのよ」と吐き捨てるように言われてひどく落ち込んだことを今でも覚えている。何に起因したのかはもう思い出せないが。

 母は遼ちゃんの感情を逆撫でるようなことを言ったこともあるかもしれない。いや、確実にあっただろう。おそらく一度や二度ではなく。

 遼ちゃんが二度と話題を口にさせたくないと思うほど腹に据えかねたとしたら。相手を黙らせるために、自分の性的指向をカミングアウトしたという可能性はあったかもしれない。

 よそ様と違うことを嫌う田舎の人間が、を易々と受け入れたとは考えにくい。遼ちゃんだってそれを理解していないわけじゃない。だが、カミングアウトせざるを得ないほどの罵詈雑言を浴びせられたとしたら……

 全ては麻弥の憶測の域を出ない。しかし、あの晩の経緯を語る母の歯切れの悪さが、自分の想像を裏付けている気がした。


 麻弥はそこまで話して紅茶の残りを飲んだ。

「遼ちゃんが夢の中ででもいいから、そういうことをしゃべってくれたらいいなって思うんです。アドバイスなんてたいそうなものじゃなくても、自分の気持ちとか、そんなこと」

 お茶を淹れ直しましょう、と言ってカコが席を立ち、麻弥の背中側に回った。ティーワゴンでカップをセットするかちゃかちゃという音が聞こえる。

 麻弥はなんとはなしに本棚の方へ目を向けた。本棚だと麻弥が認識したのは、書籍が収められている棚だからだが、背の高いシェルフと言った方が適しているかもしれない。等間隔に四角く区切られたそれは、空のままになっているスペースや、ペン立てやセロハンテープなどの文房具類を置いているスペースもあった。

 黒猫の置物はというと、棚の一番上の段の、本と本に挟まれるようにして置かれていた。

「そうそう、猫ってああいう高くて狭いところが好きよね」と麻弥は思ったが、すぐにその考えを打ち消す。置物の猫なのに、どうして生きた猫と同列に扱ったんだろう。

「カモミールティーでブレイクしましょう」とカコがさっきとは違うカップをテーブルに置いてくれた。

 カコの右手中指の指輪につい視線をやってしまう。その指輪は宝石の類はついていない地金の銀色のリングで、実父の結婚指輪を彷彿とさせた。男性用の結婚指輪なら、女性の薬指にはめると大き過ぎてぐるぐると回ってしまうだろう。中指につけるくらいでちょうどよいかもしれない。

「はいはい、わかってるって」

「え?」

「あ、ごめんなさい。独り言」と言ってカコはちらりと舌を出した。おどけた表情をするカコはなんとも茶目っ気があって可愛らしい人だと思った。

 この部屋は本当に静かだ。車両の通行音のような雑音がほとんど聞こえてこない。二人してカモミールティーを飲む間、少しの沈黙が訪れたが、ゆったりとしたこの感覚を麻弥は心地よいと感じた。

 結婚してからこっち、夫と息子の世話に勤しんできた。田舎の人間はどうしてこんなにのんびりしてるんだろうと、自分の生まれ育った環境に不満を持つことも多かったが、最近になってやっと「何もしない時間」というのは、実はとても贅沢な時間の過ごし方なのかもしれないと考えられるようになった。若い頃は、新しい服、新しい化粧品と、欲しい物ばかりに目がいったが、俗っぽい欲望とは無縁の時間が田舎には流れていた。自分はやはりそっち側に属する人間なのだろう。

 ふと、さっきもチリリンと鳴っていたことに思い至った。麻弥にとっては馴染みのある風鈴の音と同じ金属音であるためにいつの間にか特に意識にのぼらなくなっていたようだ。

 カコはその直後に独り言を言ったのではなかったか。まるでその音に呼応するように。

「さてと」とカコが立ち上がり本棚の方へ移動した。

「麻弥さんにはこれにしましょう。ちょっと待っててね」

 カコは何かを手に取ると、文房具類を置いているスペースの方へちょっとずれてから、何やら作業をした。

「お待たせしました」と言ってテーブルに置いたそれは、手のひらに乗るほどの大きさの四角いもので、薄いピンク色の包装紙に包まれていた。そしてその箱の上にそっと左手を被せるようにして置くと、麻弥にも両手をテーブルの上に出すように言い、左手は手のひらを上に、右手はカコの手の上に重ねるよう指示した。麻弥の左手の上にカコの右手が重なる。

「目を瞑ってください。リラックスして。私が声をかけるまでそのままで」

 麻弥はすっと目を閉じた。とても静かだ。呼吸をするごとにすーっと頭の方から力が抜けていく感じがする。

「いいですよ。目を開けて」

 体の中がクリアになった気がする。

「夢の種をこの中に込めました。夢を見たいと思った夜に、この小箱を枕元に置いてお眠りください」


*****


 賑わいの中で待っていると、「お待たせ」と言いながら遼ちゃんが近づいて来た。

 連れ立ってデパートに入り、ウィンドウショッピングをする。

「俺、こんなピアス、つけてみたかったんだよな」

 手にしているのはチェーンタイプの金のピアスだった。後ろの留め具がなく、長く垂らして使うものだ。流動系のフォルムでキラキラと光を反射して美しい。

「テレビの歌番組見てたときにさ、母ちゃんが『あら見であの子、男のぐせにピアスなんかして』って言ったんだよな。それを聞いて、俺はピアスは諦めてたんだけど」

「親がらもらった大事な体にわざわざ傷つけるなんて、って母ちゃんよく言ってたよね」

 その言葉が気になって、私もピアスの穴は開けていない。

「買っちゃおうかな」

「いいじゃん。買ったらいいよ」

「そうだな。買っちゃおう」

 遼ちゃんが鏡を見ながらピアスをつけてこちらに振り向く。

 ピアスの穴なんて開けてなかったのになんでつけられるんだろう、と思いつつも「似合ってるじゃん」と素直に褒めた。ただ、ピアスは悪くないんだけど、どうもしっくりこない。

「わかった、遼ちゃん、服がダメなんだ」

「俺の服がわがねってか」と遼ちゃんが苦笑する。

「ピアスに合う服を買いに行こう!」と私は遼ちゃんの手を引いて歩き出す。

「まーちゃん、これどうかな?」

「いいじゃん。その色、遼ちゃんに似合ってる」

 上下とも新しい服に着替えた遼ちゃんは韓流アイドルっぽい見た目になったが、四十六歳のはずなのに不思議と若作りしているという印象にはならなかった。

「本当はこういうファッションが好きなんだよね」と嬉しそうだ。「これも良さそうでねえか」とウキウキした様子を隠そうともせずに、傍の服を手に取る。

「東京にいるときは、こんなんしてよく服さ買いに行ってたなぁ。デートっつったらこうやって服屋さのぞいでな」

「遼ちゃんの彼女さん、会ってみたかったなー」

「そだな。まーちゃんが東京に来たときに紹介しようと思ってたんだけど、休みに入る前に別れちゃったもんでな」

 遼ちゃんの東京のアパートに、高校三年生の夏休みを利用して泊まりに行ったことがあった。

「なあ、うちの駅の西口出て五分くらい歩いたとこにあった、定食屋覚えてるか? 唐揚げ定食うまいとこ」

 遼ちゃんのバイト終わりの時間に合わせてアパートの最寄駅で合流して、その定食屋で夕飯を食べた。カウンター席と二人がけのテーブル席が二つの、十二人も入れば満席というような小さい定食屋だった。客はみんな男性ばかりで、自分のような十代の女の子を見かけたことはなかったけど、女将さんも常連のおじさん達も気さくに話しかけてくれた。

 店ではお酒も出していたのだが、みんなだいたい一時間くらいでさっと会計を済ませて帰っていく。「『長っ尻は粋じゃねえ』ってのが東京人らしいぞ」と遼ちゃんが教えてくれた。

 東京の人は年齢に関係なくみんな洗練されていて、田舎のおっさん達とは全然違うと思ったものだが、定食屋の常連ということは、一緒に食べる家族がいないということでもあるのだと自分が結婚してから気がついた。その実、客のほとんどは、自分たちと同じ地方出身者だったのかもしれない。

 遼ちゃんは鏡の方を向いて、帽子を試着しながらぼそっと言った。

「うちはさ、母ちゃんがほら、出来合いもんばっかだったろ」

 刺身もサラダもコロッケも、スーパーのパックのまんまで食卓に並べられることが多かった。父ちゃんはそれに文句を言うでもなく黙々と食べていたから、それが当たり前だと思っていた。

 小学生の時に同じクラスの子のお誕生会にお呼ばれしたときに出されたハンバーグが手作りだと聞いて、お店で買わなくても自分で作れるものだと初めて知った。

 中学生にあがると弁当を持参するようになった。クラスメイトの彩豊かな弁当が羨ましかった。

「お袋の味は何かって言われても、思い浮かばないもんな。揚げたての唐揚げ、うまかったよなー」

 遼ちゃんはミラー加工がされたサングラスを試着しながら、あの定食屋まだあんのかな、と独りごちた。

「『おめ、子供作るべど思ったら作れるんだべ』って言われたんだ」

 鏡の方を向いたままで言う。

「子育てって、結婚って、そういうことじゃないだろ? 一緒に暮らして、一緒に食事をして、将来のことを一緒に考えてって全部数珠繋ぎになってるのにな。母ちゃんにとっては、食う寝るところに住むところってだけだったのかもな」

 やぶらこうじのぶらこうじ。

「自分を騙して結婚して、とりあえず子供を授かるってこともできたんだろうけど」

 断りきれなくて、一度だけお見合いをしたとは聞いていた。

「あの日の『ニゲロ』って言葉が耳から離れなくてな」

 出先から会社に戻り、駐車場から社屋に向かって歩いているところで大きく揺れた。思わずしゃがみこんだ。町内放送用のスピーカーから津波警報が聞こえてくる。正直、「またか」と思った。つい二日前にも地震があったばかりだ。

 不安を抱きつつ再び歩き出すと、近所の保育園から先生と園児達が出てくるところが見えた。

「声をかけたら、『山のお寺さんまで避難する』って言うんだ」

 スピーカーからはサイレン音が鳴り出していた。

 お寺さんは階段を登った先にあったはずだ。園児は総勢三十数名、まだ歩きが達者じゃない園児達は抱えて上がるしかない。ぐずって階段を上りたがらない子も出るだろう。先生達だけでは階段を何往復もしなければならなそうだった。

「俺も一緒に行きますって言ったんだ。自分で歩いていける子等は先に行かせて、ちっちゃい子を抱き抱えて階段登ったよ」

 境内に無事着いて、街の様子はどんなかと見晴台の方へ進むと、海水はもう目前まで迫っていた。会社に戻ろうにも戻る道がない。警報はずっと鳴っている。

 実家の両親も気にはなったが、携帯が繋がらないので連絡の取りようがなかった。ただ、家は港からだいぶ離れているから浸水の危険はないだろう。それよりも気がかりなのは一緒に避難してきた園児達だ。

「泣いてる子がいると、つられて泣き出しちゃうんだ。サイレンはずっと鳴ってるし、どっか遠くの方で『早ぐー!』とか『ニゲロー!』とか聞こえてくるから、先生達と一緒に社務所の方に引っ込んでな、歌ったり手遊びをしたりして遊んでやったんだ。子供がいるってこんな感じかなと実はちょっと楽しかった。口にこそ出さなかったけどな」と遼ちゃんは笑った。

 夜になっても保護者が迎えにこない子供が数人いたので、一緒に社務所で過ごした。

「陽が上ってからさてボチボチ帰っぺかと思うと言ったら、先生達にはえらく礼を言われてな。こっちは子育て気分を存分に味わったから、逆に礼を言いたいくらいだったわ」

 職場の駐車場まで行ってみたが、自分の車はそこになかった。とはいえ、車道も車で通行できる状態でもなかったので、家までの道を歩き始めた。

「父ちゃんが開口一番、なんて言ったか知ってるか? 『おめは死んだど思ってだ』ってさ」ふふふ、と遼ちゃんが笑った。「ひでー親だよ、まったく」

 父ちゃんは翌朝早くに遼ちゃんの職場まで歩いていき、変わり果てた街の様子を目の当たりにした。

「車も見当だらねーし、おめもダメだったんだど思ってらったんだ」

 母ちゃんは「きっとまだ生きて成さねばならんことがあったんだろ」と言った。

 生かされた。

 四十而不或しじゅうにしてまどわず。これからは世間の常識にとらわれずに、自分としっかり向き合って、どう生きるべきかを考えよう。

 あの日の感情が蘇って、私はいつの間にか泣いていたようだ。ただの一般市民の私は、ただただ連絡を待つことしかできなかった。三日経ってようやく親戚伝いに無事が確認できた。あの日の顛末が聞けたのは、家の電話がやっと通じた一ヶ月後だった。

「どうにか普段通りの生活ができるようになってきたんだが、『ニゲロ』て声が聞こえるようになったんだ」

 赤いトートバッグを肩にかけて鏡を見ている遼ちゃんが言う。

「だいたいは、母ちゃんが誰それの娘が出産しただの、あっこの三男坊が嫁っこ連れてきただのって夕飯時にしゃべったときだな。その後は決まって、うちの息子は甲斐性がねえって続くんだ。『ニゲロ』って聞こえるもんだから言う通りにしてたんだ。食うもん食ったらそそくさと部屋に戻って、ヘッドホンして音楽を聴いたり、聴いてるふりをしたりしてな」

 遼ちゃんの部屋にあった白いBOSEのヘッドホン。

「あの日はな、あまりにひつけかったがら言いたかったことを全部言ったんだ。母ちゃんは嫁ど子供がいれば満足が。俺の為すべきことどは違うってな」

 母ちゃんは、絶対に交わらないもう一本の線路だ。

 からニゲロ、さもなきゃ全てついえるぞ。

「いやー、ほんとたまげたよ」首をふりふりしながら遼ちゃんが言う。「目の前がさーって暗くなってな。貧血おこしたんだな、俺。よっぽど腹に据えかねたんだ」

 俺もおじさんになったもんだよ、と遼ちゃんは笑っている。

「まあ、でも、顔は綺麗なままだったから、それは良がったかな。母ちゃんもきっと、親戚連中にあれこれ言われなくて済んだろ」

 スポーツシューズ売り場で、遼ちゃんがナイキの靴を物色し始めた。

「ねぇ、博がね」

 いろんな感情が胸に溢れているのに、口から出て来たのは息子のことだった。

「最近、どんどん遼ちゃんに似て来てるのよ。甥っ子なんだから当たり前なんだけど」

 私は、遼ちゃんのために何もしてやれなかった。

「私、どうすればいいかな?」

 博のために何をしてやれるだろうか。

「んー……まーちゃんはそのままでいいんでねーがな」

 何の気負いもなく遼ちゃんが言った。

「まーちゃんは、やなものはやだし、良いものは良いって言うだろ。変な理屈もこねないし、押し付けもしない。だからそのままでいいんだよ」

 遼ちゃんは蛍光グリーンの靴をしげしげと眺めている。その色はちょっと攻めすぎだと思うけど。

「全部受け止めてくれるだけでいいんだよ。まーちゃんはいい母ちゃんだよ。美味い唐揚げも作れるしな」

 遼ちゃんがニコニコして言う。

「俺もまーちゃんみたいな父ちゃんに


*****


 アラームの音で目を醒ました。隣のベッドで寝ている夫を起こさないよう、素早く音を止める。静かにベッドを抜け出してキッチンに向かい、寝巻きの上からエプロンをつけた。

 ちょっと手間だけど、博と夫の今日の弁当は唐揚げにしよう。冷めても美味しいように、隠し味のカレー粉をいつもより多めに入れてみよう。

 その時が来たら、全てを受け入れるだけだ。夫が何と言おうと、両親や親戚連中が何と言おうと関係ない。どう決断してどう動くのかは博が決めること。私は博の心の拠り所になって見守るだけ。

 頭の中のモヤが晴れて、目前のことがよりよく見えるようになった気がする。

 博と夫をそれぞれ見送った後、洗濯をしてざっと掃除機をかけ終わると時間は十一時になっていた。弁当作りの時に多めに作っておいた唐揚げと、同じく多めに炊いておいた白米で一人きりのちょっと早めの昼食を食べることにした。

 唐揚げを一口食べるとほどよくカレーの風味がして、なぜか懐かしい気持ちになった。博はこれを「お袋の味」として覚えておいてくれるだろうか。

 昼食を食べ終えてから使った食器を洗い、コーヒーメーカーでコーヒーを入れている間、カコがくれた箱を寝室から持ってくる。

 包装紙を丁寧に外すと、何も印字されていない白い化粧箱が出てきた。開けてみると、金のシンプルなピアスが台座に乗っている。軸にはK18という刻印があった。

 このピアスを自分がつけているところを想像してみた。アラフィフの私が急にピアスをしたら、博はなんて言うだろう? 夫は褒めてくれるかしら?

「四十にして不或まどわず

 遼ちゃんが言っていた言葉を声に出してみた。

 四十にして惑わずという言葉は、元々は「四十而不或」だったという説もあるのだと遼ちゃんが教えてくれた。四十になったらわくにはまらず、新しい考えを持ちなさい、という解釈もあるのだと。

 誰が何を言おうと関係ないと、今朝、腹を決めたばかりだ。

 初めの一歩を踏み出すのが何歳だろうと、遅すぎるということは決してない。

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