とばりの内側
太陽は既に、西へ傾き始めていた。ようやく支度を終え、家を飛び出す。風呂に浸かる、髪を洗う、髭を剃る。その一連の動作の全てで、スクラッチを少しずつ削るように昔の記憶が湧き上がり、思ったより時間がかかってしまった。
歪んだミラーのある角を曲がり、ほとんど車の通らない細い道の赤信号を走り抜ける。身体は、ちゃんと覚えているらしい。喉は燃えるように熱く、足は重く張り付くように地面を蹴っていく。そうしていると、苦しくもあの日の背中を追いかけているような心地がして、自然と頬をあたたかい液体が流れていった。
喫茶『ひぐらし』。まさに、僕たちのためにあったと言っても過言では無い、青春の詰まったその場所は、六年前と変わらず、住宅街に紛れてひっそりと佇んでいた。ノブに手を掛け、扉にはめ込まれた窓に映った自分を睨む。乱れた髪、自信なさげに下がった眉、激しく動く肩。そこには、六年前と変わらない自分の姿があった。そう、なにも変わっていない。僕らは、なにも変わっていないはずだ。
大きく息を吸い込み、カランカランとベルを鳴らす。右の手のひらの刺すような痛みに歯を食いしばりながら、薄暗い店の奥に目を凝らしてみる。すると、あたたかな日の差す四人がけテーブル、懐かしい場所に、あめを見つけた。すりガラスのはっきりしない向こう側の景色を、ぼんやりと眺めている。届かないとはわかっていても、小さくあめ、と呼びかけてしまう。その響きは不思議なほどに舌に馴染んで、音となって口から出てしまうのが惜しい。呼吸を整えつつ、ゆっくりと向かっていくと、ふと目が合った。久しぶりに笑顔を作ってみると、頬や口の端が妙に引き攣っているのを感じた。
「遅くなっちゃって、ごめんなさい」
「ううん、大丈夫。来てくれて、ありがとう」
椅子を引き、そっと腰掛ける。あめの目の前に置かれたコーヒーカップは静かな水面をたたえており、立ち昇る湯気は見当たらない。
「改めて、ごめんなさい。急に帰ってきて––––その、急に、居なくなって」
なんとなく座り直していると、あめが再び、軽く頭を下げた。金色の髪が、さらさらとテーブルをこする。顔あげてください、と既視感のあるやりとりを繰り返し、ふたつの目がこちらを覗いたところで、次は僕が、額がテーブルにぶつかるほどの勢いで頭を下げた。
「僕も、ごめんなさい。ぜんぶ、無かったことにしたくて、今まで忘れたふりをしてました。ほんとうに、ごめんなさい」
わずかに震える膝をぎゅっとつかむ。目の前いっぱいに、ぼやけた木目が広がる。ゆったりとした店の音楽と共に、あめの言葉が鼓膜を揺らした。
「……私には、謝られる理由なんて無いよ。むしろ、わたしが一生謝り続けても足りないくらいだから」
ね、と吐息混じりの声が頭に降りかかり、おずおずと顔をあげてみる。そんなつもりでは無かったのに、随分と気を遣わせてしまったな。焦点を迷子にさせたまま、なんかすみません、と背中を丸めた。
「ていうか、今更敬語なんていいよ。高校の時みたいに、普通に話してくれたら嬉しい」
ふつう、と覚えたての言葉を繰り返す小さな子供にも似た単純さに、我ながら呆れてしまう。普通。それが、しばらく人と話さないうちに、わからなくなりつつあるのだ。まして、相手があめだと言うなら尚更だった。
「ど、どりょくします」
「ほら、また敬語じゃん」
あめが眉をハの字に下げて、緩く口角を上げる。じっとりと汗の滲む手のひらを揉み合わせると、右手の肉厚な部分がちくりと痛んだ。
「ど、どうしたの? 怪我でもした……?」
あめが俯いた顔を覗き込んできた。
「ああ、これ。多分、鏡の破片が残ってるん……だよね」
なにそれ、大丈夫なの、とまるで自分も痛いみたいに顔を歪めて、他人の傷を心配する優しさ。一見どこにも跡は見当たらない手のひらを撫でながら、適当に返事をしておく。ついさっきこの痛みに気づいた、なんて言えない。
あめが去ってから、もうどれだけの時間が経ったのか見当もつかない。庇を打ちつける音が耳をくすぐり、湿った匂いが肺を満たす。真っ黒に塗りつぶされた空には当然、花火が上がるはずも無く、降り落ちる雨は、その強さを増したようにすら思う。幸い、母は明け方までパートがあるため、すぐに家に帰る必要も無い。それでも、ふと思い立って、幾千もの白い筋の下に歩き出してみた。
水の粒が髪の中で蠢き、こめかみの辺りから流れて落ちる。生ぬるく、気持ちが悪い。それでも、身体に纏わりついていた不安や後悔が濡れて溶けていくようで、心地良かった。
家に入り、パタリとドアを閉めると、それまですぐそばにあった雨の音が遠のいて、急に静かになった。電気をつけるのも面倒だ。濡れた服はどうしようかとなかなか働こうとしない頭で考えながら靴を脱ごうとすると、ポケットの中のスマホが立て続けに着信音を鳴らした。少々の煩わしさを抱え、メッセージアプリを開く。そこには、郡司と蘭堂から、それぞれ個別にメッセージが送られてきていた。霞む目を擦り、先に郡司とのチャットを開く。
『紫苑が、アメリカ行くって。あさって』
は、と喉から情けない声が漏れた。すぐさま蘭堂からのメッセージも確認する。
『今さっきひぐらしで雨宿りしてたわたしたちのところにずぶぬれのてんてんがきて、お父さんの転勤であさってアメリカに行くって話聞いたんだけど日向は聞いてる?』
そんなこと、ひとことも聞いていない。震える指で『ひぐらし隊』のグループチャットを開くも、最後のやり取りは一昨日、僕が送った了解、の二文字だった。読み間違えではないか、文面が変わりはしないかと、ふたりからの情報を交互に何度も目を走らせる。なにも変わらなかった。暗闇に浮かび上がる四角い光に吸い込まれるように、頭が、顔が、熱を帯びていく。
あめがアメリカに行ってしまうなんて、全く聞いていない、知らない。今日だって、いつもと変わらず楽しそうに笑っていたではないか。そんな素振りなど、少しも見せなかったではないか。何故、僕には直接話してくれなかったのだろうか。ずっと、一緒にいたのに––––様々な疑念が渦巻く中で、突如あることが頭をよぎった。不意に、声が重なったあの瞬間。きっとあめは、このことを言おうとしていたに違いない。それなのに、僕の取るに足らない告白なんかのせいで、その機会を奪ってしまった。あめの覚悟を、無かったものにしてしまった。結局、全部僕の所為ではないか。
「好き」だなんて、言わなければ良かった。
ふと、立てかけられた鏡の中の自分と目が合った。丸まった背中、だらしなく垂れ下がった両腕。髪は張り付いて水が滴り、足元は濡れて小さな水溜りをいくつも作っている。スマホの光に照らされて、ぼうっと浮かび上がった自分のその姿に、沸々と煮えたぎる嫌悪感と怒りとが込み上げてきた。
ぷつり、と音がして、自分の中のなにかが切れてしまった。次の瞬間、咆哮と共に耳をつんざくような甲高い破壊音が狭い玄関ホールをいっぱいに満たした。
「……いってぇ」
気がつけば、床に倒れ込んでいた。握りしめた右手の拳のあちこちから黒い液体が細く流れ出し、至る所で痛みが弾ける。地面に散らばった破片が微かな光を乱反射して、無情にも美しく見えた。
「本当に、大丈夫なの」
あめの声で再び、現在に引き戻された。これほどのことを今まで忘れていたなんて、馬鹿にも程がある。こんなに、痛いのに。気を抜けばまた歪んでしまいそうになる顔を上げて、もう一度、大丈夫だから、と念を押した。
「それより、どうして帰ってきてくれたの」
話題の転換を試みる。あめはテーブルの際で手を何度も組み直しながら、しばらく唸った後で、気まぐれかな、と呟いた。それ以上のことを話してくれそうな気配は無い。次の話題を探すべく、オーバーヒートしかけた脳を最大限に働かせる。
「こ、コーヒー、嫌いじゃなかったっけ。飲めるようになったんだ」
不自然に、声がうわずってしまった。目線で彼女のカップを指し示す。すると、滑らかな水面を見つめながら、ぽつりぽつりと口を開いた。
「わたし、向こうでずっと、カフェでバイトしてたんだよね。そうしたら、嫌でも飲むようになった、かな」
華奢な肩を更に縮こませる。
「他にすること無くて。シフト入ってない時でも入り浸ってたし」
「ほ、他にすること無いって……?」
口に出してしまった後で、自分の図太さを恨んだ。流石に、デリカシーが無さすぎる。前言の撤回を申し出ようとすると、僅かにあめの方が先に声を発した。
「大学、行かなかったんだ。だから、ずっと暇だったの」
なんとなく、そんなような気がしていた。
「そう、なんだ……あめは頭良かったし、海外の大学だって行けちゃうんだろうなとか、勝手に思ってた。ごめん、言いにくいことだっただろうに」
あめは虚空を見つめたまま、誰に、というわけでもなくふっと微笑んで、小さく首を振った。あめがここまで話してくれたのだ、次は僕の番であることは明白だった。
「……実はさ、一応、大学、受けたんだけど、どこも受からなかったんだよね」
少しづつ、胸の奥底に閉じ込めていたものをほぐし、言葉を紡いでいく。
「浪人するか迷って、結局フリーターになったんだけど、どうしても、全然仕事続かなくて。半年前に、最後のバイトがクビになって、今は親の脛齧りニートをやっているという次第です」
改めて声に出してみると不甲斐無くなって、堕落した人生もいいとこだよね、と付け足す。あめは、表情をほとんど変えずに、話してくれてありがとう、とだけ言った。
どこかむず痒い心地がして、慌ててメニューを確認してから、ピーチティーを注文した。甘い香りを引き連れたカップがすぐさま運ばれて来て、ゆらゆらと昇る湯気に顔を埋めながら一口啜る。あの頃と変わらない、豊かな味わい。淡い懐かしさを舌で転がしていると、ポケットに押し込んだスマホが震えた。
「あ、そうだ、郡司と、蘭堂からニュースあるんだ」
カップを置き、メンバーが三人になってしまった『ひぐらし隊』のチャットを開く。あめが、目を細めて寂しそうに言葉を溢す。
「まだ、連絡取ってるんだ」
「ほんとに、たまにね……って言っても、僕から送れるものはなにもないんだけど」
そこには、ふたりのツーショット写真と、「紫苑帰ってきてんの! 会いたかった!」「うちらひと足先にハネムーンなう。行けなくて悲しい(泣)」と騒がしい文面が積まれていた。写真をタップし、あめに見せる。
「さっき、あめが帰ってきたって連絡しておいたんだけどね、すぐには帰れないから寂しいって。会いたかった、ってさ」
「そっか。鈴乃も郡司も、変わってないなあ」
どこだかよくわからない場所を背景に、仲良くポーズをとっているふたりを眺め、あめが顔を綻ばせた。
「あのふたり、結婚するそうです。冬辺り、式挙げるって」
自分のことでもないのに、自慢げな顔をしてしまった。あめは結婚、と呟き、手を隠すように膝の上に置いて身を乗り出した。思っていたよりも、反応が薄い。目を大きく見開く彼女を横目に、ふたりに楽しんでね、と当たり障りのない返信をすると、速攻であめの写真を送れと催促が飛んできた。仕方なくその旨を伝えると、あめは眉を困らせつつも承諾してくれた。テーブルの中央に腕を伸ばし、さりげなく僕も映り込む。あめにお礼を述べ、不器用な僕らのツーショットをチャットに投下すると、ふたりから交互に感激の言葉やら愛の言葉やら、時々僕に対するツッコミやらが目まぐるしく連投された。ふたり一緒にいるのだから、別々に感想を送りつけてこなくてもいいのに。連投は止まりそうに無いので、震え続けるスマホをポケットに押し込んだ。ひとつため息をこぼし、ぬるいピーチティーを口に含む。落ち着いてから、自分のカップを睨み続けているあめに言葉を投げかけた。
「……これじゃあ、『ひぐぐし隊』になっちゃうね」
ほんとだね、とあめは寂しそうに言った。
四角い窓が橙に染まり、その色を暗く変えていく。そろそろ帰ろうか、と問いかけると、あめは小さくうなづいた。最後まで、コーヒーには一度も口をつけなかった。
奢る、なんて張り切ったというのに、薄っぺらい財布には小銭が九九円しか入っていなかった。結局あめに全額払ってもらい、情けなさに打ちひしがれていると、レジを打つマスターの後ろの壁に、花火大会のポスターが見えた。
スマホを出し、日付と時間を確認。今日、開始は一一分後。これがきっと、僕に与えられた最後のチャンス。
会計が終わり、あめがこちらを振り返った。物憂げに光を湛えた瞳が見上げてくる。薄く開いた唇は見えないふりをして、吠えるようにあめ、とその名前を呼ぶ。
「花火大会、行こう。今から」
なんて格好悪い誘い文句なんだ。それでも、この世界でたったひとり、あめの髪を揺らし、頬を染めるのには十分だった。
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