さよならのあとで、夢で

壁虎

第一話 水族館の夢

「これはあなたの夢の種です。あなたの潜在意識が取捨選択した情報であるかもしれませんし、何かの意識が流れ込んでいるという感覚もあるかもしれません」

 カコさんは続けた。

「この夢の種で見る夢は、きっとあなたの心を整えてくれます」

「はい……それで構いません。せめて夢で会えたらと思っていたのに、ちっとも出てきてくれないんですから」

 カコさんは微笑んで頷いた。視線は、さっきと同じように、あたしのおでこの上の方に向けられている。

「どうぞ、良い夢をご覧になってね」

 カコさんが立ち上がったので、あたしもそれに倣って立ち上がり、いざなわれて玄関口へと向かった。

 カコさんの事務所を辞去したあたしは、トラムの最寄駅に戻るために歩き出した。けれど、心はざわめいたまま、全く収まる様子がないから、まだこの街を離れたくなかった。近くに図書館でもあれば、本を読むフリでもして、今日のことを反芻できるのだけれど、あいにくこの近所にはないようだ。このままトラムに乗り込んでしまえば、いつもの日常に戻ってしまう。あたしは、まだ今日という日を終わらせたくなかった。

 トラム駅近辺の、おそらく唯一のカフェと思われる店があったので入ることにした。

 入り口すぐのカウンターに近づいてメニューを確認する。

「えーっと……ホットの……ミルクティーで」

 いつもならホットのブラックコーヒーを頼むところだが、口腔内にはさっきのカモミールティーの余韻が残っている。コーヒーの苦味は、今のあたしには刺激が強すぎるだろうと思った。

 平日午後だからか、それとも住宅地だからか、そのカフェには三人の中年男性が先客としているだけで、全く混んでいなかった。

 あたしはミルクティーのカップを受け取って、彼らから一番離れた席に座ることにした。カップの蓋を取り外して、ふーふーと少し冷ましてから一口飲むと無糖だった。味が足りない気がしたけれど、わざわざカウンターまで砂糖を取りに行くのも億劫だったので、そのまま飲むことにした。

 窓の向こうに目をやると、遠くの山々が見えた。山にかかる低い雲が美しくて、頭を空っぽにしたまま、機械的に二口三口、無糖のミルクティーを啜った。

 さっきカコさんがくれた小箱をバッグから取り出す。見た目も手触りもすごく素敵で、あたしは一目で気に入ってしまった。

「夢の種をこの中に込めてお渡しします。夢を見たいと思った夜に、この小箱を枕元に置いてお眠りください」とカコさんは言っていた。

 思わず「それだけでいいんですか?」と問うと、それだけです、という回答だった。

「この夢の種を使わずに、ずっと飾っておいてもいいんですよ」カコさんは続けて言う。「今晩でも、一年後でも、十年後でも、あなたの想いが消えてしまわない限り、夢の種の効力はきっと保たれるでしょう。どうぞ、あなたが夢を見たくなったタイミングでご使用ください」


 六月のこの日、気温は二十五度を超えていた。トラムの中は冷房が効いていたが、降りた途端にむっとする暑さを感じた。駅からは十分ほど歩くようだったので、あたしは上着を脱いで、半袖になった。

 目的地はマンションで、一階にはテナントが数軒入っていた。指定された住所は一番角だった。ガラス戸を開けると、室内からすぅっと涼しい風が吹いてくるのを感じた。

 あたしは声を張って「こんにちはー」と来訪を告げた。衝立の奥から「いらっしゃい」と言って女性が出てきた。一番最初に目に入ったのは、ウェーブがかった肩までの美しい銀髪だった。けれど、背筋がすっと伸びたその物腰で、今年五十九になったあたしの母よりも少し若そうに見えた。

「カコです。遠いところをようこそ」

「予約しました島中しまなか昭代あきよです。今日はよろしくお願いします」

 玄関のドアを閉めても室内には空気の流れを感じた。だが冷房の冷気ではないようだ。

 カコさんの後に続いて室内へと進み、大きな窓のある部屋に通される。「さあ、どうぞ掛けて」と丸テーブルに案内された。

 応接室と思われるそこは十畳ほどの大きさで、来客用の丸テーブルに椅子が二脚しつらえてあった。あたしは示された方の一脚に腰を下ろした。

 部屋には他に、壁際一面に設置された書棚と、足をすっかり投げ出して寝そべることができる大きなソファ、そして木製のティーワゴンがあった。

「さてと」と言ってカコさんがあたしの正面の椅子の方へ回り込んだ時、カラカランという金属音が聞こえた。

「ああ、そうだったわ」とカコさんはまるでそれに呼応するように顔をあげ、応接室を出ていき、少しして飲み物が入ったグラスを二つ手に持って戻ってきた。

 そうして、「さてと」ともう一度言って椅子に座ると、「まずは一息つきましょう」と言ってグラスを口に運んだ。あたしもそれに倣って飲んだ。冷えた麦茶だった。グラスの半分ほどを一気に飲んだ。

 少しの沈黙が流れた。天井にはシーリングファンが回っていて、室内の空気を程よく循環させている。この部屋はとても静かだった。時計の秒針の音さえ聞こえそうだと思いながら視線を巡らしてみると、果たしてこの部屋にはそもそも時計がなかった。時間を確認したいわけじゃないのに、時計が目につくところに無いというだけで、違和感を感じている自分を自覚した。時間に追われる生活をしてきたんだな、と内省しつつ、あたしは大きく息を吐いた。

「昭代さんとお呼びしていいかしら?」とカコさんに問われて、あたしは「はい」と頷いた。

「今日は、昭代さんだけの特別な夢の種を提供できるよう、協力させていただきますね」

 カコさんの微笑みがとても人懐こく見えて、なんだか和んだ。ただ、年下の自分が言うそれは褒め言葉にならないかもしれないと考えて、口に出すのは控えた。

「ご希望の夢はどのようなものですか?」

「はい、ある人の夢を見たいのです。名前は中田なかたとおるといいます。どういう漢字かというと」と言ったところで、「ううん、大丈夫」とカコさんに遮られた。「音の響きだけで十分」そう言って彼女は「ナカタトオル、ナカタトオル」と二回呟いた。

「どのようなご関係の方?」

「中田さんは元同僚でした。彼は大阪本社、あたしは東京支社で働いていました」

「大阪に本社がある会社ってちょっと珍しいわよね?」

「そうなんです。うちの会社はベンチャー企業で、創業者が地元の大阪で起業したんですけど、顧客が増えてきたので、東京にも拠点を作ろうと言うことで支社を作ったと聞いています」

 もう辞めた会社なのに、つい「うちの」という言葉を使ってしまった。

「その会社のご同僚さんだったのね」

「あたしが昨年末に退職したもので。中田さんとは……元同僚以上の関係だったとあたしは思ってるんですけど」と言ってから、カコさんから視線を外して麦茶を一口飲んだ。「彼、今年の三月に自ら命を絶ってしまったんです」

 カコさんがすっと息を呑む気配があった。「……そうなのね」と言って、視線をあたしの顔から少し上にずらした。

「その彼の夢が見られる種をもらいにきました」

「トオルさんは関西の方?」

「そうです。徹ちゃんは本社採用で、生まれは兵庫だと聞いています」

 カコさんがトオルと下の名前で呼んだので、いつもの呼び方がするりと出てしまった。でも、これで少し緊張がほぐれた。

「じゃあ関西弁でお話しされるのね」

「そうなんです。あたしは生まれも育ちも千葉なんですが、いわゆるニュータウンの子で。父は東京、母は岩手で、母は家では標準語で話してましたから。だから方言って羨ましくて」

 関西弁の独特のイントネーションもそうだったが、徹ちゃんとの会話はいつも予想外で、すごく新鮮ですごく楽しかった。

「二人だけで遊びに行こうって約束してたんですが、直前になって急に連絡が取れなくなっちゃって。振られちゃったのかな、って。まだ告白してもされてもいないのにって落ち込んでたら、徹ちゃんのお姉さんから返信がきたんです。メールアドレスは徹ちゃんのなんですが、件名に『徹の姉です』と書かれてて。徹ちゃんの自死を伝えるものでした」

 カコさんの視線はあたしのおでこの上の方に向けられているのだけれど、全身で話を聞いてくれているのを感じる。

「徹ちゃん個人の携帯メールで直近までやり取りしていた人に、わざわざ個別に連絡してくれたんじゃないかと思います。その後少しして、支社に勤めている元同僚からも電話がきて。ああ、本当のことなんだなって……」

 徹ちゃんの告別式は、彼の地元の兵庫で執り行われた。

 中田家告別式式場と書かれた看板。

 お棺の中に横たわる徹ちゃん、その顔が全くの別人に見えたこと。

 式場の外で二十代前半と思われる男女が数人集まって泣いている風景。

 告別式の後に元同僚と寄ったラーメン屋。

 ラーメンを食べる彼女の隣で、あたしは瓶ビールを飲んでいたこと。

 帰りの新幹線で「首を吊って亡くなった人って顔が変形しちゃうのよね」と言った元同僚の横顔。

 これらの情景がすぅーっと頭の中をよぎっていった。

「あたしが会社を辞めた後も、電話やメールでやり取りはしてたんですけど、ひょんなことから、水族館に一緒に行こうかって流れになったんです」

 会社を辞めて一ヶ月くらい経ってから、徹ちゃんからメールが届いた。内容はというと、その週の自分の勤務状況を報告するもので、つまりは業務連絡だった。

 送信先を間違えたのだろうと思って宛先欄を確認してみると、TO欄には会社の正規のメーリングリストのアドレス、CC欄は空白だった。この場合考えられるのは、BCC欄にあたしのメールアドレスをわざわざ入力した可能性だけだった。つまり徹ちゃんは、意図的に、他のメール受信者の誰にも気づかれないように、あたしにもメールが届くようにしたということだ。

 メールを開いてみると、「昨日も反省したとこやのに」だとか「思った通りにいかず凹んでいます」というような、反省のような愚痴のようなものだった。

 会社の社長はまだ三十代後半で、あたしも含め、ほとんどの社員にとっては、社長というよりも“少し年上のお兄さん”といった感じだった。大阪で起業して数年し、顧客を順調に増やして、東京に支社を持つまでになった。その後、大阪本社併設の工場だけでは物流がさばききれなくなり、東京にも工場を、ということになって、その新工場長として白羽の矢が当たったのが徹ちゃんだった。若干二十三歳にして抜擢されて、誇らしくもあっただろうけど、プレッシャーも相当あっただろうと思う。

 月曜の始発の新幹線で東京へ来て、金曜の最終便で兵庫の実家に帰るという生活をしていた彼は、仕事漬けの毎日で、娯楽を楽しむ時間も余裕もなかったはずだ。

「参っちゃってるなぁ、と思って、とりあえず『頑張れー』って返信したんですよね」

 部外者に社内情報を送信しているという注意喚起も当然したけれど、その後も徹ちゃんは定期的にメールを送ってきた。激励でも同情でもない何かを欲しているのだろうと思ったし、あたしはそれができる立場にあった。だから、気分転換になるような、なるべく仕事とは関係ない話題を返信するようにした。し続けた。あたし達は、いわば“週刊徹通信”と“週刊昭代通信”で緩やかな交流を続けた。

「オレな、水族館めっちゃ好きやねん。東京にも水族館ってあるん?」

 いつかの飲み会のときに徹ちゃんが言った。

「もちろんあるよ!」

「でもオレ、東京に友達おらへんしなー」

「おごってくれんねやったら、いっしょに行ったげてもエエでー」と関西弁を真似て言うと、「なんやねんそれ」と突っ込んだ徹ちゃんの横顔は少しニヤけているように見えた。

「それで、何度目かのメールの返信で、気晴らしに行かないか? って誘ったんです。何の気なしに提案しただけだったんですけどね。『行く!』って秒で返信がきたもんですから」ふふっと思わず思い出し笑いしてしまった。

 三月最後の土曜日に行くことを約束した。

 週刊徹通信が途切れた。具合を悪くしたのか、よもや事故で入院かと心配はしたが、あたし達の関係はまだ微妙で、わざわざ電話をするのも気まずかった。あたしは「おーい、生きてるかー?」という短いメールだけを送って、返事を待つことにした。徹ちゃんのことだから、あたしが思いもよらない奇天烈な返しをしてくるだろうと期待して。

 その週明けの月曜日、徹ちゃんのお姉さんからのメールを受け取ったあたしは、電話を掛けなかったことを、そして知らぬこととは言え、配慮にかけたメールを送ったことを激しく後悔することになった。

「あたし、実は今日のこの日までずっと引きこもってたんです。あれこれと考えてしまって、夜寝られなくなっちゃって。お酒を飲んで無理やり寝ようとするんですけど、酔えば泣けてきて、明け方やっと寝ついて、次の日は昼過ぎに起き出して、二日酔いでぼーっとしてるとまた泣けてきて、また飲んで明け方に寝てっていう」

 自室にこもってただただ酒を飲んで泣いて過ごした。食事もろくに摂らずに、家の中を幽霊のようにふらふらと歩くあたしに、同居していた母は何かを言っていたようだったけれど、それも耳には入らなかった。

「ある朝、急に空腹を感じたんです。生きているから腹が減るっていう、当たり前のことを体が教えてくれたんですね」

 悲しむだけの時間の終わりが近いことを悟った。

「ネットで『夢の種を買ってみた』っていうつぶやきを見つけて、思い切ってその主にダイレクトメッセージを送ってみたんです。そしたら情報交換に応じてくださって。カコさんに連絡する方法を教えていただいて、今日やっと来ることができました」

「大きな壁を乗り越えられたのね。来てくれて本当に良かったわ」

 カコさんは目線を下げて、あたしを真正面から見てそう言った。

 カランカランとさっきと同じような金属音がして、カコさんがすっと立ち上がると、「ちょっと一息つきましょうね」とティーワゴンを自分の隣に移動させて、お茶を入れる準備をしだした。立ち上がる湯気とともに香ってくる匂いは紅茶ではないようだ。

「カモミールティーよ。リラックスできるようにね」

 カップを持ち上げてその芳香にしばし浸った。お茶を飲んでいる間、また少しの沈黙があったが、決して心地悪いものではなかった。窓からはほどよく陽光が入り、天井のシーリングファンはゆっくり回っている。そしてとても静かだった。

 またしてもカランカランと音がした。どうやら書棚の方からしているようだ。目線をそちらにやると、黒猫がいた。でも寸法がどうもおかしい。よくよく見ると、黒い猫の置物だった。

 カコさんが立ち上がって書棚の方へ歩み寄り、「そうね。これがいいわね」と独り言を言うと、木製の箱を手にしてテーブルに戻ってきた。寄木細工と呼ばれる木工工芸品のようで、大きさは文庫本より一回り小さかった。

「昭代さんにはこれにしましょう」

 カコさんはそう言って箱をテーブルに置くと、左手をその上に添えた。あたしにもテーブルの上に手を出すように言い、右手を箱の上に載せているカコさんの手の上に重ね、左手の手のひらを上に向けるように指示した。あたしのその左手の上にカコさんの右手が重なる。テーブルを挟んで二人の腕で輪を作るような形になった。

「目をつむって。リラックスしてね。私が声をかけるまでそのままで」

 あたしはなんとなく姿勢を正して、言われるがままに目をつむった。意識の中にあるのは、自分のカモミールの吸気とカコさんの暖かな手の温もりだけだった。

「いいですよ。目を開けてください」

 そっと目を開けた。一分ほどだったと思うけれど、声をかけられるまで、あたしは無の中にいた。

「夢の種をこの中に込めました。夢を見たいと思った夜に、この小箱を枕元においてお眠りください」

「それだけでいいんですか?」

「それだけです」カコさんがあたしの方を向いて微笑む。

「えっと、あの、これ、縦にしても大丈夫ですか? 横向きのままだと入らなそうで」

 持ってきたトートバッグには縦にしないと入らなそうだった。

「横にしても縦にしても大丈夫。あ、それとね、これ、カラクリ箱になってるのよ。素敵でしょ?」とカコさんが例の人懐こい笑顔で言った。

「この夢の種が、あなたの心に安らぎをもたらしますように」

 カバンに入れるために箱を傾けると、ココンと木と木がぶつかる微かな音が聞こえた。

 手にはまだカコさんの手の温もりが残っているように感じた。


*****


「あの子、いい夢が見られるといいわね」

 客を送り出したカコは霧吹きを手に取って応接室に戻ってきた。それをシュッと室内にひと吹きすると、ソファにどさっと腰を下ろして、背もたれに身を預けて目を閉じた。

 ほのかにラベンダーの香りがしてきた。霧吹きに調合されているアロマオイルの香りだ。

 客と話した後、カコはいつもこうやって目を閉じて休憩する。他者の思考に同調しているから、それをリセットする必要があるんだそうだ。こうして五分ほど瞑想するのが毎回のルーティンだった。

「突然の別れだったのね。だけど、それを悲しむ気持ちとは別の、ある種の意思も感じたわ。あの子はきっとそれをやり遂げるでしょう」

 僕も同意見だった。「キレイなお姉さんだったから、きっとこれからもいいご縁があるんじゃないかな」

「そうね。綺麗なオーラをまとってたわ。ずっとあのままでいて欲しいわね。後ろのあの子は、もうしばらく一緒にいるつもりのようね」

 僕はふと思いついて聞いてみた。

「カコにも夢で会いたい人っているの?」

「そうねぇ、どう説明すればいいかしら」

 カコは目をつむったまま、それきり黙ってしまった。

 口ぶりからすると、会いたい人はいる様子だ。それとも、もう会ったのだろうか。


*****


 薄暗い場所にいる。人工的な灯りがところどころに灯っていて、かろうじて道順が把握できる。

 隣に人の気配を感じて、首をめぐらすと徹ちゃんがいた。

「足元気ぃつけや」とあたしの手を取って、ゆっくり歩き出す。

 徹ちゃんと一緒にいると、妹扱いされているように感じることがたまにある。実際にはあたしの方が四歳年上なのに、兄のように感じたり、はたまた年相応だったりと、彼の態度は予想がつかないことが多い。

「なぁ、前に『兄ちゃんおるんちゃうん?』って聞いてきたん覚えてる?」

「あー、あれはね、徹ちゃんがタメ口で話したからよ」

 あたしが退職する前の話だ。営業部がある東京支社と東京工場とは電車で三十分ほどの距離がある。客先から届いたサンプルを届けに行ったり、納期が迫っている中で追加の資材が発生したときに、客先でそれを受け取った足で工場に届けたりもしていた。

 まぁ、十回に四回くらいは、口実を作って息抜きに行っていたというのもある。

「あれ、ほんまビビったで。超能力者か思たわ」

「だって、初対面のときって、歳が近くても、ちょっと遠慮して敬語で話すもんじゃない? あたし、体育会系だったから、一歳違うだけでも絶対敬語だったしね。徹ちゃんは最初からタメ口の割合が多かったから、年上の人と話すことが多い環境だったんだろうなって思っただけよ」

 年上だからといって変に臆するでもないので、兄やその友人達と一緒に遊んで育った環境が想像できた。姉もいると聞いてさらに合点がいった。だから年上の女性に対しても対等に話せるのだろう。

「アッキーってよう人のこと見てるよな。かと思たらけっこう抜けてるとこもあるし。妹おったらこんな感じやったんかなって思うわ」

「抜けてるとこ、バレてたか……あはは」

「妹っぽいとこあったり、姉ちゃんみたいなときもあるし。バイク乗るって言うてたから、なんか兄貴みたいなことも言うねんな。アッキーって、ほんま一緒におったら飽きひんわ」

「ねぇ、アッキーって呼ぶのも徹ちゃんだけなんだよ。最初に呼ばれた時はびっくりしたし」

「ええやん。他の人と同じ呼び方せなあかんことないやろ」

「徹ちゃんは、返事が常に変化球なのよ」徹ちゃんとの会話は、あたしが予想していなかった言葉が飛び出してくることが多いが、テンポも良く、楽しい気持ちになる。「そういうとこがやっぱAB型ぽいんだよなー」

「それも当てられてもうたな。うちの姉兄きょうだいみんなABやからな。それが当たり前や思ててん」

「まぁ、血液型なんて四種類しかないんだから、それだけで性格診断しちゃうのも雑すぎるけどね」

 あたし達は巨大な水槽の前にいた。二階分の高さがありそうな、吹き抜け状の大きな水槽だった。イワシの群れが頻繁に向きを変えて泳ぐ。魚体が光を反射してキラキラと美しい。水槽の下の方ではエイがヒレをひらひらとさせながら移動している。

――みんなと一緒とかイヤやってん。誰ともかぶらん呼び方が欲しかってん。

 徹ちゃんの方を見たが、口を動かしている様子はない。

「綺麗だね。ずっと見てられるね」

「アッキーも水族館好きなんや?  ほな次は大阪のん一緒に行こ? オレが連れてくわ」

 あたし達はいつの間にかクラゲの水槽の前に立っていた。いくつかの水槽に種別毎に入れられたクラゲ達が、長い触覚で互いの体を探りながら、しかし絡まることなくゆったりと上に下に浮遊している。

「あんな」

「……ん?」クラゲに見惚れていたあたしは徹ちゃんの呼びかけに生返事をする。

「本当はちゃうねん……忙しかってん」

「知ってるよ。新工場長だもんね。週刊徹通信、ちゃんと読んでたよ」

「週刊やったけど、徹通信ちゃうし。アッキーみたいにバァーッて速う打てたら、タイパよう仕事できたんやろけどな」

「あはは。よく覚えてるね」

 あたしが進学した専門学校では、週に二回タイプライター入力の授業があった。二年間きっちり学んだおかげで、ブラインドタッチのスピードには自信がある。

「アッキーのお父ちゃん、亡くなってはったやんな?」

「……うん、九月にね」

 空咳がなかなか治らなくて、病院にかかったのが四月。肺癌だと診断された半年後にあっけなく逝ってしまった。正規の忌引き休暇ののちに職場に戻ったが、身内の死というものは、これほどまでに喪失感を与えるものだということを初めて知った。

「予期はしてたのにね。身内の死ってこんなにショックなんだって、自分でもびっくりしたよ」

「アッキー、なんかずっと元気なさそやったから、めっちゃ心配してたんやで。工場の連中かて、ほんまは引き留めたかってんけど、しんどそうやったから、みんな気ぃ遣うて遠慮してしもたんやわ」

 無音の中、ライトアップされた水槽に泳ぐ半透明のクラゲ達。

「アッキーが仕事辞める直前にメアド聞いたんやけど、しばらく連絡せぇへんかったやんか」

「そうだったね。あんまり覚えてないけど」

「なんやねんそれ。振り絞ったんやで、ありったけの勇気をな」

「やめろ、倒置法を!」あたしは笑いをこらえながら、徹ちゃんの二の腕あたりを軽く叩いた。個人のメアドを聞かれたのは、仕事の引き継ぎ事項に漏れがあったときの対策だと認識していた。徹ちゃんだって、そんな感情はおくびにも出していなかった。

「てゆーか、初めてのメールが業務報告だったじゃん!」

「仕事のことやったら、さすがに読んでくれるやろ思ててん」

――オレがちゃんと仕事頑張ってるとこ、アッキーに知っててほしかってん。

 ちらりと横を向くが、徹ちゃんの口はやっぱり動いていない。彼の心の声が直接聞こえているみたいだった。

「ほんでさ、あの『おっす!』って書き出しはなんやねん。悟空から返事きたんか思たわ!」

「元気出してこー! っていう雰囲気じゃん」凹んでる徹ちゃんをちょっとでも笑わせたかった。「あかんかった?」

「あかんくはない」

――いつでもメールしておいで、って書いてあって嬉しかった。

 少なくとも、徹ちゃんをリラックスさせるという目的は達成していたようだ。

「水族館のこと覚えててくれとったんやな」

「徹ちゃんがさ、凹みすぎてぺしゃんこだったからさ。気晴らしに連れてったげよって思ってさ」

「デートのお誘いやったよな?」

「まぁ、デートのお誘いやったけど?」照れ隠しでわざとオウム返しで答えると、「なんやそれ」と案の定突っ込まれる。「あかんかった?」

「あかんくはない。……嬉しかった。もう会う口実もなくなってしもたしな」

 だけど、その約束は果たされなかったのだ。

 徹ちゃんがぎゅっと手を強く握ってきた。

「ほんまはそんな気なかったんやで。ちょっと落ち込むことあってな、オレ、要らん人間なんちゃうかなって思ってしもてたんや」

 あたしもぎゅっと握り返す。「あたしとの……」責めるような言い方にならないように、慎重に言葉にした。「……デートはすっぽかしてもいいって思ったんだ?」

「頭ん中、ずっとごちゃごちゃしてて……頭ん中がずーっと忙しかってん……今はまぁ、落ち着いて考えられるようにはなってきたけど、あのときのことは……正直よう思い出されへんねん」

「……うん」

 どんな理由があったかなんて、もうそれほど重要ではない気がした。あたしはその時にそばにいてあげられなかった。それだけだ。

「ちゃうで」と徹ちゃんが言った。「アッキーのせいとちゃうねん。視界がな、こう、ぎゅーって狭なってしもて、他のこと考えられへんようになんねん。頭ん中がな、ガーッてなってもうて、ずーっとグルングルンしてんねん」

「予備のプランがなくて、プランAだけで突っ走ってる感じ?」

「……せやな。ああいうのは、もう誰にも止められへんことやったんやと思う」

 しんみりした口調で徹ちゃんが続ける。

「オレな、やればできる子や思てたけど、ちゃうかったわ。ほんまの“やればできる子”っちゅうのはな、もうとっくに始めてる子のこと言うねん。ヒマな時からよう分からんことでバタバタしてて、本番の忙しさに備えてる。せやから応用が効くんや」

 あたし達はいつの間にか、クラゲの水槽の前から移動していたようだ。暗い空間を歩いていた。徹ちゃんの声が近い。

「理想の自分になろう思てちょっと詰め込みすぎたんかもな。気ぃついたら、もうパンクしてもうてたわ」

 暗くて全く視界がきかないが、しっかりと手を握り合っているので怖さは感じない。

「勉強嫌いやったし、よくサボってたけど。勉強もしぃの、バイトもしぃの、趣味に打ち込みぃので……“忙しい”の予行演習みたいなもんやったんやなぁ、学校って」

「そうかもね。途中で投げ出さずにやり抜くって自分で決めて、三年間、陸上部で走ったよ。……ま、実力はというと、県大会止まりだったけどね」

「そう言うことやねん。芯のある人っちゅーのは、なんでかそういうこと分かってんねん。それでやってんねん。親にとってのええ子やなくても、自分で決めたことをやり通すねん。ほんま、早う言うて欲しかったわ。ま、次は本気出すしな」

 その声には清々しさすら感じ取れた。

「アッキーがな、ずっと泣いとったん見えてたで」徹ちゃんがすっと声のトーンを落とす。「急にいなくなってしもて、ほんまごめんな」

 あたしは涙が溢れそうになるのをこらえるためにぎゅっと目をつむった。あたりは真っ暗だし、目をつむっていても、徹ちゃんが手を引いてくれているから安心だった。

「頑張れって言うたん、あかんかったんやってずっと後悔してたやろ? アッキーの応援、オレ、ホンマにうれしかってんで」手をぎゅっと握られる。「ありがとうな」

 胸がいっぱいだったが、この一言を振り絞った。

「……あかんくなかった?」

「……あかんくなかったで」

「なあなあ」徹ちゃんの声の向きが変わった。今まではあたしの方を向いて話している感じがしていたが、今は二人が歩く前方を向いて話しているのがわかる。

「ほんで? カニはどこおんねん? オレ、今日はカニ見に来たんやで?」

 この話はこれでおしまい、とばかりに徹ちゃんが明るい声を出す。

「地上階の方だよ。行ってみよっか」

 あたしは徹ちゃんの手をしっかりと握り直した。

「アッキー、知っとる? カニってな、横歩きしかできひん思うやろ。でもな、あいつら前にも進めるんやで。砂浜歩いとるとするやん。波に押されるやろ。ほな、ぐいーっと前に出んねん。でもな、波が引いても後ろには下がらんのや。ほんでな、生きてるカニは赤うないねん。赤いんはな、茹でられたやつや」

「あ! お昼ご飯は海鮮丼にしよっと。カニいっぱい乗ってるやつ」

「あかん」

「あかんかった?」

「それはあかんやろ。てかそもそも、水族館に海鮮食わす店あるのがもうおかしいやん」

「新鮮な魚介をたくさん見せられてんだから、海鮮の口になっちゃうのは、しょーがなくない?」

「おかしいて」

 周囲が明るくなってきた。前方に、地上階へとあがる階段が見えた。陽光が差し込む中へ二人で歩を進める。


 こんなにすっきりとした目覚めは本当に久しぶりだった。左手にはまだ手を繋いでいた感触が残っているような気がする。

 あたしは上体を起こすと、カコさんがくれたカラクリ箱を手に取った。逆さまにしたり斜めにしたりしているうちに、一番大きな面の板がスライドした。

 中には果たして小さなカニのチャームが入っていた。緑とも青ともつかない、少しくすんだ色をした木製のカニだ。

「……はは」自然と目が潤んだ。「カニの話、してないはずなんだけどな……カコさん、あの人本物だわ」

 目をつむって深呼吸を二回する。

 箱とカニを枕の脇にそっと置いて布団から出た。

 カーテンを開けると朝陽が気持ちいい。新しい一日の新しい空気、新しい光。

 引きこもっていたのは数週間程度だったはずなのに、もう何年もこんな光を浴びていなかったような気がする。

 留学の夢を叶えるなら今だ、とふと思いついた。

 英語が好きで専門学校にも進学したのに、夢を叶えることをずっと後回しにしてきてしまった。それほど多くはないが、父の遺産として受け取ったまとまったお金もある。それを有効活用しよう。何か新しいことを始めよう。

 全く違う環境に馴染むまでは時間もかかるだろうし、うまくいかずに凹むこともあるだろう。不安はたくさんある。でも、陸上部の真夏の走り込みで培った根性があれば、きっと乗り越えられる。

 それに、このカニのチャームを見れば、今日のこの気持ちをいつでも思い出せるだろう。

「これは夢の種」カコさんの言葉が蘇る。

 そう、ただの夢。でも、あたしが前進するための波となってくれた。

 そう。だから、きっとあたしは大丈夫。

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