そうしてそれから

驢垂 葉榕

第1話

 ”エリーゼのために”が聞こえる。回る赤い警告灯と血に染まった持ち場、倒れ込んだ地面に血だまりが広がっていく。何かが抜けていくような感覚と一緒に少しずつ視界が暗くなっていく。作業着の灰色と機械油の黒と血の赤。境界と音が消えていく。やがて意識は暗転した。

 「次はびわ湖浜大津、びわ湖浜大津、終点です」

 アナウンスに起こされ目を覚ます。寝ていたらしい。半年前の事故の夢だった。頸動脈を切って意識まで失ったが、どこか欠損したとか動かなくなったとかそういうのはなかった。入院で仕事に穴は空けたが許容範囲だったし、元気もあったから謝りに来た工場長が不憫なくらいだった。

 話が変わったのは退院と職場復帰が翌週に迫った夜、夢で”エリーゼのために”が聞こえてきた。そしたら急に空虚な気持ちになった。朝起きて仕事を辞める電話をした。課長は困ってそうだったが事故の大きさと暇な時期だったのもあって意外とすんなりまとまった。

 それからはずっとそんなだった。何か決意や衝動を覚えるたび脳裏に”エリーゼのために”が響いて、何もやる気がなくなってしまう。気づくと半年たっていた。貯金も減ってきたのでなんとなく実家に戻ることになった。

 最寄りの駅で降りるとすでに母が迎えに来ていた。二、三世間話をして車に乗り込む。正直な所、何もしていなかったので話すことがない。親子仲は悪くはなかったがいい年したニートだ。母も困っているようだった。

 家賃を節約するために実家に帰ってきたが変わらずやることなどない。もともと無趣味だった。親が働いてる時間に散在するのも違う気がしたので、金のかからない施設を日がなふらふらしていた。はじめは図書館に行った。好きだった文豪の本を見つけて、いっそ既刊を読み切ってみようと思った。”エリーゼのために”が聞こえた。次は河川敷に行った。運動不足解消に少し走った。運動も悪くないと思い始めた時、マラソン大会の張り紙を見つけた。”エリーゼのために”が聞こえた。やがて行く場所もなくなって今はショッピングモールをうろついている。

 ショッピングモールの吹き抜けを見下ろしながら考える。一階では、誰でも弾けるピアノが誰にも顧みられず鎮座していた。このまま何も為せないまま空虚に死んでいくのだろうか。それならいっそこの吹き抜けから飛び降りて、あのさみしげなピアノを道連れに何も終わらせてみようか。そんなことを考える。思い切って重心を吹き抜けの方へ寄せるとまた”エリーゼのために”が聞こえた。

 「大丈夫ですか?」

重心を戻そうとしたとき不意に肩を掴まれて大きく引き戻される。見ると若者だった。大学生くらいだろうか。俺よりだいぶ若いはずなのに大人びて見えた。

「すいません。なにかこう,,,思いつめて見えたので」

「いや、大丈夫です。何もする気はなかったので。......何をする気も、持てないだけなので」

「ならいいんです。ただ...もし良ければ少し話しませんか?そうした方がいいように見えます」

 奇妙な男だと思った。平日昼間のショッピングモールをうろつく中年男など誰も顧みない。それなのに気付けばベンチに並んで座って話をしていた。

 「自分でも変な話だとは思うんです。......半年前からある音楽が染みついて離れない。”エリーゼのために”です。それだけです、なのに何もできない。何かしようとするたびに”エリーゼのために”が流れて、やろうとしたことが無意味なものに思える。趣味はもとからありませんでした。仕事も、やめてしまいました。何か生きてる意味が欲しくていろんなことをやりました。でも結局、全部空虚だった。教えてください。意味あるものって何ですか?生きることに意味なんてあるんですか?」

 縋るようにそこまで吐き捨て横を見ると、そこには誰もいなかった。下からピアノの音が聞こえてくる。吹き抜けから覗くと彼が"エリーゼのために"を弾いていた。見事な演奏にもかかわらず、足を止める人は誰もいないのが不思議だった。エスカレーターを駆け下りて、特等席に腰を下ろす。なぜか涙が出てきた。思わず顔を伏せる。声がする。

「人生に意味などないですよ。少なくとも、僕が教えられるようなものは。もっと言えば真に意味のあるものなど何もありません。あなたが決めてください。なにに意味があるのか。あなたの人生に意味があるのか」

 演奏が終わる。長く苦しめられてきたこの曲を最後まで聞いたのはこれが初めてだった。顔を上げるとそこには誰もいなかった。

 次の日、俺は彫刻でも初めてみようと木と入門書を買っていた。彫刻刀は学生時代の物を引っ張り出した。昨日の出来事が本当にあったことなのか、それすら俺にはわからない。また”エリーゼのために”が聞こえだす。今度は、最後まで。これはきっと同じものじゃない。少なくとも俺にはそう聞こえる。もうあの日までの呪いは、あの空虚は、聞こえない。

 

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