浮茱萸

川辺いと

 




  掌編 ──浮茱萸うきぐみ──




 予てより信頼のあった恩師の訃報がやって来たのは、ちょうど秋茱萸あきぐみはながこの庭でも満開に募る季節のことだった。葉面一体に生える星型の鱗状毛は、驚きにしては冴えない表情で、また、不幸にしては凛々しい色彩であったために、由乃よしのの目前でいたく刺激された。かたい石垣の隙間から幹を浮き出し、深くたくましく根付き育ったそれが今、死に添えられた野辺の花と化して目に余ってくるように思われる。

 島内は、いよいよ厳しくなろうかという寒露の薄陽をあらわに、あちらからもこちらからも吹く風はぎこちない。あまりにも閑散とした日射しのなか、その報せは、滔々とうとうとやって来たのである。


 由乃はぼんやりと縁側に腰を下ろしていた。築八十余年の古民家は己の手によって隅々まで手入れこそされてはいるが、家具家電に至るものすべては未だ、旧型の弱い構造を貫いている。

 どこぞの隙間から虫の出ることも多々あった。ゲジゲジやムカデやコバエといったいわゆる害虫などはさほど湧いては来ないが、それでも島特有の肥えたコガネムシやらナナフシやらヤモリなんかは頻繁に家を出入りするので、やはりその季節が巡れば対策をしない訳でもないではなかった。

 専門学校入学を機に一人暮らしをしていた東京から、由乃はこちらへ戻って来た。それまでアルバイト勤めをしていた飲食店とコンビニを辞め、憧れていた服飾業界へと身を投じていたのだけれど、一年、また一年と慌ただしいピリついた日々の渦に揉まれているうち、理想していたものが何もかも崩れ去る音がして、瞬間、由乃はこれまでの経験を追想し苦しくなり、あるいは利得に縋ることに耐えきれず、自衛できず、今から二年前……吸い込まれるように鬱を患ってしまった。そうして再びここへ舞い戻った。自分はここへ戻って来てしまったのだ。嫌なことから逃げて、人目を避けて戻ってきたのだ。父はない。母もない。この地を悲喜として訪れたのは、敬愛していた祖父がこの世を去ったからである。

「そろそろ行きましょうか、由乃ちゃん。お墓参り」

「はい」

 恩師の最愛であった妻──名を久美子くみこという──に背を支えられ、由乃はよたと起き上がる。起き上がる間にも、枝から紡がれている萼の幾片かをぼんやりと眺めっていた。

 人口も少なく移り変わりのない景色ばかりで安心だけれど、嬉しい幸福な瞬間というものがなんだったのか、この頃は、とっくに手放してしまったような気持ちになる。

 束の間に思えた傷心は車に揺られ水平線をなぞるように伝っていると、気付けば恩師の納まる久円寺きゅうえんじの墓地へと辿り着くまでの感慨となっていた。身内である久美子よりも差し置いて物悲しいように思われる。が、車窓に映り込む半透明色な自分と目が合い、これではいけないと悲哀を呑んだ。

 こま斑犬ぶちいぬが一頭、一基の陰から「きゃん」と吠えた。首輪もなく自由気ままに奥から颯爽と駆け寄り来て、そうして降りたばかりの久美子の膝下しっかへと前脚を留め置く。丸く短い尻尾を羽のように踊らせ、きゃん、きゃん、と甘えている様子であった。

「まあね、五郎ごろう。すっかり元気になってね」と久美子は、斑犬の眉間から耳の裏へと戯れに右手を滑らせる。斑犬はその手をひと舐めすると跳ねて喜んだ。

「この子、主人が拾ってきたの。二週間前」

 由乃は不意の会話に困惑したが、努めて優しく、静かに相槌を返す。

「死ぬって分かっていたらね、なんにも面倒は見なかったでしょうに」

 言って久美子は見えない手綱を斑犬の鼻先にかざしつけ、「おいで、五郎」と明瞭な声で慣れたように歩き出す。

 こじんまりとした墓地の一角へと迷うことなく斑犬が駆けて行ったので、まあまあ、と久美子は柔和な笑みをしながら後ろへ続く。小豆色のロングスカートが寒さにそよいだ。

「あの、」由乃は口元のマフラーを少しだけ下げて背後に尋ねる。「どうして先生は、亡くなられたんですか……」

 久美子は振り返った。悲しげではありながらも、不幸は背負わず、

「心不全でね、朝に目が覚めないまま、逝ってしまったの」

「……」

「体調にもっと気を配っていれば、もしかしたらあの人は、いつものようにコーヒーを淹れ始めていたんじゃないかしら……。本当に夢を見ているみたいにね、綺麗な死に顔だったわ……」

 下がる目尻に、温かな人だとはっと視線を伏せてしまった。本当に突然だったのだ、と由乃は憂う。

 死の前日は普段となんら変わらず、至って平凡な一日だったという。

 教職生活こそ定年を迎え、日々をのんびりと過ごしていたが、それだって退屈はなく趣味の工作やらに精を出すような生気ある毎日だった。

 直前まで五郎のために犬小屋を造ってもいた。しかし、完成しないままだったと聞く。

 恩師の墓の前で行儀よく五郎が座り込んでいる。供えられた鮮やかな花々を見つめるでもなく、ただ、その双眸そうぼうは墓石に刻まれた日高ひだか家之墓という文字をじっと押し黙って見上げているばかりで、久美子が横に屈んで頭を撫でてやると、ぼんやりとした……哀愁のある表情をしながら……戸惑うように、くぅん、と低く鳴くのである。

 そうして着火したライターの先端から線香の煙が昇ると、その細長い棒の持ち手を嗅ぎ、そっと労るように舐め、久美子よりも先にこうべを埋めるように垂れ下げた。

「由乃ちゃんもどうぞ。この子の分もいいかしら?」

「はい、……ありがとうございます」

 冷たい風が何度か吹く。煙は行く宛なく彷徨うようにぼうっと巻かれ、ふと地面に映じた木漏れ日の刹那に、恩師との思い出が蘇るようだった。




「――奈良田ならたさん、私はどうも、この島を離れるキミに相応しい、最後の言葉というものをこの頃深く考えていたんです。けれど私には恥ずかしいことに、皆さんよりも秀でた教養性がないものですから、今に至るまでまったく、それらしいことのひとつも思い浮かばずにいます」

 式を終え、教室で終礼を交わしたのち、最後に、当時担任だった日高いさおが生徒一人一人を教壇へと招き入れた。その最後が由乃だった。

 由乃は功の淋しげで潔い声音に俯き、たびたび鼻を啜っている。功の重厚で深みのある声を聞くたび、これで最後なのかと苦しかったからだ。

「奈良田さん、キミには夢がありますね。目指すことに対して、やはり不安がありますか?」

「不安……ですか……ありますよ……不安だらけです……。着いていけなかったらどうしようとか……こんな田舎から出て来た私に、才能なんてあるのかな……とか……」

 ぐずり、と合間に垂れようとするそれを遠慮しながら、由乃は目尻を拭って咳き込む。

 背後では随分と前から、沁み入る生徒の、たった七人の忍んだ感涙が押し上がっていた。

 チラと功を見た由乃にも、ブワッと熱いものが込み上げた。

「奈良田さん、……」と功は言葉を切り、「逃げても構いませんよ」と正々と目を合わせて来た。

「キミには、それを選択できる勇気があります。世は忍耐だの我慢だのと、やれ囃し立てて他者を蹴落とそうとしますが、夢への道は一本ばかりではありません。時に忍耐も必要でしょう……また、時に反抗心も生まれて来るでしょう。しかしね、奈良田さん、世の流れはそればかりではないと言うことをキミに知っておいてほしいのです。キミは真面目で優しすぎる一面がありますから、おそらく反抗したくてもしないよう努めるでしょう。そういった自分をきっと嫌に思う日もやって来るでしょう。自分の意見を伝えるのは、大事なことですから。……ですが、本当に辛くなった時のために、逃げる勇気を育てなさい。これはまったく恥ずかしい行動ではありません。キミが信じるキミの理想への近道になります。着いていけない、才能がないと卑下したり周りから嘲笑わらわれても、その人たちよりも強く、自分の感性を信じて進みなさい。──逸脱した夢を持ちなさい」

 言って功は、花のようにくっきりとした手を差し出した。

 差し出されたその穏やかな手の形を、この日を、由乃は生涯忘れまいと瞳の奥に焼き付ける。

 焼き付けようとするのだけれど、功の袖ボタンの糸がほつれていて、それが無性に素敵で、抱きしめてみたいと願った。

 先生が好きだと思った。

「はい……」と由乃はその手を握れず、ついつい躊躇った。涙の落ちる熱さを噛み殺した。

 私は先生が好きだ。

 それは恋愛感情に似ているような気もするけれど、もっと底へ沈んでいく、謙虚な思いであったかもしれない。

 これで最後なんていやだ。もっとみんなと、もっともっと先生のいる学校にいたい。卒業なんてしたくない。

「先生、日高先生……」

 功は微笑みかけ、

「奈良田由乃さん、先生はいつでもここにいます。卒業おめでとう……────」


 深く拝していた瞼を開くと、木漏れ日の波際がまっしろに光っていた。

 斑犬が寄り添うように、由乃の左腕の一部に顎を乗せチラと見てくる。

 由乃はもう一度眼を閉じた。

 ふっと笑む。

 秋茱萸の晴れた実りが、空にまぶしかったからである。







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浮茱萸 川辺いと @Kawanabe_Ito

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