8

 今この時間であれば志貴はバイトに行っているはずだ。それを分かったうえで、私は合鍵を用いて部屋のドアを開けた。

 するべきではないと、してはならないと自ら決めていた一線を超える。もう戻ることは出来ないのだろうと思いながら軋むドアを閉めて誰も居ない部屋へと這入った。

 久しぶりに這入った彼の部屋の中はやけに狭く、寂しいものに感じる。私だけしか居ないのに狭く感じるのはどうしてだろうかと考えて、いつもより部屋が散らかっていることに気が付いた。読み終えたらしき本や脱ぎ終えた服が散乱しているのだ。いつもは気を遣って片付けてくれていたんだろうと考えると愛おしさが胸の内から湧いて出てくる。

 ただ、彼が片付けていたのは私のためではなくて青のためなのだろう。なら、私が青ではないと告白をして、彼はそれでも私のために部屋を片付けてくれるのだろうか。そもそも、部屋に上げてくれるかどうかも分からないか。そんなことを考えながら簡単に散らかった物を整理する。彼がどういう方法で片付けや洗濯を行っているかまでは分からないけれど、少なくともそれらがどこに収められているべきものなのかは把握することが出来ていて、物言わずにあるべきものをあるべき場所へと返していく。機械的な、人格を必要としない作業は走り疲れた身体と心を落ち着かせるには丁度いいもので、ゆっくりと、丁寧に行っていく。

 片付けを終えて、見ていられるような状態に部屋を戻し終えてもこびりついた寂しさのようなものが剥がれることはない。部屋を俯瞰している私の目に貼り付いたフィルターがそう見せているのか、それともどうしても剥がれることがないほどにこの部屋には寂しさがこびりついているのか。後者であればいいな、と思い、その考えをすぐに断ち切った。例え私ではなくても、私の欠落に寂しさを想って貰えることは嬉しい。それでも、そうして安易な安寧に手を伸ばし、喜んでいれば何も変わらない。私は私として、志貴に向き合わなければならないのだ。

 思えば、私は一度たりとも志貴に対して夜継雨として向き合ってこなかった。彼が求めているのは夜継青だということを知っていたから。夜継雨が認められないものだと思い込んでいたから。

 私が志貴と会うのは初めてのことと言えるのかもしれない。十年近く付き合って、初めて会うなんておかしな話だけれども、本当にそうなのだからつくづく滑稽なことだ。私はこれから、ようやく志貴と向かい合う。

 そう考えると、緊張が一気に身体の底から現れて、軽く目眩がする。夜継雨と対峙をして志貴がどのような反応をするかということばかりを考えていたけれど、そもそも私は平常な態度で志貴と接することが出来るのだろうか。元々、人は得意ではないのだ。幾ら今まで何気ない話をしてきた仲だったとしてもまともに話を出来ないような気がしてくる。

 いっそ気を紛らわせるために何かを飲もうかとキッチンを覗くと空になった何本かの瓶が見えた。どうやら志貴はここ最近で酒を嗜む量が増えたようだった。

 いつもの棚を見てみると中身が半分ほどなくなったベルモットが見える。小説や映画に関しては、青が好きだった、好きそうだったものを好きということが多いけれど、味の好みに関しては私が本当に好んでいるものを選ぶことが出来ていて、ベルモットもそのうちのひとつだった。私の痕跡が彼の中に確かに残っているという事実に嬉しくなる。

 一杯くらい、と取り出しかけて手を止める。少しで酔いが回るほど、私はアルコールに対して弱くはないけれど、もしも今ここで一杯分を飲み干して失敗をすれば、結果を存在しなかった酔いのせいにしてしまうかもしれないと思う。それは、嫌だった。今から起きることは全て、私の意志で進み、私が背負うものだ。ベルモットを再び棚に仕舞って、代わりにコップ一杯分の水を飲み干した。

 椅子に座り、じっと志貴の帰宅を待つ。砂の中を藻掻くような、苦しい時間。今までであれば彼の家は息がしやすくなる場所だったはずなのに、今に限っては苦しくて堪らない。けれど、この苦しみを乗り越えなければ何も始まらないのだから、私は天井を見上げながら時の流れの中に耐える。

 青のことを考えた。思えば、今まで私は青のことを演じながらも青について考えることを止めていた。彼女が生きている間、私は彼女を恨んでいた。それなのに、彼女の名を騙り、彼女が大切にしていた人まで奪っている。思考を止めていたのはありふれた忘却ではなくて、必死に目を逸らしていたからなのだろうと自覚する。

 正直に言って、私は青のことを殆ど知らない。自分と彼女の違いについて考えるようになった時には既に、私と彼女は決定的に分断されていて、私は才能に躍らされる道を、彼女は自由に束縛される道を選んでいた。私は彼女を恨んでいて、彼女は私に興味がなかったのだ、話すこともなかったし、話そうともしなかったことを覚えている。

 ゆえに、私が知っている青は私の記憶の中のそれというよりも志貴から聞いたもの、志貴が見ていた青ということになるのだろう。雪のように静かで、夜のように底の見えない、孤独を携えた少女。もしかしたら、今青が生きていてそのような印象を聞いたら困ったような笑みを浮かべるかもしれない。私はそんな人間ではないと。ただ、申し訳ないけれど私の中の青は既にそういう人間として形成されてしまっていた。哀しいけれど、もうこの世界には現実に生きた青ではなくて、志貴が作り出したピグマリオンとしての青しか存在していないのだろう。

 今も青が生きていたら、どうなっていたのだろうと思う。あのバスに居た時間、二人の関係は一切の歪なものが存在しない、欠けた部分が存在しない、完璧な関係だった。けれど、人は成長する。青か、あるいは志貴が成長をして、その関係はいつか緩やかに解けていたかもしれない。あるいは、そんなことはなくて、あのままの二人だけで完結をした世界の中に籠り続けていたのかもしれない。

 ただ、間違いなく言えることは私は今よりも遥かに惨めな人生を過ごしていたということだろう。誰からも愛されず、愛することも知らずに、形骸化した才能を追い続ける日常は考えるだけでもゾッとするものがある。そんなもの、最悪だ。

 青が死んで良かった、と思う。倫理も同情もないような酷い言い方だけれども、事実なのだから目を背けて誤魔化すことは出来ない。私は青が死んだからこそ今もこうして生きていけている。身体が、という意味ではなくて心が、確かにこの世界に繋ぎ止められている。

 私たちは一人で生まれるべきだったのかもしれない。そうすれば、互いに欠けていた部分を補い合うことが出来たはずだ。完全なかたちで志貴と出会い、愛され、愛することが出来たはずだ。

 恨むべきではなくて、愛するべきだったのかもしれない。一緒に歩もうと、手を取り合うべきだったのかもしれない。今だからこそ言える、結果論に過ぎないなんていうことは分かっているけれども。

 何もせずに、罰のように時間を受け入れて、私はただ志貴が帰って来るのを待った。頭の中では後悔が反芻し続けていたけれど、それはやがて決意へと変わっていく。今までの全てを噛み締めて、踏みしめて、私は進んでいく。これが、どういう結果になろうとも。

「春、私は君と離れた――」

 ふと、昔読んだソネットの一節が頭を過る。あれが、青に近付こうとして初めて読んだ本だった。初めて、志貴と感想を共有したものだった。

「季節はいつも冬に思えた、君がいないので。花を君の面影と見ては、これらと戯れた」

 何番かも忘れたそのソネットは、そのようにして締めくくられる。

 果たして、春は訪れるのだろうか。訪れたとしても、春とは本当に歓迎すべきものなのだろうか。

 それでも、私は春を信じなければならない。冬が来れば春はもう、遠くない場所にあるのだろうから。

 窓の外から蝉の鳴く声がすることに気が付いた。世界は私をおいて夏へと移ろっていく。けれど、私は未だ冬の中に居る。春に限りなく近い、冬の中に。

 沈黙と溶けて混ざり合った時間の感覚は歪み、鍵を開ける金属音がするまで待っていることは苦痛ではなかった。外は夕闇に包まれていて、いつの間にか私は斜陽の逃げ出した部屋の暗闇に覆われていた。

 ドアを閉め、靴を脱いでいる中で音が止まる。もう暫く見ていない靴がそこに置かれていたのだから、止まるのも当然のことなのだろう。逃げられるかもしれない、と今更になって思う。ただ、私がしたいのは驚かせることではない。正面から向かい合って、話をすることなのだ。逃げられたならば、追えば良い。それだけのことだろう。

 制止した時が動き出す。靴を脱ぎ、ゆっくりとした速度で彼がこの部屋へと向かってくる。

 久しぶりに見た顔は、酷いものだった。単純な疲労なのか、それ以外のものがあるのかは分からないけれど、生きているような表情には思えない。

「どうして、青がここに?」

 彼の表情に当惑のようなものは見えず、質問はどちらかというと挨拶にも似た儀礼的なもののように思えた。まるで、私が訪れることを予期していたようだというのは、私の都合のいい解釈に過ぎないのだろうか。

 彼は相変わらず私をその名前で呼ぶ。私ではなくて、既に死んだ妹の名前を。彼が見ているのは私ではなくて、青なのだ。既に居なくなった、彼女なのだ。

 今まではそれでいいと思っていた。あるいは、これからもそれを続けようとすれば続けることは出来るのかもしれない。「ごめんね」と起こしてしまったことを誤って、一時的な錯乱に過ぎなかったと誤魔化せば、歪ながらも今までの関係を続けることが出来るのかもしれない。

 けれど、と否定をする。私は進まなくてはいけない。私を変えなくてはならない。

「話したいことがあるんだ」

 初めて志貴の前で吐いた、夜継雨としての言葉だった。何も知らない人からすれば、それは平常通りの私の言葉に過ぎなくて、特別なものを一切持たない響きとして聞こえるのだろう。しかし、私にとっては明らかに異質な何かだったし、志貴もそれを感じ取っているに違いないのだろう。

 志貴は何か、決定的な瞬間が訪れることを引き伸ばすように言葉を紡ごうとするけれど、私は一歩彼の方へと近付いてそれを止める。彼は、身体を固くして逃げるように一歩退こうとするけれど、その前に私は彼の手首を掴んだ。

「お願い。話を聞いて」

 あらゆるものが足りていない言葉だったけれど、静寂が響いているこの部屋の中において必要以上の言葉は要らなかった。志貴は目の前に居る人間の正体を確かめるようにして、私の瞳を覗く。そうだ、私を見つめろ。そして、そこに居るのが夜継青ではないということを、刻み付けてくれ。

「……ずっと、逃げてた。でも、現実は速くて、いつまでも逃げ切れるわけじゃない。だから、話をさせて欲しいんだ」

 そう言うと、志貴は静かに頷いた。

 彼は何を考えているのだろうか。当惑に呑まれるがままに思考を停止させているのか、漠然とした不穏を感じて身構えているのか、茫洋とはしていながらも気が付いていた青という存在の軋みを受け入れる覚悟をしているのか。何も、分からない。

 唾を飲み込む。掌から伝わる彼の温かな温度がやけにはっきりとした輪郭を持っている気がする。

 これで何もかもが終わってしまうかもしれない。それでも、私は私として彼に向かい合う覚悟をした。

「私は夜継雨。夜継青はもう死んでるんだよ」

 その言葉は世界が終わる音がした。

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