めぐる記憶

 もう限界だった。真っ白な紙面が目に眩しい。良くないとはわかっているが、引き出しからスマホを取り出し、電源を入れる。


 あめとのトークルームは、ずいぶん下に埋もれていた。問題の写真とともに、指が動く通りに作った文章を投下する。


『この問題わかんなくて。時間あったらおしえてもらえないかな』


 ついに、やってしまった。何度も文面を確認する。無機質に流れていく時間の中で、先程まで麻痺していた脳が嘘のように、フルスピードで思考を開始した。しばらく話していないのに、いきなり連絡なんかして引かれたら。解説を読め、なんて冷たくあしらわれたら。あめはそんな人ではない。それはちゃんとわかっているはずなのに、頭は考えることをやめてくれない。


 エアコンが吐き出す生ぬるい風が、背筋を撫でる。やはり、こんなやり方は幼稚だ。メッセージを取り消そうとしたその時、スマホが震え、画面が切り替わった。けたたましい着信音。あわてて応答ボタンをタップし、そっと耳に当てる。


「ど、どうしたのいきなり」


 椅子から立ち上がり、空いている方の耳をドアに押し付ける。なにも聞こえない。今のところ、母がこちらへ来る心配はなさそうだ。あれだけの爆音を鳴らせば、いつもなら瞬間移動をしたかのように怒鳴り込みに来るのに。


「どうしたのって、陽葵はるきがわかんないとこ教えてほしいって言うから。今、ちょっと話せる……?」


 いつ母が階段を駆け上がってくるかわからない状況での電話なんて、心臓がいくらあっても足りない––––そんなことは言い訳だった。本当は、会いたい。電話ではなくて、顔を見て話がしたい。壁にかけられたカレンダーを横目に見ながら、なんとか誤魔化そうと試みる。


「あ、じ、実は塾の自習室来てて。今すぐは難しいかな。こっちから聞いたのに、ごめん」

「え、待って、塾通い始めたの? 聞いてないんだけど。偉いじゃん」


 身体は素直なものだ。喉の奥から、へへ、と気味の悪い音が漏れた。


「いや、さすがに。もう夏休みだし、あめを見習って頑張ろうかなって」


 電話の向こうで、あめが大きく息を吸い込んだ。


「そ、そういうことなら、致し方あるまい。ではその努力に免じて、明日汝の根城に赴いてしんぜよう」

「え、ちょっと待って、なんて?」


 だから、とスピーカー越しの彼女の吐息が、ぞわぞわと耳をくすぐる。


「明日、陽葵のお家行ってもいい?」

「そ、それはちょっと」


 思わず否定してしまった。


「ああ、ほら、夏休みだから部屋荒れてるし、エアコン壊れてるし、母さんいるし……」


 それらしい理由を並べ立てておく。よく考えれば、これまで何度も家へ招いていたではないか。今回に限って、拒否することはない。ただ、最大の脅威は母だった。パートも夏休みになった母の生活は、怠惰の極みである。一日中寝ているか、最近ハマり出した韓流ドラマに吸いついているかの二択だ。こんな母をあめに会わせたくない。母がいなければ、いつでも大歓迎なのだけれど。


「わかった、わかった。ごめんって。またいつか行かせてよね。じゃ、『ひぐらし』でいい?」

「うん」


 それから集合時間を話し合い、あめとの電話は歯切れ悪く終了した。意図せず、いや、思惑通りか。会う約束を取り付けた。若干の不甲斐なさを噛み締めると、再び、視線がカレンダーへと靡く。今週の土曜日につけられた、雑な赤い丸。絶対に、これだけはちゃんと誘おう。柔い決意を胸に、そのあとはなにを為すでもなくそわそわと時間を浪費した。





 小さくベルを鳴らし、喫茶店の扉を開ける。穏やかな音楽に包まれ、ひとつ深く呼吸をした。両肩にのしかかるリュックサックの重み、早まる胸の鼓動。店の奥を覗くと、いつもと同じ場所に、あめの姿があった。彼女もこちらに気づいたようで、大きく手を振っている。軽く手を挙げてそれに応えつつ、吸い寄せられるようにテーブルへ向かう。


「や、元気にしてた?」


 まあそれなりに、と曖昧な答えを返しておく。久しぶりに見たあめの笑顔は眩しくて、椅子の足元を気にするふりをして目を逸らしてしまった。


「あのさ、塾、行き始めたんだよね。どこって、聞いてもいい?」

「あ、それは……」


 不意を打たれ、どもるこちらの顔を覗き込んでくる。堪えきれず、あれは咄嗟についた嘘であったことを白状した。すると、あめはあからさまにがっかりした素振りを見せ、褒めて損した、と口を尖らせた。そんなことを言わせるつもりは無かったのに。あわてて弁明を図る。


「でも、『あめを見習って頑張りたい』ってのは、嘘じゃないから」


 できるだけまっすぐ、瞳を見据える。寸刻、視線が絡み合う。ふたつの目が、わかりやすく流れていく。


「……わ、わかった。はやくやろう。どこの問題だっけ」


 急かすようにテーブルを軽くたたく。冊子を出そうとリュックサックに手を入れると、遅れて恥ずかしさが込み上げてきた。


「数学の宿題、これ。七番」

「おっけ……てか、え、全然終わってないじゃん」


 あめが、冊子のページを勝手にめくっていく。そこにあるのは印刷された問題ばかりで、大きな余白が目に痛い。


「わ、わかんないところ飛ばしただけだし」

「ほとんど全部じゃん」


 昨日から手をつけ始めた、なんて絶対に言えない。あと2週間も無いんだよ、とあわれみを含んだ笑みをこぼされる。ごもっともである。乾いた笑い声を立てることしかできない。


「まあいいや。えっと、この問題は––––」


 大量に用意された裏紙の上に、さらさらと丁寧な数式が並べられていく。それを眺めるふりをしながら、彼女の少し伸びた前髪の向こうを見つめる。


 あめの声は、聞いていて心地が良い。だた、睡眠へと誘う心地良さではない。それはまるで雨粒が窓枠で弾ける音のように、なにも考えずに聞いていたいと思えるもの。この時間だけは、世界でたったひとり、僕のためだけに発せられるもの。もしあめが、他人の心を読める魔法使いだったら、きっとドン引きされるに違いない。


「––––で、答えが出ますってわけ。どう、わかった?」

「うん。じゃあ次、十五番」


 最低だな、とは思う。それでも、少なくとも僕にとっては満ち足りた時間だった。どれだけたっただろうか、そんなふたりきりの有意義な時間をしばらく堪能していると、突然背後から聞き覚えのある声が飛んできた。


「あ、抜け駆けは許さんぞ、日向陽葵!」


 のしのしと大股でこちらへ向かってくるギャルもどきと、その横でひらひらと優雅に手を振っている半不良。その姿に、抜け駆けなんてしてないわ、と届かない反論をぶつけておく。


「やあ。奇遇だね、日向ひなたクン、紫苑しおんサン」


 こちらのテーブルに辿り着くなり、郡司ぐんじがいつにも増して気取った挨拶をしてみせた。ほんの一ヶ月、顔を合わせていなかっただけなのに、懐かしささえ感じる。あめが、視界の端で豪快に吹き出していた。


「ふたりとも元気そうで。桜はまたキャラ変か?」

「だからその呼び方やめろっつてんだろうが」


 あれ、本性が出てますよ、とお決まりのやり取りを交わす。その間に蘭堂らんどうは、さも当たり前のように空いていたあめの隣の席を陣取った。


「おひさ、てんてん……っつっても、一昨日ぶりだけどね」


 パフェおいしかったね、といきなりガールズトークが咲き始めた。楽しそうなふたりを細目に見つつ、いつの間にか隣に座っていた郡司に会話を投げかける。


「なんでふたりはここに?」


 色気のためと四月から伸ばし続けている襟足を撫で付けながら、あー、と情けない唸りをあげる。


「鈴乃と、ふたりで勉強会やろうと思って」

「え、桜が勉強?」


 うるせぇよ、と控えめに吐き出した唇の先に、淡い恥じらいが滲んでいるのに気づいた。


「……いいの? 僕らと一緒になっちゃって」

「い、いいんだよ、べつに。た、たまたま、お前らのこと見つけただけだし」


 先ほどからボーイズのトークをちらちらと盗み見ていた蘭堂が、あめとの会話をそっちのけで突然声を張り上げた。


「だ、だって、てんてんと日向あるところに、うちらもありっしょ」

「そうそう、な、なんつったって、俺ら『ひぐらし隊』だからな」


 それに便乗し、郡司も苦しい言い訳を叫ぶ。違和感しかない。憶測ではあるものの、とある真相に勘づいてしまった僕は、笑みが溢れそうになるのを必死に堪える。その向かい側で、あめは眉をしかめ、不思議そうに蘭堂と郡司の顔を交互に観察していた。

 

「そういえば、ふたりはどうしてここに?」


 大きなショルダーバッグから、見覚えのある冊子や問題集が覗いている。どうやら、勉強会の計画は本当だったらしい。


「いやあ、ちょっと勉強会しようかなって思ってさ。そしたら、ふたりのこと見つけて」


 目配せを交わしながら、蘭堂が無駄に抑揚をつけてそんなことを言った。少々茶々を入れてみる。


「蘭堂、うるさい」

「うっせ。ギャルの声量なめんなし」


 一瞬、あめが窓の方を向いて笑いをこぼすのを見逃しはしなかった。それから、意地悪い顔をして、それで、と問い詰める。初めて見た、あめの挑戦的な表情。心臓が、きゅっと縮む。


 蘭堂はテーブルを揺らしながら、勢いよく頭を下げた。遅れて、郡司も首を曲げる。


「お、教えてください、お願いします!」


 ふたりの宿題の進捗は芳しくなく、提出すべきものを失くしていなかったことが唯一の救いだった。いちいち頭を抱える郡司と、ひとりごとの多い蘭堂。その間で右往左往するあめ。戻ってきた賑やかさをひしと肌に感じながら、その横で僕はあめの筆跡をなぞっていた。



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