蝉を踏む

K.night

第1話 蝉を踏む

ダンッ!



 初めて和馬のその行為を見た時、私は何が起こったのかまったくわからなかった。


 落ちていた蝉はまだ生きていた。和馬の靴の下でジジっと小さく鳴った。



ダン!ダン!!



 その声は和馬にも聞こえたようで、二度三度と、何かの敵のように和馬は蝉を踏みつけた。8月の終わり。まだまだ暑くて、湿度が高くて、外にいる方が閉じ込められる気分になる、そんな夏日。


「ごめん、待たせたね」


 そう言った和馬はいつもの柔らかな和馬だった。道行く人が怪訝な視線を和馬に送っている。私は思わず、さしていた日傘を深くした。何事もなかったかのように和馬が歩いたことがアスファルトに落ちている影で分かった。私は思わず陰についていく。散り散りになった蝉の死骸が彼が何をしたのか物語っていた。和馬の右手が見える。全体的には細身に見えるのに、筋肉質な腕。恐る恐る視線をあげていくと、和馬の横顔がある。涼し気な目元と、薄い唇は微笑していた。早くその唇から、蝉を踏み潰した理由を聞きたかったが、何も語ってもらえなかった。


「ねえ、和馬」


「ん?」


「さっきの、何? その、蝉を潰したの」



 和馬は何も気にしていなかったようで、ああ、と思い出したようなそぶりだった。



「何でって、加代さんはゴキブリが出たら叩き潰さない?」



 ぞわり、と粟立つ恐怖に襲われる。



「やめてよ!叩き潰すとか、絶対無理!!」


「そうか。加代さんには無理か」



 そういって、和馬は笑った。私から見たら常軌を逸していた彼の行動の答えはそれだけだった。あまりにも和馬が気にしていなかったので、白昼夢でも見たのかと思った。けれど、ランチと本屋を回った後、帰り道でも彼は蝉を踏んだ。ダンッ。ダンダンッ。と。夏の夕暮れはやけに遠く感じた。




「いや、もったいないでしょう」


「だけど、なんか怖くて」


「加代~。別れる理由を探しすぎ」



そういってウェッジウッドのティーカップを持ち上げる同期の美津子の髪は、パサついていた。育児はひと段落したが自分に回すお金はあまりないという彼女は、それでも私とランチをする時、いい店をチョイスする。私も一口。美肌の文字に惹かれて、チョイスしたローズヒップティーは思ったよりずっとすっぱかった。40歳を超えて本当にいろんなものが変わった。美津子とは若い時、夜、お酒を入れるまで一緒にいた。今じゃランチが基本。夕方には解散だ。


「加代はさ、結局彼氏なんていらないんだよ」


「何度も言ってるけれど、私は彼氏自体は欲しいんだって」


「久しぶりにできた彼氏にダメ出ししかしないのに? いっとくけど夫婦になったら、ダメなところしか目がいかなくなるんだから」


「見てないからそんなこと言うんだって。怖かったんだから。無表情で蝉を潰すの」


「家にゴキブリが出ても片付けてくれるって話でしょう」


「どうしてそんなポジティブ変換できるかな」


「だって和馬さんが言ってることも私わかるんだもん」


「嘘。なんかDVの匂いしない?」


「しないよ。考えすぎだって。あのさ、私、小学校の頃に、沖縄から転校生が来たの」


「何?急に」


「いや、普通にいい子でね。一緒に公園で遊んでる時にさ、木に止まってる蝉をいきなり捕まえて食べたんだよね」


「何それ、気持ち悪い」


「沖縄にそういう風習があるらしいよ。でも、怖いから止めてって言ったら、普通にやらなくなった。そういう事じゃない?」


「・・・風習とかじゃないじゃん」


「じゃあ、もう別れなよ。それが早い」


「ひどい、美津子」


「だってさ、加代ってばまるで和馬君を検品しているみたいなんだもん。どっか不具合がないか調べまくってさ。かわいそう、和馬君。普通に会社でかわいがられてるのに」


「35歳超えて、結婚してない男性って何かあるに違いないって、美津子も言ってたじゃん」


「言ったよ。ただのノリじゃない。だってお互い様でしょう。加代も結婚してないわけだし」



 美津子の言う通りだ。だから不可解なのだ。同じ会社で働く、年下の男が私に告白してきた理由が。付き合ってからも、和馬はマイナスどころかいたって普通なのだ。むしろ、一緒に本屋に行って楽しむということができる。マイナスどころかプラスしか出てこない。そんな人が私を選んだことが不思議で、だからこそ怖い。ローズヒップティーはどこまでもすっぱかった。



 カランコロン。


 店の高級感に反して、ドアベルはよくある乾いた音だった。太陽が沈むのが少し早くなっている。なんだかんだ一つの店で夕方まで粘ってしまった。後半はいつも通り、美津子の愚痴で終わった。一通り吐き出した美津子は晴れ晴れとした顔で帰っていった。私は喉に何かつっかえたまま。


 電車のホームにで昔の私にすれ違う。今から飲みに行くのであろう若者たち。あの頃、私にはこうあったらいいなと思う未来はたくさんあった。結婚出来たらいいし、仕事がうまくいったらいいし、旅行にだってたくさん行けたらいい。だけどそれを、美津子が私の隣で叶えていく中、私は隣で拍手して終わった。そしたら、ずっとぼんやり一人で生きていくことになった。やがて自分に期待しなくなっていき、楽にはなっていった。不思議なもので積極的に生きようとしなくなると、どうやって死ぬかを考えることが多くなっていった。ホームに入ってくる夕日が眩しくて目を細めると、ダンっと和馬が蝉を叩き潰す音が聞こえた。何度も何度も鼓動のように。


 側にいる人が欲しい。間違いない。和馬といるのは楽しい。間違いない。だから、このくらいのことで揺らぐ自分がどうかしている。私は一体何にこんなに揺らいでいるのだろう。夕日が眩しい。ちゃんと生きているのに。生きてきたのに。


 ホームから出て街路樹が並ぶ帰り道。蝉が落ちていた。周りには誰もいなかった。きっと、死んでいる。ダンッと踏みつけた。ジジっとパンプスの下でかすかな震えを感じた。

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蝉を踏む K.night @hayashi-satoru

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