蛹を盗んだ夜に≪下≫

 彼女が、僕の少し前を歩いている。


 僕らは、繁華街から少し外れたところにある旦過の方まで歩いた。旦過には、神嶽川という河川上に張り出した建築物が並んだ魚市場がある。市場の店は閉まっているけれど、夜になっても通り抜けはできる。


 歴史を感じさせる老舗が並ぶ一方、夜の旦過市場のなかは街灯がない。まるで洞窟のように、風の音と前を歩く彼女の「カツン、カツン」という足音が響き渡る。


「ねえ、ハルキ」


 振り返らないまま声をかけてくる。

 距離感、歩く速さ、視線、息遣い。わずかな情報からこの女性と「ハルキ」という人物の親密度をはかる。


「ああ、なに」


 口調は合ってるだろうか。彼女の話す男を想像しながら慎重に口を動かした。


「もう呼んでくれないの?」

「なんのこと」

「わたしの名前。呼んでよ、殺す前みたいに」


 目の前にいる彼女の名前を呼べないのは当たり前のことだった。そもそも彼女の名前を知らないのだから。

 僕は少し考えてから答えた。


「……あの世のルールなんだ。自分を殺した人の名前を呼んではいけないってルールがあるから」

「なにそれ、変なルール」


 本当は君の名前を呼んであげたいけれど、すると僕も地獄に落ちてしまうからね。などと、それらしい理由を重ねる。恐怖からか、好奇心からか。舌ばかりはよく回った。


「じゃあ、地獄に落ちてよ」


 振り返り、レンズの奥の女性は、微笑んでいるようにも、泣いているようにも見えた。


「お願い。もう一度、ヨナって呼んで」


 橋の上、店先で無造作に置かれたブルーシートと、発泡スチロールの欠片が散らばって、雪のように散乱している。その中央に僕らがポツンといた。

 例えば、それは僕の声でも美しく響くだろうか。


「ヨナ」


気付くと僕は、彼女の名前を呼んでいた。


「これでハルキは地獄行きね」

「ああ、地獄で先に待っているよ」


 彼女は、笑うことはなかったが満足そうにしていた。

そして、この暗がりから抜けるころに「ハルキ」と「ヨナ」のおおよその距離感だけが分かった。


 ほどなくして着いたのは、旦過市場のメインストリートからも外れた、川沿いにある古民家だった。表には看板らしいものもかかっているが、暗くて文字までは見えない。


 ヨナが持っていたハンドバックからアンティーク調の鍵を取り出すと、ドアノブの鍵穴に挿し込む。すると、えんじ色の扉が音を立てて開いた。


「おいで、ハルキ」


 手招きされるまま中に入る。ヨナの口調は優しくはあるけれど、そこにはペットを家に連れ戻すような、逆らうことをよしとしない感情が見え隠れしていた。


「ちょっと座って待ってて。紅茶くらい出すわ」


 部屋全体の電気を付けないまま、ヨナは僕を一番奥のカウンター席へ案内し、洋風のスタンド照明を一つ点けると、キッチン側に回った。

 カウンターからキッチンはよく見える。照明の光が向こうまで届いているとも思えないが、ヨナはキッチンの電気を点けないまま作業を始めた。戸を開ける。そこにあるヤカンを手に取る。水を灌ぐ。コンロに火をかける。瓶の蓋を開ける。一つ一つの作業を滞りなく、慣れた手つきでこなしていく。


「ここは、何のお店をしてるの」

「わたしが経営するアートギャラリーよ」


 彼女は淡々と答えた。オープンは来月からだけどね、と付け足される。

 頼りない灯りではあったけれど、部屋の様子をうかがうには十分だった。部屋のなかには大小様々な彫刻が並んでいた。アートギャラリーと言われるとピンと来ないけれど、高校の美術室のような空間だった。


 部屋のあちこちに置かれた木彫りの彫刻たちは、不思議と動物であること以外は分からなかった。

 

 どれも生物を模っていることは確かであるはずなのに、それが「何の動物か」という一点のみ分からない。そういう悲しさを孕んだ彫刻だった。それは特定の彫刻にだけではなく、すべての彫刻に言えることであった。


「ハルキは桃の紅茶が好きだったよね」

「そうだったかな、よく思い出せないよ」

「頭を深く刺したからかしらね」


 ヨナはキッチンから戻ってくると木製トレーから紅茶の淹れられたカップとソーサー。そして球体状のハーバリウムを一つ、僕の前に置いた。


「綺麗でしょ、このハーバリウム」


 両手で包めるほどのハーバリウム。球体ガラスに閉じ込められた世界が、照明に晒されることで光が屈折し合い、花びらが静かに踊り始めているように見える。

 美しいね、と答えると「ハルキに見せたかったの」と歯を見せないように控えめに笑っていた。


 向かい合うようにして彼女が席に座る。自分を殺した女性と同じテーブルに座るというのは、やはりおかしな気分だった。


「安心して。毒なんて、入れてないわ」

「心配してないよ、僕は幽霊みたいなものだから」

「じゃあ、幽霊のハルキはいつまでわたしとお話してくれるのかしら」


 立ち昇る白い湯気が、顔のあたりで解けて消える。

 部屋の明かりをすべて点けなかった彼女は正しかったと言える。この繊細な光の世界を前にすると、この薄暗いギャラリーも悪い気はしない。


「ハーバリウムの中で漂ってる花びらが、ぜんぶ落ちるまでにしよう。お互い、その方がいいよ」


 ハーバリウムを満たしているオイルは水よりも粘性が高く、まだ花弁はゆっくりとガラスのなかを漂っている。


「ハルキは変わらないのね、あの日のまま」

「僕が変わってないように見えるのなら、それはヨナのせいだよ」

「そうね。わたし、ハルキのこと殺してしまったから」


 人が人の命を奪うことに、理由がないといけないと感じるのは、エンターテインメントに毒された僕の考え方に問題があるからなのだろうか。

 そう思えてしまうほどに彼女の「殺した」と言う言葉には、欠片も重みを感じなかった。小さい子どもが覚えたての言葉を使いたがるような幼稚ささえ感じられた。


「ハルキ」

「なに」

「貴方は」

「うん」

「わたしが殺したハルキなの?」

「そうだよ、君が殺したハルキだよ」


 彼女に倣ってみた言葉のつかい方はどうも間違っていたのか、思ったよりも上手く声が出なかった。

 質問は続いた。


「どうしてわたしに会いに来たの?」

「自分を殺した人間の動機を知るというのが、あの世に行くためのルールだからだよ」

「閻魔様の前で罪を告白しなくちゃいけないものね」

「そうだね。でも、誰かさんが頭を深く刺したせいで思い出せないんだ」

「あら、それは大変」


 クスクスと他人事みたいに笑っているヨナに対して、晴れやかな気分ではなかったのは確かだ。

 

 まるで自分が、本当に彼女から殺されてしまったかのような錯覚を覚える。


「……ヨナ」

「そんな顔しないでよ、わたしが殺したのに」


 覚えているはずもない他人の人生を想像するとき、僕は一瞬、奈落に突き落とされたような、暗い衝撃に襲われた。

 なぜなら僕の心にはすでに「罪悪感」が芽生えていたからだ。


「ヨナ、どうして僕を殺したんだ」


 静かに、誰かに訊かれることのないように、息を吐くのと一緒に声を出した。

ゆらゆらと、漂う花弁を隠すようにヨナはハーバリウムの頭を撫でた。


「ねえ、見て」


 手元の球体を指して、彼女は微笑む。


「ハルキの胃液」


 一瞬、何を言っているのか分からなかった。頭が、カラダが、心が、理解しようとする思考を本能的にせき止めている。


「貴方の胃液で作ったハーバリウム」


 何か声を上げてしまいそうになっている自分を自覚し、咄嗟に口元を覆う。

「ハルキ、わたしはこの場で、貴方とどこで出会い、何を愛して、憎んできたかを、話すつもりなんてない。そんなことに意味なんてないことを、わたしは知ってる」


 星を眺めるように「僕」を見据える。一時安らぐように、見えた表情は次第に苦悶に満ちていく。彼女の名前を呼ぼうとして、声を上かけようとすると上から被せてくる。


「ハルキ」


 歯を食いしばって、深い傷口にナイフを入れるように、彼女が殺した男の名を呼ぶ。


「貴方の彫刻が好きだった」

 言葉が、波のように訪れる。

「どんな動物を彫っても、必ず翼が生えていた。猫も、熊も、ライオンも、みんな綺麗な翼があった。どうして翼が生えてるのって訊いたとき、『遠くに飛べそうだから』って答える。ハルキの声が好きだった」


 彼女がテーブルから立ち上がる。踊るようにスカートをくるりと翻すと、再び「ハルキ」と呼んだ。


「ここにある木彫りはね、ぜんぶハルキの作品よ」


 イタズラが見つかった子どものように、ヨナは笑った。「翼はぜんぶ折ったけど」

幼稚さと、奥に潜んだおぞましさ。惹かれていく、焦点がずっと合わない彼女の視線。それなのに彼女から、目が離せなっていく。


「わたしはね、ハルキ」

「違う、僕は」

「わたしは、貴方になりたかった」


 僕が言いかけた言葉を上から濡らしていく、雨粒のような声が部屋にぽつんと短く響いた。


「貴方のように、たった一つでいい。わたしは、ずっと、わたしの価値を、自分の手で形作れる人になりたかった」


 ヨナは座ったままの僕に近寄る。


「だから、このハーバリウムをつくった」


 耳に触れる。その輪郭を丸くなぞりながら、頬から首へと滑り落ちる。


「この中に入れたものは少しずつ溶けていく。何でも溶けて、最後に葉脈だけが残る」


 どこにもいない、『ハルキ』という幻想を、僕のなかから手探りで探すように。永い間、陽の光を浴びることができなかった植物の幹のような白い指先が、僕の左胸へと辿り着く。


「そういう失うための機械をつくったの」


 価値を自身で決めるという行為を尊ぶヨナのことを、最初は理解できなかった。


「貴方になりたかった。殺してしまうほど欲しかった」


 当たり前だと思ったからだ。そんなことは、誰もが大人になっていくうえで、自然と身につけることができるものだ。


 しかしどうだろうか、誰彼構わず「久しぶり」と声をかける僕は、自分の価値を自ら決めることができているのだろうか。


 視線を上げると、ヨナの目尻から頬にかけて大きな傷跡のように涙が流れていた。


「貴方の胃液で作ったハーバリウムは、いつかわたしを溶かすかな」


気付くと椅子を蹴るように立ち上がり、僕はヨナを抱きしめていた。


「ヨナ……!」


 僕らは同じだ。出会うべくしてここにいると、強く思った。

誰かの価値観に、無理やり自身の存在をねじ込んで、ひとりでノートに書き出し悦に浸る。そんな意志薄弱とした僕のどこに、彼女を非難する資格があるだろうか。

彼女を理解できないだなんて、そんないい加減なことを、僕は言いたくなかった。


「ハルキ、わたしを殺して」


 ヨナは僕の背中に手を回す。けれどそれは、抱きしめるには痛くなるほどの力だった。


 何年も彫刻を抱いていたのだろう。きっと、ヨナにはもう人のカラダにどうして触れたらいいかも忘れてしまっているのかもしれない。


「もう疲れたの、もう動けないの。貴方と同じ場所にはいけないの。もう、どうしたらいいか、分からないの」


 抱きしめるだけで壊れてしまいそうな彼女に、僕はどうしたら報いることができるのだろうか。


「……ヨナ」


 そのとき、喉の奥で暑い情動が動くのを感じた。

 言わなければいけない誰かの言葉が、空から糸を伝って降りてくるかのように、僕の中に静かに落ちてくる。


「僕は、彫刻のようになりたかった」


 その言葉がもつ、重みと温もり。そんなものが僕らの胸の奥で小さく波紋を広げていった。


「カラダも心も生き方も、脆さを捨てたその先を、君に見ていて欲しかった」


 背中に回した腕が少し余るほどの細いカラダ。抱きしめたその体は、まるで壊れてしまいそうなほど脆く感じられる。


「僕はいつか、君が美しいカラダが欲しいといったとき、これをあげるよって言ってあげたかった。それだけのために彫っていた。たったそれだけの、弱くて小さい僕だった」


 ただ、いつか君がそれを望む日が来るのだと、『彼』は信じて疑わなかった。それだけのために、彼は彫って続けてきたのだ。


 腕の中で、相手の鼓動がかすかに伝わってくる。それは不安と希望が入り混じったような、弱々しくも美しい音だった。


「だから、ヨナ」


 彼はそっと相手の髪に触れた。その髪は冷たく、少し湿っていて、夜の空気をまとっていた。


「間違いなんてないこの空を」


 きっと『彼』は、生きてなんて言わない。


「汚れた翼で飛びなさい」

  

 肩越しの窓から見えるのは、どこまでも続く暗い闇の景色。けれども、その闇の中に包まれた彼女の存在だけは、かけがえのない光のように感じられた。

 背中に回った腕の力が、段々と抜けていくのがわかった。今まで閉じていた翼が、ゆっくりと開かれていくように、自分の体から少しずつ解き放たれていく感覚を覚えた。


「……ありがとう、ハルキ」


 お互いのカラダが離れ、その温もりが遠ざかるごとに、胸に何かが静かに沁み込んでいく。柔らかな寂しさと、どこか救われたような感覚が混じり合って、心を満たしていった。


「きっと次なんてないけれど、貴方のこと、夜のように好きだった」


 ヨナが僕の頬を撫でる。遅れて、自分の目元が濡れていることに気が付いた。

 偽りだった僕もまた、ヨナが触れた部分から少しずつ本来の形を取り戻していく。彼女の手によって彫り出されていくようなこの過程を、『彼』だったらいったい何と呼ぶのだろうか。


 ふと、テーブルの上にあるハーバリウムを見た。透明なガラスのなかを舞っていた黄色い花弁たちは、瓶底で眠るように横たわっていた。


 星のような彼女の目を、もう一度深く見つめる。ヨナは悟り、名残惜しそうに『ハルキ』から手を離した。


 僕は、ただ静かに彼女に背を向けて店を出た。沈んだ夜の冷たい空気が、止まりそうになる僕の歩を進める。


 後ろから追いかけてくるような気配はなかった。それが彼女らしいといえばそうなのだろう。いよいよ店が見えなくなるかもしれないというところで一度だけ振り返ると、すでに部屋の電気は消えていた。


 それ以降、僕はあの十字路で「久しぶり」と誰かに声をかけるようなことはしなくなった。


 あれから月日が経ち、私用で旦過市場には何度か足を運ぶことはあったが、あのアートギャラリーに再び訪れることはなかった。


 あのお店がいつまで経営を続けていたのかははっきりと分からない。立て続けに起きた旦過市場での大規模火災により、建物ごと燃えて取り壊されたということを風の噂で知った。


 数年ぶりに訪れたその場所は、焼き焦げた臭いと、少しの瓦礫を残し、幻のように消えていた。


 焼け跡の前しゃがみ、足元のコンクリートに付いた煤に手で触れる。いくらか黒く染まった手を額に当て、そっと目を閉じる。そして僕は自身に、短い空想の時間を許した。


 夜の学校の校舎から、美術室だけを抜き取ってきたような、あの仄暗く美しい空間に思いを馳せる。


 もう彼女は汚れたままに飛び立つ美しさを知っている。その言葉の意味を知っている。


 彼女の流した涙の跡は、いずれ乾いていくのだろう。そうして羽ばたき進む旅路の先に、これから何を見つけ、そして何を形作っていくのだろうかと想像した。

 瞼を開け、空を見上げる。夜空までは少し遠い昼の青い空であった。


 僕にいま、羽ばたく翼はないけれど。この愛が、いつか翼になるその日まで、あのハーバリウムの花弁を忘れることはないだろう。


 手に付いた煤をそのままに、僕は駅に向かって歩き出した。

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蛹を盗んだ夜に 久々原仁介 @nekutai

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