オルゴール
多田いづみ
オルゴール
夕飯の支度がととのい、クリームシチューの甘いにおいがただよう食卓で、わたしは本を読んでいた。
静かだった。炊飯器からかすかに蒸気の吹き上がる音がする。それ以外、なんの物音もなかった。というのも、家にはわたしのほかに誰もいなかったからだ。
夫は神社に行き、息子は犬の散歩に出ていた。
読書ははかどった。以前は音楽をかけながら本を読むのが好みだったが、さいきんは年のせいか、物音がすると文章がうまく頭に入ってこない。こうした静けさは、わたしにはありがたかった。
切りのいいところで本を読み
先に帰ってきたのは夫だった。鼻歌まじりで台所に入ってきて、手には新聞紙にくるまれた小さな包みを持っていた。
「おかえり、ちょうどごはんが炊けたとこ。いいもの見つかった?」
とわたしがたずねると、
「うん、まあ」
と夫は言いながら、包みを食卓のすみに置き、台所のシンクで手を洗った。
神社といっても、夫は参拝に出たのではない。神社で毎月末にひらかれる蚤の市を見にいったのだ。わたしも何度かつきあったことがある。あまり面白くはなかった。
夫はとくに目利きというわけではないと思う。いつもガラクタ(に見えるもの)をかかえて家に帰ってきて、しばらくは悦に入ってにやにや眺めているけれどすぐに飽きてしまう。部屋のどこかにしまわれて、それっきり日の目を見ない。犬がおかしなものを集めるのと同じようなものだろう。しかし夫が自分のこづかいをやりくりしてやっていることだから、わたしが文句をいう筋合いはない。
「たぶんこれは君も気に入ると思うよ」
夫はそう言いながら、新聞紙を破いて中のもの食卓にのせると、自信ありげにわたしの顔色をうかがった。
「あら、きれい」
それは箱だった。小さな、寄木細工の、美しい箱だ。それほど凝った細工ではないけれど、星形のもようがいくつも組み合わさった見事な造形だった。
「きれいだけど小物入れにしては小さすぎるわね。何だろう、からくり箱?」
「それがそうでもないんだ。開けるのは簡単にできる、ほら」
からくり箱のようにあちこちを押したり引いたりするでもなく、フタは簡単に上向きに開いた。
箱のなかにはゼンマイやら、歯車やら、金属の筒やらがぎっしりと詰まっている。箱の側面にネジがついている時点で気づくべきだったのだ。
「ああ、オルゴールか。どんな曲なのかしら」
「こうしてネジを巻いて、フタを開けると――」
「あら? 音が出ないわ」
ゼンマイは動いていた。小さな突起のついた筒がゆっくりと回転しながら、櫛のような金属の鍵盤をひっかいていた。が、音はまったくきこえなかった。
「へんねえ。音が小さいのかしら」
わたしは箱の間近まで顔を寄せ、耳をそばだててみたが、くぐもったゼンマイの音しかきこえてこない。
「売り主さんは、壊れてるんじゃないかって言ってたけど」
「でもゼンマイはちゃんと回ってるし、寄木細工といえばからくりよね。どこかに音を出すための仕掛けがあるんじゃないかしら」
「ぼくもそう思ったんだ。でもその仕掛けが分からない」
わたしたちは箱のあっちを押したり、こっちをつついたり、いろいろ試してはみたものの、依然として音はきこえなかった。
もう万策尽きたという雰囲気になった頃、玄関でまた物音がした。息子たちが帰ってきたのだ。それで謎の解明はいったん休止して、ひとまず夕食をとろうということになった。
息子と犬が台所に入ってくると、不思議なことがおこった。
犬がとつぜん遠吠えをはじめたのだ――顔をまっすぐ天井に向けて、やけに真剣な表情で。子犬のころから飼ってきたが、こんなことはまったく初めてだった。
遠吠えは一本調子ではなく、さまざまな長さ、さまざまな抑揚を含んでいた。まるで聞き慣れないメロディーを必死に口ずさんでいるみたいに――。
それでわたしはピンときた。食卓に置かれたオルゴールは開いたまま、ネジはゆっくりと回りつづけている。夫も、どういうことなのか気づいたらしかった。
オルゴールのフタを閉じると、犬は遠吠えをやめ、何ごともなかったかのように愛嬌のある元の表情に戻った。
「なるほどこういう仕掛けだったのね」
「驚いたな、これが犬用のオルゴールだったなんて。どうりで何もきこえないわけだ」
子供は大人には感知できないような高い周波数の音もきこえるというから息子にたずねてみたが、何もきこえないという。ということは、やはりこれは人の可聴域外の超高音で演奏される、犬向けのオルゴールなのだろう。
謎は解けたが、オルゴールがどんな曲を奏でているのかはけっきょく分からずじまいだ。素晴らしい曲か、ありきたりな曲か、どうなのか。
ご近所の迷惑にならない時間を見計らって、犬の遠吠えをききながら、聴こえないメロディーを想像するしかない。
オルゴール 多田いづみ @tadaidumi
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