第3話
役場に到着すると、橋爪は脇目もふらず史料館へと向かった。古い木造の建物で、風鳴なのか壁がピシピシと音を立てている。中年男性がカウンターの中で暇そうに携帯電話をいじっていたが、橋爪の姿を認めると慌てて姿勢を正した。無理もない、客など滅多に来ないのだろう。
橋爪は彼に名刺を渡し、何やら話し掛けている。こういうとき、大学教授という肩書はとてつもない効力を発揮する(らしい)。ものの数分で中年男性は奥へ引っ込んだ。どうやら、役場内にいる上司に話をつけに行ったようだ。
「君はここで待っていてほしい。私はまず、話を聞いてくる」
伊崎は、素直にうなずきつつ、そこはかとない不安を感じていた。頭では、「振り向いてはならない」という言説など、話を盛り上げるための脚色に過ぎないと分かっている。しかし、この史料館内に一人取り残されることは心細い。昭和時代の、いわゆる「旧校舎」と言われるような建物は、おそらくこんなふうではあるまいか。そう思わせるほど古びた棚に、所狭しと本が並んでいる。かなり古いものばかりのようだが、おそらく歴史的価値は計り知れないだろう。
やがて中年男性が、一人の人間を連れてきた。真っ白な髭を生やした老人だ。村長なのか、それともとうに肩書などないような重鎮か。いずれにしても、役場内で一目置かれている人間のように目された。
「この方が話を聞かせてくださるらしい。君はここで、例の伝承が載っていそうな文献をあらためておいてくれ」
「分かりました」
橋爪は、老人たちとともに奥の小部屋へと消えてしまう。
とたんに、首筋がまたちりちりとざわつき始めた。振り返ってはならないと思うほど、背後に何かがいるような気がして仕方がない。車を降りてからここへ至るまで、何度かうっかり振り返ってしまいそうになり、その度に伊崎の心臓は動きを速めた。
気を紛らわすためにも、二口女に関する記述を探すことにする。タイトルから当たりをつけ、目次を確認する。それを繰り返すだけの地道な作業だ。
しかし、本棚の並びに足を踏み入れたところで、伊崎は激しく後悔した。死角だらけなのだ。目の前にある本の隙間を、ふと何かが横切った気がする(ただの目の迷いだった)。背後にある本棚の向こうで、何かの衣擦れが聞こえた気がする(自分の襟足が、シャツの襟首にこすれた音だった)。一瞬、頭上の蛍光灯が点滅した(ただの接触不良だろう)。大慌てで本を見繕い、何冊かを重ねて脇に挟む。
史料館の中央には、幅広のテーブルがある。そこであれば死角は生じないし、恐怖も和らぐだろう。足早に本棚の隙間から脱出し、テーブル上に本を積んだ。
一冊目、収穫なし。二冊目、収穫なし。三冊目、「十四、大喰ひ女房」の頁を開くが、二口女とは関係なし。四冊目、収穫なし。
腐ってもゼミ生だ。資料をめくっているうちに落ち着きを取り戻していく。慣れた作業に没頭する時間が、心身を平常の状態へ戻すのに一役買ったようだ。
五冊目の目次を開いてから、ふうっとため息をつく。知らぬ間に呼吸を止めていたのだ。何度か深呼吸を繰り返し、心臓が規則正しく脈打っているのを感じた。
目次には、やはり二口女に関わりそうな文章が載っていない。「よつすば様」について、これだけ大掛かりに対策をしている村なのだ。文献などいくらでも見つかりそうなものなのだが。
やがて、伊崎の思考は本を離れ、あらぬ方向へとたゆたい始める。
窓の外から聞こえる喧噪。級友たちがドッジボールに興じているのだ。そして、静まり返った図書室。日に焼けた紙の匂いがした。聞こえるのは、司書が図書原簿をめくる音だけ。昼下がりの休み時間。
小学生の頃の記憶だ。
――僕は、「もくじ」という物語を読んだことがある。
いつまで経っても忘れられない奇妙な経験。その経験をしたことが、伊崎をこうした伝承の世界へ引きずり込んだと言っても過言ではない。
小学一年生の頃だったと思う。
そのときの伊崎は、まだ「もくじ」という言葉の意味を知らなかった。本の最初に章立てが書いてあるのは知っていたが、それと「もくじ」という言葉が結びついていなかったのだ。だから彼は、毎回「もくじ」という文字を見て、こう思っていた。
――本の最初には、その本に入っている話のタイトルが全部並んでいるはずなのに、この「もくじ」って話は読んだことないなあ。どこに書いてあるのかなあ。
「もくじ」を探して、本を初めから最後まで繰ってみたこともある。当然、「もくじ」という物語は見つからない。
しかしある日、彼は本当に「もくじ」という話を本の中に発見した。それが彼の捏造した記憶なのか、それとも本当に「もくじ」と題された掌編があったのかは定かでない。少なくとも、大学生になってから伊崎が自身で調べた限りでは、「もくじ」という物語を収録した本は見つけられなかった。
内容ははっきりと思い出せない。しかし、どことなく不気味な話であったことは覚えている。
突然、肩を叩かれた。
「わっ」
思わず声を上げてしまったが、振り返ることは耐えた。
「驚かせてしまったかね? すまない」
聞き覚えのある声。そのまま、声の主は移動し、伊崎の視界へと入って来た。
「橋爪先生。思いのほか早かったですね」
「うむ。興味深い話が聞けた。後で話すよ。こちらの進捗はどうだい?」
「芳しくないですね」
橋爪は鼻を鳴らした。初めから分かっていた、とでも言うように。
「そうだろうな。調べ物はもういい。史料に当たる必要はもうなさそうだ。材料はもう十分そろっている」
「え、もう二口女の疑問が解決したんですか?」
「材料がそろったというだけだよ。確証は、まだ三割というところかな。でもまあ、今日のところはこれでいいだろう」
民泊「小鹿荘」は、普通の民家に無理矢理増設を重ねたような、歪な見た目をしていた。玄関から部屋へと案内されるまで、ずっと線香の匂いが鼻の辺りを漂い続けた。
「ここの屋根には、弁如像はないんですね?」
何気ない調子を装って、橋爪が女将に問い掛ける。橋爪の両手にはビニール袋が提げられている。ここへ向かう道中、寂れた八百屋で袋売りの菖蒲の葉を買い込んできたのだ。季節外れだが、乾燥菖蒲なるものがあるらしく、それは年中購入可能なのだそうだ。伊崎が何に使うのかと問い掛けても、橋爪は「後で必要になる」としか答えない。もしかしたら先生もあの話を怖がっているのかもしれない、と考えて、伊崎は少し親近感を覚えた。
女将は、櫛で留めた白髪を揺さぶって答える。
「ないちゃ。この前壊されてしもうたけね。誰かのいたずらやっち思うが、地面に落ちて粉々になっちょった。今はとりあえず、安い瓦を代わりにはめてあるちゃ」
伊崎と橋爪は顔を見合わせる(もちろん、勢い余って「振り返る」動きにならないよう注意して、だ)。村の東西南北にある弁如像が壊された。そしてこの民宿でも、弁如像が破壊されたと言う。この符号をどう捉えればよいか、伊崎にはまだ分からない。
迷路のように入り組んだ廊下を抜け、一番奥の部屋へ案内される。八畳一間で、宿泊施設としては手狭だ。畳の上に、布団が重ねられている。女将は一通りの設備を説明し、引き上げていった。
待ちかねていたように、伊崎は橋爪を問い詰める。
「先生、一部屋ってどういうことですか?」
「ん? その方が安上がりだろう?」
「そういう問題じゃないです。男女なんですから、何というか、不道徳です!」
不道徳、という言葉に橋爪は声を上げて笑った。
「君が私を襲うとでも言うのかい?」
「そんなことしません!」
「ならいいじゃないか」
そんなこんなで言いくるめられ、伊崎は釈然としないまま座布団の上に腰を下ろした。窓にはカーテンが引かれているが、隙間から、陽が落ちかけているのが見えた。橋爪は菖蒲の袋を開け、せっせと何かを作っている。
「何してるんですか?」
「菖蒲を編み込んでいるんだよ」
「見れば分かります。僕が聞きたいのは、何のために――」
「悪いが、後だ。陽が落ちる前に片づけてしまいたい」
集中モードだ。伊崎は話し掛けることをあきらめ、スマートフォンを手に取る。電波はあるが非常に弱い。インターネットは使えないだろう。伊崎は端末のメモ帳を開き、今日見聞きした話を入力し始めた。
橋爪は鞄をごそごそやって、何か道具を取り出しているようだ。覗き込んでみたい気もするが、「振り返る」動作になってしまってはよくない。それに、橋爪が約束を違えたことはない。後で必ず種明かしをしてもらえるはずだと自分に言い聞かせ、努めて気にしないようにする。
しばらくして、伊崎は異変に気付いた。この部屋を除けば、周囲が静かすぎるのだ。田舎とはいえ、喧騒と無縁なわけではない。先ほどまで、蝉の声がやかましく響いていたはずである。こんな急にぱったりと止むのは不自然だ。
カーテンに目をやる。陽はすっかり落ちている。
「急に静かになったね」
橋爪も気付いたようだ。伊崎は座ったまま後ずさり(もちろん後ろは見ない)、橋爪の横に並ぶ。彼女は顎に手を当てていた。
「準備は整った。来るならいつでも来い、という感じだよ」
橋爪の言葉には緊張感のかけらもない。無論、伊崎を安心させるためにあえてそういう口調を選択しているのだろう。
「私なりに考えたことを話してもいいかな?」
「え、今ですか?」
「今だからだよ」
橋爪はにやりと笑い、ぐい、と上体を捻った。「振り返る」動作だ。
「ちょっと先生!」
慌てて止めようとするが、間に合わない。橋爪は後ろを振り返っていた。
沈黙。
「――何も起きない?」
「ははは。そんなに怖がって、かわいいところがあるんだなあ」
からかうように橋爪が言う。
「今日役場で聞いた話を教えてあげよう。二口女の怪異について、正体を探るヒントになる」
「ヒント?」
「確かに、この村には二口女の伝承があった。千葉さんが語ってくれたようにね。弁如像が菖蒲を被っているのも、確かに二口女の話に由来する魔除けらしい。しかし、大きな違いがあった。この村の伝承には、『後ろを振り向いてはならない』なんて文言はないんだよ」
伊崎は固まる。だとしたら――。
「千葉さんが嘘をついていたということですか?」
「そう。だから、二口女と『見るなのタブー』がなぜ融合したのかを考える意味はないわけだ。彼女は何らかの意図をもって、我々に『振り返るな』と刷り込んだ」
「なぜ――」
「そう、『なぜ』だ。これが口承文芸の本分、なぜそれが語られたのかを推測せねばならない」
「先生は答えをもう見つけているんですよね」
「当然だ。その前に、これを被っておこう」
伊崎の頭に、何かがあてがわれる。強い葉の香り。手をやると、ざらついた感触が指先に伝わった。
隣では、同じように橋爪が緑色の何かを頭に被っている。
「菖蒲で作った帽子、ですか」
「気休めかもしれないが、あると安心だろう? 弁如像の物真似だよ」
橋爪は舌を出してみせる。どこまで本気なのか、いまいち分からない。
「弁如像と言えば、この村の東西南北にある弁如像が壊されたという話があったね」
「ええ。この民泊の瓦像も壊されたと言っていましたね」
「それはおそらく本当だろう。だが、東西南北の弁如像について言えば、そもそもそんなもの存在していないんだ。役場で裏も取った」
二口女を封じている弁如像。それがそもそも存在していない。当然、それが壊されたという話も、千葉の二つ目の嘘ということだ。だとしたら、彼女が橋爪に相談する動機そのものがなかったことになる。なぜ、自分たちはここへ呼ばれたのか――。
「『振り返る』ことに話を戻そう。なぜ千葉さんは『後ろを振り向いてはならない』と語ったのか。至極単純な理由がある」
「単純な理由?」
「一つ、怖い話をしようか。ネットを中心に知られる、とても短い話だ。怖い話の体を成していないかもしれない。でも、まずは聞いてもらおう」
橋爪はにんまり笑い、こほんと咳払いをする。さながら、怪談師の所作じみていた。
「私たちは、たまに背後に気配を感じることがある。風呂場で髪を洗っているとき。誰もいないリビングでテーブルに向かっているとき。夜道を一人で歩いているとき。たいてい、気配を感じて振り返っても、後ろには誰もいない。『なんだ、気のせいか』――そんなふうに思って、私たちは前方に向き直る。しかし、何かは居るんだよ。後ろではなく、真上に」
肌が粟立った。「振り返る」動作をしたところで何も起きないのは、橋爪が先ほど身をもって証明してみせたばかりだ。しかし、上は――。
「『振り返るな』と言われれば、我々は極力前を見ようとする。そして、意識は常に後方へと向けられる。何かの拍子に後ろを見てしまったとしてもそれは変わらない――もう分かるだろう。『振り向いてはならない』という言説は、我々の注意を水平方向に固定するために語られたんだ」
照明が消えた。
伊崎は弾かれたように天井を見上げる。闇の中を、何かが走り抜けた。
――天井を這っている。
「我々が菖蒲を被っているから襲えないんだ。愚かだな」
橋爪が右手を持ち上げる。カーテンの隙間から差し込む月明りに、何かが一瞬きらめいた。
空気銃だ。
「食らえ、バケモノ」
引き金が絞られた。一発、二発、三発。
天井の何かが悲鳴を上げた。それは、二重になった地鳴りのように聞こえた。
それは長い髪を振り乱していた。その隙間に、大きく開かれた口腔と、長い舌が見える。蜘蛛のように這いながら、換気扇のダクトへと消えていく。
ワンピースと思しき裾がダクト内に吸い込まれると同時に、明かりが点いた。先ほどまでと変わらない部屋がある。
橋爪が、銃口に息を吹きかけた。
「菖蒲を弾に詰め込んでみたんだ。名付けて菖蒲玉。効果抜群だったろう?」
へなへなと全身の力が抜けていく。伊崎は情けない笑みを浮かべることしかできなかった。
そこからの展開は早かった。橋爪と伊崎は荷物をまとめて本館へ出向き、料理の準備をしていた女将を捕まえる。
橋爪は、大学から緊急招集の連絡が入ったとか何とか、もっともらしい理由を並べて宿泊をキャンセルした(もちろん、全額お支払いだ)。女将は呆気に取られていたが、何か事情があると察したのだろう、何も言わず送り出してくれた。去り際に、橋爪は女将へ、早急に弁如の瓦像を用意するよう言い含めた。
車に乗り込むと、伊崎はぼやいた。
「結局、帰りも車中泊ですね」
「まあそう言うな。あそこで眠って、あいつに寝顔を覗かれるのは嫌だろう? よっぽど弱体化させたと思うが、私は除霊師ではないからな。確かなことは言えない」
橋爪は苦笑いしながらミニクーパーを発進させる。
「最初から、こうなる予定だったんですか? 危険に晒されないように、わざと僕を同室にしたりして」
「いや? 全ては成り行きだ。何もなければ普通に泊まるつもりだった」
「さすがにそれは嘘ですよ」
「本当だとも。私は君と同衾してもよかったんだぞ?」
「同衾って、アブナイ言葉を使わないでください」
車は大通りを進む。千葉邸がすぐ先にあるはずだ。
なんとなく、二人して神妙な顔つきになる。
「結局、今回の依頼はどういうことだったんですかね? 千葉さんが二口女だったんですか? それとも、彼女の娘さんが?」
「さあね。あの暗がりでは、二口女の人相なんて分かりはしないからな。そもそも、こちらには後頭部しか向けていなかったんだ。分かるのはつまり、我々は今回誘い出されたということだけだ」
「誘い出されたって、何に?」
「怪異に。危機感のかけらもない餌、というところだな」
車は千葉邸へと差し掛かる。
そこに家があった形跡はなく、荒れた空き地だけが広がっていた。
よつすば様 ~口承文学者・橋爪怜の怪異譚~ 葉島航 @hajima
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