沸騰する祭×去らない熱

夢月七海

沸騰する祭×去らない熱


 まだ午前中なのに、今日も暑い。外の気温だけではなく、私の中、心というか、体の芯自体が熱を発している気がする。

 このまま、氷みたいに溶けてしまえれば、どれだけ楽だろうか。体温でぬるい畳に仰向けになったまま、天井からぶら下がった輪っかの蛍光灯を眺めて、またそんなことを考えている。


 さっき起きて、布団まで片付けて、朝食はまだだというのに、右腕を目隠し代わりにしてしまう。そのまま目をつぶってしまえば、あっという間に二度寝を……。

 そう思っていたのに、一階からどたどたと階段を上ってくる音がして、頭が完全に起きてしまった。この部屋を振動させるほどの足音の主は、襖の前に立って、和室に似合わないようなノックをする。


朋華ともかさーん、おはようございまーす! 起きていますかー?」

「おはよー。起きてるよー」


 私が返事をしながら上半身を持ち上げるのと、襖がバッと開くのはほぼ同時だった。廊下の方で、みっちゃんこと飯田橋いいだばしみよ子が、外の太陽のようににこにこしながら立っていた。


「朝ごはん、出来ていますよ」

「うん。今行くね」


 直接呼びに来られたら、仕方ない。私は二度寝もあきらめて、畳の上から立ち上がった。

 この家は、一階が中華屋の「華華かか」で、小さいけれどそこに居間もある。我が家のキッチンがお店の厨房を兼ねているので、そういう構造になっていた。飲食店はそういう場所だと幼い頃は思っていたが、実際はとても珍しいらしい。


 階段を降りて、一階の隅っこ、四畳半の居間の真ん中、小さなちゃぶ台には、二人分の朝食が並んでいた。春巻きや肉団子など、お店の残りもあったが、焼き目の奇麗な出汁巻き玉子は作り立てだった。


「今日の玉子焼き、みっちゃんが作ったの?」

「そうなんですよー」

「上手になったねぇ」

「へへへ、ありがとうございます」

「じゃ、いただきます」

「いただきまーす!」


 みっちゃんと一緒に手を合わせてから、早速、だし巻き玉子を一口食べてみる。うちの味が完璧に再現されていて、思わず「うん、うん」と頷いているのを、みっちゃんは嬉しそうに見ていた。

 今年の四月に、みっちゃんは見習い料理人として、住み込みで働き始めた。最初は、目玉焼きすら焦がしていた彼女が、あっという間にここまで成長したのが、自分のことのように喜ばしい。


「今日、あんの作り方を教えてもらう予定なんです」

「へえ。マスターしたら、天津飯作ってよ」

「いいですよー。楽しみにしていてください」


 ……初めて顔を合わせた時のみっちゃんは、私と目も合わさずに、ぼそぼそと話していた。今のように、明るく笑って、ハキハキ喋るのとは正反対だ。きっと、こっちの方が本来の彼女なんだろう。

 背が高く、ひょろりとしていて、大人びた雰囲気もあるみっちゃんだけど、実際はまだ十九歳だ。七歳も年下で、まだ十代、という衝撃を受けたのを覚えている。


「そういえば、今日、朝から外がうるさかったけれど、なんかあったっけ?」

「あれですよ、蜃気楼祭」


 味噌汁を啜りながら、何気なく聞いてみると、みっちゃんからそう返ってきた。もうそんな季節かと、秘かに衝撃を受けたのは内緒だ。

 この中華屋がある商店街を出て、真っ直ぐ南に行ったら、港に出る。そこから望む水平線に八月の中旬になると蜃気楼が発生するのだが、それに目を凝らしていると、自分が会いたいと思っている人の姿が現れる。その人の生死や、どこにいるのかとか関係なく。


「私、蜃気楼祭は初めてなんですけど、もう来ている人がいましたね」

「まだ少ない方だよ。日が高くなって、蜃気楼の発生が多くなると、この商店街も人込みで歩きにくくなるくらいだから」

「そんなにですか?」

「日本中から、会いたい人を一目でいいから見たい人たちが集まってくるからねぇ」

「朋華さんも、見たことあります?」

「うん。小さいころ、亡くなったおばあちゃんに会いたくてね」


 蜃気楼の中にはっきりと、お婆さんの姿を見たのを思い返すと、今でも涙が出そうだ。遠くに住んでいたおばあちゃんは突然倒れて、そのまま最期に間に合わなかったので、やっとお別れが出来た気持ちになった。


 ただ、しんみりしている私に対して、みっちゃんは珍しく淡白で、「そうなんですかー」と頷いている。


「みっちゃんも見に行ったら? 今日のお店、大変だろうだけど、私が手伝えばいいし」

「大丈夫です。会いたい人もいませんし」

「一人くらい、いるんじゃない? ……好きだった人とか、さ」


 少し言い淀んでしまったのだが、みっちゃんはそれに気づかずに「ええー」と大袈裟に笑い飛ばした。


「そんな人、もっといませんよー。今までの私に、恋愛する余裕なんて、なかったんですから」

「そっか……」


 十九歳で、着の身着のまま、この家へやってきたみっちゃんの半生を、深くは聞けなかった。私たちは、この四か月で本当の姉妹みたいに仲良くなったけれど、まだ踏み込めない領域がある。

 だけど。声には出さずに、みっちゃんに反論してみる。本気の恋は、心の余裕とか関係なく、突然落ちてしまうものだ、と。






   〇






 本気で好きになった彼とは、大学生の頃に出会った。何が何でも、彼と一緒になりたくて、初めて私の方から告白したくらいだ。

 会った瞬間から変わらず、彼のことが大好きだった。大学卒業と同時に同居して、このまま結婚するのだとばかり思っていたのに……。


 三月の半ばに、彼の浮気が判明した。しかも、その相手とは二年近く続いた仲だった。

 ずっと裏切っていた彼、そして、そのことに全然気づかなかった自分も、憎くてたまらない。彼と離れたくて、こんな自分とも決別したくて、同居した家を出るのと同時に、仕事も辞めて、実家の中華店に戻ってきた。


 事情を知った母は、私を思って泣いてくれて、父は元彼のもとへ殴り込みに行こうとしていた。我がことのように怒る両親の優しさが身に染みて、ここで何とかやり直そうと思ったのだ。

 それでも、波のように自己嫌悪と彼への怒りと苦しみが押し寄せてきて、一度は自殺を実行しようとしたことさえある。運命の悪戯か、それも出来なくてやっと、ちゃんと生きてみようと決意したのだ。そういえば、みっちゃんが来たのも、その後だった気がする。

 だけど、彼への愛情だけが、未だに残っている。去らない熱が、終始私の中心にあるのだ。ぼんやりしていると、それがまた体全体に広がっていきそうで怖い。


 別のことをして気を紛らわせたくて、家の手伝いをしようとしたが、元々小さな中華屋なので、両親とみっちゃんの三人で大体が事足りてしまう。それなら、再就職すべきだと分かっているのだが、それも中々条件の合う会社が見つからずに、難航していた。

 でも、今日は蜃気楼祭の余波で、お店がいつもよりも忙しい。私は水を得た魚のように、生き生きと、注文を取ったり食事を運んだりして働き、ピークが過ぎたのは午後三時だった。


 「もう大丈夫よ」と、母からお役御免にされて、私はふらふら外に出た。商店街の通路は、まだ人でごった返している。日本の三大祭りほどではないけれど、こんな光景は年に一度だけだから圧巻だ。

 小さいころからよく行く駄菓子屋のハト商店で、ラムネでも買おうかと立ち寄ると、外のベンチで呆然と座っている男の子がいた。門林かどばやし時計店の息子のあけるくんで、確か今は十歳だったはず。


「明くん、どうしたの、そこで」

「あ、朋華さん。……僕、由々菜ゆゆなとはぐれちゃって……」


 絶望し切った顔で、明くんが言う。由々菜ちゃんは常深つねみ靴屋の娘で、明くんとは同い年の幼馴染だ。明るくて元気な子だけど、ちょっとあぶなっかかしいところがある。


「え、それは心配だね」

「探し回ったけれど、人波にもみくちゃにされちゃうし、どうしようかなって……」

「確か、由々菜ちゃんも携帯持っていないでしょ? 最後に見かけたのは?」

「十分くらい前。人波の中に飲まれていった」


 私は首を伸ばして、南口へ向かい人々を眺めた。由々菜ちゃんの姿はここから見えないけれど、大人の私だったら、すぐに追いつくかもしれない。


「私が由々菜ちゃんを連れてくるから、ここで待ってて!」

「ありがとう、朋華さん!」


 南口方面へ走り出した私に向かって、両手をメガホンにした明くんが大声でお礼を言う。そっち方面に手を振って、私は由々菜ちゃんを探した。

 ……けれど、すぐに、そんなのは甘い考えだったと思い知らされる。人の波の流れは均等な速さで、誰かを追い越すことすら、上手く出来ない。


 そのまま、商店街を出てしまった。いずれ、港までたどり着くかもしれないという焦りが生まれる。もしもそうなったら……私は、必ず蜃気楼の中に、彼の姿を見る。

 それは何とか避けたかった。今の位置から、少し右方向に動いてみる。すると、あっさり由々菜ちゃんの姿を見つけて、私はほっとした。


「由々菜ちゃん!」


 声を張り上げても、由々菜ちゃんは気が付かなかった。何度か呼び掛けて、やっと彼女が振り返り、私を見つけると、嬉しそうに手を振り返した。

 立ち止まってしまうのは危ないので、あっちに行こうと左端を指さす。由々菜ちゃんも頷いて、私達は、やっと人の波から抜け出した。


「朋華さん、どうたの?」

「明くんが心配していたよ。はぐれちゃったって」

「ああ……」


 不思議そうにぱちぱちと瞬きしていた由々菜ちゃんは、急に気まずそうに目を伏せた。


「明には言っていなかったけれど、私、蜃気楼で見たい人がいて。すぐ行って、戻るつもりだったんだけど……」

「あー、そうだったのね」


 いつも明るい由々菜ちゃんでも、会いたい人はいるのだろう。でも、小さい彼女だけで行かせるのは心配だし、明くんとの約束もあるし、でも、私自身は蜃気楼を見たくないし……。


「分かった。一回うちに電話して、ハト商店にいる明くんに伝言を頼みましょう。由々菜ちゃんは大丈夫です、蜃気楼を見てから、ちゃんと送り届けます、ってね」

「朋華さん、ありがとう」


 丁寧に深々とお辞儀する由々菜ちゃんに「いいのよ」と笑って、私は携帯電話のボタンを押した。中華店の受話器を取ったみっちゃんに、さっきの伝言をしてから切る。

 「じゃあ、行きましょう」と、由々菜ちゃんと人の波に合流してから進んだ。一歩一歩、着実に港へと近づいていくと、胸の鼓動も早くなっている。


 それにしても、この中はすごく暑い。首から下げたタオルで、何度も汗を拭ってしまう。隣の由々菜ちゃんも倒れたりしたら大変なので、時々声をかけるのも忘れない。

 こんなに大変な思いをしてでも、会いたい人がいるんだな。由々菜ちゃんにも、周りの人たちにも。夏の暑さや人肌の熱だけでなく、みんなの思いも気温を上げて、海に蜃気楼を起こしている……と言われたら、あっさり信じてしまいそうだ。


 人並みの終わり、港が見えてくると、その先から声も聞こえてくる。「あの時はありがとー!」「本当にごめんねー!」「大好きだよー!」「さようならー!」などなど。蜃気楼の中に見えた会いたい人への思いを、口々に叫んでいるのだ。

 今、目の前の列が動いたら、次は私と由々菜ちゃんが港の先に立つ。この時になっても、まだ悩んでいた。彼の姿を見ないようにと、その瞬間は目をそらすつもりだったけれど……。


 前の人が動いた直後、私は目を見開いて、水平線を凝視していた。それどころか、海に落ちないための臨時の柵を掴んで、身を乗り出していた。心と体が正反対なことに、苦笑が出ながらも、しっかりと、揺れ動く蜃気楼の中を見つめている。

 水平線と空の境界が、グニャグニャと滲んでいる。そこに、青色だけじゃなく、もっとパールオレンジや黒色や、赤い色とかも混じり、音もなく、お気に入りのTシャツ姿の彼の像を結んだ。


 直後、あれ? と違和感を抱いた。蜃気楼に浮かぶのは、いつも見ていた彼の姿なのは間違いない。でも、こんなに普通の人だったっけ? とか思ってしまった。

 一瞬で好きになって、死ぬまで一緒にいたいと思っていた彼。浮気しても、この気持ちは変わらなかったから、ずっと苦しんでいたはずなのに、自分というフィルターを外してみたありのままの彼は、道端ですれ違っても気付かないような、ありふれた姿をしていた。

 冷水のシャワーを浴びているかのように、体の芯に残っていた熱が、じわじわと引いていく。こんなもんだったのか、本気の恋は、なんて、皮肉めいた感想すら出てくる。


「ウォークくん」


 港に寄せる波音よりも、小さな声が聞こえた。ハッとして下を見ると、由々菜ちゃんが蜃気楼を眺めている。その横顔は、十歳とは思えないほど大人びた、すら通り越して、何か老成したものを感じさせるものだった。


「みんな、元気でいるよ」


 たとえ、すぐ隣にいる人には見えていても、自分以外の会いたい人を見ることはできない。私は、由々菜ちゃんの涙で潤んだ瞳の中に、その「ウォークくん」を見つけるような気持ちで、そこから動けなかった。






   〇







 初めて私の手料理を食べて、「手作りチャーハンがこんなにパラパラになるなんて」と、驚いてくれたこと。クリスマス、仕事で遅くなると嘘のメールをして、落ち込む私をサプライズで訪問したこと。最初の喧嘩で、私の涙を初めて見て、みっともないほどおろおろしていたこと。

 彼との思い出はたくさんある。だけど、今は少し前と違って、熱気球に乗ったようなふわふわした気持ちで、ああ、あんなこともあったなぁと懐かしく感じるのだった。


 商店街は一方通行になっているため、商店街のそばの住宅街を大回りして歩きながら、恋の魔法が解けた自分を不思議に思っている。暑いものと熱いものを掛け合わせたら、二乗されるどころか冷えてしまうなんて、謎の化学反応だ。

 真横の由々菜ちゃんも、今は大人しい。しずしずと歩きながら、「ウォークくん」のことを考えているのかもしれない。ただ、「ウォークくん」という名前を、私はどこかで聞いたことあるのだが、中々思い出せずにいた。


「ねえ、由々菜ちゃん」


 意を決して尋ねたのは、商店街に入って、私の家の中華店が見えてきたところだった。だけど、由々菜ちゃんはそれにかぶせるように、「あ!」と声を上げる。

 暑いからお店で待っているようにと言っていた明くんが、店の出入り口前にいたのだ。私たちの顔を見ると、安堵したように手を振り返す。


「すみません、朋華さん、なんでしたか?」


 由々菜ちゃんが、こちらを振り返り、申し訳そうに言った。でも、私は、少し考えて、「ううん、良いの」と笑って返した。

 「ウォークくん」が誰なのか、由々菜ちゃんとどんな関係なのか。それを知るタイミングは今ではなく、それに、私ではないような気がしたからだ。


 明くんと合流した由々菜ちゃんから改めてお礼を言われて、今度また食べに来てよーとセールストークしてから、二人と別れ、お店の中に入った。冷たい水を飲みたかったし、これから始まる夕方の繁忙に備えなければいけない。

 店内は従業員以外誰もいない、と思っていたら、私の真正面のテーブルに、同い年くらいの男性が座っていた。それが誰か分かった瞬間、相手も腰を浮かせる。


「淳平くん! 久しぶり!」

「久しぶり。朋華も、元気そうだな」


 小学校から高校まで一緒だった淳平くんだった。仙台の大学に進学して、そっちに就職したと聞いていたけれど、こんな風に再会するなんて、思ってもいなかった。


「どうしたのよ、急に」

「親たちと祭りを見に来たんだ。そんで、ついでに朋華のところにも行ってみようかなって」


 垢ぬけた彼の背中をバシバシ叩くと、照れ笑いを浮かべながら話してくれた。

 「ついで、ってー」と言いながらも、淳平くんとの再会が、結構嬉しい。なぜだか、彼に自分の大失恋とか、色々話したくなってきた。


「ね、ご飯は食べたの? お酒はこれから?」

「うん。まだ飲んではいないよ」

「じゃあ、お店が落ち着いたら、一緒にどう? 最近、商店街にもいい居酒屋が出来たのよ」

「う、うん……」


 顔を真っ赤にした淳平くんと、携帯のメアドを交換した。……視界の端、キッチンカウンターの方で、にやにやしているお母さんとみっちゃんが見えるけれど、気にしない。

 だって、私の未来は、これから始まる気がするんだ。「じゃあ」と片手を振って、店を出ていく淳平くんの背中を見送りつつ、私は宝物のように新たな熱のこもった携帯電話を両手で握りしめていた。




















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