よつすば様 ~口承文学者・橋爪怜の怪異譚~

葉島航

第1話

「今日お話しするのは、いわゆる『見るなのタブー』について。ややこしい言い方をすると『禁室型』と言われる類型です。これは、やってはならないと言われるとやりたくなる人間心理を巧妙に突いた物語のパターンと言えるでしょう」

 午後の講義室には、気だるげな雰囲気が漂っている。伊崎史郎もまた、メモを取るでもなくシャープペンをもてあそびながら、ぼんやりと教授の声を聞いていた。

 九月とは言え、暴力的な暑さは弱まる気配を見せない。そんな中、冷房が効いて、しかもプロジェクターのために暗幕が閉められている教室は、あまりにもおあつらえ向きだった。加えて、学生たちは長い夏休みを終えたばかりで、講義に身が入らないのも必然と言えよう。

「分かりやすい例で言えば、『鶴の恩返し』。御存じのとおり、家を訪ねてきた娘に『決して部屋の中を見てはならない』と言われたおじいさんは、約束を破って襖を開けてしまいます。現代の怪談で言えば、『振り返ってはならない』系の話がこれに類します。そのルーツについて、簡単に紹介をしていきます」

 橋爪怜教授の声は、弛緩した空気の中を凛と駆け抜けていく。彼女のゼミに所属する伊崎にとって聞きなれた声音のはずだが、それでも彼が居眠りをしないのは、彼女の声を聞いていたいが故と言っても過言ではなかった。

 橋爪教授は、まだ三十代前半。それで助教授でも准教授でもなく、教授の肩書を得ているのだから、相当なやり手なのだろう。長い黒髪に、真っ黒なTシャツと真っ黒なスキニージーンズ。さらにその上には、真っ黒な半袖ロングシャツを羽織っている。彼女が学生の間で「魔女」という呼び名を授かっているのもうなずける。

 彼女が担当するこの講義「文学概論(口承文芸)」は、常に人気だった。口承文芸という耳慣れない学問はふつう敬遠されがちだと思うのだが、単位が取りやすいことで有名なのだ。テストはなく、ごく簡単なレポートが数回、あとは最低限の出席さえしていれば、単位を落とすことはない。それに、橋爪教授の解説は分かりやすいだけでなく、怪談や民話をうまく取り入れながら話を進めていく。学生の好奇心を刺激するのには十分だった。

「もともと、『振り返ってはならない』という物語パターンは、旧約聖書の中にもギリシア神話の中にも見られるものです。日本で言えば、イザナミとイザナギの話が有名ですね。イザナギは、亡くなった妻イザナミを生き返らせるべく、黄泉の国へと向かいます。そこで、イザナミは、元の世界に戻るまでの間、私の姿を見てはならない、と言います。しかし、イザナギは約束を破り、イザナミの姿を振り返って見てしまいます。そこには、腐って蛆にまみれたイザナミの姿がありました。醜い姿を見られたイザナミは怒り狂い、黄泉の国の兵隊どもと共にイザナギを追い立てます」

 そこでおもむろに、橋爪教授は話を切った。机上にリュックサックを置き、ごそごそと中をまさぐっている。

 伊崎の隣では、一人の男子学生が寝息を立てていた。橋爪がいかに学生の興味関心を掴んでいると言えど、四十人を超える学生全員の集中をつなぎとめることは難しかったらしい。

 リュックサックから引き抜かれた橋爪の手には、エアガンのようなものが握られていた。彼女はそれを眠っている学生に向け、躊躇なく引き金を引く。

 ぺちーん、という間抜けな音とともに、ゴム弾が学生の脳天へ命中した。

「あへぁ!」

 妙な声を上げ、学生は顔を起こす。やんちゃそうな彼の頬には、枕にしていたと思しき筆箱の跡がついていた。

 周りからくすくすと笑い声が漏れる。伊崎も、頬が緩むのを抑えきれなかった。

「ちょっと、先生。俺今撃たれましたよね?」

 男子学生はへらへらとそう言う。

「間違いなく、撃った。最前列で堂々と寝るその度胸は褒めてやろう」

「すんません。でも、ちゃんと話は聞いてましたんで!」

「もう一発撃ってやろうか? いびきまでかいてたのに聞いてたわけないだろう!」

 教授と学生のやり取りに、もう一度笑いが起きる。

 これも、橋爪教授の講義が人気を博している理由の一つだ。彼女は学生と目線が近い。決して頭ごなしに指導はせず、まるっきり放置するわけでもなく、歯に衣着せぬ物言いでやり合う。先ほどの空気銃にしても、初回の講義で彼女は宣言していた。

 ――私の授業で寝た者は、これで撃つ。寝たところで、それを理由に落第させるつもりもない。声高に非難することもしない。ただし、撃つ。

 ゴム弾だし、いろいろと細工して威力を抑えてあるから怪我はしないだろうと彼女は言っていた。一回の講座で一人は被弾者が生まれ、もはやこの講座の「おなじみ」とも言えそうだ。

 居眠り学生とさらに数ターン言葉を交わした後(学生のノリがよかったのもあって、何度も笑いが起きた)、橋爪教授は授業に戻った。少なくともその時間中、居眠り学生が再び眠り込むことはなかった。


 講義が終わり、椅子を引く音が響き始めた頃、橋爪は伊崎に向かって手招きした。

 彼女はゼミ生によくお使いを頼む。また新聞でも買わされるのだろうか。それとも昼食の弁当だろうか。

「この後、講義はあるのか?」

「いえ」

「アルバイトは?」

「今日はバイトもないんです。家でゴロゴロしますよ」

「今日は金曜だが、明日、明後日は?」

 予定を根掘り葉掘り聞かれる。間近で見る彼女の顔は整っていて、自分より一回り近く年上だと分かっていても、少し鼓動が速くなった。伊崎は、彼女が自分をデートにでも誘おうとしているのではないかと、若者らしい妄想を膨らませる。

「明日は特に何も予定はないです。明後日は午後からバイトですが、動かすこともできます」

「好都合だな」

 橋爪はにやりと笑った。

「実は、手伝ってほしいことがあるんだ。この後、調査に向かうんだが、なかなかの遠方でね。一人で運転していくのもつまらない。同乗して話し相手になってくれると助かるんだが」

 つまり、フィールドワークの助手を務めろということらしい。明日、明後日の予定を聞かれたということは、おそらく泊まりだろう。伊崎学生は即答した。

「行きます」

「お、行ってくれるか。じゃあ、すぐ出発したい。この後駐車場まで来てくれ」

「え、着替えとかは――」

「同じものを着まわせば問題ない。下着ならコンビニで買えばいいだろう。その分の金くらいは出す」

「いや、でも――」

「つべこべ言うな。すぐに出発したいんだ」

 彼女はリュックサックを背負い、教卓の下に入れ込んであったであろうキャリーバッグを取り出した。他人には着替えなどいらないと言っておきながら、自分の旅行準備はばっちり整えてきているらしい。

 伊崎は実家暮らしだ。東京では、学生の一人暮らしと言えどそれなりの金がかかる。奨学金を借りて勉強に励んでいる伊崎に、下宿するだけの余裕はなかった。それでも、家までは電車で二十分ほど。荷物を取って戻っても一時間はかかるまい。

 それを訴えても、橋爪がうなずくことはなかった。何かに興味をひかれているとき、彼女は周りが見えなくなる。ゼミ生の誰もがそれを知っている。結局、伊崎の方が折れた。

「では、五分後に、私の車の前で」

 彼女は嬉々として歩き去った。

 伊崎はため息をつきながら、ショルダーバッグを探る。スマートフォンの充電器をたまたま鞄に入れてきたのはラッキーだった。それに、財布とメモ帳、筆記用具。フィールドワークそのものは、それだけあれば何とかなるに違いない。

 ――相変わらず突然すぎて、いやになっちゃうな。

 そんなふうに思うふりをしながら、伊崎は見目麗しい教授と二人きりで出かけることに、胸を高鳴らせていた。


「それで、今回は何の調査なんですか?」

「何だって?」

「今回は何の調査なんですか?」

 橋爪教授のミニクーパーは、調子よくエンジンを鳴らしている。それにかき消されまいと、伊崎は声量を上げた。

 車は高速道路の料金所をくぐったところだ。遠方というのは嘘ではないらしい。結局、目的地すら伊崎は知らないままだった。

「個人的に、私に怪談がらみの相談が寄せられてね」

 橋爪はアクセルを踏み込みながら言う。

「まったく、私は口承文学者なのに、民俗学者だと誤解している輩が多すぎる――とはいえ、メールの文面そのものは丁寧だったし、興味をそそられたものでね」

 橋爪教授の話では、同じようなメールが、いわゆる「怪談」の専門家たちに送信されていたらしい。専門家とはつまり、橋爪のような民話寄りの文学者、民俗学者、怪談師、除霊師などなどなど。先週末に、実話怪談に関するワークショップが企画され、その折に仲間内でその話題になった。予定の折り合いがつかない者が多く、同じ相談を複数人が重複して受けてしまうのも非効率的であることから、橋爪教授に白羽の矢が立ったということだ。

「その怪異の名は、『よつすば様』と言うらしい。メールに詳細は書かれていなかったが、依頼者の住む地域ではかなり根強く流布している怪談で、その出所を探ってほしいんだと」

「『よつすば様』ですか。聞いたことないですね」

「私もだ。この世の怪談という怪談はすべて網羅した気でいたんだが」

「その依頼主さんは、何でまた怪談の調査なんかを求めてきたんでしょうね」

「知らん。地域の伝承をまとめたような冊子を作っている物好きかもしれないし、もしかしたら妖怪なんかと絡めて村おこしでも企んでる役人かもしれない。あるいは――」

 教授は目を大きく見開く。彼女が頭をフル回転させているときの癖だ。

「その『よつすば様』に関わる霊障に悩まされているとか、ね」

 伊崎は生唾を飲み込む。彼はあまりその手の話が得意ではない。霊や妖怪の存在など信じてはいないが、怖い話を聞いた後には背後が気になって仕方がないタイプだ。

「もし、霊障だったらどうするんですか? 除霊できるんですか?」

 そう聞くと、橋爪は鼻で笑った。

「できるわけないだろう。私は坊主でも神主でもない、ただの研究者。今回は、あくまで調査に赴くだけだ。依頼主に話を聞き、その上でその怪談のルーツを探る。霊障とかそういう具体的な部分については、然るべき機関を紹介するだけさ」

「然るべきって……」

「寺。または神社。はたまた教会」

「なるほど」

 さあ、先は長いぞ、と彼女はハンドルを握り直す。

 それから、もっともらしく左手の人差し指を立ててみせた。

「さて、ここからはゼミ生として役立ってもらう。いつもの確認だ。フィールドワークで調査を進めるとき、我々口承文学者が最も重視しなければならない視点は何か?」

「その物語で何が語られているかよりも、それがなぜ・どのように語られているかに目を向けることです」

「百点だ」

 彼女は何度もその台詞を口にする。講義の中でも、ゼミの時間にも、こうして学生を伴いフィールドワークに赴くときも。さらに言えば、彼女のゼミを希望した学生が最初に求められるのが、その台詞をそらんじることなのである。

「先は長い、っておっしゃいましたけど、目的地はどこなんですか?」

「ん? 鹿児島県」

「うえっ?」

 伊崎は目を白黒させる。橋爪教授は、言っていなかったっけ、ととぼけたリアクションを見せた。

 東京都心から鹿児島県へ、片道十六時間を超える旅が伊崎を待っていた。


 数時間車を走らせて、昼食とお手洗い。また数時間車を走らせて、夕食とお手洗い。

 橋爪は、疲れた様子をかけらも見せない。むしろ、伊崎の方がへとへとになっていた。車の中で同じ姿勢を取り続けるのも楽ではない。靴を脱いであぐらをかいたり(もちろん橋爪に了解を得た)、シートの角度を変えたりしながら、腰や肩の痛みをやり過ごした。

「今日はここで宿泊かな」

 橋爪がパーキングエリアへ車を乗り入れる。時刻はすでに午前零時を回っていた。がらがらの駐車場を進み、トイレの近くへ車を停める。

 見たところ、宿泊施設が整っているような場所ではなさそうだ。

「宿泊とは、つまり――」

「車中泊だが?」

 当たり前のように言う。

「安心するといい。トイレに行きたくなれば、目の前にある。自動販売機もあるし、コンビニもある――まあ、コンビニは朝六時にならないと開かないようだがね。それから、朝七時からはシャワールームも使えるそうだ」

 己の下調べを誇るように、橋爪は告げる。伊崎はめまいを覚えた。長時間車に揺られた挙句、身体を伸ばして眠ることすらできないとは。エコノミークラス症候群待ったなしである。

「眠るときは、シートを倒して、ダッシュボードの上に足を載せるといい。静脈血栓塞栓を起こしてはいけないからな」

 橋爪もエコノミークラス症候群のことを気にしていたようで、そんなふうに言う。そしててきぱきと自分のシートを倒し、寝る準備を始めた。薄く開けた窓からは夜風が吹き込んでおり、車の空調が動いていなくても暑さに困ることはなさそうだ。伊崎は覚悟を決め、自分のシートを倒す。

「君が付いてきてくれて助かった」

 出し抜けに言われ、伊崎は「はあ」と間抜けな返事を返すことしかできない。

「私がこうして車中泊をしていると、よく軟派な連中に声をかけられるんだ。基本的に無視しているんだが、窓を叩かれたり、ドアの取っ手を引っ張られたりすることもある。そういうときは、すぐにエンジンをかけて逃げ出してやるがね」

「つまり僕は、虫よけ的な役割を担っていると」

「言ってしまえばそうだ。男女二人で車中泊しているところに声をかけようなんて猛者はいないだろう」

 思うところはいろいろあるが、教授の役に立っているのならそれでいい。伊崎学生はそう思うことにした。それに、車中泊なのだから、ホテルで別室になるよりもよほど近い距離で眠るわけだ。これを役得と言わずして何と言おうか。

 橋爪教授は倒したシートに背中を預け、ハンドルの上へ足を器用に載せている。何というか、様になっていた。伊崎も、隣で同じような体勢をとる。

「あれを見ると、九州に近付いていることを感じるな」

 彼女が指さす先には、手洗いの建物がある。

「え、トイレですか?」

「違う。屋根を見てみろ」

 言われて屋根に目を向けると、暗闇の中に小ぶりな瓦像が見えた。

「あれ、何ですか? お坊さんの像?」

「そう。特に九州を中心に、中国・四国地方へ伝わっている魔除けの瓦だよ。『弁如法師』は知らないかい?」

 弁如。記憶を探ってみたが、聞いたこともない。そんなことも知らないのか、と言われそうで一瞬迷ったが、正直にそう伝えることにした。

「いや、知らないです」

「まあ、メジャーとは言い難いからな。弁如法師は、実在した陰陽師であるとも、夢枕に立って助言を与える伝説上の僧であるとも言われる。平安時代の絵巻から、近代では大正時代の文献にまで幅広く登場している」

「平安から大正まで、ですか」

「そう。それが同一人物なのだとすれば、とてつもなく長生きだろう。人魚の肉を喰らった八百比丘尼のようだ。あるいは、悪霊を祓う力をもった人間が、『弁如法師』の名を世襲しているのかもしれない」

「無論、それは弁如法師が実在するとすれば、の話ですよね?」

「そうだ。私はおそらく、伝説上の存在なのではないかと思っている。どこかの豪族が、不思議な僧から夢でお告げを聞いた、とでも言ったのだろう。そうしたことに端を発し、夢に現れて人を導く存在が『弁如法師』と名付けられた」

 いつの間にか、民俗学の講義を受けているような感じになってきた。しかし、身体の疲れや、車中泊という非日常的な空間であることが相まって、不思議と心地よい。

「何か、具体的なエピソードがあるんですか?」

「私が確認した限り、初出は平安時代の『新・寝殿造絵巻』だな。寝殿造の屋敷で暮らす貴族たちが描かれていて、男どもが下品な会話をしながら蹴鞠をする様子や、廊下で噂話に興じる女中たち、奥様方が十二単を苦労して着ている様子などが、一枚の絵に細かく書き込まれている。その絵巻の中の、一番奥の座敷に、家長と思しき老人が寝ていてね。その枕元に、僧が立っている。笠を被った僧で顔は見えず、口元の辺りに『わざわひまぬがるるためには』と書いてある。『災いを免れるためには……』と、家長に助言している図だ。そして、僧の足元に、『弁如』と書き添えてある」

「なるほど。夢枕に立っている様子を表現しているわけですね。たしかに、伝説上の存在である気がします。逆に、実在の人物として描かれているエピソードはあるんですか?」

「そちらの方が数は多いな。一番古いものだと――確かかどうかは心もとないが――、北九州で広まった『海月草子』あたりになるだろう」

「くらげぞうし? 聞いたこともないです」

「まあ、内容としては『御伽草子』と似ている。御伽草子が広まる過程で、質の悪いパチモンが出てきたようなものだ。当時は印刷技術なんて無かったからね。基本的に写本が流通の基本だったが、当然ルール違反をする輩も出てくるわけさ。今でいう転売屋とか、詐欺に近い。原本を書き写すのではなく、『御伽草子』の内容について噂話を聞きかじっただけの人間が、想像だけで書き上げてしまったのが『海月草子』だよ」

「それはまた身も蓋もない」

「とは言え、研究者としては非常に興味深い。作者もうろ覚えで書いているから、『桃太郎』なんかの有名な昔話はいいとして、全国に流通していないような民話は話の筋がむちゃくちゃになっている。あるいは、話の欠落をごまかすために、北九州でよく語られる民話が挿入されていたりする」

「だから、その『海月草子』に弁如法師が登場するんですね」

「御名答。物語としてはこうだ――」

 橋爪は弁如の物語を語り始める。

 あるところに、裕福な家があった。家の主である弥助はもともと農家の生まれだったが、農業や畜産ではなく綿を中心にした紡績業へと着手する。彼には商才があり、みるみる家は豊かになった。それでも、おごるようなところのなかった弥助は、人望も厚かったという。

 彼には妻と息子があり、絵に描いたような幸せな家庭を築いていた。しかしある日、畑に出た弥助は、蚕を襲おうとしていた蜘蛛を殺してしまう。捕まえて逃がすだけのつもりが、うっかり握り潰してしまったのだ。

 その夜、弥助は奥の座敷から、妻と息子の悲鳴を聞く。慌てて襖を開けると妻と子の姿はなく、代わりに二匹の蜘蛛が布団から這い出してきた。それが妻と子の変わり果てた姿だと直感した彼は、二匹を壺に入れておく。

 翌朝、弥助の身にも異変が起きる。手足が毛深くなり、しかも指と指の隙間が妙に長くなっていたのだ。弥助は、自分もいずれ腕や脚が枝分かれし、蜘蛛に変身していくのだと悟る。

 困り果てていた彼のもとに、旅の僧が訪れる。それが弁如法師である。

 法師は弥助の窮状を知るや、「これは土蜘蛛の呪いだ」と告げる。山奥に住む土蜘蛛の親玉を討たない限り、解けることはないという。

 法師は弥助を伴い、山へと分け入った。そこには岩と見紛うような巨大な蜘蛛がおり、自分の仲間を殺した弥助を責め立てる。しかし弁如は「それがかの者どもを呪う理由にはならぬ」と説き、呪法をもって蜘蛛を封じることに成功した。弥助の身体は元に戻る。

 家に戻ると、同じく変身の解けた妻と息子が待っていた。弁如は彼らに、毎日三度、都の方を向いて礼を言うようにと釘を刺し、また旅に出ていく。

「ふむ。ありがちと言えばありがちな話ですね」

「だろう? これが根強く語られてきた背景は分かるか?」

 伊崎は考え込む。口承文芸では、「何が語られているか」ではなく「なぜ語られているか」「どのように語られているか」が重視される。それは分かるのだが、この課題はいかんせん彼にとって難しすぎた。

「すみません、ピンときませんね」

「注目すべきは『土蜘蛛』だ。その昔、ヤマト王権に従わなかった土豪たち――つまりは、天皇に背いた連中のことを侮蔑して『土蜘蛛』と呼称していた。物語の最後に『都を向いて礼を言う』とあることからも分かるように、これは『ヤマト王権を敬い、不敬な者どもを滅せよ』という教訓として語られていた可能性がある」

「なるほど」

「まあ、私の勝手な推測だがね。さて、夜も更けた。明日も早いから寝ようじゃないか」

 橋爪は目を閉じた。数秒も立たないうちに、彼女の胸が規則正しく上下し始める。

 多感な年ごろである伊崎学生は極力そちらの方を見ないようにして、シートに体重を預けた。

 斜めに見上げるフロントガラスの向こうには、袈裟を纏い、頭を丸めた僧の瓦像が見える。

 ――弁如法師、か。

 眠れないものかと思ったが、疲れも溜まっていたのだろう、彼は知らぬ間にうつらうつらとまどろんでいた。

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