まとめ
信じるということは人が意識していくうえでも
無意識、あるいは潜在意識の中でも行われているものではないでしょうか。
実のところをいいますと、私は先日急な躁鬱になってしまい執筆が遅れると同時に
やや自暴自棄になっているところを自覚しています。
未だに気分が少し乱高下しているのですが
体験談としてここに書かせていただくと
全ての人に当てはまるかは別として、ネガティブなイベントが重なってしまい
人間不信、或いは未来に希望を見いだせない状態に陥った時
つまり、信じるという要素がなくなってしまった場合
心の支柱を失ったかのような感覚に陥いってしまいました。
少なくとも、私にはそうなってしまい、他人に対して高圧的になったり
希死念慮が出たり、逆に何をしても怖くない、(失うものがない)
という感覚になってしまいました。
一歩間違えれば悪い意味で無敵の人状態ですね。
ただ、悪い状態の中からでも学べるものや気づけるようなものがあったようで
この状態の中でも、自分に向かって「ピンチはチャンス、この経験は無駄ではない
この経験は必ず糧となって何かの役に立つ」と必死で言い聞かせていました。
いわゆる既成概念からではなく
存在の無い物から信じるを作り上げていたのです。
寛解こそはしていませんが
私にはある程度の効果を認められてるのではないかと考えます。
もちろん、苦しいときは服薬し休み、病院に行くのがベストだと思います。
話を1話目の宗教の話に戻しますが
これからの話は読む人によっては少し暴論に感じられるかもしれませんが
ご容赦ください。
今日、資本主義が当たり前の社会になり
お金を中心に世界が動いているのが日常になっているのですが
生活が過去の先人よりも豊かになっていく反面
先人よりも幸福の質は下がっていると私は考えます。
それはなぜか。
それは、私は人々が資本主義を受け入れると同時に
物質主義をも受け入れたからだと思います。
つまり、お金(あるいはクレジットカード)という存在が
すべてを解決すると信じ込むことで今までの様な宗教のような
想像と信仰による恩恵が得られなくなってきた、と考えてもよいかと思います。
確かに、お金から学びや気づきを得られる事もあるでしょう。
しかしそれだけでは一定のレベルでの深度にとどまってしまい
宗教や哲学のような思想の深みまで至らないのではないかと思うのです。
分りやすい例でいうと、宗教の為に死ぬ人はいても
お金の為に死ぬ人はいないと私は思うのです。
確かにお金は現代に生きていくのに確かに大事です。
しかしお金を信じても、本格的な資本主義の始まりは長く見積もって約300年前。
人類の歴史、最低でも約2000年以上考えられ
深められた宗教や哲学には遠く及ばないのではないかと私は思うのです。
そもそも、物質と、精神的概念の違いなので根本的な考えが違います。
私は以上の点から、これから信じるというものが
お金であり、しかしそれが自分の精神的支柱足りえないものであれば
従来の宗教への回帰も大事だと考えます。
何を信じ、何を支えに生きていくかは、すべて個人の選択次第であり
人生の決断もあなたの信じるもの次第なのです。
今日、世界や日本を取り巻く環境は暗く
悪いように見えますが個人の信じようによっては
素晴らしい未来が待っていると思います。
お互いに、素晴らしい人生と未来を信じ、決断しましょう。
少し長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。
信じることの影響力 タクヤ @Rockozbusters
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