うつつの夢

 川沿いの土手は、今までに見たことがないほどに、人やレジャーシートで覆い尽くされていた。かろうじてふたり分のスペースを見つけ、並んで立つ。滴る汗を手の甲で拭いながら、左を見下ろす。


 あめは、ここへ歩いてくる間も、ひとことも言葉を発さなかった。僕も、なにも話さなかった。でも、その沈黙は寂しくなどなかった。こんな僕たちは、周りからはどんなふうに見えているのだろう。花火大会の開始を告げるアナウンスが響き渡り、人の密度が一気に上がる。一発目の開花と共に、肩と肩が触れ合った。


「……きれい」


 どよめきに混ざり、あめが小さく呟く。


「……うん、綺麗だね」


 音が、直接身体の芯を打ちつける。手を伸ばせば届きそうなほど近くに、咲いては消え、咲いては消えていく。僕が見たかったもの。あの日、あめと一緒に見たかったものが、今、ここにある。噴き出す炎が水面を黄色く輝かせ、沢山の花が、まだ若干明るい夜空を鮮やかに彩る。次々と上がる花火の音に紛れて、心臓が、胸を大きく殴り始めた。


 空を見上げたまま、静かに、手だけを動かす。熱く、脈打つものに触れた。細い小指を絡め取る。そのまま、他の指も優しく包み込んでいく。しかし、あと少し、もう少しのところで、あめは逃げてしまった。


 慌てて首を回す。あめの視線は変わらず空に向けられ、その唇は僅かに震えている。


「あ、あの––––」

「あの日、六年前の、あの日」


 こちらの言葉を遮り、あめが声を張り上げた。


「わたしのこと、好きって、言ってくれてありがとう」


 胸の中に溜まっていたものを吐き出すように、苦しそうに喉を絞る。


「わたし、結婚するんだ」


 話し声、誰かの咳、衣擦れ、自分の呼吸、そして花火の音ですら、僕を取り巻く全てが、ヴェールをかけられたように遠のいていく。あまりの衝撃に飛び出した疑問の言葉は喧騒に掻き消され、あめに届くことはなかった。


「本当は、もっと早く言うつもりだったんだけどさ、どうしても、言えなくて」


 きっともう、彼女に僕は見えていない。こちらが何も言えないまま、ひとりごとのように、そして自分自身に言い聞かせるように、あめは淡々と続けていく。


「大丈夫、わたしは、ちゃんとあの人のこと、あ、あいしてるから、だいじょうぶ」


 ふと見ると、左手の薬指にシルバーに輝く指輪がはめられていた。全く、気が付かなかった。それを撫でながら、でもね、と喉を詰まらせる。


「あの人、わたしのこと『シオン』って呼ぶんだよね。わたしの名前は、あめなのに」


 瞳の中で、クライマックスへ向けて色とりどりの光が泳ぎ、ぽつりと一粒、あふれて溶けた。


「ほんとに、ごめんね。なんか、あやまってばっかりだな」


 彼女との間に、ううん、そんなことないよ、と自分でもよくわからないつぶやきをこぼす。


「……その、結婚のことを伝えに、わざわざきてくれたの」


 ここへ来て初めて、あめがこちらを見てくれた。悲しいような、嬉しいような。めちゃくちゃで、今にも壊れてしまいそうな顔。しかしそれは一瞬で、濡れた瞳は再び、空へと向けられた。


「……一回でいいから、陽葵と一緒に、この花火が見たかったんだ」


 どん、と一際大きな余韻と共に、最後の花火が金青の空いっぱいに咲いた。幾千、幾万もの光が滴り、ゆっくりと煙に消えていく。


 今日初めて、名前を呼んでくれた。初めて、あめのあんな顔を見た。僕も一緒に見たかった、なんて言ったら野暮だろうか。まだここに居て、なんて言ったら卑怯だろうか。麻痺した鼓膜がノイズを捉え、まだ花火の跡を残す頭上を仰ぐ。


 ああ、やっと、長い夏が終わる。たったひとつ、言うべき台詞は声にならず、頬を撫でる風に溶けていった。

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太陽よりも欲しいもの 藤咲雨響 @UKYOfujisaki_0311

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