愛の美醜
煌星伊野
愛の美醜
これより綴ることは飽くまでも私の思想であり、価値観であり、個人の見解であり、持論である。正解ではなく、人生を深く知らぬ、臆病な人間が語る戯言と思い読んで欲しい。
愛とは水である。人は皆、愛の器を持っており、そこに愛の液が入っている。愛の形という言葉をよく耳にするが、厳密に言えばそれは愛の形ではなく、愛の器の形に過ぎない。愛の水は色も味も人で異なり、その器もまた、形大きさ素材が異なる。ここでの色とは感情であり、味はその人の愛の定義、素材は愛への思いの強さである。大きく頑丈な木の器に、桃色の水が零れんばかりに入っている者もあれば、小さく脆弱な硝子の器に、青色の水が二口も飲めば空になる程しか入っておらぬ者もある。人は前者を幸福の人間とし、後者を不幸の人間と決めつけた。幸不幸は己が価値観が正解ではあらず、未来に何が起こるかを絶対に言い当てることは出来ないというのに、人というのは今と過去の情報のみで、未来を決めつける。灼熱で蒸発し乾くかもしれぬし、慈雨が降り満たされるかもしれない。愛の器が形を変えることは無いが、壊れたり治されたり、もしかすると買い換えたりするかもしれない。愛とはそれほどまでに曖昧で不思議で、脆く儚く、強かで在るのである。
よく聞く無償の愛とは何か。それは全ての者に等しく存在するが、愛よりも感じることが非常に難しい、普通の愛と異なる液だ。色や味は違えど、量は皆等しい。一例として、過去の赤子の人体実験で、愛がなければ子は生きれぬ事がわかっている。人は、科学的に言えば男女の性交によって孕まれ産まれ誕生したが、非科学的に言えば、愛によって生み出された生物であるのだ。ここで勘違いしないで欲しいのは、無償の愛は平等に存在するが、愛は平等には存在しない。それ故に、愛に飢えた者は満たされた者を羨み、憎み、妬く。自分が他に劣っているということにプライドが傷つき、耐えられないからだ。そしてそれはやがて黒く染まり、黒き衝動で他者を、あるいは自身を害す。人は愛に愛され、奪われ、育まれ、壊され、堕とされ、殺される。愛ほど美醜を備え、人に強く影響を及ぼすモノを、私は今までの人生において見て感じたことは無い。恐らくこの命潰える時まで、それを知ることは無いだろう。仮に知ったとしても、この、愛という変幻自在で十人十色、白昼夢のように儚く朧げなこの存在を、私は忘れることなどできない。
愛と対をなすもの。国語辞典を引けば憎しみだが、マザー・テレサの言葉に従うならば無関心だ。対という概念の定義から語れば話が長くなるので省くが、対の例を二つあげる。まず、絶対と相対。絶対の反対は相対であり、相対の反対は絶対であり、これが覆ることは無いだろう。しかし、これはどうだろうか。悪の対義語。これは、人によって変化する。辞典には善、または良と記されているのだが、正義という人もいる。因みに私は善が悪の対義語だと思っている。これを説明するには、戦争が最も適しているだろう。第二次世界大戦の米国と日本。勝者は米国。この戦争で日本は数多の英霊を生み出した。米国とて英霊が生まれた。面白いのは、どちらも自分を正義、つまり善と言い、互いに互いを悪と罵ったことだ。勿論彼らの中にはそのような利己的な考えをしない者もいたであろう。しかし、ほとんどの人間が自分の考えを皆の総意と思い込み、主観的な考えとは一切疑いもしないのは、実に滑稽である。私からすれば、戦争を犯している時点で両者とも悪だ。言ってしまえば、正義など人が己の悪を正当化する為に生み出した言葉に過ぎない。しかし、それに気づかず悪の対義語として正義を語る人が決して愚かであるということは無い。いや、私からすれば愚かなことこの上ないが、それは飽くまでも私の、その人の思想であり価値観だ。自分の思想や価値観を他者に語るのは好きにすればいいが、その人のそれを、己の価値観で否定し傷付けることはあってはならない。その結果、戦争という愚物ができる一つの要因となってしまったのだから。
回りくどい話をしてしまったが、要は対義語は人によって変化する場合があるということだ。それは愛も同じことが言える。愛をそれに対する関心や想いであるとするならば、その対義語は無関心である。一方で、愛を慈しみや敬い、甘さ、厳格であるとするならば、その対義語は憎しみだろう。しかし私はこう思う。どのようなものにも対をなすものはあると言われるが、愛は例外で、それがないのではなかろうかと。もっと言えば、愛は対となるそれら全ての要素と意味を持つ言葉ではないかと。言葉は対義語・反対語がなければ成り立たないが、ひとつにそれらが納まっているのであれば話は変わってくる。愛は他と別枠の存在なのだ。
愛は人によって大きく異なる。それは同じ国の人間であってもだ。それはその人の性格、環境、思想の違い故だ。愛の器は幼少期頃から出来初める。それ以外で大きく影響を及ぼすといえば、思春期くらいだろう。それ故に、その時の環境、思想に、器の出来が左右される。そしてそこに性格も加わるのだから、愛が異なる理由がよく分かるだろう。
私の母は厳格さと甘さを備え持つ人であった。身の回りの事は自分でやりなさい。家族といえど、この家に共同生活しているのだから、できるのならば簡単な家事でいいのでしなさい。そして成人し働けるようになったなら家を出なさい。と、小学校五年生の頃からよく言われていた。実際は、いつまでも洗濯物を出さなかったら、いつの間にか洗濯機に入っていた。中学に入ってからは、頼まれ事は余程の事情がない限りは請け負っていたし、自主的に家事をすることもあった。そうすると褒められ、時偶お小遣いを貰えたので、私はそれが夏にする、蝉の抜け殻の採集程度には好きであった。私と同じような思いであったかは定かでないが、姉も家事はやっていた。四つ違う姉は私より多く家事をしていた。もう自分で稼げる歳なのでお小遣いはなかっただろうが、共同生活をしていると理解していたであろうし、優しさもあったということもあり、弱音を皆の前で吐くこともなくやっていた。しかし、兄は違った。
私の二つ上であり姉の二つ下である兄は家事など頼まれてもすることは無かった。それどころか身の回りの事も粗雑で、母によく叱られていた。しかし兄は素知らぬ顔で冷房をつけっぱなしにし、電気代を喰っていた。昼夜問わずゲームに怒り怒鳴っていた。学校にも禄に行かず、部活に対しても不真面目でいたというのに。そのような利己的な内面の癖して、運動神経と美術感覚、友達には恵まれていた。真面目にも行っていない部活の試合で、県の八番目にまで上り詰めていた。美術感覚も、私の分も奪ってしまったのではと疑いたくなる程で、美術の先生によく褒められていた。友達も多く、教室では人気者だった。勉学は不得手であったが、それを補える程の才を、兄は持っていた。運動神経、美術感覚、友達___。兄の持つものは、私の持たぬものでもあった。私は勉学はそこそこであったが、運動神経は兄弟で最も悪かった。大勢で群れる事が元々好きではないこともあるが、友達は少なかった。友達の多さの一般がよく分からぬが、兄より少ないことには変わりない。美術も通知表の評価が三以外になることなど決してなかった。私の唯一得意な歌も、兄は数ヶ月の練習で勝ち取った。私は数年合唱倶楽部や動画で練習していたのに。それでもたまに見せてくる不器用な優しさに、私は棘のある物言いをしながらも内心、嬉々として尻尾を振った。卑怯だと罵る自分を同居させて。そんな兄に、私のような弱い人間が、羨望と嫉妬の感情を向けぬままになどできようか。私は兄が嫌いだった。
長々と話したこの兄は、愛を求める人だった。親の愛を受けなかったなどではない。兄の愛がどうなのかは視えぬので推測でしかないが、大きな通学鞄に、見るだけで甘ったるい味がするような液が、小匙四杯程度。そしてその通学鞄には、微かに桃色の混じった赤色の液の雨が、少しずつ量が減りながら降っている。こんなところであろう。父のいた頃は、その桃色も鞄に当たるのみで、中に入りなどしなかっただろうし、まだいい方だと言える。父はモラハラ男で、その上暴力も振るっていた。他にもいろいろあり、父が家出したことをきっかけに離婚した。父との交流は、偶に余所余所しく行事に誘ってくる程度だ。こんな父でも、機嫌が良ければ優しいし、多少甘やかしてくれる。暴力を振るった後は大抵謝ってくるので、上二人と違って私は嫌い切れなかった。けれど、二人は私と受けた暴力の重さが違うから、当然ではあった。そんな父の影響もあり、兄は私と姉とは違う愛を求めた。愛の器が出来初めるであろう幼少期からの暴力、兄弟の真ん中、そして思春期のストレス。こんな状況で、愛が私と違うものにならない方が難しいだろう。無論、同じような境遇であったのは、私や姉とてそうだったのだが、これは性格の違いだろう。どれだけ他者に愛を注いだとしても、その人と愛が異なれば、それは愛しているとは言えない。ただそう思い込んだ、注いだ者の自己満足である。そして時にその愛はその者の愛の器を、心を蝕む。身勝手な愛は、自他共々壊す。私と違って、兄は受け止めきれなかった。強く厳しい愛なんぞ。しかしそれも愛であり、醜く美しい。愛に藻掻き苦しむ様ほど神々しく、美醜たる人間に似合うモノはない。
元来人間は、時に愛のためならば喜んで全てを捧げる。例えそれが己であっても、欲求であっても。
人間は脆い。心が弱まり穴が空くと激痛が走り、その穴を埋めようと甘言に縋る。それを手放さまいと、己が身を捧げる。そうやって、弱者は強者に飼われる。これは宗教と呼ばれるものだ。宗教側は強者として弱者に甘言を吐き、弱者を愛玩動物のように飼い慣らす。信者は弱者として強者の甘言を聞き、強者を飼い主として崇める。どちらも人間である。人間は良くも悪くも、自分を階級に入れたがる。自分から囚われに行こうとしているのだから、被虐嗜好を疑わざるを得ない。これは決してもっと傲慢であれという意味ではない。もっと自由であれということだ。その者の為にその身を捧げ、その他の欲求をも押し殺し、まわりなど見えなくなる。やがて人は愛の奴隷と成り果てる。これは宗教だけに言えることではない。誰かに尊敬し畏怖し、愛を捧げた者の末路である。他者から見ればそれは狂った人間だが、愛の奴隷達にはその声すら届かない。愛に溺れてしまったが最後、人は堕ちる。それは私では計り知れぬほどの人間美を放っている。
この世には愛が存在する。それが世の理か、人間の考えた戯言でしかないのか。或いは、愚かなる人間へ天が与えし罰か救済なのか。それを確定させる術は無い。その愛にも純愛、性愛、恋愛、最愛、色々ある。どれも、人間の愛の器や液が異なる故に生まれ、それが世間に広まり、その先の人々の愛の概念の根幹に植え付けられたものだ。…いや、もしかすると、これらは古来より人間の奥底でできていた氷で、少しずつ溶けるそれが、無意識に愛の液に加えられてきた。そして長い年月をかけ、溶け終わり、近代に言葉として誕生した。という方が、私の思う愛にあっているかもしれない。多く綴った私も、愛とはなにかなど見当つかない。これらは飽くまでも私の主観だ。だからといって、存在しない虚空の正解を求め彷徨い我が生を捧げる程、私は馬鹿では無い。だがそんな馬鹿がいても、きっと楽しいだろうし美しいだろう。私は馬鹿になるなど御免被るが、愛は、己の本能が決めた形が良い。それが最も愛を輝かせる。何と神々しくあることか。
愛の美醜 煌星伊野 @dano35L
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