でたらめじゃない

 威勢よく豪語した割に、二時間もしないうちにふたりは仲良く眠りの世界へ引き込まれていった。


「寝ちゃったね」

「ほんとに。真剣に聞いてるなって思ったら、郡司なんて目、開けたまま寝てたし」


 その姿を思い出し、つい笑ってしまう。この技できっと、彼は授業を乗り切っているに違いない。 


「……なんか、ごめんね。陽葵の勉強会だったのに、あんまり教えてあげられてなくて」


 気持ちよさそうに寝息を立てる郡司に視線を向けたまま、あめが肩をすくめた。反射的に、「いや」の二文字を連呼してしまう。


「全然、大丈夫。夏休み前だってこうやって四人でよく集まってたし」


 湿ってきた手のひらを、パンツに擦り付ける。


「ていうか、ありがとう。あめも忙しいだろうに、わざわざ付き合ってくれて」


 あめが首を横に振る。なんだかくすぐったい気持ちになって、立てて置いてあったメニューを乱暴につかんだ。


「喉乾いたよね。なんか、追加で頼もうか。コーヒーでいい?」

「ちょっと、わたしがコーヒー嫌いなの知ってるくせに」


 空いたカップをテーブルの端に寄せ、マスターを呼ぶ。気づけばお昼の時間を過ぎていたようで、一緒にパスタやケーキも注文した。



 あめが好きだというピーチティーは、思っていたよりも甘かった。桃の芳醇な香りが肺を満たし、紅茶特有の苦味と溶け合う。目の前で、あめが、嬉しそうに笑っている。確かにこれは、美味しいかもしれない。


 メニューはどれも学生にも優しい価格設定で、追加料金なしで大盛りにすることができる。あめはこのサービスの常連だった。細い身体のどこへ消えていくのだろうと不思議なくらい、たっぷりと美味しそうに食べる。


 次第に、無かったことにしようとしていた昨日の決意が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。言うなら、今しかない。


「あ、あの、ひとついいかな」


 皿に残ったマッシュルームをつつきながら、顔色を窺う。目が合った。口を控えめに動かしながら、こちらをじっと見据えている。


「……な、なんで『てんてん』って呼ばれてるの」


 逃げてしまった。やはり、言えない。あめが、そっと紙ナプキンで口元を拭った。


「わたしの名前、『天』って書いて、『あめ』って読むでしょ。だからじゃないかな。可愛くて気に入ってるよ」


 あめがどこか寂しそうな顔をしながら、空いた皿をテーブルの端に寄せる。


「あ、もしかして羨ましかった? いいよ、陽葵も『てんてん』って呼んで」


 羨ましくなんかない。むしろその逆だ。あめのことを、“あめ”と呼んでいるのは、僕しかいない。


「でも、あめはあめじゃん」


 そんなことで浮かれても仕方がない。自分に対する腹いせのように言い捨て、思い切って、マッシュルームを口に放り込む。フォークをそっと皿に置くと、あめが改まって背筋を伸ばした。


「あの、わたしからもひとつお話があるのですが」


 つられて、こちらも座り直して姿勢を正す。


「……はい、なんでしょうか」


 唇を噛んでいるのがばれないよう、顔を下へ向けた。膝の上の握り拳に、爪が食い込む。


「土曜日のお祭り、良かったら、一緒に行きませんか……?」


 ふたつの瞳が、見上げるように訴えかける。嬉しいのが顔に出そうになる反面、情けなさに拳が痛くなってくる。


 はい、とだけ答え、どちらからともなくにやにやと笑みをこぼす。それからは窓がオレンジ色に変わるまで、眠っているふたりの横で僕らは教科書や問題集と睨み合いを続けた。





 空が橙に染まり、次第に紫色の雲が広がっていく。流石に、集合時間の二時間前にスタンバイするのは無謀だったらしい。仕方がない、家にいても落ち着かない。こうして空の移り変わりを眺めてみるのも、決して退屈ではなかった。




 結局、祭りには四人で行くことになったらしい。昨日、『ひぐらし隊』のグループチャットにとあるメッセージが流れていた。


『週末の祭り、みんなで行かね? 花火大会もあるらしいんだけど』


 犯人は、郡司であった。小心者な彼のことだ、蘭堂をお祭りに誘うのは勇気が出なかったのだろう。同級生ながら微笑ましく思う一方、焦燥に蝕まれたのも事実だった。電源を切っていたために、その話題に出遅れてしまった。


「いいじゃん。行こうよ」


 あめの発言だった。


 当然の回答。もし僕があめの立場でも、きっとそうする。ここで拒否するのもおかしな話だ。微かな胸の痛みには気づかないふりをして、チャットの続きをスクロールする。蘭堂の、よくわからない生き物がモチーフの大きなスタンプ。それから、集合時間や場所が話し合われ、最後に僕の名前がメンションされていた。


「陽葵も、良かったら来て」


 もちろん、行かないなんて選択肢は無い。それに、今度こそ、やらなければならないことがある。言わなくてはならないことがある。了解、とだけ送信して、ひとつ大きく息を吐き出した。




 少しずつ、目の前を通り過ぎていく人の数が増えてきた。その中に、ちらほらと浴衣が散見される。今の時代、地域の祭り程度に浴衣を着て行く物好きなんてそうそう居ないだろうと思っていたのに。自らの身体を見下ろす。Tシャツに、緩みのあるパンツ。散々迷った挙句、いつも通りの服装になってしまった。


「あ、あれ、陽葵、もう居たの」


 顔を上げる。そこには、涼しげな浴衣に身を包んだあめが居た。黒く長い髪は頭の後ろで高く結いあげられ、普段よりも活発な印象で淡い青が映える。


「や、やっぱり変だった? い、今頃浴衣なんて着てる人あんま見ないよね。陽葵だって浴衣じゃないし……」


 ざりざりと聞き慣れない音を立てながら、足を後ろに引き摺る。


「あ、いや、そんなこと無い。に、似合ってるなって、おもって」


 あめが微笑んだのだろうか、空気が揺れた。その顔を真っ直ぐに見ることは出来ず、再び薄汚れたつま先を睨んでしまう。


「あの、その、ごめんね。ふたりで行くって、約束したのに」


 淡い花のような香りが鼻をくすぐる。あめが、さらにこちらへ近づいてきたようだ。視界に、なんの飾り気もないスニーカーと、艶やかな浴衣の裾が並んでいる。


「……別に、大丈夫だから。なんとなく、こうなるような気がしてたからさ」


 吐き出した言葉がふわりと浮かんで、俯いた顔の前に留まった。ほんの少しだけ、悔しい。その気持ちの正体に名前をつける前に、

続け様に郡司と蘭堂がやってきた。




 祭りは、想像以上に賑わっていた。どこから鳴っているのかわからない音頭、ぼんやりと浮かぶ提灯。細い通路の両側にはさまざまな屋台が立ち並び、どこも人の列を抱えていた。


 りんご飴、焼きそば、たこ焼き、チョコバナナ。あめが、手に入る限りのあらゆる食べ物を両手に抱え、嬉しそうに頬張っている。その顔を見ていると、むせかえるほどの濃い臭気も、押し寄せる人の波も、全てがどうでも良くなる。いつの間にか、郡司と蘭堂の姿は見えなくなっていた。


 喧騒を抜け、空いているベンチに座り込む。ふたりに連絡を取ろうと試みるも、電話にも出なければメッセージに既読もつかなかった。


「鈴乃と、郡司は?」


 早くも溶け始めているかき氷をかき混ぜながら、あめが言った。


「全然。まあ、ふたりでよろしくやってるんじゃないかな」


 迷子になっていないか心配しつつ、内心、ほっとしたのも事実だった。低く今にも手が届きそうな空を見上げると、頬に水の玉が落ちてきた。


 雨だ。


 それからのことは、よく覚えていない。地面はあっという間に濡れた。あめの手を引き、人ごみを掻き分け、気づけば商店街の一角、古い駄菓子屋の庇の下に潜り込んでいた。木製のベンチに腰掛け、靄のかかった街を眺めていると、花火大会の中止を告げる町内放送が聞こえた。


「あーあ、花火大会中止か。残念」


 だね、と惰性で口走る。


「なんで、今日に限って雨なんか」


 僕は焦っていた。花火大会が中止になってしまったのなら、いつ、この言葉を伝えようか。もういっそ、このベンチの上に投げ出されている無防備な左手を、そっと握ってしまおうか。


 雨が庇に打ちつけるこもった音が、ふたりの間を満たしている。腹を括り、あの、と声を上げると、あめも同時にあの、と言った。結局、先に話す権利を譲られてしまい、咳払いをする。大したことじゃないけど、と前置きしつつ、横目にあめの顔を覗く。いつもより派手な化粧のせいか、頬がにわかに染まって見えた。


「その、僕は、好きだよ。雨のこと」

「え、な、なんで」


 深呼吸をする。


「だって、雨のおかげで、好きな人と一緒に居られるから」


 ついに、言ってしまった。恐る恐る首を左に回す。視線がぶつかる。瞳が揺れた。あめが顔をぐしゃぐしゃに歪めながら、がたりと音を立てて立ち上がる。


「あ、あめ……?」


 ひとつ、大きく息を吸い込む。そして、浴衣の裾を軽く持ち上げると、屋根の外へと躍り出た。


 立ち上がる。名前を叫ぶ。伸ばした右手に、幾つもの水の針が刺す。背中が、どんどん小さくなっていく。しかし、その場に縫い留められてしまったように、足は動いてくれなかった。


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