太陽よりも欲しいもの

藤咲雨響

おとぎ話

 夏はいつの間にか、春を追い越していたらしい。


 髪をこねまわす扇風機の風、真っ赤に塗りつぶされた日本列島。カーテンで閉め切られたはずの窓を透過して響き渡る蝉の声に若干の苛立ちを覚えながら、リモコンを掴んでボリュームを上げる。いつからか少しずつ肉付きの良くなり始めた腹は、お菓子の袋を置くのにちょうどよい。指の間にチップスを挟み、次から次へと口へ運んでいく。


 珍しく、廊下の向こうから騒がしい足音が近づいてきた。勢いよくドアが開く。ノックも無いらしい。キラキラと埃が舞い上がる。


「ねえ、あんたにお客さん。高校の時のお友達の、あめちゃんだって」


 飛び出しかけた罵倒の言葉は、自然とどこかに消えていった。刹那、その名前に身体が反応する。どういうわけかわからない。それでも、気づけばお菓子を放り投げていた。僅かに残っていたらしい衝動に突き動かされるがままに、怪訝な目でこちらを睨んでいる母を押しやってしまった。


 暗く湿った部屋を飛び出す。階段を駆け下り、玄関へ辿り着くと、情けないことに額がじっとりと濡れていた。浅い呼吸を繰り返し、寝癖だらけの荒れた髪を何となく撫で付ける。口元を手の甲で拭い、シワシワのTシャツを申し訳程度に引き伸ばす。


 この家の玄関には鏡がないらしい。今更そんなことを恨みながら、頭ではひと言目の挨拶について、幾つもの候補の間を往来していた。やあ、久しぶり、お元気でしたか。どれもしっくりこない、僕らしくない。第一、僕らしい挨拶とはなんだ。埒が開かない。もたつく足をサンダルに詰め込む。胸の中で暴れ回る心臓を必死に押さえつけ、ひんやりとしたドアノブを握る右手に力を込めた。


「急に居なくなってごめんなさい」


 ドアが開く。細く開いた四角い世界に、溢れんばかりの光と共に、深々と頭を下げる女性の姿が浮かび上がった。


「あ、あめ……さん?」


 あれだけ真剣にひと言目を考えたというのに、出てきたのはそれだけだった。声を出したのはいつぶりだろう。随分と掠れて、正直、気味が悪かった。喋り方を忘れていなかっただけマシだとも言える。咳払いをしようにも、喉になにかがつかえたように苦しい。そうしている間にも、彼女はひたすらに謝罪の言葉を繰り返し続けていた。


「本当にごめんなさい」

「い、いいから、とりあえず顔、あげてください」


 一瞬びくりと身体を震わせてから、ゆっくりと頭が持ち上がる。間違いない。あめだ。かなりメイクは濃くなっているものの、その顔は、記憶の中のあめとぴったり重なった。大きな瞳で下から見上げるような癖も変わっていない。乱れた髪を耳にかける姿がひどく眩しく映ったのは、きっと久しぶりに対面した太陽のせいだけではないだろう。


 しばらくして、細い隙間から見つめあうなんとも居心地の悪い時間が流れていることに気づき、慌ててごめん、と目を逸らした。あめもごめん、と小さく笑う。そんな不器用なやりとりを見ていたのか、背後からもっとドアを開けてあげなさい、と叫ぶ母の声がした。言われた通りドアを全開にする。あめは一歩下がり、行き場のない両手を落ち着きなく開いたり閉じたりしながら、なにか言いたげに口をもごもごと動かした。


「わ、わたしのこと、覚えててくれたり、する……?」


 湿っぽい瞳が、彼女との間を満たす虚空へ向けられる。肩に触れるか触れないかの長さで切り揃えられた金色の髪が、ふわりと揺れた。タイトなジーンズ、黄金色に輝く肌。足元にはこちらが心配になるほど高く細いヒールを従えている。ふと、どこからか寂しさが込み上げてきた。


「……うん、もちろん。全然、変わってないね」


 頭で考える前に、単純な口が勝手に言葉を発する。続いて、彼女の視線が上から下へと僕の表面を撫でていくのを感じ、反射的に腹を押さえてしまった。


「あなたは、ずいぶん変わったみたい。そのヒゲも……素敵」


 眉間に皺を寄せ、困ったような笑みを浮かべている。最悪だ。考えてみれば、ここ数日まともに風呂に入っていなかったかもしれない。恐る恐る顎をなぞってみると、チクチクと指をくすぐられた。


「こ、これには理由がありまして……」


 口ごもりながら、ゆっくりと後ずさる。すると、あめは両手で顔を隠し、小刻みに肩を揺らした。わけもわからず、つられて一緒に笑ってみる。そして、濡れた目のふちをこすり、やっぱり変わってないね、と微かにつぶやいた。


 再び、微妙な時間がやってきた。お互いに、ちらちらと顔色を窺ってしまう。なんでもいいから話したい、声を聞きたいのに、なにを話せば良いのかわからない。心臓は十分すぎるほど動いているのに、脳は働いてくれない。髪を褒めるべきか。それとも、帰ってきた理由を問うべきか。高校生の時、どんな風に話していただろう。無意識のうちに愚鈍な思考に埋もれていると、あの、と妙に強張った声が鼓膜に届いた。


「今日、このあとって、なにか予定あったりする?」


 ふたつの目が、下から覗き込んでくる。


「……いや、べつに」


 なぜ即答しないんだ。そんなに含みを帯びてものを言う必要なんて無い。身体が、思うように動かない。手のひらが、じわりと湿ってきた。


「じゃあ、さ、一緒にコーヒーでも飲まない? 高校の時、よく行ったところ」


 もちろん、と今度は食い気味に反応してしまった。あめはよかった、とだけこぼし、言葉の割にあまり嬉しそうな素振りは見せなかった。


「じゅ、準備するから待ってて……ください。今、かたづけてくるからよかったらお茶でも」


 彼女から目を逸らし、そのままサンダルを脱ぎ捨てる。


「い、いいよ。突然押しかけて悪いし。先に行って、待ってる」


 こちらの返事を聞く前に、あめは淡い笑みを残してドアを閉めていった。まるで通り雨のようだった。もしや夢ではなかったかと、頬をつまんでみる。ちゃんと、痛い。ひとり取り残された静かな玄関ホールには、壊れそうなほど速く打つ胸の音が響いていた。


 

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