蛹を盗んだ夜に
久々原仁介
蛹を盗んだ夜に≪上≫
大学生の頃、日が沈む前の繫華街で「久しぶり」と見知らぬ人に声をかけるという遊びにハマっていた。それはずいぶん昔の出来事であるはずなのに、おそらく十年後も同じような鮮明度で思い出すことができる。
僕が当時、どうしてそんな愚かな行為に身を投じていたのかについては定かではない。もしかするとそれは、子どものするあやとりや、ノートの端っこに描いた落書きのように。孤独を紛らわすための運動に過ぎなかったのかもしれない。
ただ確かに言えるのは、僕は自分ではない誰かに変身をすることや、誰かの心に架空の人物を埋め込むという行為に一種の快楽のようなものを見出していた。それだけは、間違いようのない事実であった。
「久しぶり」
当時、大学生の僕にとって繫華街と言われる場所で頭に浮かぶのは二カ所しかなかった。下関市の豊前田通りと、小倉の魚町銀天街。僕はそれほど迷うことなく後者を選んだ。豊前田では大学の知人が多く働いており、見つかるのは避けたかった。
後ろめたさからではなく、僕は独立した存在であるという歪んだ自尊心が根底にあったからなのかもしれない。
「久しぶり」
『北九州の玄関口』として有名な小倉駅ではあるけれど、当時はこんな酒臭い玄関があってたまるかと思っていた。
小倉駅の南口から続く魚町銀天街は、商店街とは名ばかりの酒飲み場だった。表通りから裏路地まで、小さな居酒屋が所狭しと並んでおり、十字路には客引きの若い男たちが目をギラギラと光らせている。
ここ一帯が、まるで大きなフードコートのようになっており、週末は仕事終わりのOLやサラリーマンが溢れかえっていた。
「久しぶり」
魚町銀天街のメインストリートにはくすんだオレンジ色の屋根が付いている。
客引きの男たちは、屋根の下には行かないという暗黙のルールがあることを知った。屋根の下では私服警官や夜間パトロールの腕章を着けた警備員が立っているためである。
その屋根の下から抜けた先にある十字路で、客引きの青年たちに混ざって僕がいた。
「久しぶり」
夕方から夜にかけて商店街は人通りが多くなる。声をかけるにはうってつけの場所だった。男だろうが、女だろうが、足を止めてくれれば誰でも良い。
水のように滞りなく流れる人々を見ていると、その歩みを遮ってしまいたくなるのはどうしてだろう。
僕の、ページを捲るように訪れる憎しみは、どこから生まれてくるのだろう。
「久しぶり」
僕は『声をかける』という一次元的な意識を早い段階で捨てていた。段々と、人に魔法をかけているような錯覚に陥っていく。
社交的な人間であればあるほど、僕の声掛けは効果的だった。架空の知り合いに扮した僕を、相手は無視することができなくなり、迂闊にも挨拶を返す。
「久しぶり」
僕が魔法をかけると、人は針に刺されたように動きを止める。
誰もが、最初は困惑の表情を浮かべる。
記憶のなかで一致するトランプを探すように、名前と顔の照合が始まる。しかし答え合わせは終わらない。正解などないのだから当たり前だ。疑問は焦りに変わっていく。
何かを言わないといけない、そんな焦りから相手は適当な返事をしてしまうことが多い。苦し紛れの時間稼ぎ、でもそれは僕に次の一手を考えさせる時間を与えるという意味では悪手だ。
「最近、あの居酒屋来ないね。どうしたの?」
ここで相手に考える暇を与えてはいけない。口の動き、ぶれる視点、額の緊張、それに合わせて言葉を繋ぐ、カラダの距離感を図る。相手のパーソナルスペースを推し量り、自分の仕草から攻撃性のあるものを取り除いていく。
「いや、どうだろ、そんなに行ってないっけ」
個性のない、うっすらとした笑みをつくる。穏やかさと、寂しさを足して二で割ってアルコールを足したような微笑みが、いつの間にか僕の顔から剝がれなっていった。
「そうだよ。なに、仕事忙しいの? てか、いまは何の仕事って言ってたっけ?」
相手の疑問をすり替えるように質問で返す。ここまで持っていけば話は軌道に乗っていく、相手も情報が欲しいから話が止められない。
相手も思い出そうと必死だ。少しでも情報を得て、僕という人物を思い出そうと必死に思考を巡らしている。
僕の吐いた小さな嘘は魔法となって人の心に滑り込み、真実味を加速度的に増していく。
僕が特別な存在になる必要なんかない。
記憶のどこかでいないはずの僕を探そうとするとき、相手の心には必ず隙間ができる。薄い文庫本が入るくらいの隙間だ。それに合わせて僕は言葉を選んで埋めていく。
なかには本当の知り合いのように会話が弾むこともあり、ご飯を一緒に食べることもあった。声掛けを始めて三カ月も経つ頃にはいつの間にかプロ意識のようなものが芽生えていた。
僕はいつからか、声掛けに成功して一緒に食事をした人の記録まで付けるようになっていた。
まるでスポーツだ。
会話のなかで拾い集めた情報をノートに書き連ねる時間が好きだった。電気も消して、カーテンも閉めて、机のライトで手元だけを照らす。「僕」が何者でもないという領域を抜けて、存在ごと消えてしまいそうな、この真っ暗な時間が好きだった
★2015年5月4日 17時54分
名前:赤木雄太
性別:男 24歳
仕事:製造業
情報:若く、気さくな好青年。製造だが技術職ではないため給料が安く、転職活動をするか迷っている。3年付き合っている彼女はいるものの、外見が好みではないため結婚する気はない。10歳離れている職場の人妻と関係をもっている。
★2015年7月4日 18時32分
名前:瀬良みゆ
性別:女 30代前半
仕事:保育園の事務、ラウンジ嬢
情報:半年前に彼氏に浮気されて別れたが、身体の関係だけダラダラと続けている。新しい彼氏は欲しいけど、最近通い始めたコンカフェの推しキャストが好きすぎて貢いでいるため資金的に余裕がない。趣味は裁縫。料理系ユーチューバーになりたいが口癖。
★2015年10月22日 20時11分
名前:羽柴優斗
性別:男 20代後半
仕事:システムエンジニア
情報:職場の管理者がエンジニア上がりではなくマネジメント業務専門なため、役に立たないことが不満。結婚はしているが、妻だけEDに悩んでいる。勃起薬などを飲んで一時改善するが射精ができないことにさらに悩んでいる。将来的に子どもは欲しい。新築を立てるかにも悩んでいる。
もちろん、すべてがうまくいくわけではない。特に自分との接点がない人ほど難航した。
性別。年齢。生活ランクの差異。知識の量。難しさは人それぞれである。
僕は先ほど「難航」という言葉を使ったけれど、まったくもってこの行いは航海に似ていると思う。しかしこれは他人の船だ。他人の船に乗り込んで、いきなり舵を握ろうと言うのだから難しいことに決まっている。
それでも僕は見知らぬ誰かの振りをして、縁もゆかりもない人の船に勝手に乗り込む行為をやめることはなかった。むしろ接点がない人ほど足を止めてくれたときの感動は大きいと感じるようになっていった。
ほどよいリスクとそこから生まれるスリリングな駆け引き。ひとりひとりがバリエーションの豊富な反応をする。いつの間にか僕は、その魅力的な時間の虜になっていた。
晴れの日も、雨の日も、ホロホロとした雪が降る季節になっても……。暇さえあれば、あの十字路の端っこで行き交う人々を地蔵のように見ていた。
違和感を覚えるようになったのは、ノートが埋まっていくなかで、そろそろ二冊目を買わないと行けなくなったときのことだった。
夜、肌寒いベッドのなかでノートを読み返した。指で文字を追いながら、書き込んだ人たちのことを思い返した。
しかし指はたびたび止まった。動き出しても、途中で指はまた止まった。最初はその理由さえ分からなかった。それでもなんとか指を動かすが、ページを捲ることさえままならない
手先がとうとう完全に止まってしまったとき、僕は一つの答えに辿り着く。
その人たちの顔を、思い出せなかったのだ。
あれほどつよく求めていたものが、これほど安易に消費されていくことが恐ろしかった。凍えそうになった。そこでようやく、自分が誰かにとって掛け替えのない存在になりたかったのだと気が付いた。
自分が求めているものと、現実の行動がちぐはぐになっている。書き連ねたノートを見返せば、その歪さは明らかだった。
この過ちに気付いてはいたけれど、名前をつけることもできなくて、ただ「僕は失敗してしまったのかもしれない」というぼんやりとした後悔が胸で渦巻いていた。
魚町銀天街の十字路に立っても、話しかけられない日が続いた。自分が相手の顔を覚えていないように。ここで話しかけるすべては、ほんの一時の無意味を生み出すに過ぎないのではないだろうか。そんな考えが、行動を鈍らせていった。
僕が求めていたものが、ノートの中にはないことを知ったなら、どこかで終止符を打たなければいけないのだろう。僕はそのタイミングを、心のどこかで図っていた。
駅前のイルミネーションと、柔らかい雪がしらしらと奇麗に降っていた日に「終わりにしよう」と、ゆっくり心で決めていった。
商店街の通りも少し足跡で濡れていた。雪で交通網にはすでにダイヤの乱れが発生していた。人通りはいつもよりずいぶん少なかった。仲良くなった客引きの青年たちもいない。
次に来た人には声をかけようと決めたとき、正面を歩いてきた。背の高い、眼鏡をかけた三十代半ばくらいの女性と目があった。
背中に翼が付いていたらそのまま飛べてしまいそうなほど、線の細い女性だった。
もしかすると女性ではなく、人に擬態した鳥のようだった。未知へと足を踏み入れる不安、高揚感。僕が彼女を見つけたとき、どうしてか彼女も僕を見ているようだった。
彼女の顔へ視線を向けたとき、相手もまた、すでに僕へ向かって歩いていた。
「久しぶり」
なんとなく目が離せなくなって、気付けば僕は彼女へ声をかけていた。
すると、彼女は本当に心底驚いた様子で目を見開いた。
「……久しぶりね、ハルキ」
それは予想を大きく外れた返答だった。
ハルキ。彼女は僕をハルキと呼んだ。しかし僕はハルキではない。
この女性のなかで、何かボタンをかけ間違えたような出来事が起きていることは明らかだった。
「わたしに会いに来たの?」
不安そうに尋ねてくる彼女に僕は何と答えていいか分からず「そうかもしれない」と笑ってみせる。
「わたしが、ハルキを殺したのに?」
息を吐く。
きっと幻を見ているのね、と。あまりに寂しそうに笑うから。いつの間にか僕は、「ハルキ」として振る舞うように、ゆっくりと心の舵を切っていた。
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