蛹を盗んだ夜に

久々原仁介

蛹を盗んだ夜に≪上≫

 大学生の頃、「久しぶり」と見知らぬ人に話しかけてみるという遊びにハマっていた。


 理由などない。ましてやそこに意味など求めてもない。それでも強いて挙げるとするなら「アナタは個性がない」と言って僕を振った元彼女への当て付けだった。

吐いて捨てるほどいるような、量産型の「僕」という人間の自虐行為だったのかもしれない。


「久しぶり」


 駅前から続く商店街の通りを真っ直ぐ抜けた先にある十字路で、客引きの青年らに混ざって僕がいた。

 夕方から夜にかけて商店街は人通りが多く、声をかけるにはうってつけの場所だった。男だろうが、女だろうが、足を止めてくれれば誰でも良い。


「久しぶり」


 この言葉は僕にとっては魔法の言葉だ。

社交的な人間であればあるほど、僕の声掛けは効果的だった。知り合いに扮した僕を、相手は無視することができなくなり、迂闊にも挨拶を返す。


「久しぶり」


 誰もが、最初は困惑の表情を浮かべる。

記憶のなかで一致するトランプをめくるように、名前と顔の照合が始まる。


「え? あぁ……久しぶり」


 何かを言わないといけない、そんな焦りから相手は適当な返事をする。苦し紛れの時間稼ぎ、でもそれは次の一手を考えさせる時間を与えるという意味では悪手だ。


「最近、あの居酒屋来ないじゃん。どうしたの?」


 ここで相手に考える暇を与えてはいけない。


「いや、どうだろ、そんなに行ってないっけ」


 笑顔。笑顔。笑顔。

 個性のない、うっすらとした笑みをつくる。

 相手も思い出そうと必死だ。少しでも情報を得て、僕という人物を思い出そうと必死に思考を巡らしている。


「そうだよ。なに、仕事忙しいの? てか、いまは何の仕事って言ってたっけ?」


 相手の疑問をすり替えるように質問で返す。ここまで持っていけば話は軌道に乗っていく、相手も情報が欲しいから話が止められない。


 僕の嘘は真実味を加速度的に増していく。


 僕が特別な存在になる必要なんかない。記憶のどこかでいないはずの僕を探そうとするとき、相手の心には必ず隙ができる。それに合わせて僕は言葉を選ぶ。

なかには本当の知り合いのように会話が弾むこともあり、最後まで真実を明かさないまま、ご飯を一緒に食べることもあった。声掛けを始めて三カ月も経つ頃にはいつの間にかプロ意識のようなものが芽生えていた。


★2019年5月4日 17時54分

名前:赤木雄太

 性別:男 20代半ば

 仕事:製造業

 情報:若く、気さくな好青年。製造だが技術職ではないため給料が安く、転職活動をするか迷っている。3年付き合っている彼女はいるものの、体付きが好みではないため結婚する気はない。10歳離れている職場の人妻と関係をもっている。


★2019年7月4日 18時32分

名前:瀬良みゆ

 性別:女 30代前半

 仕事:保育園の事務、ラウンジ嬢

 情報:半年前に彼氏に浮気されて別れたが、身体の関係だけダラダラと続けている。新しい彼氏は欲しいけど、最近通い始めたコンカフェの推しキャストが好きすぎて貢いでいるため資金的に余裕がない。趣味は裁縫。料理系ユーチューバーになりたいが口癖。


★2019年10月22日 20時11分

名前:羽柴優斗

 性別:男 20代後半

 仕事:システムエンジニア

 情報:職場の管理者がエンジニア上がりではなくマネジメント業務専門なため、役に立たないことが不満。結婚はしているが、妻だけEDに悩んでいる。勃起薬などを飲んで一時改善するが射精ができないことにさらに悩んでいる。将来的に子どもは欲しい。新築を立てるか悩んでいる。


 僕はいつからか、声掛けに成功して一緒に食事をした人の記録まで付けるようになっていた。


 まるでスポーツのようだ。


 会話のなかで拾い集めた情報をノートに書き連ねる時間が好きだった。電気も消して、カーテンも閉めて、スマホのライトで手元だけを照らす。「僕」が何者でもないという領域を抜けて、存在ごと消えてしまいそうな、この真っ暗な時間が好きだった。


 もちろん、すべての声掛けがうまくいくわけではない。特に自分との接点がない人ほど、声掛けは難航した。


 性別が違う。年齢が離れている。生活ランクの差異。難しさは人それぞれである。


 それでも僕は見知らぬ誰かの振りをして、縁もゆかりもない通行人に話しかけ続ける。接点がない人ほど足を止めてくれたときの感動は大きかった。脳汁が出るというやつだ。


 ほどよいリスクとそこから生まれるスリリングな駆け引き。ひとりひとりがバリエーションの豊富な反応をする。いつの間にか僕は、その魅力的な時間の虜になっていた。


 一方で、冷静な顔も僕にはあった。


 本当は、誰かにとってかけがえのない存在になりたいと思っていた。その他大勢ではなく「僕」を、誰かではなく「僕」を。自分だけを見てほしいという幼稚で切実な願望が段々と大きくなっていくのを感じた。


 そんなひどくありふれた願いが、胸の奥でじくじくと膿んでいく。

 コンプレックスは肥大する。


 自分が求めているものと、現実の行動がちぐはぐになってズレていく。書き連ねたノートを見返せば、その歪さは明らかだった。どこかで終止符を打たなければいけないと思っていた。


 そんなとき駅前のイルミネーションと、柔らかい雪が奇麗に降っていたから、今日で終わりにしようと思った。


 商店街の通りも少し足跡で濡れていた。

 次に来た人には声をかけようと決めたとき、正面を歩いてきた。背の高い、眼鏡をかけた若い女性と目があった。

 背中に翼が付いていたらそのまま飛べてしまいそうなほど、線の細い女性だった。

 僕が彼女を見つけたとき、どうしてか彼女も僕を見ているような気がした。ゆっくりと彼女の顔へ視線を向けたとき、彼女もまた、すでに僕へ向かって歩いていた。


「久しぶり」


 なんとなく目が離せなくなって、気付けば僕は彼女へ声をかけていた。

 すると、彼女は本当に心底驚いた様子で目を見開いた。


「久しぶりね、ハルキ」


 それは予想を大きく外れた返答だった。

 ハルキ。彼女は僕をハルキと呼んだ。しかし僕はハルキではない。それだけは確かだった。

 この女性のなかで、何かボタンをかけ間違えたような出来事が起きていることは明らかだった。


「わたしに、会いに来たの?」


 不安そうに尋ねてくる彼女に僕は何と答えていいか分からず「そうかもしれない」と笑ってみせる。


「わたしがハルキを殺したのに?」


 息を吐く。

 きっと幻を見ているのね、と。彼女が薄く笑うまで、僕は言葉を失っていた。

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