第2話
目的地と思しき地区に辿り着いたのが、正午近くだった。橋爪は車をコインパーキングに乗り入れる。都心の料金設定に慣れている身として、最大料金は目が飛び出るほど安かった。
伊崎は車を降りて伸びをする。睡眠はとれたものの、身体の重さが普段の三倍になったように感じた。とは言え、道路に沿って流れる川、遠方にそびえる山を見ていると、肩や腰の痛みが次第に和らいでいくようにも感じる。
「なかなかいいところじゃないか」
伊崎の心のうちを読み取ったように、橋爪もそう言う。
「のどかなところですね。ゼミの合宿でいいんじゃないですか?」
「いかんせん遠すぎるがね。でも、君の言いたいことは分かるよ」
伊崎と教授のやり取りは、普段と比べて格段になめらかだ。何せ、一晩を共にした仲なのだ(というと幾分かの語弊があるだろうが)。
「あ、ここにも弁如像が」
「なに、どこだ?」
伊崎は道路を挟んだ向かいにある家の屋根を指さした。その後で、違和感に顔をしかめる。
橋爪も同じものに目を留めたようだった。
「あれは、頭に何か巻いているな」
「何でしょう? 葉っぱ?」
「見て来る」
言うが早いか、橋爪は道路を渡り、その家の敷地内へ踏み入ってしまう。
「ちょ、先生、だめですって」
慌てて伊崎も後を追う。だめだ、好奇心に突き動かされて、周りが全く見えていない。ゼミ生である彼にはそのことがよく分かった。
幸運にも、その家の住人は留守だったらしい。橋爪たちは侵入者として通報されることもなく、比較的間近で弁如像を見ることができた。
「これは、菖蒲だな」
「菖蒲ですか? こんな時期に?」
菖蒲と言えば、端午の節句を真っ先に思い出す。九月の今頃に、なぜ菖蒲なのだろうか。
そして、なぜこの弁如像は、手拭いのように菖蒲の葉を被っているのだろうか。
「興味深い。後で史料館でも訪ねて、この件を詰問せねば」
詰問。今、詰問って言ったよ、この人。
伊崎は微笑んだまま、身を震わせる。本当にやりそうで怖い。
二人はその家の敷地を後にし、道沿いに歩き始める。日差しは強いが、東京のようなアスファルトの照り返しも、むせるような湿気もない。風が吹けば汗が渇くような、爽やかな気候だ。
ガードレールの向こうには、階段状の段差があり、河原に降りていけるようになっている。こんな場所で幼少期を過ごしてみたかったと思わせる、典型的な田舎だった。
小学生と思しき一団が、川に入って遊んでいる。大人の姿がないのが気になったが、彼らも慣れているのだろう。石を並べて流れをせき止め、足首までの浅いため池を作ってサワガニを探しているようだ。泳ぐわけでもなさそうだから、よほど事故の危険もないだろう。
伊崎学生は、なぜこんな時間に小学生がいるのかと首を捻る。数瞬後に、今日は土曜日だということに思い当たり、頭を掻いた。講義が終わってから怒涛の勢いでここまで連れてこられたのだ。曜日感覚が麻痺しても仕方あるまい。
「微笑ましいな」
橋爪も、らしくないことを口にしている。
子どもたちは、はしゃぎながら、何かを歌っているようだ。
――こんげなもうたあ、みんじょくれ。こんげなもうたあ、みんじょくれ。
そんな言葉を繰り返している。
「あれ、何て言ってるんでしょうね」
何の気なしに伊崎が呟いたとき、一団の中で最も年長と思しき少年が、大声を張り上げた。
「あんまりふざけてると、『よつすば様』に取って食われるぞ!」
まずい、と思ったときには、橋爪はすでにガードレールの向こう側にいた。
階段を一段飛ばしに駆け下り、子どもたちの方へ向かっている。完全に、好奇心だけで動いてしまっていた。
「君たち、ちょっと聞いてもいいかなあああ?」
突然走って来る黒ずくめの知らない人。子どもにとってはこの上ない恐怖体験だろうし、確実に通報案件だ。やばいやばいやばい。
「きょ、教授! いけません! いけませんよおお!」
伊崎学生も慌てて後を追う。
駆け下りてくる二人を見て、子どもたちが悲鳴を上げる。伊崎学生は、頭のどこかで冷静に、なんだこの地獄絵図は、と思っていた。この疲れ果てた身体で、なぜ声を張り上げながら斜面を下らねばならないのか。その上、なぜ子どもたちに悲鳴を上げられなければならないのか。
ふと、昨晩の車中泊を思い出す。一メートルと離れていない場所で、無防備に寝顔をさらす橋爪教授。否が応でも耳に入って来る、彼女の静かな寝息。
伊崎学生は思った。
――あ、これでも釣り合わないくらいご褒美もらってるわ。
通報まで覚悟した伊崎学生の思いをよそに、橋爪と子どもたちはすぐ打ち解けていた。何というか、怪異を追っているときの彼女は、子どもたちと精神年齢が近いのだろう。口が裂けても言えないけれど。
「それで、さっき『よつすば様』って聞こえたけど、それって何なの?」
橋爪の問い掛けに、子どもたちが顔を見合わせた。年長の少年が代表して答える。
「いや、僕らも詳しく知らないっす。こういう田舎に住んでる怖いお化けで、帰るのが夜遅くなったり、悪いことをしたりすると、その子のところに来るって」
「それは大人から聞いたの?」
子どもたちはうなずく。
「家でも聞くし、学校の先生からも言われたことある」
どうやら、ここらでは「よつすば様」がしつけ鬼の役目を担っているらしい。悪いことをすると鬼(お化け)が来るよ、というアレだ。
「ぼく、他にも知ってるよ! 『よつすば様』はね、『にろめ様』とも言うんだよ」
「にろめ様?」
「うん」
「あ、それうちも聞いたことある!」
子どもたちが口々に言い始め、収拾がつかなくなりそうだった。それを断ち切るように、橋爪が問う。
「さっき言ってた、『こんげなもうた』って何なの?」
「うーん、よく知らない。『よつすば様』を追い払うお経?」
「え、違うよ。ぼくは、『よつすば様』の鳴き声って聞いた」
「うちのばあちゃんはねえ――」
――こんげなもうたあ、みんじょくれ。
彼らが先ほどまで無邪気に口にしていた呪文だ。ここでヒントを得るのは難しいだろう。橋爪も同じことを思ったようで、シャツの砂を払いながら立ち上がった。
「みんな、いろいろ教えてくれてありがとう。勉強になったよ」
それから、民家の屋根を指さす。
「最後に、あれだけ教えてくれない? 屋根にあるお坊さんの像に、なんで帽子が被せてあるの?」
子どもたちは再び顔を見合わせた。
「お坊さん?」
「あれだ、弁如様の」
「ああ、弁如様のお人形か」
口々に言う。どうやら、子どもたちにも弁如像のことは浸透しているらしい。
「あれは、『よつすば様』を追い払うための守り神さまだよ」
弁如像が守り神。そもそも、瓦像を魔除けのために用いている地域も多い。不思議なこととは思えなかった。
「それで、帽子は?」
橋爪は、菖蒲の葉について聞き出そうとする。
「帽子? あの葉っぱのこと?」
「そう。どうしてこの辺の弁如様は、葉っぱの帽子を被ってるんだろうなと思って」
子どもたちが妙な顔をした。口を一文字にして、首を捻っている。
「他のところでは、弁如様は葉っぱを被ってないの?」
「結局、『よつすば様』の正体は掴めずじまいでしたね」
伊崎が言うと、橋爪は「そうでもないさ」と明るく言った。
「『よつすば様』がどんなものかは分からなかった。でもそれはこの後依頼主に会えば、嫌でも教えてもらえるだろう。それよりむしろ、ああいう周辺的な情報がおいおい役立ってくれることの方が多いものさ」
「周辺的な情報?」
「別称が『にろめ様』であること。それを追い払う呪文、あるいはそれの鳴き声が認知されていること。そして、弁如法師の瓦像がそれへの対抗策であること。それに――」
「ここでは、弁如法師が菖蒲を被っていることが当たり前である、ということですね」
「そのとおり」
道は川沿いを離れ、住宅街へと差し掛かっていた。東京都心と比べれば一軒一軒に距離こそあるものの、何軒かが並び立っていて何となくほっとした心持ちになる。
「そら、そこが依頼主の家らしい」
橋爪は、道路に面した一軒の家を指さした。何の変哲もない、どちらかと言えば新しく見える民家だった。
呼び鈴を押すと、しばらくして家主と思しきワンピースの女性が出てきた。
年は六十前後だろうか。痩身で髪が長く、どこかやつれた印象を受ける。しかしそれ以外は、身なりも小ざっぱりとしていて、特に妙なところはなかった。
二言三言挨拶を交わした後、橋爪と伊崎は応接間へと通される。
外観からも見て取れたとおり、それほど古い家ではなさそうだ。最低限の家具が置かれ、床には埃一つ見えない。ただ、日当たりの関係だろうか、妙に仄暗くどこを見てもグレーのベールが掛かっているように思える。
「わざわざいらしていただいてすみません」
「いえ、こちらこそ、貴重なお話をお聞かせいただく機会をいただきましてありがたいです。早速ですが、ご依頼の件についてお伺いできればと思いますが」
千葉と名乗った女性の物腰は柔らかい。ソーサー付きで差し出されたコーヒーからは、湯気がふわふわと立ち上っている。
「ええ。この地域では『よつすば様』という妖怪について伝承があるんです。それ自体は、取り立てて目新しいところのないただの言い伝えなんですが、最近不気味な出来事が続いていて、それでご相談の連絡をさせていただいた次第です」
そうして、千葉は、その伝承を語り始めた。
「よつすば様」の発生は江戸時代まで遡る。それはもともと人間の女だった。通りを歩けば、十人中十人が振り返るほどの美貌をもっていた一方、自分を中心に世の中が回っているような振る舞いを見せていたらしい。名家の生まれでもないくせに人を顎で使う姿は、多くの人の反感を買っていた。しかし、若い男相手となれば話し上手に床上手。歪んだ性格を巧妙に隠し、言葉巧みにすり寄ったという。おかげで、幾人もの男性と浮名を流してきた。
そんな彼女は、やがてある商人と恋仲となり、結婚することになる。男は決して顔がいいと言えなかったが、蚊一匹殺さないような優しさをもち、そのおかげで商売も繁盛しかなりの金を持っていた。女にとっては、願ってもない玉の輿である。男には前妻との間にもうけた娘がいた。村中の誰もが知るおしどり夫婦だったが、流行り病で妻が没し、さらには娘もその病魔に侵されていた。男は悲しみに暮れながらも、娘を治療するためにあらゆる努力を惜しまなかった。
女は、見せかけの優しさで彼に付け込んだのである。
当然、連れ子に対する愛情などかけらもない。むしろ優雅な暮らしをしたい彼女にとって、その娘は金食い虫以外の何ものでもなかった。娘が弱って口もきけないのをいいことに、女は娘の飯をこっそり捨て、薬を便所に流し、障子にわざと隙間を作って凍えさせた。
あるとき、旦那が遠方の医者を頼ってしばらく留守にすることになった。哀れな旦那は、自分の嫁がそんな悪行に手を染めているとは露知らず、娘のことを頼んで長い旅へと出る。
女はこれ幸いと、娘をさらに追い詰めた。勝手に女中へ暇をやり、食事や薬など当然与えず、あまつさえ飢えた彼女にすり潰した漆や毒キノコを飲ませた。
娘はあっけなく命を失った。女は医師と葬儀屋に金を握らせ、手早く葬儀を執り行った。そして女自身は、病死した継子を悼む後妻を演じたのである。
飛脚から知らせを受けて慌てて戻った旦那に、彼女は泣いてすがりつく。自分が悪いんです、私がもっとちゃんとあの子のことを見ていれば、などの戯言を吐きながら、心の奥底ではしめしめとほくそ笑んだ。優しい夫は、自分の腕の中にいるのが娘を殺した主犯格だと知らぬまま、「誰のせいでもない、寿命だったのだ」と言い聞かせた。
女はいよいよ家の財産を自由にできることになった。娘を失った悲しみを打ち消すためか、旦那は一層商売に励むようになり、金はたまる一方である。とは言え、急に態度を変えるのはよくない。そう考えるだけの知恵は女にもあった。
娘が亡くなってからひと月の間、女は、こんなものを食べたい、あんな服を着たいと夢想しながら我慢を重ねた。やがて、彼女の身体に異変が起きる。
後頭部に、ぷつぷつとできものが現れたのだ。虫に這われたか、それとも漆をすり潰したときに汁が飛んだのか――女は当初、気にしていなかった。しかし、そのできものは治まる様子を見せず、むしろ日に日にひどさを増していた。不思議なことに、女は痛みもかゆみも感じていなかった。
それはやがて一直線につながり、まるで後頭部にミミズが埋まっているような有様になった。さすがに旦那も心配し、医者に診せるよう進言する。女はしぶしぶそれに同意した。
いよいよ医者に診せようという前の晩、その腫れ物は裂けた。女はやはり痛くもかゆくもないようだったが、裂け目から膿が垂れ、布団を汚す。女の後頭部を間近に覗き込んだ旦那は、腰を抜かした。裂け目の中には、人間のものと同じ歯と歯茎、それに舌が動いていたからだ。
その口は、妙に幼い声で、高らかに宣言した。
――あの子を殺したのは、あたし。
「二口女、ですね」
話を聞いていた橋爪が、そう呟く。
千葉も頷いた。
「ええ。全国的にも有名な話かと」
「そうですね。関東の方が発祥で、古くは江戸時代の『絵本百物語』に記載があります」
伊崎は黙って聞きながら、二口女、と反芻した。
子どもたちは「にろめ様」という別称を教えてくれた。ふたくち、の漢字をカタカナ読みして二ロメ、か。興味深い言葉遊びだ。
「この辺りの弁如像が菖蒲を巻いている理由も分かりました。二口女にはいくかのパターンがあります。日中は小食なのに、夜中になると後頭部にある口で大量の食べ物を食べる、という比較的無害なもの。それから、明確な害意をもって人間を襲うもの。後者では、刀に似ている菖蒲の群生地に逃げ込んだおかげで、二口女から逃げ延びた、という話があります」
「そのとおりです。この地域では菖蒲を被った弁如が魔除けになっているんです」
「『よつすば』という呼称には、何か意味があるんでしょうか?」
「この辺では唇のことを『すば』って言うんです。勝手な推測ですが、唇が顔と後頭部に二つずつある、つまり『四つ唇』という意味ではないかと」
千葉の説明に、なるほど、と橋爪はうなずいた。
「話を聞く限り、ここで伝わっている『よつすば様』――二口女の言い伝えと、他の地域で聞かれる伝承とでは、それほど大きな差異はないように思います。でもきっと、それだけではないんですよね?」
橋爪がそう水を向けると、千葉は首を縦に振った。
「ええ。この辺りでは、ほんの少しだけ話に続きがあるんです」
「どのような?」
「別に取り立てて目新しいものではないんです。子どもたちがよく怖がっているあれですよ。話はこう続きます」
千葉は、居住まいを正してからこう言った。
――この話を聞いた人は、翌日の朝日が昇るまで、後ろを振り向いてはならない。
伊崎は生唾を飲み込む。「この話を聞いた人は」で結ばれる怪談は少なくない。聞き手に害を及ぼす類型だ。さっちゃんに関する噂話を聞いた人は、枕元にバナナを置いて眠らないとさっちゃんに殺される。テケテケの話を聞いた人のところには、一週間以内にテケテケが現れる。「ムラサキカガミ」という言葉を二十歳になるまで覚えていたら命を落とす。
「振り向いてはならない、ですか」
「ええ。もちろん誰も本気していませんし、実際に誰かが憑き殺されたなんて話も聞きません。でも――」
「何か、異変が?」
橋爪が問いかけたそのとき、階上からゴトン、という音がした。千葉は慌てた様子で立ち上がる。
「すみません。二階に娘がいるんですが、少し様子を見てきますね。今日は来客があると伝えておいたんですけど」
会釈し、応接間から出ていく。廊下を歩くスリッパの音、それから階段を上る軋みが聞こえてきた。
伊崎はなんとなく、声を発せずにいる。橋爪も同じようで、二人して耳をそばだてる形になった。
薄い天井を通して、千葉の声が漏れ聞こえてくる。
――××ちゃん、投げちゃったの? また壊れちゃうじゃない。今日はお客様が来るって言っておいたでしょう?
幼児に話し掛けるような声音だ。ぐずる我が子をなだめすかすような、そんな口調。
――ああ、お歌が聞きたかったのね。テレビをつけてあげるから、もう少し大人しくしておいて。
しばらくして、あっけらかんとした童謡が流れ始める。この家を包む仄暗さとその歌が釣り合わず、どこか居心地の悪さを覚えた。やがて、階段を下り、廊下を進むパタパタという足音が響く。
「どうもお待たせしてすみません」
千葉はばつが悪そうに頭を下げた。橋爪が手を振って笑う。
「いえ、お気になさらず」
「話に戻っても大丈夫ですか?」
「ええ」
「私たちは最近ここへ越して来たんですが、どうにもこの村が本気であるようなのが気になって」
「本気? それは、怪異に対する?」
「そうです。ここは山に囲まれていて、東西南北どこへ行くにも、村の中心で交差する大通りを通らなければならないんです。ちょうど、村を十字の形に道路が横切っている形になります。そして、それぞれの出口に、弁如の像が立っています」
伊崎は想像する。村が円だとして、十字に道路が走っている。東西南北のそれぞれの出入り口に、弁如の像が祀ってある。
「つい先日、メールをお送りした日のちょうど前日だったかと思います。弁如の像が四つとも全て、壊れているのが見つかったんです」
「壊れていた?」
「ええ。その壊れ方が妙だったらしくて……。実は私も買い出しに行くために東側の道を通ったんですが、背中の方からえぐれたように割れていました」
「見たのは一つだけですか?」
「ええ。私が見たのはその一つだけです。ですが、これだけ小さい村ですから、嫌でも情報は入ります。私が聞いたのは郵便屋さんでしたが、北も西も南も同じようだったって」
振り向いてはならない。その言葉を思い出し、伊崎は背筋が寒くなる。背中側からえぐられたように損壊している弁如像を、「よつすば様」と結び付けて考えるなと言われる方が難しい。
「もともと私自身が怪談好きなのもあって、よくそういった雑誌を購読しているんです。先生のお名前もそこで知りました。これは何かよくないことが起こっていると直感して、そうした事情に詳しくて、連絡先の分かる方へ連絡をさせていただいたんです」
実話怪談などを取り扱う怪談師や研究者においては、「不思議な出来事を見聞きしたら情報をお寄せください」というような連絡窓口を開示している者も少なくない。先生に届いたメールも、ホームページ上で公開しているメールアドレスへ送られたものだろう。
「すみません、私からお伝えしたかったのは以上です。四つの出入り口が全て開かれた状態になってしまったということは、何か悪いものが入り込んできたとか、悪いものが出ていこうとしているとか、そんなふうに思ったものですから」
せっかく娘を静かなところで過ごさせてやれると思っていたので、この状況に不安になってしまって――。そう言い添えて、千葉は話を終えた。
「貴重な情報をありがとうございます。私の方でも、もう少し調べを進めてみますね」
橋爪が言うと、千葉は頭を下げた。
「ありがとうございます。今日はお泊りになるんですか?」
「その予定です。村に一つだけ、民泊がありますよね?」
「ああ、『小鹿荘』ですね。それでしたら、家の前の道を左手に進んでいけば、通り沿いにあると思います」
「どうも」
橋爪は席を立ち、慇懃に頭を下げる。伊崎も慌ててそれに倣った。
玄関を出る際、伊崎はなんとなく階段を振り返る。階上の様子は暗くて分からない。千葉はその手前で、にこにこと微笑んでいた。
車に乗り込むと同時に、橋爪がエンジンを掛ける。伊崎がシートベルトを装着するやいなや、溶けたバターのように発進した。右手側に向かって。
「民泊には向かわないんですか?」
「もう少し調査を進めておきたくてね。来る途中に役場があったろう? そこに史料館も併設されていたから、もう少し聞き込みをね」
「分かりました」
少しの間、沈黙が流れる。橋爪は何かを考え込んでいるようだ。話し掛けるのもためらわれ、伊崎は前だけを見ている。
振り向いてはならない。なんとなく、首筋がちりちりする感覚を覚えた。見るなと言われるほど、後部座席が気になって仕方ない。
「振り返るって、何をもって『振り返る』なんだろうね?」
橋爪に聞かれ、思考を読まれたように思いどきりとする。
「何をもって、ですか?」
「うん。要は『振り返る』に該当する基準だよ。前にかがんで、足の間から後方を見るのは『振り返る』と言えるのか。なんなら、私はすでにバックミラーで後方を確認しているわけだよね。これだって、広義の『振り返る』だと言えなくもない」
確かに言われてみればそうである。一般的に「振り返る」という言葉からイメージするのは、首や上体を捻って後ろを見る動作だ。だとすれば、鏡を使って後方を確認すること自体は「振り返る」に該当しないのかもしれない。
そんなことを考えて、少し気が楽になる。
「それにしても、不思議な話だったね」
「二口女の怪談に『振り返るな』が加わっているのは、聞いたことがありませんね」
「そうだろう? 極めてオーソドックスな二口女の話に、なぜ『見るなのタブー』が合わさったのか。初めての事例だと思う」
橋爪は顎に手を当てた。頭をフル回転させているときの癖だ。
「とは言え、二口女自体は『見るなのタブー』と相性のいい怪談だろうな」
「相性がいい? どうしてですか?」
「比較的無害な方の二口女を思い出してみるといい。昼間は小食だが、家人が寝静まったころに、二つ目の口でこっそり暴食している。それが語り継がれていく過程で、鶴の恩返しのように、『私が食事をしている間、部屋を覗かないでください』なんてバージョンが生まれてもおかしくはない」
「そうやって話が変化していった結果、今回の『振り返るな』バージョンに至ったということですか?」
「あくまで推測だがね」
確かに、さもありなんと言えよう。伝承の過程で物語が変質していくのは当たり前だ。口承文芸では基本中の基本である。
「ここからは私たちの領分だ。なぜ二口女の怪談がそんなふうに語られているのかを解き明かしていこうじゃないか」
楽しそうである。先ほどまで、千葉邸で感じていた陰湿な空気など微塵も残っていなかった。
「それよりもさ、あの千葉って女性。気にならないか?」
「千葉さんですか? 穏やかそうな人だなと」
「仮に君が暮らしている区で、鬼門が開かれたなんて騒ぎが起きたとする。なんでもいい、鬼門封じのお札が破られたとか、神社の灯篭がなぎ倒されたとか。どう思う?」
「どう思うと聞かれても。誰かのいたずらじゃないか、と考えますかね」
「そうだろう。弁如像が壊されて、その翌日には我々専門家に連絡を寄越したわけだ。なんというか、気にしすぎている感があるね」
橋爪はそう言うが、伊崎はそれほどピンと来ていなかった。今のご時世、人の在り方は非常に多様だ。陰謀論を頭から信じている人間もいるし、占いがなければ行動できないという人間もいる。
「まあ、それは私の価値観だ。千葉さんはとてつもなく信心深い人なのかもしれないし、スピリチュアルな方向に傾倒しやすい特徴をもっている可能性もある。一概には言えないね」
そんなふうにして橋爪は話を締めたが、伊崎の脳裏には千葉邸の階段がよぎっていた。娘がいるという二階。幼子に語り掛けるような千葉さんの口調。流れ出した童謡。そして、階上の暗がり。
伊崎の首筋が、再びちりちりとうずいた。
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