街灯ー透田理恵子の独逸日記

吉田理津

1. ズッキーニとトマトと透田理恵子

 ある初夏の昼下がり、ドイツのとある町の住宅地の空には、灰色の雲が広がっていた。まだ電灯のついていないリビングには、太陽が、ぶ厚い雨雲を頼りなげにくぐり抜け、うっすらと光を投げていた。

 私は、つい二か月前に自宅になった瀟洒な古いアパートメントの廊下で、二児の母となった苦悩を、まるで自分の身ひとつに背負っているかのような感覚に襲われて、ただ、途方に暮れていた。

 そうした気持ちになったきっかけは、五歳の長男が、私に頭突きをしてきたことである。彼は恐竜が好きで、頭突きを得意とするパキケファロサウルスのように、私にぶつかってくるのが、最近のお気に入りだった。怒るのが良いか、叱るのが良いか、耐えるべきなのかを思案しているうちに、今度は長男を真似て、次男も、満面の笑みを浮かべながら私に激突した。

 兄を真似たくても、まったく同じ事は、二歳児にはまだ難しい。兄が私の背中をめがけて、多少なりとも力を抜いて追突してきたのに対して、弟は私のおなかを的にして、外見はあくまで可愛らしい黒髪の小さな石頭を、加減もせずに、ただ、ぶつけてきたのである。

 私は、「おうっ。」と呻いて玄関ドアのちょうど内側にうずくまった。顔をあげると、開いたドアを通してリビングの食卓が、にじんで見えた。子ども用の白い木製の椅子の足元には、子ども達が食べ散らかしたクロワッサンのかけらが、弧を描いている。

 さらに奥、段ボール箱の無造作に積み重なった部屋の隅には、アパートをリノベーションをした時に作りつけたらしい木枠があって、それが白壁と床の境界線を作っていた。その木枠の裏、奥深くに、蟻が通路をこしらえて、部屋に頻繁にやってくるのを、私は知っていた。子ども達が食べこぼしたパンやお菓子を狙って、蟻が食糧確保にくるのである。掃除機をかけても、ワックスをかけても、まだやってくる。粘着クリーナーをかけても、赤ちゃん用のウェットティッシュで拭いても、怪獣のような子ども達は、食べるたびに、悪気なくこぼすのである。それは、机の下とも限らない。ソファの上であることもあれば、テレビの前であることもある。

 お腹のあたりを見ると、弟怪獣が、黒髪にご飯粒をつけていた。

「もう嫌あ!!」

  私の絶叫は、響き渡った。天井を仰ぎ、三秒ほど途方に暮れていた後、呼び鈴がなったことに気がついた。よろけながら玄関ドアを開けると、大家であるマダムが、ただ静かな空気を纏って、じっと私を見ていた。

「ズッキーニとトマトはいかが?」

 上品な声には、僅かな疑いが混じっていた。厳しく叱っていると思われたのだろうと思った。マダムは、まるまると太った、ざらついた緑の肌のズッキーニと、赤く熟れたつるつるのトマトを私に手渡した。熱くも冷たくもない夏野菜の穏かな温度は、私の身体全体に浸透していき、硬くなっていた全身をほぐしていく。

 階段を上るマダムに、私は一言「ありがとう。」とお礼を述べた。

 マダムは動きを止め、余裕のなかった私に、理解と慈愛の眼差しをもって、微笑した。孤独と焦燥が薄らいだ私を背に、マダムはまた階段を上り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

街灯ー透田理恵子の独逸日記 吉田理津 @ritsuy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ