無言の敬礼

執行 太樹

 




 ※この話には一部、残酷な描写が含まれております。苦手な方はご注意ください。











 貫一じいちゃんが死んだ。77歳だった。ある暑い夏の日だった。

 おじいちゃんが死んだとき、普通は悲しむものなのだろう。しかし、私は違っていた。私は、貫一じいちゃんの死を、何も感じなかった。

 貫一じいちゃんは、戦争体験者だった。27歳で出兵し、35歳で帰国した。帰国したとき、貫一じいちゃんは、何も喋ることができない状態だった。目は虚ろで、無気力だった。病院からは精神分裂病、俗に言う戦争ボケと診断された。

 こんな事をいうと不謹慎だと思われるが、私は、そんな貫一じいちゃんが嫌いだった。帰国してからの42年間は、定職にも就かず、ただ無気力のまま家にいた。ご飯を食べ、排泄をし、ただ寝るだけの毎日だった。世話をしていた母は、辛かっただろうと思う。

 まるで死んだような毎日。こんな人生を、私は送りたくない。貫一じいちゃんのようには、絶対になりたくない。私は、毎日そう思っていた。だから私は、貫一じいちゃんの死を、何も思わなかった。私は、貫一じいちゃんを軽蔑していたのだ。

 葬儀が終わった次の日、私は、貫一じいちゃんの部屋に行った。貫一じいちゃんの部屋に入ると、カーテンが閉められて暗く、少し埃っぽかった。すでに母が物を少しずつ片付けていたため、部屋の中は整理されていた。私は部屋のカーテンを開け、貫一じいちゃんの敷布団が敷かれていた場所に座った。外から、蝉の声が聞こえていた。私は、部屋を見回した。

 ここで何もせず、42年間も過ごしたのだ。仕事もせず、戦争のことを誰にも話さず、ただ無言のまま・・・・・・。

 ふと開けられていた押入れに目をやった。敷布団がしまわれていたその隅の方に、小さな白い、ぼろぼろの箱が押し込められていた。私は立ち上がり、押入れの方に歩み寄った。そして、その箱を手に取り、ふたを開けた。中には、色褪せた古いノートが出てきた。表紙には「日記帳」という文字と、その下に「本間貫一」と書かれていた。まぎれもなく、貫一じいちゃんの日記だった。私は好奇心から、日記のページをめくった。


 1944年5月26日

 日本軍はインパールで連合軍に苦戦。隊長から具体的な説明は無し。「状況はまだ好転する、日本軍は神風のもと負けない」と鼓舞を受ける。自分は、第8分隊に配属された。このサイパン島で連合軍を阻止することが、我々の任務である。この場所は、何が何でも守り抜かねばならない。命をもって、任務に従事する。日本国のために。家族のために。


 6月5日

 島内で、連合軍へ内応する者あり。これにより、日本人以外を討伐すべく、島内を捜索。

発見した異国人はすべて銃殺。道中、ある小さな集落を軍事拠点とするため占領。近くに防空壕のような穴を発見。中に人の気配がしたので、手榴弾を叩き込む。爆発後、中をのぞくと非戦闘員の女、子どもが大勢死んでいた。

 自分が火をつけた集落の家の中から、老婆が燃えて出てきた。外にあった小さな手おけで水をかけていた。その老婆が自分の母親にそっくりな感じがしていて実に嫌な感じがした。討伐は山賊行為で嫌なことが多い。自分は、とうてい天国へはいけない。そう思った。


 6月13日

 島内を捜索中、連合軍からの空襲に遭った。爆弾が我々第8分隊のすぐ横に落下。猛烈な爆風が襲った。衝撃で意識が朦朧とし、気がつくと地面に倒れ込んでいた。顔を上げると、10メートルほどふっ飛ばされていた。地面には兵車1つ入りそうな大穴が、煙を吐きながら空いていた。隊長が集合をかけたが、2人足りず。周りを探すと、1人は爆風で飛んできた岩が頭に直撃し、頭が無くなっていた。もう1人は爆風で近くの石壁に激突、圧死していた。


 日記には、貫一じいちゃんが経験したことが、実に鮮明に書かれていた。戦争というものが、こんなにも悲惨であったとは思わなかった。このような体験を毎日経験して、果たして人は人のままでいられるのか。私は日記の続きを読んだ。


 6月16日

 連合軍が西岸より攻め込んできたとの情報を受ける。島内の日本人を、近くの防空壕に避難させる。赤子が泣くので、隊長が自分に「黙らせろ」と言った。自分は、その赤子の母親と小さい姉らしき子に「静かにさせろ」と言った。しかし、なかなか泣き止まない。隊長は、再び私を見た。自分は、母親に向かって銃を向けた。そしてもう一度「静かにさせろ」と言った。母親は赤子の首を締めた。その手は、震えていた。しばらくして静かになったが、少ししたら赤子がむせかえっていた。息を吹き返したのだろう。母親は、もうできないと泣きながら言った。そして小さい姉にお願いと言い、代わりに姉が赤子の首に手をかけた。しばらくすると、赤子は動かなくなった。自分は、気がつくと涙を流していた。しかし、すぐにぬぐった。連合軍には、気づかれることはなかった。


 6月20日

 島内を北へ北へ進んでいる中、1つの村を発見した。小さい集落であった。そこにある食料をいただく。その際、その食料の持ち主である男が反抗してきた。島の先住民らしき者であったため、隊の1人が銃殺。すぐ後に、女性と男児が泣きながら倒れた男に近づいてきた。おそらく、その男の家族らしい。男児は、故郷にいる自分の子と年格好が似ていた。

 隊長が自分に、その家族を殺すよう命令した。自分は銃を向けたが、殺せなかった。

 すみません。殺せません。自分にも、故郷にこれくらいの幼い子がいます。自分は、この子を殺せません。

 本音だった。このような幼い子を殺すことなど、もうできない。この人たちは、何も悪くないのだ。

 自分は隊長の命令に背いた。隊長は自分に近づき、自分を蹴飛ばした。度胸のない者め、それでも軍人か。私は隊長に銃を向けられた。自分は、ただ黙って隊長を見つめた。死を覚悟した。しかし隊長は銃を撃たず、他の隊員に男児を殺すよう命令した。その家族は銃殺された。


 6月25日

 最近、夜に眠れなくなっている。うなされることが多くなった。

 国のために、そして愛する者のために、自分は人を殺している。それは、正義なのだろうか。自分には、わからない。自分は、何のために戦っているのか。誰のために戦っているのか。

 自分は、問いたい。人は、なぜ生きるのか。平和とは、一体何なのか。


 7月3日

 連合軍の島内進行に対し、我々は逃れるように森の中を北上。道なき道をすすむ。何日も、まともな物を食べていない。そこらに生えている草で飢えをしのぐ。飲み水も、水たまりをすするのみ。体力の限界を迎えていた。自分は、このまま死んでしまうのか。


 7月5日

 今日は死ななかった。自分はいつ死ぬのか、そんなことばかりを考える。自分は、何のために戦っているのか。明日は、生きているのか。

 

 日記はそこで終わっていた。

 母から聞いた話だが、貫一じいちゃんはその後、連合軍から逃げている最中に神経衰弱による錯乱状態に陥ったという。意識を失い、分隊から取り残された。そして連合軍に捕らえられ、病院に送られたらしい。そして、精神分裂病だと診断された。目の前で、人が死んでいく様子を、何度も見たのだ。何度も何度も。正気でいる方が無理だっただろう。

 その後、日本は敗戦。貫一じいちゃんは日本に帰国した。しかし、日本でも廃人のように無気力となり、結局死ぬまで自身のことを話すことはなかった。

 貫一じいちゃんは、戦争を経験して、心を無くしてしまったのだ。そして抜け殻のようになってしまったのだ。

 日記の後ろの方に、1通の軍事郵便が挟まれていることに気づいた。故郷から貫一じいちゃんに送られた手紙らしかった。中身を確認すると、従兄弟の哲夫さんのことが書かれていた。

 哲夫さんは特攻隊員に選ばれた。その半年後、レイテ沖にて特攻、名誉ある戦死を遂げた。哲夫さんには、婚約者がいた。よし子さんという綺麗な女性だった。よし子さんのもとに、哲夫が見事な戦死を遂げたという便りが届いたという。その後、よし子さんは自決した。哲夫さんの後を追ったのだ。

 哲夫さんの家には、哲夫さんが特攻服を着て笑顔で写っている写真が1枚と、母に向けた手紙が1通あるのみだった。

 日記の後ろにもう1つ、1枚の写真が挟まれていた。入隊当時の貫一じいちゃんの写真だった。精悍な顔つきで、こちらに無言で敬礼をしていた。この後、貫一じいちゃんは想像を絶する体験をすることとなる。そして精神を病み、心を失った。帰国後、家族に何も語ることなく、無言のまま亡くなるのである。

 戦争のさなか、実に多くの人が、日本のために、未来のために犠牲になり、亡くなった。今ある私たちの平和は、このような多くの犠牲の上に成り立っているということを、絶対に忘れてはならない。


 私は、問いたい。人は、なぜ生きるのか。平和とは、一体何なのか。





 この物語は、歴史的事実をもとにしたフィクションです。実在の人物や場所、団体などとは関係ありません。





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無言の敬礼 執行 太樹 @shigyo-taiki

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