夢でも会えない
壁虎
第一話 水族館の夢
「これは夢の種です。誰かの意識が流れ込んできていると感じるかもしれませんし、あなたの潜在意識が取捨選択した情報であるだけかもしれません」
女主人は優しくそう言った。
「あなたに心の平穏を与えてくれる夢。それを忘れないでくださいね」
「それで構いません」昭代は目を閉じて頷く。「せめて夢で会えたらと思っていたけれど、ちっとも出てきてくれないんですから」
女主人は微笑んで頷いた。目線はさっきと同じように、昭代のおでこよりも少し上の先を見ているように感じる。その微笑みのまま視線を昭代の瞳に戻すと、もう一度頷いてそっと立ち上がった。
「この夢の種があなたの心に安らぎをもたらしますように」
昭代はそれに倣って立ち上がり、
*****
昭代はカコの家を辞去してから、なんとはなしに駅方面へと歩き出したが、心の騒めきはまだ収まっていなかった。まだこの街を離れたくなかった。まだ今日という日を終わらせたくなかった。
どこか静かなところでゆっくりと回想したいと思ったが、初めて訪れる街だから土地勘がないのが残念だった。近くに図書館でもあったら、本を読むふりをしながらさっきのことを反芻できるのに。
駅前の雑踏に近づいたところで珈琲ショップのチェーン店の看板が目に入った。店舗は地下にあるようだ。道路に面していない店内はきっと静かだろう。
入り口はガラス張りになっていて、店内が程よく空いているのが見て取れた。
さっきの既視感はこれか、と昭代は思った。
カコに指定された住所につくと、そこは一軒家で一階部分はガラス張りになっていた。木製のドアには木のプレートが掛けられており、ただ「Welcome」とだけあった。ちょうどこのカフェのように屋内が見えるような仕様だった。以前はきっとカフェかパン屋か、何かしらの商売をしていた場所だったのだろう。
店員に一人だと告げると、壁際にある二人掛けのテーブルに案内された。
「メニューはこちらです。ご注文が決まった頃にお伺いします」
「あ、あの、ホットの……ミルクティーください」とメニューも見ずにオーダーした。定番メニューのはずだから、無いことはないだろう。いつもならホットのブラックコーヒーを頼むところだが、ホットミルクティーを頼んだのは、コーヒーの苦味が今の自分には刺激が強すぎるように感じたからだ。口腔内にはさっきのカモミールティーの余韻も残っている。
ミルクティーが運ばれてくるのを待つ間、昭代はカバンの中から小箱を取り出した。カコがくれたものだ。見た目も手触りもすごく素敵で、昭代は一目で気に入った。
「夢の種をこの中に込めてお渡しします」とカコは言っていた。「夢を見たいと思った夜、この小箱を枕元に置いてお眠りください」
「それだけでいいんですか?」
「それだけです。もちろんこの小箱を使わずに、ずっと飾っておいてもいいんですよ」
カコが優しく微笑む。「今晩でも、一年後でも、十年後でも。あなたの想いが消えてしまわない限り、この小箱の効力はずっと保たれるでしょう。あなたが見たい夢を、あなたが見たいタイミングで見ることができますよ」
*****
六月のこの日、日中は半袖でもちょうどよい気温で、散歩気分でゆったり駅から歩いてきた昭代は少し汗ばんでいたくらいだった。
住所はここで合っているはずだが、ガラス張りの屋内にはカーテンのようなもので仕切られていて、その奥が窺い知れない。呼び鈴が見当たらなかったので、直接入っていってもいいものかどうかとドアの前で躊躇していると、カーテンの奥の方で人の動く気配がした。一人の女性が近づいてくるのが見えた。
「いらっしゃい」とドアを開け招き入れてくれたその人は、グレーのマキシ丈スカートにゆったりとした上品な白いTシャツを着た女性だった。ウェーブがかった肩までの髪は白髪だったが、すっと背筋が伸び、薄い水色のレンズの眼鏡がよく似合っていた。
二十八歳の昭代の母は今年五十九歳になったが、その母よりは若そうだ。
「カコです。遠いところをようこそ」
「予約しました島中昭代です。今日はよろしくお願いします」
「靴はそのままで。どうぞお入りになって」
カコに続いて屋内に入ると、カーテンのように見えたそれはたくさんの細い紐が吊るされた暖簾のようなものだった。空間を完全に仕切ることなく、それでいて目隠し効果も高かった。
「さあ、どうぞ掛けて」と丸テーブルに案内された。
十畳ほどの応接室には来客用のテーブルに椅子二脚が
部屋には他に、壁際の書棚と、足をすっかり投げ出して座れるほどの大きさのソファー、そして木製のティーワゴンがあった。
「さてと」カコが昭代の向かいの椅子に腰を下ろそうとした時に、カランカランという微かな音が聞こえた。カコは「ああ、そうだったわ」と言って昭代の背後にまわり、グラスを二つ持ってきて座った。
「さてと」と椅子に座り直すと「まずは一息つきましょう」と言ってカコが一口飲んだので昭代もそれに倣った。冷えた麦茶が少し汗ばんだ体に心地よかった。
少しの沈黙が流れた。天井にはシーリングファンが室内の空気を程よく循環させていて、それだけで涼しさを感じた。カコの家は大通りからそれほど離れていなかったがとても静かだった。時計の秒針の音さえ聞こえそうだと思いながら首を巡らし、この部屋にはそもそも時計がないことに気づいた。時間を確認したいわけじゃないのに、時計が目につくところに無いというだけで違和感を感じている自分に気づき、時間に追われる生活をしてきたんだな、と自分の少し前の過去に思いを馳せた。
「昭代さんとお呼びしていいかしら?」カコが穏やかに話しかけてきた。
「はい」
「今日は昭代さんだけの特別な夢の種を提供できるよう協力させていただきますね」
カコは穏やかに微笑んでそう言った。人懐こい人だなと思ったが、年下の人間から言うそれは褒め言葉にならないかもしれないと考えて、昭代は口に出すのは控えた。
「ご希望の夢はどのようなものですか?」
「はい、ある人の夢を見たいのです。名前は中田徹といいます。どういう漢字かというと……」
「ううん、大丈夫。ナカタトオルさんね。音の響きだけで十分」そう言ってカコは「ナカタトオル、ナカタトオル」と二回呟いた。
「どのようなご関係の方?」
「中田さんは元同僚でした。彼は大阪本社、私は東京支社で働いていました」
「大阪に本社がある会社ってちょっと珍しいわね?」
「よく言われます。創業者が地元の大阪で起業したあと、東京方面の顧客が増えてきたので、東京にも拠点を作ろうということで支社を作ったと聞いています」
「その会社のご同僚さんだったのね」
「私が昨年末に退職したので……」昭代は麦茶を一口飲んで続けた。「元同僚以上の関係だったと私は思ってるんですけど」
カコは少し頷いて先を促した。
「今年の三月に自ら命を絶ってしまったんです」昭代は澱みなく告げた。カコは「そう」と言って目線を昭代の顔から少し上にずらす。
「その彼の夢が見られる種をもらいにきました」
「トオルさんも東京の方?」とカコがたずねた。
「いいえ、徹ちゃんは本社採用で、生まれは兵庫だと聞いています」
カコが「トオル」と下の名前で呼んだので、いつもの呼び方がするりと出てしまった。でも、少し緊張がほぐれた。
「じゃあ関西弁で話されるのね」
「そうです。関西弁って言っても地域によって話し方が違うそうですね」これは徹の受け売りだ。
「あたしは生まれも育ちも千葉なんですが、いわゆる『ニュータウン』の子で。父は東京、母は岩手の出身で、家庭内は標準語だったもんですから、だから方言って羨ましくて」
独特のイントネーションもそうだったが、透ちゃんとの会話はいつも予想外で、すごく新鮮ですごく楽しかった。
「二人で一緒に出かける約束をしてたんです。直前になって急に返信がこなくなって。振られちゃったのかな、まだ告白してもされてもいないのにって落ち込んでたら、徹ちゃんのお姉さんからメールがきたんです。メールアドレスは徹ちゃんのなんですが、件名に『徹の姉です』と書かれてて。徹ちゃんの自死を伝えるものでした」
カコの視線は昭代の頭の上方に向けられているが、全身で話を聞いてくれているのがわかる。
「個人の携帯メールで直近までやり取りしていた人に、わざわざ個別に連絡をしてくれたんだと思います。それからすぐ支社に勤めている元同僚からも電話があって。ああ、本当のことなんだなって……」
徹の告別式にはその元同僚と向かった。
中田家告別式と書かれた看板と、お棺の中の徹、その顔が全然違う人に見えたこと。式場の外で二十代前半と思われる男女が数人集まって泣いていたこと。告別式の後に元同僚とラーメン屋に寄って、彼女がラーメンを食べている間、自分は瓶ビールを飲んでいたこと。帰りの新幹線で「首を吊って亡くなった人って、顔が変形しちゃうのよね」と元同僚が話してくれたこと。
記憶にあるのはそれだけだった。新幹線のチケットの手配も新大阪から在来線への乗り換えも、その元同僚が全て手配してくれたのだった。
感情を
「私が年末に会社を辞めてからはしばらく連絡してなかったんですけどね。ひょんなことから水族館に一緒に行こうかって流れになったんです」
昭代が会社を辞めてから三週間ほどしてから、徹からメールが来た。内容はというと、その週の週報のようなもので、つまりは業務連絡だった。
本来の送信先と間違えて送ってしまったのだろうと思ってTO欄を開いてみると、昭代も見覚えのある会社の正規のメーリングリストのアドレスが入力されていた。CC欄にも昭代のメールアドレスは入っていない。この場合、唯一考えられるのは、BCC欄に昭代のメールアドレスをわざわざ入力した可能性だけだ。徹は意図的に、他のメール受信者の誰にも気づかせずに、昭代にもメールを送信したということになる。
メールを読んでみると、「昨日も反省したとこやのに」とか「思った通りにいかず凹んでいます」という反省と愚痴をミックスしたような内容だった。
「相当お疲れ様だなって思って『頑張れ〜』って返信したんですよね。あたしはもう部外者だし、返信にはもちろん『部外者に情報漏洩して大丈夫か』という文言も入れたんですけど、いっそ仕事とは関係ないテンションで返信した方がいいかなって思って。そしたらそれから毎週メールが来るようになったんです」
東京方面の顧客が増えて東京支社を立ち上げて数年、大阪工場だけでは組立と保管が
「それで、何度目かの週報への返信に、気晴らしに東京の水族館に一緒に行かない? って誘ったんです」
徹が水族館が好きだという話は、いつかの飲み会のときに聞いていた。
「東京にも水族館ってあるん?」となんとも世間知らずな質問をしてきた彼に「もちろんあるよ!」と答えると、「でも俺、東京に友達おらへんしなー」という返しだった。昭代が軽いノリで「一緒に行ってあげてもエエで」と関西弁を真似て言うと、徹は「なんやねんそれ」と突っ込まれたが、その横顔はちょっとニヤついているように見えた。
「その時の話を思い出して提案してみたんですよね。そしたら秒で返信が来て。『行く!』って」思わずふふっと笑みがこぼれた。まるで昭代からの返信を待ち構えていたかのようなスピード感だったからだ。
「それで、三月最後の週末に行こうってことにしたんです。その週は実家に帰らずに東京に残って一緒に遊びに行こうって」
週報がいつもの金曜夜に届かなかった。土曜になっても来なかった。夜まで待って「何か急な予定でも入ったかな? 手が空いたら返信ちょうだいね」とメールしたものの、その返信もなかった。接待か何かで飲みすぎて具合を悪くしてるのか、それとも何かの事故に巻き込まれたのかと心配にもなったが、二人の関係性が微妙なせいで、電話するのもなんだか気まづかった。後にこのことを後悔することになるのだが。
果たして週明けの月曜日に、徹の姉からのメールを受け取った。
「実は今日のこの日までずっと引きこもってたんです。あれこれと考えてしまって、夜寝られなくなっちゃって。寝なくちゃと思ってウィスキーを飲むようになって、飲んで泣いて明け方やっと寝ついて。次の日昼過ぎに起き出して、二日酔いでぼーっとしてるとまた泣けてきて、また飲んで飲んで明け方に寝てってっていうのを繰り返してたんですけど」
年末に会社を辞めたあとは失業保険を受給しつつ、再就職するか資格でも取るかと考えてた期間だったから、社会人として誰にも迷惑をかけることなく、自室にこもってただ酒を飲んで泣いて過ごした。食事もろくに取らず、それこそ幽霊のようになってしまった娘を母は心配していただろうが、ありがたいことに放っておいてくれた。
「ある朝、目が覚めて、空腹を感じたんです。生きてるんだから、そりゃお腹だって空くよなって思って」
当たり前のことに心底納得した。もうそろそろ悲しむだけの時間をおしまいにしようと思った。
「会いたいって思う人ほど夢に出てきてくれないもんだなって思って、酔っ払いながらもネットで検索してたんです。『好きな人と夢で会う方法』っておまじないは山ほどあって、一通り試してみたけど、やっぱり出てきてくれなくて。まぁ、酔っ払って明け方やっとうつらうつらする程度の睡眠だったから、夢なんて見れる状態じゃなかったかもしれないんですけどね」コップに残っていた麦茶の最後の一口を飲んだ。
「『夢の種を買ってみた』っていうつぶやきを見つけたんです。そのつぶやきはブックマークしておいて、でもしばらく放置してたんですけど、その日、思い切ってダメ元でそのつぶやきの主にダイレクトメールを送ってみたんです。親切に情報交換に応じてくださって、カコさんの連絡先を教えていただいて、それでとうとう今日、ここに来ました」
「大きな壁を乗り越えられたのね。来てくれて本当に良かったわ」
カコが目線を下げて昭代の顔を見た。カラカランとまたさっきと同じような金属音がして、カコはすっと立ち上がると、「ちょっと一息つきましょうね」とティーワゴンを自分の手元に移動させて、温かいお茶を淹れる準備をし出した。立ち上る湯気からは、紅茶とも違う香りがする。
「カモミールティーよ。リラックスできるようにね」
お茶を淹れている三分ほどの間はどちらも口を聞かなかったが、気まづい沈黙ではなかった。窓からは陽光が差し込んでいる。室内はシーリングファンのおかげで快適だ。そして静かだった。
またしてもカラカランと音がする。どうやら書棚の方からしているようだ。目線をそちらにやると、黒猫がいた。だが寸法がどうもおかしい。よくよく見ると、それは黒い猫の置物だった。
カコは黒猫の近くまで歩み寄り、「私もこれがいいと思うわ」と独り言を言うと、木製の箱を手にしてテーブルに戻ってきた。寄木細工と呼ばれる木工工芸品のようだ。スマホくらいの大きさだが少し高さがある。
「昭代さんにはこれにしましょう」
そう言って箱をテーブルの上に置くと、その上に左手を添えた。昭代には左手をテーブルの上に手のひらを上にして置くようにいい、右手は自分の手の上に重ねるように指示した。昭代の左手にカコの右手が重なる。テーブルを挟んで二人で腕で輪を作るような形になった。
「目を瞑って。リラックスしてね。私が声をかけるまでそのままで」
なんとなく姿勢を正して、言われるままに目を瞑った。何の音も聞こえない。自分のカモミールの吸気とカコの暖かな手の温もり。意識の中にあるのはそれだけだ。
「いいですよ。目を開けて」
カコに声をかけられて目を開けた。三分ほどか、それとも十分以上だったのか。直前まで「無」の中にいたような気がした。
「夢の種をこの中に込めました。夢を見たいと思った夜に、この小箱を枕元に置いてお眠りください」
「それだけでいいんですか?」
「それだけです」カコが微笑む。
「あの、これ、縦にしても大丈夫ですか?」
カバンに入れるのに、縦にしないと入らなそうだった。
「横にしても縦にしても大丈夫。あ、それとね、これ、カラクリ箱になってるのよ。素敵でしょ?」とカコが無邪気に微笑んで言った。
「この夢の種があなたの心に安らぎをもたらしますように」カコは微笑んだままそう言った。
カバンに入れるために箱を傾けると、ココンと木と木がぶつかる微かな音が聞こえた。
昭代の手にはまだカコの手の温もりが残っていた。
*****
「あの子、いい夢が見られるといいわね」
客を送り出したカコは、霧吹きを手に取って応接室に戻ってきた。霧吹きをシュッと室内に一拭きすると、ソファーにどさっと腰を下ろし、背もたれに寄りかかって目を閉じた。ほのかにラベンダーの香りがしてくる。霧吹きに調合されていたアロマオイルの香りだ。客と話した後、カコはいつもこうやって目を閉じて少し休息する。思考に同調すると、自分のものではない念に占領されてしまうのだそうだ。五分ほどこうして瞑想するのが毎回のルーティンだった。
「突然の別れだったのね。だけど、それを悲しむ気持ちとは別の、ある種の意思も感じたわ。あの子はきっと大丈夫ね」
「キレイなお姉さんだったから、きっとこれからもいいご縁があるんじゃないかな」僕も同意見だった。
「そうね、本当に綺麗なオーラをまとってたわ。ずっとあのままでいて欲しいわね。後ろのあの子も、もうしばらくは一緒にいるつもりのようね。その時が来るまで側で見守っていたいんでしょう」
僕はふと思いついて聞いてみた。
「カコにも夢で会いたい人っているの?」
カコはまだ目を瞑っている。
「そうねぇ、どう説明すればいいかしら」
それっきりカコは黙ってしまった。
口ぶりからすると、会いたい人はいる様子だ。それとも、もう会ったのだろうか。
*****
薄暗い場所にいる。人工的な灯りがところどころに灯っていて、かろうじて道順が把握できる。隣に人の気配を感じて首をめぐらすと徹ちゃんがいた。
「暗いからこけんなや」と手を握られてゆっくりと歩く。徹ちゃんと一緒にいると、妹扱いされているように感じることがたまにある。実際にはあたしの方が四歳年上なのに、兄のように感じたり、はたまた年相応だったりと、彼の態度は予想がつかないことが多い。
「なぁ、前にな、仕事中に『兄貴がおるやろ』って聞いてきたやん。覚えてる?」
退職する前は、客先から預かった資材を手持ちで納入したり、出来上がったサンプルを受け取りに行ったりと、工場にはちょくちょく顔を出していた。
「あれちょっとびびったで。超能力者か思たわ」
「だってほぼ初対面なのにタメ口なんだもん。しかも年上ってわかってるのに」
「そういうもんかな」
「年が近くっても、しばらくはちょっと遠慮して敬語で話すもんじゃないかな。あたし、体育会系だったから、一歳違うだけでも絶対敬語だったしね。徹ちゃんは最初っからタメ口の割合の方が多かったもんね」
年上だからといって変に臆することなく話すので、兄とその友人達と一緒に遊んで育った環境が想像できた。姉がいると聞いてさらに合点がいった。だから年上の女性に対しても免疫があるのだろう。
「アッキーってよう人を見てるよな。かと思うと抜けてるとこもあるし。妹がおったらこんな感じやったんかな」
「抜けてるとこ……バレてた?」
「妹みたいだったりお姉みたいだったり、お兄みたいなこと言い出したり。アッキーといると飽きひんねんな」
「アッキーって呼ぶのも徹ちゃんだけだよ。最初に呼ばれた時はびっくりしたし」
「ええやん。他の人と同じ呼び方せなあかんことないやろ」
「そういうとこがやっぱAB型ぽいんだよなー」
「それも当てられたな」
「常に変化球で返事がくるっていうかさ」と思わず笑ってしまう。
「うちの
「まぁ、血液型なんて四種類しかないんだから、それだけで性格診断しちゃうのも雑すぎるけどね」
巨大な水槽の前にきた。三メートルはありそうな天井の上まで続くほどの高さだ。中央にはイワシの群れが頻繁に向きを変えて泳ぐ。魚体が光を反射してキラキラと美しい。水槽の下の方ではエイがひらひらと移動している。
──誰とも被らん呼び方したかってん。
徹ちゃんの方を見たが、口を動かしている様子はない。
「ずっと見てられるね」
「アッキーも水族館好きなんやな。ほなら次は大阪の水族館連れてったるわ」
いつの間にかクラゲの水槽の前に立っていた。いくつかの水槽に種別毎に入れられたクラゲ達は、それぞれ二十体ほどはいるのだが、長い触覚で互いの体を探りながら、しかし絡まることなくゆったりと上に下に浮遊している。
「あんな」
「ん〜?」徹の呼びかけに生返事をする。
「本当はちゃうねん……忙しかってん」
「うん。知ってるよ。新工場長だもんね」とクラゲを見ながら答える。「だけど、メールの返信くらいして欲しかったなー」
「俺のキーボード入力遅いの知ってるやん。アッキーみたいにガーっと速く打たれへんねん」
「あはは。よく覚えてるね」
高校卒業後に進学したのは英語の専門学校だった。タイプライター入力の授業があって、二年間きっちり授業を受けた甲斐もあり、ブラインドタッチには自信がある。
「アッキーのお父さん、亡くなったやん?」
「……うん、九月にね」
空咳がなかなか治らなくて、病院にかかったのが同じ年の四月。検査の結果、肺癌だと診断されたその半年後にあっけなく逝ってしまった。正規の忌引き休暇ののちに職場に戻ったが、ぽっかり空いた穴が埋まることはなかった。
「予期してたとは言え、身内の死ってこんなにショックなもんなんだって、自分でもびっくりしたよ」
「アッキー、ずっと心ここに在らずやったから心配してたんやで。工場の連中もほんまは引き留めたかったんやけど、しんどそうだったからみんな遠慮したんや」
無音の中、ライトアップされた水槽に泳ぐ半透明のクラゲ達。
「アッキーが仕事辞める前にメアド聞き出したけど全然連絡せんかったやん?」
「そうだったね。あんまり覚えてないけど」
「なんやねんそれ。振り絞ったんやで、ありったけの勇気を」
「倒置法か! てか初めてのメールが業務報告だったじゃん!」思わず突っ込む。
「仕事のことなら、少なくとも読んでくれると思ったんや」
──仕事頑張ってるとこアッキーに知って欲しかってん。
ちらりと横を向くが、徹ちゃんの口はやっぱり動いていない。
「ほんであの『おっす!』って書き出しはなんやねん。悟空から返信来たかと思たで」
「だってあたしもう部外者じゃん。仕事っぽくない方がいいかなって思ってさ」
──いつでもメールしておいで、って書いてあって嬉しかった。
これは徹ちゃんの心の声なのかな。
「あかんかった?」
「あかんくはない」
「そっか」少なくとも、徹ちゃんをリラックスさせるという目的は達成していたようだ。
「水族館のこと覚えててくれとったんやな」
「だって凹みすぎてぺしゃんこだったからさ。気晴らしに観光連れてってあげよって思ってさ」
「デートのお誘いやったよな?」
「まぁ、デートのお誘いやったけど」照れ隠しのためにわざと関西弁ぽく言った。
「なんやそれ」と案の定突っ込まれる。
「あかんかった?」
「あかんくはない」
「そっか」
こんなどーしようもないやりとりに付き合ってくれる徹ちゃんは本当に可愛いと思う。
「……嬉しかった。もう会う理由も無うなってしもたし」
「うん」
だけど、その約束は果たされなかったのだ。
徹ちゃんがぎゅっと手を強く握り返してきた。
「ほんまはそんな気なかってん。落ち込むことがあってな。要らん人間なんやって思ってしもてん」
あたしもぎゅっと握り返す。
「……あたしとの約束は思い浮かばなかった?」なんとか口にした。
「頭の中がずーっと忙しかってん」苦しそうな顔をしている。「今はちょっと冷静に考えられてる感じやけど、その時のことはちょっとよく思い出されへん」
「……うん」
どんな理由があったかなんて、もうそれほど重要ではない気がした。あたしはその時に側にいてあげられなかった。それだけだ。
「ちゃうで」と徹ちゃんが言った。
「アッキーのせいとちゃう。視界がな、こう、狭くなってしもてる言うか、その他のことを考えられへんねん。頭の中がな、がーっとなってもうてな、ずっとグルングルンしてんねん」
「予備のプランがなくて、プランAだけで突っ走ってる感じ?」
「せやな。誰にも止められへんことなんやと思う」
しんみりした口調で徹ちゃんが続ける。
「やればできる子やと思てたけど、ちゃうかってんな。やればできる子っちゅーのは、もうとっくに始めてる子のことを言うねん。暇な時からようわからんことでなんやあれこれ忙しくて、本番の忙しさに備えてるねん。だから応用が効くねん」
いつの間にかまた暗い空間にいる。徹ちゃんの声が近い。
「俺は理想の自分に手が届かな過ぎてパンクしてしもたんやろな」
暗くて全く視界がきかないが、しっかりと手を握り合っているので怖さは感じない。
「そっか」小さく相槌を打つ。
「勉強嫌いやったし、よくサボりもしたけど、勉強もしぃの、バイトもしぃの、趣味に打ち込みぃので、『忙しい』の予行演習する場やったんやなぁ、学校て」
「そうかもね。途中で投げ出さずにやり抜くって自分で決めて、高校は陸上部で三年間頑張ったよ、あたし。まぁ、成績は県大会出場止まりだったけどね」
「そう言うことやねん。芯のある人っちゅーのは、なんでかそういうことわかってんねん。ほんでやってんねん。誰かにとってのええ子やなくても、自分で決めたことをやり通すねん。ほんま早う言うて欲しかったわ。まぁ、次は本気出すしな」徹ちゃんは茶化し気味に言ったが、その声には清々しさすら感じとれた。
徹ちゃんがすっと声のトーンを落として言った。
「アッキーがずっと泣いてたん見えてたで。急にいなくなってしもてほんまごめんな」
あたしは胸が詰まる感じがした。泣き出しそうになって思わず目をギュッとつむる。
「頑張れって言ったらあかんかったってずっと後悔してたやろ。でもな、アッキーの応援、嬉しかったで。ありがとう」
「あかんくなかった?」
「あかんくなかった」
「……そっか」かろうじてそう返事をした。
「なあなあ、ほんで?」徹ちゃんの声の向きが変わった。今まではあたしの方を向いて話してる感じがしていたが、今は二人が歩く方向を向いて話しているのがわかる。
「カニはどこにおるんや? 今日はカニを見に来たんや」この話はこれでおしまいとばかりに、徹ちゃんが明るい声を出す。
「地上階の方だよ。行ってみよっか」
手をしっかりと握る。
「アッキー、知ってる? カニって横歩きしかできひんと思うやろ。あいつら前進もできるんやで。波に押されるとな、前進するんや。けど波が引いても後退はせんのんや。ほんでな、生きてるカニは赤くないんやで。赤いのは茹でガニや」
「あ! お昼ご飯は海鮮丼にしよっと。カニいっぱい乗ってるやつ」
「あかん」
「あかんかった?」
「それはあかん。そもそも水族館に海鮮食べさせる店があるんがおかしい」
「新鮮な魚介をたくさん見せられてるんだから、海鮮の口になっちゃうのはしょーがないよ」
「絶対あかん」
周囲が明るくなってきた。前方にあるのは地上階へと続く階段だ。陽光の中へと二人で歩みを進める。
*****
久しぶりにすっきりとした目覚めだった。
左手にはまだ手を繋いでいた感触が残っている気がする。
あたしはベッドに起き上がってカコがくれたカラクリ箱を手に取った。逆さまにしたり斜めにしたりしていじっているうちに、するっと一番大きな面の板がスライドした。
中には果たして小さなカニのチャームが入っていた。緑とも青ともつかない、少しくすんだ色をした小さなカニ。
「あはは……カコさん、あの人、本物だわ……」目が潤む。「カニの話、してないはずなんだけどな」
深呼吸をして目をぱちっと開くと、あたしは箱とカニをそっと枕の脇に置いてベッドから降りた。カーテンを開けると朝陽が気持ちいい。もう何年もこんな光を浴びていなかったような気がする。
長年温めてきた留学の夢を叶えようと思った。英語が好きで専門学校にも進学したのに、留学の夢をずっと後回しにしてきた。当時のクラスメイトの中には留学に行った者もワーキングホリデーに行った者も多く、ずっと羨ましく思っていた。
それほど多くはないが父の遺産のまとまったお金がある。それを有効活用しよう。
何か新しいことを始めよう。
生まれ変わったつもりで。
全く違う環境で全く新しい生活を始めたら、日々の瑣末なことに忙殺されるだろう。慣れない環境で凹むこともあるだろう。不安なことだらけだが、高校時代の陸上部の練習のしんどさに比べたらなんてことない。それに、このカニのチャームがあれば、今日のこの気持ちをいつでも思い出せる。
「これは夢の種」カコの言葉が蘇る。そう、ただの夢。でも、あたしが前進するための波となってくれた。
あたしはきっと大丈夫。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます