夢から届ける、シアワセ吹雪。
みこと。
全一話
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!
知らない場所を、僕は必死で走っていた。
どこにも明かりはない。
だけど道は見えるから、不思議だ。
後ろからは大きな黒い影が追いかけて来て、振り返ると深海魚みたいなむき出しの目玉が、ギョロリと動いて僕を見た。
(ひえっ)
いつまで逃げればいいんだろう。
どこまで逃げればいいんだろう。
隠れる場所は、見当たらない。
「だ、だれか」
声がこぼれて、
「誰か助けて──!!」
上を向いて大声で。叫んで僕は、目が覚めた。
「どうしたの? アサヒ?」
寝ぼけた声で、半身を起こしながらママが聞いた。
隣の布団にぬくもりを感じ、夢だったんだと思いながらも怖さが抜けない。
「怖い夢、みた」
「そう……。平気よ、平気。夢だから大丈夫」
ママの声は眠そうに、再びまどろむ。
「そっち行って、いい?」
「……もう六歳でしょ」
「ママぁ。怪物が追いかけて来るんだよぉぉ」
「ママ明日も早いのよ。ほら」
ママはそっと手を伸ばしてくる。
握って寝ていいってことかな?
僕も手を出すと、見えない何かを手渡す真似をされた。
「? なに?」
「夢の中で使えるお金。今度何かに襲われたら、それでボディガードを雇いなさい……」
「えっ?」
「……」
もう言葉は聞こえなかった。ママが夢の世界に戻ってしまって、僕は取り残されたのだ。
「ぇぇえ……。怖いのに……」
震えながら布団に
僕の家は、パパ、ママ、僕の三人家族だ。
パパは忙しくて、出張、残業、あれこれ。
殆ど家に帰って来ない。
いつも僕はママとふたりで過ごしていて、たまに深夜、帰ってきたらしいパパとママの声が、聞こえてくる。
険しい言葉が飛び交って、穏やかじゃない空気がリビングに満ち、僕は寝室で身を縮める。
耳を塞いで布団に沈むと、今夜もお決まり、悪夢の始まりだ。
「まただよ──!!」
今度は緑の服を着た小人たちが、大勢で追いかけてくる。
昼は学校で、夜は夢で、こんなに走ったら僕はすごいマラソン選手だ!
逃げながら、僕は気づいた。
(そうだ、ママから貰ったお金)
夢の中で使えるお金。
僕はそれを持ってたんだ!
後ろポケットを探ると、紙の束が掴めた。これだ!
「ボディガードの人ぉぉぉ! 僕を助けて──!!」
それはもうヤケクソだった。
掴んだ束を掲げて呼ぶと。
「飛べばいいんだよ」
知らない声が、突然聞こえた。
「へ?」
「ここはお前の夢だろ? 思い切り望めば、自在に動ける」
声のほうを見上げると、ふわふわと男の子が浮いている。
どこか外国の服を着て、初めて会う子だった。
「き、きみはだれ?」
「今お前が雇ったろ? ボディガードのフローさ」
(! ママがくれた夢のお金、本当に使えた! でも)
「フロー? それって名前? ボディガードなのに助けてくれないの??」
不満いっぱいに口をとがらせると、フローが答えた。
「必要ないからな。ここはお前の夢だ。この夢の世界で最強なのは、お前だよ」
「僕?」
「気づいてなかったのか? ほら、思い切り念じろ。飛べ、って」
「う、うん!」
後ろの小人たちには捕まりそうなくらい近づかれてたけど、僕はぐんと念じて地面を蹴った。
途端に、風に運ばれた木の葉みたいに、僕の身体は勢いよく空に舞い上がる。
ヒョオッと高く上がりすぎて、あわてて急ブレーキをかけたくらいだ。
フローが追いかけてきた。
「なっ。あいつらは飛べない」
言われて下を見ると、小人たちが取り残されて、キーキー騒いでいるようだった。
「ほんとだ──!」
「簡単なことなんだよ」
「うん。ありがとう、フロー」
僕は改めてフローを見た。
同じ年か、少し年上くらい。
ニカッと笑ったフローは、前歯のすぐ横の歯が抜けていた。
そこの歯、僕はまだ子どもの歯のままだ。こないだ前歯が生え変わったばかりだから。
(子どもで、ボディーガードなのかぁ)
どこから来た子なんだろう。僕の夢の中だから、僕の中???
「せっかく飛んでるんだし、このまま月まで行って、お菓子食おうぜ」
「えええ?」
「ほら」
フローが指差すと、宇宙に浮かぶ三日月型のソファーでは、ウサギがお団子を持って手招きしてた。
なるほど、間違いなく夢だ!!
僕とフローはふたり並んで腰かけて、ウサギからお団子とお茶を買った。
支払いに、夢で使えるお金を渡す。
僕のポケットには、"夢で使えるお金"がまだたくさん入っていて、使っても使っても減ることはないみたいだった。
お札の絵がどんな絵なのか、はっきりわからないのは、取り出すたびに絵が違うから。
いまは月とウサギの絵になっていた。
お札は満月が真ん中で、横に数字っぽい記号が並んでいる。
何円かとか、わかんない。
わかんないけど、まあ、いいか、と思った。
フローも満足そうにお団子を頬張っている。
「
いまアサヒって呼んだ?
「どうして僕の名前を知ってるの? まだ言ってなかったよね?」
「そりゃわかるだろ。お前の夢に出てくるヤツらは、俺を含めて皆、お前の名前も、誕生日も、お前がいつまでオムツつけてたかだって知ってるぜ」
オー、ノー! 個人情報ダダ漏れだ!!
オムツの記憶なんて、僕にもないのに。
「もしかして僕のこと、なんでも知ってる? パパとママのことも」
「もちろん」
「……ねえフロー。相談したいことがあるんだけど、いいかな」
フローは返事の代わりに、じっと僕を見つめてきた。
僕はポツリポツリと話し出す。
「ママね、パパと"りこん"を考えてるんだって。"りこん"って結婚の逆でね、ふたりが別れちゃうことなんだ。紙に名前を書いて出したら、"りこん"がセイリツするって」
僕はどちらかと暮らすことになる。
たぶん、ママ。
だって僕は、ママから離れたくない。だけど。
「パパとママが一緒じゃなくなるの、嫌だよ。今だってあんまり会えないけど、もっとパパに会えなくなるなんて、そんなの、嫌だ。ふたりが、仲良くしてくれてるのがっ、一番良くて……っ」
ぐすっ。ぐすん、ぐすん。
いつの間にか、僕は両手で涙をぬぐう程、ビチャビチャに泣いていた。
鼻水をすすりながら、服をめくって、顔を拭いた。
フローは最後のお団子を口に放り込むと、言った。
「なあアサヒ。夢と現実は地続きだって、知ってるか?」
「地続き?」
「つながってるってことだ」
「???」
「たとえばお前が、両親を離婚させたくないなら、この場で離婚届を破るといい」
「離婚届?」
「さっき言ってた、名前書く紙だよ」
「でもそんなの、僕見たことない……」
「関係ない。"手の中に来い"と念じてみろ」
「う、うん。やってみる」
集中した僕の手に、緑色で印刷された紙があらわれた。
やっぱり読めない不思議文字と、いくつかの枠が並んでいる。
「これ?」
「そ。それ。思い切り、びりびりに破ってやれ。"僕は断固反対する"って」
「えっ……」
「さあ早く。夢が終わる前、お前が目を覚ますまでに」
「あ、う、うん!」
フローに促されるまま、僕は紙に手をかけた。
「ふたりの"りこん"、僕は断固反対する!」
びりっ、びりびり、びり……!!
音を立てて、紙が細かく千切れていく。
同時に破れた紙片は、宙に舞って、そして。
「わあ……。花吹雪みたい……!」
真っ白い花びらが一斉に舞うように、風に乗って飛んでいく。
「夢占いでは、《花吹雪》は最高の瞬間が訪れる暗示だ」
フローが僕を見て、優しい声で言った。
「んっ? んん? 夢占い?」
「特に白い花の花吹雪は、幸運が待っている証」
「……幸運……」
「夢には
そう言ってフローは、抱えきれないほどの札束を見せてくれた。
両腕から零れそうな、"夢の中で使えるお金"。
僕のポケットに、そんなに入ってたっけ?
「お前のママ、愛情深い人だな。この通貨、単位は"アイ"って言うんだぜ」
フローが片目を瞑って、ご機嫌にニヤリと笑った。
「こんな愛に溢れた人と別れる男は、よっぽどの大馬鹿者さ。念のため、俺からもアサヒの両親に釘を刺しておいてやるよ。安心して、起きたらいい」
「うん。うん、ありがとう! フロー!!」
そう言った僕は、とても良い気分で目を覚ましのに。
どうして。
どうしてパパとママは深刻な顔をして、テーブルで向かい合っているの?
眠ってる時、僕は本当に泣いていたらしい。
涙の跡が残る顔で起きていった僕がリビングで見たのは、
フローが言ったのに。
保証するって。幸運が来るから、大丈夫だって。
なのに。
「もう無理だわ。限界よ。別れましょう、私たち」
どうしてママは、そんなことを言ってるの?
これはまだ、夢の続き? 僕はまた悪い夢を見てる?
僕の夢だったら、僕が念じたら思う通りになるはずなのに、ママは僕の心を無視して、そっとテーブルの上に一枚の紙を置いた。
("りこんとどけ"だ……!)
「これは本気か」
「ええ、よくよく考えた結果よ」
「…………」
パパは紙を見てじっと黙っている。
(嫌だ! 嫌だよ、パパ、断って! ママに"りこん"なんてしないって、そう言って!!)
僕はきっと真っ青で。声を出して止めたいのに、身体が全然動かない。
パパ、ママ、僕はここにいて、見てるよ!
起きてるんだよ!!
僕に気づいて、声をかけてよ。
そしたら僕、"りこん"なんてやめてって、言うから!!
なのにちっとも。
パパもママも僕に気づかず、お互いだけを意識している。
パパが重い口を開いた。
「だが…………」
「ショウゴさん、ちっとも帰ってこないし。忙しいのはわかるけど、家のこともアサヒのことも、何もかも私任せで、話さえろくに出来ない。そんなの夫婦って言える? こんな関係を続けても、お互い消耗するだけだわ」
「それは……。でも、ユウカ、この書類は……」
パパが、戸惑うように言った。
「
「え?」
「えっ」
ママと僕の声が重なる。
「ほら」
パパがママに、紙を指し示す。
僕もあわてて、テーブルに駆けつけた。
「アサヒ?!」
「起きてたの?」
「"こんいんとどけ"って? 結婚するって紙?」
そうして僕たちは三人で書類を見つめて。
「…………」
「本当に、婚姻届だわ! どうして? 私確かに"離婚届ください"って市役所で言ったのに」
僕に難しい漢字は読めないけど、赤茶色に印刷されたそれは、ふたりによると"こんいんとどけ"らしかった。
「こんなことってある……?」
気が抜けたようにママは茫然として、そして急に、クッと肩を揺らした。
そのままお腹を抱えて笑い始める。
「あは、は、なんで? 私、職員さんに幸せそうに見えたのかしら?」
「ママ?」
「俺が悪かった!!」
そのタイミングで、パパがテーブルに両手をついて頭を下げた。
「まさかユウカがここまで思い詰めてたなんて、気がつかなくて! 心から謝る! 仕事のほうも、何とか掛け合って、もっと家族との時間が取れるよう調整して貰うから! 離婚の話はなかったことにしてくれ。もう一度、もう一度結婚するつもりで、やり直して欲しい!!」
それは、土曜の朝を迎える前の、ほんの一幕。
不思議なことに、ママが用意した用紙は婚姻届で、パパとママは離婚を思いとどまった。
パパはママに約束したように、僕たちのために時間を割いてくれるようになり、家族の仲は良好だ。
今日は皆で、笑いながらご飯を食べた。
花吹雪が舞うように、最高の時間。
もう夜中に、喧嘩の声が聞こえてくることもない。
僕は、怖い夢を見なくなった。
もし見ても、僕が勝つ。
フローにはもう一度会いたかったけど、あれから僕の夢に出てきてくれることはなかった。
代わりにいろんな動物があらわれ、一緒におやつを食べたりする。
夢で"想い"は、いろんな姿をとるという。
だからもしかしたら、いま僕と綿菓子を分け合っている白い犬は、フローかも知れない。
今日あたり、月に行ってみようかな?
思い出の、お団子を食べに。
空には輝く星たちが、今日も満開で咲いていた。
─おしまい─
夢から届ける、シアワセ吹雪。 みこと。 @miraca
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