Où allons-nous ?

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 私の人生はどうやら、何もかもが上手くいかないように出来ているらしい。

 そんなことを考えながら大学の喫煙所の中で短くなった煙草の火を消して、次の煙草を取り出した。懐が温かいというわけでもないのでチェーンスモークはしないように心がけているつもりなのだけれども、あの日からどうしてもしてしまうことが増えている。心の傷は、誰かの力で治すことなんて出来ない。ただ、時間が治してくれるのを待つだけだ。ゆえに、痛み止めとして紫煙に埋もれるくらいのことは、許して貰えないだろうか。

 神様っていうのは、居るのかもしれない。私のことを徹底的に嫌っているような、とんでもなく性格の悪い神様が。そう思いながら、悪辣に仕込まれたようにタイミングの悪かったあの日のことを思い出す。

 夜継と喧嘩別れのようなかたちで離れて、話すことを辞めて、九日が経った日だ。私には、もう自分がどうしようもなく負け犬であるということが分かっていた。今更何をしても、私は夜継を得ることが出来ないのだということを、痛感していた。ならば、私のすべきことはなんだと考える。

 美しいと思った花を摘むように、自らのために相手を傷付けることもまた、愛のひとつのかたちなんだろうと思う。私はそれを否定しない。ただ、イデアとして存在している愛はそういうものじゃないだろう。相手のために自らを傷付ける、そういうものが、物語で描かれるような、誰もが憧れるような、愛のかたちなのだから。

 いつまでも意地汚く愛を求めていたかった。あの子に縋っていたかった。けれど、もう既にそういう未来は破綻してしまっていて、だから私は恰好をつけることにしたのだ。自分の本能的な欲望を抑えつけて、衝動的な愛を捨てて、理想に殉ずることに決めたのだ。

 彼女は強い。そう言えば彼女自身は否定をするだろうけれど、私は断言する。彼女には不安定で歪ながらも一種の強さがあった。そういうところに、私は惚れたのだ。

 けれど同時に、彼女は弱い。完璧な人間なんていうものは存在しなくて、彼女もその例に漏れず強さを裏返しにしたような弱さを有していた。

 せめて彼女の背中を押してあげることが出来るように、彼女にとってのハッピーエンドに向かうことが出来るように。そう思って、私は彼女の家に向かったけれど、そうして会ったのが息を切らした夜継だった。

 私が出る幕なんてなかったじゃないか、と思った。彼女の目からは既に何かに囚われていたような色が失せて、進むべき方向を見ている。結局私は不可欠な鍵ではなくて、安っぽいマクガフィンに過ぎなかったのだろう。

 ただ、これもそれも、私が招いた結末だ。当然の報いなのだ、と思う。

 私が芥生志貴に対して不安を煽るようなことを言ったのは、夜継のためであるということは正しい。彼らの関係は明らかに歪で、そしてその皺寄せが夜継の方にだけいっていることは明らかだったのだから、好きな人が苦しんでいるところなんて見たくない。

 けれど、本当にそれだけだったのだろうかと問われればノーだろう。私は間違いなく芥生志貴に嫉妬していた。そして、彼と夜継の関係が自然に破綻するような脆弱なものには思えなかったからこそ、罅を入れてやろうと思った。自覚はしていなかったけれど後から気が付いた、なんて都合のいい感情ではなくて、最初から最後まで私はそういうどろどろとした気持ちを原動力にして、動いていたのだ。結果は全て私に起因している。

 夜継が自分の道を進むことが出来るようになったのだから、それでいい。なんて考えられるほど私は殊勝な人間じゃない。どれだけ世界を厭うているような人間であっても、斜に構えて俯瞰しているようなポーズを取っていても、誰だってハッピーエンドを望んでいる。ご都合主義を歓迎している。私は夜継のハッピーエンドじゃなくて、私のハッピーエンドを迎えたかったのだ。それを渇望することは、何も不自然なことではなくて自然な心の動きではないだろうか。

 負け戦だったら、どれほど良かっただろうと思う。レズなんて受け入れられない、なんて言われたら、態度に出されたら、いっそ良かったんだろうと思う。惚れた時点でどうしようもなかったんだと、諦めることが出来たのかもしれない。ただ、彼女は私の告白を拒絶しなかった。ごく当たり前のこととして、受け入れた。私には確かに可能性が存在していたのだ。何かが掛け違えられていたら幸せな結末を迎えることが出来たかもしれないという、可能性が。

 もしも彼女が芥生志貴と出会っていなければ。芥生志貴と出会っても今ほどの親密さがなければ。何かの拍子に芥生志貴に失望をしたら。私に芥生志貴を超えるだけの魅力があったなら。そんな有り得もしないもしもが頭の中に浮かんでは消えた。こんなものが、精神的なリストカットに過ぎないなんていうことは分かってるんだけどさ。

 結局、順当に戦って、負けて、手元には何も残っていない。夜継のことだからきっと、何気ない顔をして話しかければ今まで通りの関係を維持することは出来るのだろうけれど、好きだと口にしてしまった以上、私自身が今まで通りの関係であることを許せない。負けたのであれば潔く、引き下がるべきなのだろう。

 先日、構内で夜継と芥生志貴の姿を見かけた。今まで通り、ある種の気持ち悪さすら感じるような完成された関係というわけにはいかず、どこか調和がとれていない部分も見えたけれど、それでも当たり前のように二人で肩を並べて歩き、話している。素の夜継に慣れていないのか、芥生志貴は曖昧そうな顔つきをしていることが多く、消極的な態度を取っているように見えるけれど、夜継の方は吹っ切れたようでその隙間を埋めるように彼女なりに積極的に話をしようとしている。元通りとまでは言わずとも、これなら上手くやっていけるのだろう。夜継は今まで積み上げてきたものは本当の自分ではなく演じ続けた自分によるものだと言うのかもしれないけれど、本物だろうが偽物だろうが、今までの時間を積み上げてきたのは彼女に違いがないのだから。芥生志貴との間にあった時間は本物ではなかったのかもしれないけれど、なかったことにはならないのだから。

 彼女たちの間にどのようなやり取りがあって今の状態になったのかは知らない。それは、彼女たちだけの完成された、閉じられた世界の中で起こった出来事なのだ。誰にも知る権利などないのだろう。仮にそんなものがあったとしても、私は知りたくなんてないけど。

 何はともあれ、私を除いて世界は幸せな方向に向かって行ったらしい。ムカつくけれど、これで良かったのかもしれないと思う。私如きの幸せを犠牲にして二人分の幸せが生まれたのであれば、単純な損得勘定で考えれば良いことだ。

 そんなわけないだろ。感情を単純な損得勘定で数えられて堪るか。

 私はどこまでも諦めの悪い人間なのだ。今でも夜継のことが好きだし、愛しているし、何かの奇跡が起きて夜継と付き合うことが出来たらと考えてしまう。そのためなら、芥生志貴が死んでも構わないとすらも思う。こんなことを考えたら、夜継に嫌われるかな。でも、彼女も同じような立場になったら似たことを考えそうな気がする。

 感情の捨て場なんて都合のいいものは存在しない。私は私として、この感情を抱えたまま、いつか色褪せた写真を見て懐かしむようにこれが形骸化することを祈ることしか出来ない。

 二本目の煙草を消して、三本目に火を点ける。これで最後にしようと思いながら、紫煙を吸い込む。

 喫煙所に這入って来る影があった。視線を流すように上げて、心の中で「げ」と呟く。それは喫煙者の中で最も同席をしたくない人間だった。

 どうして、も何もないか。こいつも喫煙者である以上、喫煙所には立ち寄る。ああ、クソ。こいつが煙草を吸っているという事実だけで苛立たしい。どうして夜継と一緒に居るのに煙草なんて吸うんだろうか。それだけ現実が充足しているなら、チープな現実逃避なんて要らないだろ。煙に埋もれて現実から目を晦ませる必要なんて、ないだろ。

 思えば、始まりも喫煙所だったかと思う。私が話をこいつを連れて、わざと不安を煽るようなことを言ったのはここだった。神様とやらの質の悪い因果を感じる。全く、性格が悪いことこのうえない。それならば、意趣返しのように彼は私に対して終わりを決定的にするようなことでも口走るのだろうか。

 そう思いながら煙草を吸っても、彼は何かを言うような素振りは見せない。当たり前か。私は彼に対して嫉妬をしていた。それが語り掛けるための動力源だった。きっかけだった。けれど、彼からしてみれば私に対して喋るような感情なんて持ち合わせてはいない。二、三度話したことがある程度の女にわざわざ話しかけるようなことをする必要もないだろう。

 安心したような、腹立たしいような、アンビバレンスな感情がひしめき合う。下手なことを口走る必要がなくなったと考えれば言うまでもなく幸運だったけれど、いっそ何かを言ってくれれば良かった。私のことを断罪してくれれば良かった。勝者の余裕かよ、と心の中で毒吐く。勿論、そんなのが敗者の僻みに過ぎないなんてことも分かってるけどさ。

「ねえ」

 気が付いた時に私はそう口走っていた。喫煙所の中に居るのは私とそいつだけで、二人称の存在しない極めて短い呼びかけであっても彼に対して発された言葉であるということは明らかなものだった。

 芥生志貴は私の方を見る。悪意も優越感もない、ただ純粋な観察するための瞳。それが彼我の差をまざまざと示しているようで、ああ、最悪な気分になる。

 話しかけたはいいものの、何かを言おうという意気込みなんていうものはなかった。話さなければいけないような気がしたから、話しかけただけだ。始めたのであれば、ピリオドを打つのも私だろうという、妙な義務感に駆られた、みっともないセンチメンタリズム的衝動。

 何を言うのが最も良いことなのだろうかと考える。小説から引用した、勿体ぶったような箴言。嘘っぽい言葉だけのエール。何もかもを滅茶苦茶にするような、不安を煽るような言葉。

 様々な可能性が頭の中に浮かんで、結局口から零れたのは私が純粋に聞きたかったシンプルな疑問だった。

「今、幸せ?」

 芥生志貴は静かに煙草を口に付けて、煙を吐き出す。慎重に、誤ることのないように自らの中にある感情を整理して、最も的確にそれを表せる言葉を探しながら。

 彼は煙草の先に延びた灰を軽く叩いて落としてから「そうだな」と深い藍色を帯びたような声を出す。

「恐らく、これ以上は僕にはないと思うよ」

 聞いておいてなんだけれども、胸糞の悪くなる言葉だった。私の幸せを踏み台にして得られた幸せを確認することなんて、気分が良くなるはずがない。

 それでも、聞いておいて良かったとは思う。彼が幸せなのだというならきっと、夜継も幸せなんだろうから。私にとっての最上は私の幸せだけど、人生において望んだ通りの結果になるなんていうことは有り得ない。もしも自分は思い描いた通りの結果を得られたなんて言う奴が居たとしたら、それはその結果を得たからこそ自分を慰めるために言っているだけだ。現実的に考えれば、次善こそが最善であり、そうして捉えてみればこれは私にとって、あるいは世界にとって最善の結果なのだろう。こんな彼らをくっつけるためだけに存在した舞台装置みたいな役割は、どうしても最善とは受け入れられないけど。

「そう」と頷いて私はまだ半分ほどの長さしている煙草を灰皿に押し付けて捨てた。

「死ね」

 そう言ってから私は喫煙所を出た。彼がその言葉にどんなことを思ったのかとか、どんな表情をしていたのかなんていうことは私の知る範囲ではない。

 せめてこれくらいの捨て台詞は言っても別にいいだろう。去り際として恰好よくはないのかもしれないけれど、恰好よさより私は自分らしく生きることを優先したい。どこまでも意地汚く、みっともなく生きていたい。

 これから私たちはどこへ向かって行くのだろうか。

 案外、彼らはすぐに破綻するかもしれない。私は夜継よりも素晴らしい人が見つかるのかもしれない。彼らは元のように、けれど元とは少しだけ違う完成した彼らだけの世界を見つけるのかもしれない。私はいつまでもこのクソったれな感情を引き摺り、死んでいくのかもしれない。

 未来は分からない。きっと神様ですらも、そんな曖昧で不確定なものは知らないと言うのだろう。私たちに出来ることはただ進んでいくことだけだ。前を見据えなくてもいいからせめて転ばないように足下を見ながらゆっくりと、一歩ずつ。

 焼けるような陽射しが肌を刺していることに気が付いた。夏が、始まる。

 今年の春はやけに短かった。そんなことを思いながら、私は進んでいく。

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