雨に消えゆく

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雨に消えゆく

 雨が降りしきる夜だった。

 雨粒は、無数の針のように地面に降り注いでいた。

 アスファルトの道に叩きつけられるたびに、水しぶきが四方に飛び散り、小さな水たまりが次々と広がっていく。水たまりに落ちた一滴一滴が輪を描き、その輪が幾重にも重なり合って、まるで夜の闇の中で生きているかのように、揺らめいていた。

 暗闇に包まれた街は、雨に打たれて音を立て、息をひそめたように静まり返っている。湿気を含んだ冷たい風が吹き抜け、肌に触れるたびにその冷たさが骨身に染み渡るようだった。

 そんな町を、学生服姿の少年が傘を手に歩いていた。

 少し細身の体型をしていて、どこか頼りなさを感じさせる少年だ。

 彼の顔立ちはやや幼く、髪は短めの黒髪で、前髪が少し目にかかるほどの長さに整えられている。身長は同級生の中でもやや低めで、体つきもどちらかと言えば痩せ気味だ。

 名前を藤原ふじわら慶太けいたという。

 中学生だ。

 慶太は、黒い傘を片手に持ちながら、ゆっくりと歩いていく。

 彼は、塾からの帰り道にあるコンビニエンスストアから帰る途中だった。

 時刻はすでに午後十時を過ぎており、あたりはすっかり暗くなっている。コンビニの外に設置されているゴミ箱には、食べ終えた弁当やサンドイッチなどのゴミが大量に捨てられていて、周囲に嫌な臭いを漂わせていた。

 店の中には、まだ数人の客が残っていて、雑誌を読んだり、立ち読みをしたりしている。

 そんな光景を見たからか。

 いや、この雨の夜という状況に慶太は、憂鬱な溜息を吐き出した。

 勉強は嫌いではない。成績も上位で、学年でもトップクラスに入ることが多い。

 だからといって学校が好きかというと、それはまた別の話だ。

 朝になったらまた学校に行かなければならない。そう考えると、自然と足取りが重くなってしまうのだ。

 しかし、そんなことを考えていても仕方がないと思った。

 足元に広がる大きな水たまりを避けながら、慶太はとぼとぼと家路を目指した。濡れたアスファルトの上に響く自分の足音が、やけに大きく感じられ、まるで誰かに追いかけられているかのような錯覚に陥る。

 不意に、背後から水溜りを踏んだのが聞こえてきた。

 まるで池にヒキガエルが飛び込んだかのような、そんな音だった。

(……え?)

 思わず振り返る。

 だが、そこには誰もいない。

 ただ、暗い夜道が続いているだけだ。

 気のせいかと思い、前を向いて歩き出そうとしたときだった。

 今度は、すぐそばではっきりと音がした。

 何かが水に落ちるような音。そして、ばしゃっと水が跳ねる音。

 慶太は思わず足を止めると、音が聞こえた方に目を向けた。

 そこに見えたのは、一人の女の姿だった。

 傘は持っていない。

 白いワンピースを着た女は、長い黒髪が雨で濡れ、顔に張り付いている。

 その姿は、まるで亡霊のように不気味で、現実とは思えないほどの異様さを放っていた。慶太の目は釘付けになり、体は凍りついたように動かない。

 女は、水浸しになった道路を、ゆっくりと。それでいてしっかりとした足取りで歩いている。彼女の視線はどこを見ているのか分からず、虚空を見つめていた。明らかに普通じゃない状態だ。

 慶太は動けなかった。

 いや、恐怖のあまり体が動かなかったと言った方が正しいだろう。

 女がこちらに顔を向けた。

 その瞬間、女の口が三日月のような形に歪む。

 慶太はぞっとした。

 逃げなきゃまずいと思ったが、足がすくんで動けない。

 その間に、女はどんどんと近づいてきた。

(お願いだから、通り過ぎて……)

 慶太は心の中で必死に祈った。

 しかし、声を出すことすらできない。恐怖が喉元を掴み、言葉を飲み込んでしまった。

 そのまま通り過ぎて欲しいと慶太は願ったが、願いもむなしく、女は彼の目の前で立ち止まった。

 慶太の心臓は、まるで爆発しそうなほど激しく鼓動していた。喉がカラカラに乾き、息を吸うことすら忘れてしまったかのようだ。目の前の女は、まるで彼の思考を読み取ったかのように立ち止まっている。

 慶太は傘を差しているにも関わらず、彼の額からは冷や汗が滲み出し、背中を伝って流れていった。恐怖で固まった体は鉛のように重く、彼の意志とは裏腹にまったく動こうとしない。

 目を逸らそうとしても、何かに引き寄せられるかのように、女から視線を離すことができない。

 女の三日月のような歪んだ口元が、さらにゆっくりと広がっていく。唇から白い歯が覗いた。歯が剥き出しになり、血のように赤い歯茎が見える。

 その笑みは、まるで彼の恐怖を楽しんでいるかのようで、目の前の現実が一層不気味なものに感じられた。慶太は胸の奥に込み上げる冷たい絶望を感じ、体が無意識に後ずさろうとしたが、足は石のように硬直して動かなかった。

 女は腰を落とすことなく、上半身と首を曲げる。まるで植物が枯れる寸前に最後の力を振り絞って花開くかのような動きで、彼女は慶太の顔を覗き込んだ。

 女の顔が目の前まで迫ったかと思うと、生暖かい息が顔にかかった。

 慶太の視界に、女の顔が一気に近づいた。濡れた黒髪が頬に張り付き、彼女の顔は、まるで長い間光に当たっていないかのような病的に白く、それでいて細面の顔は整っていて美しいものだった。

 だが、それが逆におぞましく感じられる。その表情に浮かぶ瞳は黒く濁っており、底知れぬ闇が広がっているように見えたからだ。

 慶太はその目を見た瞬間、全身に鳥肌が立ち、背筋に寒気が走るのを感じた。この女は本当に人間なのか? そんな疑問すら浮かんでくるほどだった。

 いや、そもそも目の前にいる女は本当に生きているのだろうか……?  そう思った瞬間、得体の知れない恐怖に襲われて叫び出しそうになったが、喉の奥で声が詰まり、声にならない呻きとなって漏れ出るだけに終わった。

 体は石のように硬直し、逃げたい一心で脳が命令を下すが、体はまったく反応しない。女の顔がこれ以上近づくのを許してはいけないと、頭では理解しているのに、どうすることもできなかった。

 その瞬間、女の裂けた口がさらに広がり、不気味な声が響いた。

「……あなた。私と同じね」

 慶太の視界が揺れ、世界がゆっくりと閉じていくような錯覚に陥る。意識が遠のいていき、体から力が抜けていった。もはや立っていることもままならず、彼はその場に崩れ落ちるように倒れ――――。

 奈落に落ちるかのような感覚と共に目を覚ますと、そこはベッドの上だった。

 天井にある小さな常夜灯の下、慶太は目だけを動かし周囲を見回す。カーテンの隙間からは淡い光が差し込んでいた。どうやらもう夜は明けているようだ。

 彼は額に手をやると、ほっと息を吐いた。

「また。あの時の夢か……」

 小さな声で呟くと、布団に全体重を預けるかのように体を脱力させる。背中にじっとりと汗が滲んでいて気持ち悪かった。

 あれは4日前の雨の日の夜の出来事だった。

 それから何度も同じ夢を見るようになったのだが、その度に嫌な汗をかきながら目が覚めるのだった。


 ◆


 校舎の窓から差し込む夕方の光が影を長く引き延している。

 廊下はオレンジ色の光に照らされており、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 そんな中を慶太は歩いていた。

 廊下の角を曲がると、すでにその恐怖が待ち構えていた。

 ガラの悪そうな3人の中学生たちが、たむろし談笑しあっている光景だ。端から見れば無邪気な笑い声が、慶太には鋭い刃のように感じられる。彼の歩みは自然と鈍り、逃げ場を探しているように辺りを見回したが、見つかった以上、逃げ道はどこにもなかった。

 まるで自分が小さな獲物であり、彼らがそれを狙う猛獣であるかのように思えた。

あつし……)

 慶太は、中心に居るソフトモヒカン頭の少年・筋砂すじさあつしに目をやった。彼こそがこのグループのリーダー格であった。

 慶太は思い出したように廊下を引き返そうとする。

「おい。慶太」

 篤の声が背後から響く。

 慶太は恐る恐る振り返った。篤は飲みかけの缶ジュースを手にしたまま、友人たちを引き連れ、冷笑を浮かべてこちらに歩み寄ってくる。その目には挑発と楽しみの色が浮かび、慶太に何を求めているのかは明白だった。

「昨日のこと、考え直したか?」

 篤が問うた。

 慶太は無言で首を横に振った。

「おいおい、何も悪いことじゃないだろ?ちょっとの間だけ、店に入って、欲しいものを持って出てくるだけだ。簡単だろ?」

 篤は軽い調子で言ったが、その声には冷たい意図が含まれていた。

「僕は……嫌だ」

 慶太は小さな声で言った。自分の言葉が震えていることに気づき、それを聞かれたくない一心で、視線を足元に落とした。

 その瞬間、篤は一瞬の沈黙を持て余したかのように、次の一手を考えるように口角を上げた。

「ふーん。そんなに嫌なら、仕方ないな」

 篤彼はわざとらしく肩をすくめ、友人たちと目を合わせた。次の瞬間、彼らは一斉に慶太を取り囲み、逃げ道を塞ぐように立ちふさがった。

「断るとどうなるか、分かってるよな?」

 篤の声が鋭くなり、慶太の心に鋭い針を突き立てる。

 慶太は息を呑み、身を縮めた。

 逃げ出したい。

 叫びたい。

 しかし、どれもできない自分が、ますます惨めに思えてくる。彼はただ、うつむいて耐えるしかなかった。周囲の空気が重くなり、彼の視界がぼやける。篤たちの笑い声が耳の奥で響き、頭の中で反響する。

「じゃあ、今度また考え直しておけよ。俺たちはいつでも待ってるからな」

 篤は手にしていた缶ジュースを傾けると、慶太のズボンのポケットに向けて中身をぶちまけた。水滴が飛び散る音が響き渡り、床にジュースが広がった。その光景はまるで、自分自身が無残にも踏み潰されているような感覚に陥りそうだった。

 慶太は自分の服に視線を落とすと、悔しさのあまり唇を噛んだ。

 だが、反論もできず、顔を上げることもできない。ただただ無力感に打ちひしがれることしかできなかったのだ。

 3人は笑いながら去っていく中、慶太だけが取り残されていた。残された彼の周りにあるのは静寂だけで、誰もいない廊下はまるで廃墟のようだった。


 ◆


 慶太は、いじめられていた。

 中学生になってからずっと続いている出来事なのだ。きっかけは何だったのかはもう覚えていないし、今となってはどうでも良いことだった。

 いじめが始まった当初は抵抗していたが、やがて無駄だと思い知らされたのだ。今では抵抗する気力もなくしてしまったため、されるがままになっている状態だ。このままではいけないと思いつつも何もできずにいる自分に嫌気が差してくるものの、打開策など思いつくはずもなかった。

 だから慶太は学校が嫌いだった。

 地域に近いというだけで寄せ集められてしまった生徒たちの中には、自分と似たような境遇の人間もいるかもしれない。

 だが、彼らもまた自分と同じように絶望を感じているに違いないと思うと、どうしても心が折れてしまう。

 もしかしたら自分は、永遠にこのままなのかもしれないと思うこともあるほどだ。

(もうこんな生活から抜け出したい)

 そう思う反面、どうせ自分には無理だという思いもある。きっとこの先も同じような苦しみを味わい続けるのだろうという諦念があった。

 そして何より怖いのは、この苦痛に慣れてしまいそうになることだった。いっそ完全に壊れてしまえば楽になれるのかもしれない。

 そんな思いが頭を過るが、それでも慶太が幸福を感じられる場所が学習塾だった。

 小学生の時に親に無理やり行かされた勉強だったが、今はそれが唯一の心の拠り所となっているのだから皮肉なものだと思った。

 学校が終わり学習塾での一時を過ごす。

 塾では同じ学校の生徒も居たが特に親しくなることもなく淡々と授業を受け続けた。休憩時間は誰とも話すことなく過ごしており、自分から話しかける勇気はなかったからだ。他の生徒も同じように思っているようで、お互いに距離を置いていたように思う。

(僕は一人なんだ)

 慶太は常にそう思っていた。だからこそ孤独に耐えることができたとも言えるだろう。一人で居ることは辛くないと言えば嘘になるが、他人に干渉される煩わしさに比べればまだマシだと思えたのである。

 今日も学習塾で過ごした慶太は暗い空を見上げた。

 空はすでに夜の帳に包まれているだけでなく、雨がすでに降っていた。

 今夜は雨が降るらしいと天気予報が言っていたことを思い出す。傘は事前に持ってきていたので問題はなかった。

 傘を開くと慶太は歩き出した。

 雨が傘を叩く音が周囲に響く。

 慶太は傘を差しながら、ひとり歩道を歩いていた。街灯の明かりが濡れたアスファルトに反射して、光の粒がちらついている。彼は、いつもの帰り道を何気なく進んでいた。

 いつも通るコンビニ前を通るが、駐車場に車が無いことに気づいた。普段なら車が止まっているハズなのにおかしいと思ったが、そのまま通り過ぎていくことにしたのだった。

 ふと立ち止まり店内を見ると、そこにも誰も居ないことが分かった。立ち読みをしている客はおろか、レジに居るハズの店員の姿さえ見当たらないのだ。

(変だな……)

 そう思いながら、再び歩き始める。

 どこか胸の奥に不安がよぎるのを感じていた。

 慶太はふと足を止め、辺りを見渡した。

 雨は強くなっており、傘の表面を叩く音がやけに大きく響いていた。普段なら聞こえるハズの車の音や人の話し声も、今夜はまるで消え去ったかのように、静寂が支配していた。そんな異様な静けさが、彼の不安をさらに煽る。

「……気のせいだよな」

 慶太は自分に言い聞かせるように呟いたが、心の中の不安は消えなかった。彼はもう一度、傘の中で立ち尽くし、周囲を見回した。視線の先には、暗い道が続いているだけで、誰もいないように見えた。

 だが、その時、遠くから何かが聞こえてきた。それは足音のようだった。水たまりを踏みしめる、湿った音が一定のリズムで近づいてくる。慶太は息を呑み、音の方向に目を凝らした。暗闇の中、ぼんやりとした人影が徐々に浮かび上がってきた。

 慶太の胸は緊張で固くなり、全身に冷たい汗が流れるのを感じた。彼は無意識に後退ろうとしたが、足は重くて動かなかった。近づいてくる人影が、次第に鮮明になっていく。

 それは、あの白いワンピースを着た女だった。彼女の姿は、まるでこの世のものではないかのように、闇の中に浮かび上がっていた。長い黒髪は再び雨に濡れ、無表情な顔には生気がなく、冷たい闇の底から這い上がってきたかのようだった。

「あれは……」

 慶太は声にならない声で呟いた。彼の心臓は恐怖で激しく鼓動し、逃げ出したいという本能が全身を支配していたが、体はまったく動かない。彼女が再び現れたという事実が、彼の思考を麻痺させ、目の前の光景を受け入れることができなかった。

 そして、さらに恐ろしいことに、女は何かを引きずっていた。

 暗くて最初は何を引きずっているかは分からなかった。

 だが、距離が縮まって来るに連れて、その姿がはっきりと見えてくる。

 女は人の脚を握っていた。

 引きずられていたのは、人だ。

 男だと思ったのは服装からだが、派手なスカジャンの下に見えるのは、見慣れた制服だ。その生徒は仰向けになり、力なくうなだれていていた。

 彼の制服は雨と泥で汚れており、まるで生気を失ったように力なく地面を引きずられていた。

 慶太の心臓が冷たくなる。

 なぜなら、慶太はその人間を知っていたからだ。

「篤……」

 引きずられているその少年は、間違いなく篤だった。

 彼をいじめていた主犯格の篤。普段は威張り散らし、誰もが逆らえないような存在だった篤が、今、無残にもこの女に引きずられているのだ。

 女はゆっくりとした足取りで、篤を引きずりながらさらに近づいてくる。

 その足音が一歩一歩、慶太の心に恐怖の爪を立てた。

 慶太は動くこともできずに立ち尽くしているしかなかった。逃げなければと思う一方で足がすくんで動けなかったのだ。

 引きずられるアスファルトには血と肉片がこびりつき、篤の体が地面を引きずられるたびに、アスファルトには赤黒い血の筋が伸びていった。雨はその血を洗い流すことなく、逆にそれを滲ませ、まるで広がっていく不気味な絵の具のように見えた。

 肉片が無惨に地面にこびりつき、篤の服や髪に泥と混じり合う。

 慶太は心の中で叫びたかったが、喉が凍りついたかのように声は出なかった。彼の脳裏には、篤の威張り散らす姿や、恐怖で泣き叫ぶ自分の姿が交互に浮かんだ。篤はいつも強く、そして残酷だった。

 女は、慶太が立ちすくむその目の前で再び立ち止まった。

 長い黒髪が濡れた顔に貼り付いており、その下に隠れた表情は依然として見えない。

 しかし、その存在感は、まるで深い闇の中から這い上がってきた何かのように、不気味で圧倒的だった。女が放つ冷たい気配が、慶太の体を凍らせ、動けないまま立ち尽くさせていた。

 女の首がぎこちなく動き、慶太の方へ向いた。彼女の顔が見えると、慶太の体は瞬間的に硬直した。女の目は暗闇の中で虚ろに光り、その口元には再び三日月のような歪んだ笑みが浮かんでいた。

「ケイタ……」

 篤がかすれた声で囁いた。その声は風に流され、慶太の耳にかすかに届いた。

 だが、その声を聞いた瞬間、慶太の心は震えた。篤を助けなければという衝動が彼の中で激しく燃え上がったが、それ以上に恐怖が彼を支配していた。

 体はまるで石に変わったかのように重く、足は地面に根を張ってしまったかのように動かない。心の中では逃げ出したい一心だったが、女の異様な存在感が彼を縛りつけていた。

 女は再び篤を引きずりながら、慶太のすぐ横を通り過ぎようとしていた。

 その瞬間、慶太は恐怖で目を閉じた。だが、目を閉じたところで、彼の頭の中には篤の苦しそうな顔と、女の虚ろな目が焼き付いて離れなかった。

 その時、慶太の耳に篤の言葉が響く。

「助けて……」

 と。

 慶太が目を開けると、篤が慶太に向かって手を伸ばしていた。震える手は寒風に晒されたように赤くなり、血の気を失っていた。その手を取ろうとして、慶太も手を伸ばす。

 慶太は篤の手を掴んだ。

「……今助けるよ」

 慶太は篤に呼びかける。

 彼の手を、女から奪うように強く引く。

 篤は慶太の行為に目を細め、涙を滲ませる。引きずり回され誰も彼を助けてくれなかった。絶望の中に生まれた唯一の希望が慶太だった。

 だが、次の瞬間、篤は絶望する。

「……なんてね」

 篤は、そう聞いた。

 掴んでいたはずの慶太の手が、するりと抜けたのだ。

 篤は唖然としたまま、慶太を見上げることしかできなかった。何が起こったのか理解できなかったのだ。

 慶太は表情に見たこともない影を落としていた。

 その行為に女は口の端を左右に広げ笑った。

 そして女は、また篤を掴んだまま歩き出すのだった。


【ひきこさん】

 口角と目尻が裂けた顔をした非常に背が高い女性で、体にはボロボロの白い着物を纏っている怪異。

 雨の日に子供の亡骸を引きずって現れるとされ、別の子供を見つけるととてつもないスピードで追ってきて、その子供を捕まえると肉片になるまで引きずり続け、決まった場所に連れて行き放置する。

 彼女は自分が受けた酷いいじめに対する恨みから、子供を捕まえては肉塊と化すまで引きずり回しているのだという。

 元は背が高く成績優秀で顔も可愛く心優しく先生からも可愛がられていた少女であったとされ、怪異化した原因は前述の「妬みによる他生徒からのいじめ」の他「両親の虐待」として語られるパターンもある。

 ひきこさんの本名は「森妃姫子もりひきこ」は「ひきこもり」のアナグラムであると考えられており、彼女の特徴である子供を引きずるという行為にもかかっている。

 残忍性・暴力性の高い怪異だが、いじめられている子は襲わないという性質がある。


 篤は離れて行く慶太に手を伸ばし、

「助けて、助けて……」

 と掠れた声で何度も叫んだが、慶太は冷めた目で見下ろしているだけだった。それは今まで彼が見たことがない冷酷な目だった。

 篤の声が慶太の耳に届くたびに、慶太の胸の奥に冷たい何かが広がっていった。

 だが、慶太はその感覚を無視するように、篤を見送る。冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、二人の間に広がる闇を一層深めていた。

 篤の声は、次第に弱々しくなり、やがて雨音と共にかき消されていった。慶太はその声を受けながら、何も言わず、ただ立ち尽くしていた。篤の姿は女に引きずられながら、徐々に闇の中へと消えていった。

 女が完全に視界から消え去った後も、慶太はその場に立ち尽くしていた。

 冷たい雨は、まるで彼を取り巻く世界が静かに息を潜めるようだった。

 彼の胸の奥に広がる冷たさは、次第に別の感情に変わっていった。それは恐怖でも罪悪感でもない、もっと不気味で捉えどころのない感覚だった。


「……ふふっ」


 気づけば、慶太の口元がゆっくりと歪み、笑みが浮かんでいた。その笑みは最初は小さなものだったが、徐々に大きくなり、やがて彼の全身を震わせるような笑い声に変わっていった。


「ははは……」


 その笑い声は、雨に濡れた夜の街に不自然に響いた。自分でも理由がわからないまま、笑いが止まらない。まるで篤が引きずられていく姿が滑稽だったかのように、彼は笑い続けた。

 しかし、その笑いの中には、どこか歪んだ何かが潜んでいた。それは人間らしい感情を超えた、冷酷さと狂気が入り混じったものだった。慶太は自分の中にあるその変化に気づいていながらも、止めることができなかった。

 慶太は笑いながら、夜の闇に向かって歩き出した。

 彼の笑い声だけが不気味に響き渡る。

 誰もいない夜の街に、その笑い声はいつまでも消えずに残り続けた。

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